第一王子アンソニーの初恋と愚かな勘違いについて
第一王子アンソニーの人生は、腹違いの弟と比べれば恵まれていた。
両親は政略結婚だが、母の実家は高い爵位を持ち、母自身も王妃として迎え入れられた。
アンソニーは不自由を知らず、いつか王になるのだと言われ続けて育った。
未来を疑ったことなどなかった。王妃の宮で大切に慈しまれて、光り輝く何かが待っているのだと信じ切った。
世界はそこまで美しいものではないと知ったのは、八歳の頃。
一日違いで産まれた弟の存在を、聞かされた時だった。
身分の低い側妃から産まれ、王妃にその存在を疎まれた第二王子。
側妃とは恋愛結婚だったからか、王は第二王子を殊の外愛した。
王妃はそれが許せなかった。自分の子が王位を継げなくなる可能性を、憎悪した。
アンソニーを大切にしてくれる優しい母は、同い年の弟を亡き者にしようとする、悪魔の顔を持っていた。
それ以来、「あなたは王になるのよ」という母の言葉が、アンソニーにとっての呪いになった。
「また母上がブラッドリーにちょっかいを出そうとしてる?」
乳兄弟でもある護衛騎士からの報告を受けて、アンソニーは眉をひそめた。
寄宿学校に入学してから、母はブラッドリーを排除しようと積極的に動くようになっていた。
この学校は、貴族の後継者育成のために建てられたものだ。ブラッドリーがアンソニーと同じように教育を受けているのが、気に入らないのだろう。
第二王子に与えられるはずだった宮を奪い、王城の片隅から出られないように手を回し、教育係には愚鈍な人物をあてがって、それでもまだ満足できないらしい。
そうやって虐げているはずのブラッドリーが、優秀な王子だからかもしれないが。
「護衛に襲わせるそうだ。とうとう手段を選ばなくなってきたな」
もうため息しか出ない。
「ブラッドリーに警告しなくちゃね」
王族の中でブラッドリーだけがこんなにも不遇なのは、一も二にも王妃のせいだ。
何かがあるたびにブラッドリーに警告して、彼はどうにか王妃の悪意から逃れている。でも、弟がいつ失敗するか分からない。
父である王もブラッドリーにたくさんの護衛をつけているが、その中にも王妃の手先が紛れているのだ。
そして王は、気が強くて影響力の大きい王妃には逆らえない。
「今日の放課後、ブラッドリーを呼び出して」
「分かった。……お前は、いつもそうなんだな」
気心知れた乳兄弟が呟く言葉の意味が、アンソニーにはいつも分からない。
美しくないと知った世界の中にも、心惹かれるものがある。
進級して二年生となったアンソニーは、その日行われる新入生の入学式で挨拶をするため、講堂の裏で最終確認をしていた。
文章は母が用意したもので、人前で話す時の振る舞いも母から教わっていた。「時期国王としての自覚を持って、堂々としていればいいのよ」と言われていたが、まだ十二歳のアンソニーにとっては、やっぱり緊張があったのだ。
そこでアンソニーは、一人の女子生徒を知った。
新入生のコサージュを胸につけた少女が、細い木に登っていた。まさか貴族の令嬢が何をしているのかと思ったし、隣にいた乳兄弟は警戒していたけれど。
その少女が、枝に引っかかったハンカチーフを取るのを見て、困惑と警戒は二つの驚きに変わった。
長いスカートを履いているとは思えない動きで飛び降りた少女は、同じようにコサージュをつけた別の女の子にハンカチーフを渡した。
令嬢らしからぬ身軽さで人助けをしていた。なんでもないような顔をして、お礼の言葉だけを受け取って去っていった。
背筋の伸びたその後ろ姿を、アンソニーはいつまでも見つめていた。
入学式の日に出会った少女、ロレッタ・ブラックウッドは、国の端にある領地の次期当主だった。
彼女はどこで見かけても、誰かを手助けしていた。それが当然のように。見返りも求めず。
友達といるところは見たことがない。ロレッタはいつも一人だ。それでも彼女は、顔を上げて、まっすぐ前を見つめて歩いていた。
女性の爵位継承者は珍しい。だから寄宿学校にいる女子生徒は少ない。
数少ない女子生徒たちは、常に徒党を組んで動いている。けれどロレッタは、その中にいない。
周囲に惑わされず、自分の意思を貫いている。
その姿は、アンソニーにとって眩しかった。
知らない生き方だ。アンソニーの人生は、いつも母の手の中にあった。
アンソニーはいずれ王になる。母はそれを望んでいて、アンソニーも疑ってはいない。
疑ってはいない、はずだった。
父王が後継者を決めかねているうちに、アンソニーとブラッドリーは年を重ね、寄宿学校で同じ学びを得た。
二人の王子に差はない。どちらが王位を継いでも、何も問題はない。父の考えは、言葉にせずとも伝わってきた。
どちらでもいいのなら。
母親の身分くらいしか、決め手がないのなら。アンソニーではなく、ブラッドリーが次の王になってもいいのでは。
そうすればアンソニーは、爵位を継ぐロレッタと。
そんな考えが浮かぶようになったのは、アンソニーが最終学年、ロレッタが五年生に上がる頃だった。
今日もロレッタは、誰かに手を貸している。生徒たちが嫌がる雑用を、進んでやっている。
そんな姿を遠くから見守りながら、アンソニーは考えた。
(もし、ロレッタと結婚したら)
ブラックウッド領には行ったことがない。領土の九割が森に覆われた、たいへんな田舎だと聞く。
そんな場所での生活は、少し退屈かもしれない。都から何か持ち込めないだろうか。森を開拓し、街を広げていくのもいいかもしれない。
ブラックウッド伯爵家は女系だ。それも、直系の女性にしか継承権がないのだという。ならば子供は三人はほしい。女の子が産まれなければ、どうするのだろうか。
「……なあ、アンソニー」
二人きりの時だけは対等に接する乳兄弟は、ここ最近よく見る難しい顔をしていた。
「お前たぶん、何か勘違いしてるよ」
「勘違い?」
「そうだ。だって、」
乳兄弟が言葉を切ったのは、近くを下級生が通りかかったからだ。頬を緊張に上気させた男子生徒の名前はちゃんと覚えていたから、アンソニーは二言三言声をかけてやった。
たどたどしくも挨拶をして、飛び跳ねるように去っていく下級生を見送る。
そうしているうちに、ロレッタはもういなくなっていた。
「それで、僕の勘違いって?」
「……いや。それより、さっき報告があったよ。王妃殿下は、今日作戦を実行しろと」
「それは大変だ。すぐブラッドリーに知らせないと。母上にも困ったものだね」
その振る舞いだよ、という乳兄弟の忠告は、アンソニーには届かない。
「なあ、アンソニー。ロレッタのこと、いつから好きなんだ?」
一日違いの弟ブラッドリーは昔から、すべてを諦めたような真っ暗な目をしていた。
誰も信じられない。信じてはいけない。そういう風に育った幼少期が、彼に自分の生を諦めさせた。
それでも彼が今も生きているのは、アンソニーが気にかけているからだ。王妃の情報を流して、決して死ぬなよと暗に伝え続けたから、それに答えてくれている。
そう思っていた。
「……っ」
まさかブラッドリーに恋心を見透かされているとは思わず、アンソニーは息を呑んだ。
今日は彼に、「護衛に気をつけろ」と伝えるだけのはずだった。
それなのにどういうわけか、ブラッドリーは世間話のようなものを振ってくる。
彼の目に燃え盛る炎が灯っていることに、アンソニーはようやく気づいた。
「知ってるだろ。父上は、俺とアンソニーのどっちが跡を継いでも構わないとお考えだ。望めば、ロレッタとの結婚が叶うのに」
「……それは」
最近のアンソニーも、それをずっと考えていた。
でも、どうにもロレッタに切り出す勇気がなくて。
今まで、他の学生と同じように、当たり障りない声掛けをしたことはある。だが、親しく話をするような間柄ではない。
なんとなく気が引けて、「次の機会にしよう」と考えてここまで来てしまった。
「だって、ロレッタもまだ婚約を決めていないし」
言い訳じみた答えが、口から出た。
でも、そうだ。ロレッタに婚約者はまだいない。それなら、もっと時間をかけて親しくなってからでも、問題はないと。
「……はあ?」
「声をかけるには、まだ時期尚早かなと、思って……」
だいたい、王妃をどうやって説得するかも決まっていない。ロレッタのことは好きだが、母は彼女との結婚を許してくれないだろう。
確かロレッタには妹がいたから、跡継ぎを変更すればいいかもしれない。
王妃はきっと、アンソニーが王になるのなら、結婚相手の一人くらいは自由に選ばせてくれるはずだ。
そこまで思考が飛んだところで。
「俺、ロレッタにプロポーズされた」
「……え!?」
理解しがたい発言がブラッドリーから飛び出して、アンソニーは反応が遅れた。
一体いつ、ブラッドリーはロレッタと知り合っていたのか。だって二人が言葉を交わす機会など、まったくなかったはずなのに。
ブラッドリーは、アンソニーのことを睨むように見ていた。
ゆるゆると死に向かっていたあの眼差しは、どこへ消えたのだろう。
「王位はアンソニーにやるよ。俺はブラックウッドに入る。父上も、俺の頼みなら許可してくれるだろう」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「待たない。……アンソニーは今まで、十分時間があっただろ」
それはそうだ。だって、アンソニーと違って数人の護衛に囲まれたブラッドリーは、寄宿学校に入っても自由な時間などほとんどなかったから。
そしてそこには、王妃の意向も影響している。
でもアンソニーは、いくらでもロレッタと話をすることができた。アンソニーが、そう望めば。
反論できなくて、アンソニはどうにか絞り出すように言った。
「僕は……、彼女が入学式で、同級生を手助けしているのを見て」
そう、ロレッタが入学してから、彼女をずっと見ていた。その長さ、気持ちの強さなら負けない。
だって、彼女と出会ったのは。
「だから……、そう、僕のほうがブラッドリーより先に」
「俺は、五歳の頃」
アンソニーは何も言えなくなって、沈黙した。
「だから、俺は諦めないことにしたんだ。今までありがとうな、アンソニー」
「言っただろ、勘違いしてるって」
ロレッタとブラッドリーの結婚式は、ロレッタの卒業後すぐに執り行われた。
都でのパレードなどはなく、ブラックウッドの領地で、家族と領民だけがお祝いをする小さな式だ。
王族の中で参列したのは、アンソニーだけだった。
あの後、ブラッドリーから聞かされた。
ブラッドリーは王妃によって呪いをかけられていて、ロレッタがそれを解いてくれたのだと。
幼い頃に出会い、仲良くなった二人は、ずっと心の奥底で再会を待ち望んでいた。
ロレッタはブラッドリーの呪いを解くために、善行を積むことで魔法の修行をしていたのだと。
「本当は国の中でも数人しか知らない情報らしいけど、アンソニーは王になるんだからいいだろ」と、ブラッドリーは悪びれもせずに機密情報をバラした。
アンソニーが好きになったロレッタの姿は、ただひたすらに、別の男のために努力を重ねる姿だったというわけだ。
式からの帰り道、馬車に揺られながら、アンソニーは乳兄弟の静かな説教を聞いていた。
「ブラッドリー様を助けていたつもりだったのか? 確かに、助けにはなっただろうが、お前ならもっとほかにできることがあったはずだろ」
「……」
「王妃陛下の情報を渡すだけなんて。もっと強く、お前が止めていれば良かったんだろ。息子なんだから」
「……」
「国王陛下と同じだ。王妃陛下の怒りを買いたくないから、こそこそ逃げ隠れして、ブラッドリー様を矢面に立たせていた」
「……」
「本気でブラッドリー様を助けたいのなら、アンソニーが体を張るべきだったんだ。だって、今でもまだ、王になるつもりなんだろ」
「……」
「お前がちゃんと、王の後継ぎとして母親を諌めていれば違ったんだ。学校でやるみたいな、王様ごっこじゃなくて」
言葉が鋭く突き刺さる。
「ロレッタ嬢のことだって。結局、ビビって話しかけられなかっただけだろ」
「……そんな」
「将来どうしたいのか、色々と妄想してたみたいだけどな。馬鹿じゃないのか。仲良くもない相手に」
「……」
「全部、お前が自分から動かないからこうなったんだ。王妃陛下のことだって」
呪いを返されたことによって、王妃には様々な不幸が降りかかるようになり、精神を壊して宮に閉じこもってしまった。
ブラッドリーは今、のびのびと生きている。以前の暗い面影はどこにもない。
「自覚しろよ、アンソニー」
乳兄弟の目は厳しい。
「お前は情けない男だ。父親譲りでな。……でも俺達は、そんなお前を支えて、この国を導かなくちゃならない」
頼むから、これからはもっとしゃんとしてくれ。
唇を噛んで小さく頷きながら、アンソニーは思い出す。
姿勢よく前を向いて歩く、ロレッタの後ろ姿が眩しかった。
だってそれは、今も昔も、アンソニーにはないものだったから。




