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星の瞬きは永遠の輝き

人間は実存が本質に先立つ存在であると、サルトルは言っていた。

本質を与えられたり、自ら形作る前から、この世に存在することになる者だと。

俺たちは何でも目指せる。何にでもなれる。

そんな存在がうじゃうじゃいるから、俺たちは何者にもなれないまま終わっていく。

だったらどうすれば良かったんだ?


幸いにも、ユキの激しく枝を踏み抜いていく音があるおかげで、後を追うことは簡単だった。

落ち葉が擦れるような俺の足音がこだましながら、脳内でメトロノームを刻む。


おそらくユキは、もうどうにもならない。

俺と出会う前から、どうしようもない理不尽に押し込められていたのだろう。

いきなり出てきた俺が何をしようと無駄だ。

自分の未来をようやく自分で確定させられる、彼女の幸運を祝うべきだろう。


それよりも、俺のことだ。

俺はどうしたいんだ? 俺はどうなりたい?

とりあえず、命は助かりたい。

それで生きていてどうする?

ここから出たとしても、二つの道しか待っていないだろう。

彼女の暗闇に戻っていくか。

外の世界で疎外感を味わい続けるか。


遠くに怯んで転がっている、ネッシーもどきの体が見えた。

身体中傷がついており、鱗がところどころ剥がれている。ユキはかなり善戦したのだろう。

しかし武器を失った時点で、負けは負けだ。

これ以上の抵抗はできず、おとなしく食べられるしかない。


ユキが鉄の塊のようになっているとき、目の前にいたその大切な人は何を思っていたのだろう。

どうしてユキを生かそうと願ったのだろう?

今、そのせいでユキは余計な苦しみを背負っている。

小さな幸せに気を紛らわせることでようやく生きていたのだろう。

それでも重荷は一切手を緩めることなく、ユキを死へと追い立てた。

これじゃあただ、死への恐怖をユキにも押し付けただけじゃないか。殺される苦しみをただ分け与えただけ。

なんて身勝手な行いなんだ、と言いたくなる。

そうではないことを察することができても、言いたくなってしまう。


ユキと会って、せいぜい数時間の関係なのだと今更気づく。

だけど、気疲れするぐらいに関係が進んでいる。人の関係は時間じゃなくエピソードで進むのだと、また気づく。

暗闇で虚無を過ごしている間、彼女との時間は何も進まない。

それでも偽りの自由が欲しくて、俺はまたあそこに閉じこもりたいと願うかもしれない。

今度は純粋な孤独ではなく、複雑な外の世界の残り香を充満させて。

俺は彼女が外で何をしているのか思いを馳せながら、自分を納得させる時間を過ごしていくのだろう。あの部屋で、衰弱する体を待ちながら。


ユキが怪物の前で立ち惚けている。

目覚めるのを待っている。

自分の死をもたらす存在を待っているのだ。

それはきっと今に始まったことじゃない。

彼女の生きる理由が失われた日から、この瞬間までずっとそうなんだ。

天の川に見守られながら、ユキの身体が呑まれていく様子を想像する。思った以上にあっけないものだろう。

または上半身だけ食いつぶされて、死骸が残るのだろうか?

その時は俺が拾ってあげよう。

帰ることができたら、埋葬しよう。

帰れなかったら、一緒に眠ることにしよう。


これらが全て夢だったとしても、俺はユキという存在がいたことを一生覚えているだろう。

儚い美貌を湛えながらも、少し幼さが残った可愛らしい少女のこと。

深い青の瞳の奥に抱えた、あまりにも大きすぎる絶望とそれに巻き込まれた少女のこと。

真珠色の髪、柔らかな純白の肌、豪奢な服装。

どれをとっても名残惜しい。

彼女にも話してあげよう。

そして嫉妬してもらおう。


黄色い眼がようやく気を取り戻す。

体を起こし、ユキを見下ろす。

俺のことも見えているはずだが、ユキしか頭にないだろう。

そして再び口が開く。

ユキにとっては天国の門に近しいもの。

いや、地獄の門かもしれない。

ユキにとってはどうでもいいことだろう。

その大切な存在さえいれば、どっちでも一緒のことだ。

孤独な現世こそが耐えがたい煉獄なのだ。


「......」


ユキが死ぬ前に何かを言っている。

心なしか震えているようにも見える。

死ぬのは当然恐ろしいだろう。

肝心なのはそれが希望だと信じ切ること。

最期の瞬間まで、それだけを念じることだ。


怪物が咆哮を上げて、ユキの方に向かった。


気づくと、ユキの姿が大きくなっていた。

違う。俺自身がユキに近づいていっている。

どういうことだ?

今、俺の足が全速力を出している。

さっきこの怪物から逃げ出した時以上に、全力を出している。

棘が刺さる感触があったのに、今はそれすらもない。

それすら感じる余裕もなく、全神経が集中している。

ただ走ることに。

ユキを押し出すことに。


何も考えは変わっていない。

ユキの今際の際を見届けたかった。

なのに邪魔をしている。

ユキが押し除けられ、怪物の口は俺にかぶりつく。

言葉にもできない痛みが俺を襲う。

その痛みすらなくなる。右半身の感覚が消えていく。

カオスな感覚を、俺はひたすらに叫んだ。


「ああああああああああああああっ!!」


俺は宙に浮いていた。怪物の口に支えられて。

歩くことはもうできない。

右肩から先の感覚が既にない。

口腔内の足は文字通り皮一枚だけ繋がっているようだ。

痛みに耐えかねて涙が出てくる。鼻水もどんどん出る。

こうなることは分かりきっていたのに、なぜ?

疑問符が次から次へと俺の頭の中へ浮かんでいく。


しかし次の瞬間には、俺は迷いなく叫んだ。

目が点になっているユキに向かって。

まだ立つこともできないユキに向かって。


「逃げろっ」


全く意味のない言葉を投げかけている。

俺が言いたいのはそうじゃない。

ただ彼女に逃げて、生きてほしいんじゃない。

俺の腹から胃液と共に感情が溢れ出てくる。

初めて口から真っ赤な液体が出てきた。


「どうして!」


気を取り直したユキがひたすらに言っている。無理はない。俺ですら分かってない。

でも、それは当然のことである気がしてきたんだ。

なぜ俺がユキを庇ったのか。

それは理由じゃない。

しようと思ってしたことじゃないんだ。


「お前がいたからさ!」


ユキの悲しげな表情を見たからなどでは決してない。

原因は全部俺に由来する。

俺の生きてきた時間がそうさせたんだ。

俺の生きてきた時間全てが、ユキを助けろって泣き叫んだんだ。

孤独を望んでいたのに。彼女との時間を望んでいたのに。

ユキ自身にもあんなに憎まれ、蔑まれたのに!


「ユキに生きてほしいって思ってしまうんだ!」


人を尊ぶ思い。

それはヒーローの資質だと思っていた。俺なんかには無縁のものだと思っていた。

いつも人のことを軽んじて、それでも勝手に好かれて、しょうがないから付き合ってしまうような、この俺なんかには。


でもそうじゃなかった。

きっと他の人もそうなんだろう。

その行為をした《《自分》》が一番驚いているのだろう。


気づかなかった。

自分の命を誰かの為に犠牲にできてしまうこと、そして。

自分がこんなに優しい人間であることを。


「余計なお世話です」


ユキは一言そう呟いた。

でも、それは全く怒ってなんかいなかった。

それでも震えていた。手を握りしめて震わせていた。


「あなたなんかがいるから、私だって」


そして顔を見上げた。

泣いていた。

歯を軋ませて、怒ったような喜んでいるような、思いが入り混じった表情。

それでもその瞳だけは、どこまでも澄んでいた。

綺麗な浅葱色の瞳だった。


「助けたいと思ってしまうじゃないですかあっ!!」


声高らかに夜に響く。

淡い光を吸い込んだ涙が散っていく。


ユキは一心不乱に俺のもとへ駆け寄る。

そして驚異的なバネを活かして飛び上がる。

地面から5メートルは離れていそうなこの怪物の目に、蹴りが入れられた。

流石に怯み、口もとがゆるむ。俺の力なき体が崩れ落ちるのを感じる。

しかし、地面に落ちることはなく、ユキの胸元に抱き寄せられていった。


「どうして、こんなことになっているのでしょうか」


ユキも一緒なんだ。俺と出会う前から。

ずっと死に場所を探してさまよっているのも本当のこと。

それでも俺みたいなやつが不意に現れる。そんなやつを見かけては、つい助けてしまうのだろう。

その証拠に、俺を助けた後、ユキは鋒を向けてきた。

あれは冷静に考えるための仕草。脅しをかけ、警戒を解かないための工夫。

本当の彼女は、自分の幸せも他人の幸せも、どこまでも大切にしてしまう、可愛らしくも頼れる少女なんだ。


「考えてもきっと分からないよ」


俺はそう言ったつもりだったが、自分自身じゃよく分からなかった。

なにしろこの命が風前の灯な訳で、目の前すらだんだんぼやけてきているのだ。

耳をすませるには、心臓の鼓動がうるさすぎる。

いや、俺のだけじゃないかもしれない。

この抱き寄せている人のものなのかもしれない。


「それもそうですね」


ユキは俺を平衡な地面に置いた。

このまま逃げおおせるのではなく、なんと戦うつもりだ。

しかし、それは無謀でも何でもなさそうだった。


やけに熱いと思っていた。いや、暖かかった。

それは自分の生暖かい血によるものかと思っていた。

だがそれは、ユキのものだった。


「それは帰ってから考えるとしましょうか」


ユキは今、青い炎に包まれていた。

両腕から幾重の鎖が、宙に向けて漂っていた。

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