怪物は怪物でしかない
ネッシーの記録は実は1500年程昔からある。それでもあの恐竜っぽい見た目が定着したのは、20世紀のことだ。
ブラキオサウルスのような巨大さを期待して写真を見ると、毎回その小ささに落胆する。
でも今回は、落胆することはない。しかも写真じゃなく生だ。
なのに、どうしてこんなに絶望感があるのだろう?
池から頭だけを出して、黄色の眼が俺たちを捉えていた。
蛇の頭部のようだったが、切れ込みが四方についている。口が蛸のように開くということだ。
何より、俺たちを丸呑みできるタイプのサイズ感だ。
というか実際、俺たちを一瞬で仕留めるチャンスを、刻々と狙っているのだろう。
「っ!」
突然腕を引かれ、すぐ横にある茂みに転がり込んだ。
次の瞬間、ネッシーもどきは突進してきた。その体の大きさからは考えられないほどの速度で。
頭はやはり四方に広がり、真っ赤な口腔を晒していた。
あまりの速さに、通ったところから衝撃波が出てしまっていた。音速を超えているとでもいうのか。
とにかく、突進されただけで吹っ飛ばされたことは確かだ。
森の深い場所で、小枝や落ち葉の棘が薄着に刺さっていく。
それでも痛みを気にしている場合じゃないのは分かる。だけどうまく立ち上がれない。
ユキも同じような状況だが、すぐに立ち直り、俺の元に駆け寄ってきた。
「ああ、どうしてこんなことに!」
「とりあえず森に身を隠しながら移動しよう」
「できません……それどころか、私たちには行くべき場所がありません」
ユキはあまりに絶望的な表情を浮かべていることに、ようやく気付いた。
その絶望は、あまりに苦しすぎて少し笑みが入っているほどのものだ。
俺もようやく焦りを覚え始めた。
「どういうことだよ」
「通信が阻害されているのです……先ほどの未知のクセノスのせいでしょうか」
専門用語を使っていることに全く気がついていないほど、ユキも焦っている。
おそらくクセノスとは化け物全般のことを指しているのだろう。
「とりあえずここを移動しましょう、できますか?」
俺はユキの腕を借りながら、なんとか移動していった。
向こう側で尋常でないほどの木のさざめきが聞こえる。
おそらく一心不乱に体を動かし、木々を薙ぎ倒しながら俺たちを探しているのだろう。
寿命のカウントダウンをされているようで、どんどん冷や汗が垂れていく。
さっきの時とは比べものにならないぐらいに。
「通信ができないと、行くべき場所が分からないものなのか」
「入口と脱出地点は毎回変わるものなので、外部から引き上げてもらうしかありません。もしくは内側から全てを破壊するか」
「ちょっとよく分からん」
「あなたに説明している暇はないってことですよ、黙っててくれませんか!」
ユキの語気が強くなった。相当追い込まれているようだ。
あんな表情を浮かべていたのに、呑気に聞こうとしてしまった俺も馬鹿だった。
「そもそもあんな奴、初めてみた……あそこまで巨大なクセノスがいるはずないのに」
ユキは俯いて、色々考え始めた。
俺にできることも何か考えないと。
「穴倉か何か、あいつが入ってこれない程度に狭くて安全な場所を探そう」
「丁度同じことを考えていました」
ユキは心当たりがあるらしく、迷いなく進み始めた。
しかし、向かう方角にあいつがいた。あそこまで巨大だと、蛇というより竜のようだ。
次々と連なる鱗やその模様は、青く光っていて、むしろ魚のようでもあったが。
「私が一瞬気を引くのでその間に真っ直ぐ走り抜けてください。できますか?」
「やってみる……が、それでいいのか」
ユキをあいつの前に晒せと、彼女自身が言っている。
確かに実力はあるし、俺よりも遥かに運動能力は高いだろう。
それでも、いたいけな少女を置いて俺だけ逃げるっていうのか?
「心配ご無用ですよ。先ほどの技、見ていたのでしょう?」
「で、でも」
「いいから行け!……って言ってるんです」
ユキはまた語気を荒げた。
むしろ、丁寧語を続けている方が驚きだ。
「分かった」
これ以上彼女を苛立たせるわけにはいかないと思い、俺は頷いた。
既に木が至る所でなぎ倒され、隠れられる場所もわずかになってきた。
ユキが指し示した場所で俺はじっと息をひそめ、その時を待っていた。
「やっほーー!」
開けたところの真ん中で、ユキが声を張り上げた。
当然、木がなぎ倒されているので障害物が多く、非常に危なっかしい。
それでも彼女を全面的に信用する以外にないだろう。
ネッシーもどきはユキの声に気付き、彼女の方へ振り向いた。
「私の名前は纐纈ユキ! 私の死に場所をください!」
とても妙な煽り文句だった。あえて自分を恐怖に晒すことで奮い立たせているのだろうか。
それにしたって狂戦士ぶりが過ぎないか。
実際、両手に燃え盛る剣を持つ彼女の姿は、お淑やかな服装であっても、狂戦士のそれだった。
ネッシーもどきはゆっくりとその口元を開いた。
まるで花が開花するようだが、粘つく唾液や先の割れた舌が揺らめいていて、とても綺麗とは言えない。
その体が突撃する為に、ゆっくりと後退し始めた。
「はいだらあああああああああっ!!」
奴が突進する瞬間、ユキが雄叫びを上げながら高く飛び上がった。
燃え盛る剣が通り過ぎていく鱗を掠めて、傷跡を残していく。
そして俺も、同じタイミングで茂みから飛び出し、ひたすらに走り始めた。
彼女が戦う様を見ていたかったが、そういうわけにはいかなかった。
息が続かない。
足の感覚がない。寒い。
食べたばかりだから横腹が痛い。
それでも俺は走った。とにかく走った。
ネッシーもどきを振り切れても、別のやつに襲われるかもしれない。
とにかく暗闇から離れながら走り続けた。
月の光はない。
天の川から降り注ぐほんのわずかな光の元へ。
森がいきなり開けて、岩の壁に当たった。
そして丁度二人ぐらいが入れそうな大きさの洞穴があった。
ユキが言っていたのはここのことだろう。
俺はついた瞬間、倒れ伏した。勝利を伝える為に力尽きた兵士のように。
でもまだ俺は死ぬわけにはいかない。彼女の勝利もわからないのだから。
せめて彼女が来るまで、きちんと待っていないと。
俺は穴の中に入り、壁を背にして座っていた。
また静寂と闇が俺の前にある。
やっぱり、本当は全て幻覚で、ちょっとだけ幸せな夢を見ていただけなのかもしれない。
次に現れるのはユキじゃなく、カノジョなのかも──
「おはよう」
そんなことを思っていたら、そこにいた。
真っ黒なシルエットでも、すぐに分かる。
彼女だ。
「悪い夢でも見ていたのかな、うなされてたよ」
「ごめん、でも面白い夢でもあったんだ」
俺は彼女に全てを語り始めた。
ユキという少女を残してきてしまったことも。
「私以外の人と浮気してきたんだ。悪いこ」
「いや浮気じゃないだろ、夢だし」
「私にそんな言い訳通用すると思ったの」
彼女はゆっくりと俺に覆い被さるように抱きついてきた。
幸福を感じてしまう自分が悔しい。
「俺、疲れたんだ。ここまで頑張って走ってきて」
「えらいね、何が欲しい?」
「おはようのキス……」
実際は俺も楽しんでいたんだ。
奴隷みたいにこき使われるわけじゃない。むしろ快適ですらあった。
何もしなくてよかった。何も考えなくてよかった。
あらゆる人間関係から離れられることが、たまらなく嬉しかった。
「んっ」
息が続かない。
だけど今度は幸福に満たされている。
もう悪い夢は終わったんだ。
また何もない時間が流れるだけなんだ。
それこそが、俺のあるべき姿なんだ。
「はああっ」
再び息を吸った時、俺は星の明かりを再び見ていた。
まだあの怪物の気配がする。それでも森は鬱蒼として静かだ。
そして凍てついた風が流れる。
ユキの白い髪がゆっくりとたなびいていた。
「さぞかし良い夢を見ていたのでしょうね」
「どうして」
「恍惚な表情で愛の言葉を呟いていましたよ」
自分でも分かるぐらい顔が赤面しているのが分かった。
早く話題を紛らわせよう。
「あの化け物は?」
「倒した、と言いたいところですが」
血まみれの袖が俺の前に現れる。
ユキがネッシーの首の代わりに見せたのは、ぐにゃぐにゃに曲がってしまった二つの剣だった。




