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水の底から来るもの【夏のホラー2025】

作者: 江渡由太郎  原案:J・みきんど

【水の底から来るもの】ーーーーーーーーーーーーー


 あつしは、その石をただの冗談のつもりで持ち帰った。

 学校帰り、夕暮れに染まるトンネルの中で、それは落ちていた。黒く、ぬめるような艶を帯びた拳大の小石。触れた瞬間、どこかぬるりと濡れていた気がしたが、仲間内の度胸試しで遅れて通る羽目になっていた彼は、それをポケットに突っ込むことで、なんとなく場の空気を締めたつもりになった。


 だが、帰宅したその夜から、家のトイレで異変が起こり始める。





 最初に気づいたのは、水の音だった。

 夜中、寝室にいても聞こえる。ぽちゃん、ぽちゃん。妙に生々しい水滴の落ちる音が、まるで耳元で鳴っているように続く。眠れない夜が数日続いた。


 次に、トイレの中から誰かのすすり泣きが聞こえるようになった。母も妹も寝静まったはずの夜。恐る恐る戸を開けても、誰もいない。ただ便器の水面が、波打つように震えているだけだった。


 異常が決定的になったのは、ある雨の夜のことだった。学校から帰ると、母が不在で、妹もまだ帰っていなかった。ふと尿意を催し、トイレへ向かう。ドアを開けると、異様な生臭さと湿気が鼻を突いた。


 天井から水が、ぼたっ、ぼたっと落ちていた。いや、違う。水ではない。真っ黒な液体が染み出している。見上げた天井に、女の顔が浮かんでいた。逆さまのまま、にやりと笑っていた。目は濁りきっていたが、口元だけがやけに赤かった。


 その瞬間、便器の水がぼこっと音を立てて泡立った。まるで何かが這い出てくるように――。





「返して……」


 背後から囁かれた声に、淳は振り返った。だがそこには誰もいない。なのに、誰かのぬめるような指が、首筋を撫でていった。


 叫び声を上げて部屋へ逃げ戻った淳は、ポケットの中の石を取り出した。濡れている。ベタつくような粘り気があり、しかも、水滴が止まらない。


 あのトンネル。あの小石――いや、“それ”はただの石ではなかった。


 地元で昔から噂されていた話が脳裏をよぎった。

 トンネル工事中に生き埋めにされた作業員の妻が、怒りと悲しみで川に身を投げたという話。

 彼女の亡骸は見つからず、以後、トンネル内で濡れた女の影が出るという怪談になった。


 「……返さなきゃ……」


 夜のトイレのドアの前に立つと、彼は足が震えた。

 だが、返しに行くまで隠す場所も思いつかず、もう一度中に入るしかなかった。





 照明は点けたはずなのに、蛍光灯はちらつき、青白く点滅を繰り返す。

 便器の底が深く、深く見えた。水面に映るのは、天井でも照明でもなく――


 真っ黒な長い髪と、白い顔。


 目が合った。


 その瞬間、水が噴き上がった。


 ぐっ、と何かが脚を掴んだ。


 爪が食い込む。水ではない。ぬるりとした腕。

 悲鳴をあげる暇もなく、便器の奥から、女の顔が、ぐぐっと這い出てきた。


 唇の間から黒い水を滴らせながら、ずるりずるりと這い出てくる。歯が、黄ばんでギザギザしていた。瞳は水で膨れ、にたにたと笑っていた。


 「返してよ……私の……」


 伸ばされた手が、淳の顔を包む。息ができない。鼻から、口から、耳の奥まで、水が流れ込む――。





 翌朝、母親が見つけたのは、トイレの床に倒れていた淳だった。全身びしょ濡れで、目は虚ろ。何も話そうとしない。


 その後、彼は一言も話せなくなった。


 医師は心因性の失語症と診断した。

 だが、トイレの水が夜中に勝手に流れたり、すすり泣きが聞こえたりする現象は、家族全員が体験するようになった。


 今でも淳は、トイレの前でじっと立ち尽くしていることがある。

 ただ水音に耳をすまし、ひたすら「返すから……」と、かすれた声で呟きながら。





――もう二度と、夜のトイレには入りたくない。

便器の底が、誰かと繋がっている気がしてならないのだ。





#ホラー小説

#ホラー短編小説


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