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第9話 仮面の告白、血染めの絵図(3)

 暖かい麗らかな陽気。

 月華から「気分転換に」と、玉瑛宮の奥にある庭園への誘いがあった。そこは瑛麗が幼い頃から好んだ場所であり、王である景宗との甘美な思い出も残る、特別な場所だった。

 皮肉なことだと瑛麗は思った。最も輝いていた過去が色濃く刻まれた聖域へ、座から引きずり下ろしたはずの娘と、こうして手を携えて赴くとは。


「茶の席を用意させましたの。閉じこもってばかりいては、お身体に毒ですから」


 ただ、差し出された手をぼんやりと握り返す。もう、それが自然であるような気がした。

 久しぶりに浴びる日差しは、あまりにも眩しくて目に痛い。思わず、細めた視界から、鮮やかなる色彩が入ってくる。


(ああ、もしや。わらわが生きる価値を失ってもなお、この世は美しいままなのかもしれない)


 ひどく残酷な気付きではあれど、忘れていた感覚が蘇ったようにも思った。


「……あなたと、このような場所で、茶を飲む日が来るとは夢にも思わなかったわ」


 ぽつりと漏れた言の葉に、月華は悪戯っぽく瞳を煌かせた。


「ふふ、わたくしもでございますよ、瑛麗様。こうして、二人きりで穏やかな陽を浴びながら、同じ風を感じる日が来るなんて。……いえ、そうですね。夢の続きを見ているようです」


 はて、月華の言うところの『夢』の続きとは、いったいどのようなものだろうか。

 庭園の一角、クチナシが咲き乱れる木陰に、簡素ながらも趣味の良い席がしつらえてあった。青々しくも濃厚で華やかなる香り。


(そう、わらわはこの花も、香りも嫌いではなかった。あの御方を誘う口実になるのならば、なんでもよかった)


 竹で編まれた(むしろ)に、綿が詰め込まれた座布。陽を隔てられた空間は、今や二人だけの秘密の場所になってしまった。

 並んで腰を下ろすと、月華は手ずから温かな茶を注ぎ、差し出してくる。所作は、連れ添った伴侶に対するように情愛に満ち、どこまでも優雅。


「この茶は、心を穏やかにし、肌にも良いのだとか」

「……そう。あなたは本当に、わらわの世話を焼くのが好きなのね」

「ええ、なによりも」


 微笑む月華の横顔は、陽光に透けて、どこか儚げでさえある。

 ただ思えば、その白い頬に、ほんのりと桜色の血の気が差すのは、己とこうして過ごす時間だけ、だったりはしないのか。

 ふと、その耳元に揺れる小さな耳飾りに気付いた。昔、自分の持っていたものとよく似た、淡い翡翠の雫。そう、それは――。


「見てくださいませ、瑛麗様。あちらに、あなた様がお好きな真紅の牡丹が一輪だけ、健気に咲いておりますわ」

「え……ええ、そうね。綺麗だわ」

「……わたくしといても楽しく、ありませんか?」


 反応が鈍かったことを、暗に指摘されてしまった。

 焦りそうになったが、なぜ己は焦らねばならないのだろう。月華にどう思われても、良かったのではなかっただろうか。


「楽しくない、ということはないわ。そうね、意外と悪くない、かしら」

 

 過ぎった断片を振り払うように、瑛麗はお茶を一口含んだ。

 ふわりと鼻腔をくすぐる風味、温かな液体が喉を潤していく。それは、確かに心地の良い感覚。

 大輪の牡丹、誇らしげに咲き誇る花に喩え、王と共に詩を詠んだこともあった。


「気まぐれな蝶はもうこの花のことなど、お忘れやもしれませぬ。けれど、牡丹は変わらず、今年も美しく咲いておりますわ。誰のためでもなく、ただ己の最も美しい姿を、天に向けて誇るかのように」

「……花は、そうね。気まぐれな蝶が去ったとて、咲き誇ることをやめはしないのでしょうね」


 瑛麗は、自嘲するように呟いた。先日の月華の言葉をなぞるやりとり。


「はい。しかし、手入れを怠り、心無い者に踏み荒らされれば、いずれは朽ち果てるしかありませぬ。……許されざることに」


 返ってきた月華の声に、紛れもない棘が混じった。

 思いもよらない一面に、瑛麗の肌が粟立つ。月華の横顔が、突如として獲物を狙う獣のような、獰猛さと鋭さに染まったのだ。


「月華? あなた、今、何と……?」

「いいえ、なんでもありません。独り言でございました。……ねえ、瑛麗様、もし王宮から出てどこにでも行けるとしたら、どこに行ってみたいですか?」


 思いもよらないことを聞かれた。瑛麗にとって問いかけは、あまりにも想像しようがないもので。答えがまるで出せなかった。


「考えたこともないわ。わらわは、王宮で生きるのが相応しい女だもの。それこそがこの世で、最も尊い生き方なのでしょう?」

「ふふ、そうですか。そうですね、あなた様は最も尊い御方です。でも、それはどこにいても、どう生きても変わらぬ真理なのです」

「……なぜかしら、受け流されている気もしてきたわ」


 もうお前は落ち目だろう、とは死んでも言わないのだ。月華という娘は。

 瑛麗とて、今の己がこう言えば、他者がどう思うかなどわかりきっている。それでも言わずにはいられないのが、瑛麗という女ではあるが。


「なら、あなたは王宮を出られるとしたら、なにをしたいの?」


 何気なく聞き返しただけだった。しかし、月華は暫し、じっと瑛麗の目を見つめ返すと、やがて切なそうに微笑む。


「そうですね。わたくしめはあなた様と一緒に、遠い、遠い南の国へ行ってみたいですわ」

「南の国……? そこはどんなところなの?」

「ええ。そこには、一年中、色とりどりの花が咲き乱れ、青く青く透き通った海が広がっていると聞きます。夜になれば、天には数えきれないほどの星々が宝玉のように瞬き、温かな潮風が頬を撫で、波が子守歌を奏でるのですって」

「なんだか想像もつかないわね。でも、きっと素敵なところなのでしょうね」

「はい。そんな場所で、誰に気兼ねすることもなく、あなた様と二人きりで……ただ、静かに時を過ごせたら、どんなに幸せかしらと」


 語られたのは、よく練られた絵物語を読むように滑らか。瑛麗は情景を浮かべようとするも、上手くは形にならない。それでも、きっと桃源郷のような場所であろうと思えた。


「そうね、よいのかもしれないわ。叶うはずもないことだけれど」

「いいえ、瑛麗様。諦めるのはまだ早ようございます、わたくしがおりますでしょう?」


 そっと瑛麗の手に自分の手を重ねる。

 いつものように、ひやりと清冽で。けれど芯に熱を秘めた手。


「月華がいつか必ず、あなた様を楽園へとお連れしますわ。だから、それまで、わたくしのお傍にいてくださいませね?」


 月華はさらに身を寄せて、耳元で囁いてくる。

 また、夜来香が薫る。むせ返りそうなほど、濃厚に。瑛麗の肺を満たしていく。

 瑛麗はその香りに酔わされるまま、ふと、幼い頃に聞かされた天女の物語を思い出した。天女は羽衣を隠され、地上に留まることを余儀なくされたと。

 あるいは、月華もまた何か大きな理由がために、この王宮という俗世に舞い降りた天女なのではないか、そんな非現実的な夢物語が頭をよぎった。

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