かぐつち・マナぱさま
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題:二匹の犬と、優柔不断な散歩道
秋の夕暮れ前、空がほんのり赤く染まりはじめていた。
小学生高学年ぐらいの年頃の少女が、黒白の子犬と茶色い子犬、二匹の犬を連れている。
黒白の子犬の名前は――『パト』、茶色い子犬のの名前は――『ラッシュ』。
柚葉は、二匹を連れて、いつもの川沿いを歩いていた。
パトは前へ前へと元気に引っぱるように進み、ラッシュはマイペースに、柚葉の足元をとことこと歩いている。
草の匂い、風の音、犬たちの足音。静かな時間。
だけど柚葉の頭の中では、最近のことがぐるぐるしていた。
(お兄ちゃんは、すごいなぁ・・)
兄の直人は、この夏で高校野球を引退した。
最後の試合は負けてしまったけれど、たくさんの声援の中でキャッチャーマスクを脱いだ兄の姿は、まっすぐで、どこか大人びて見えた。
泥だらけになりながら、声を張りあげてボールを受け止めていた姿。
暑くても寒くても、文句も言わずに練習に行っていた後ろ姿。
(・・あこがれって、見てるだけじゃだめなんだろうな)
そして今――兄は机に向かって、毎日遅くまで勉強している。
目指しているのは、地元の国立大学。
(ほんとに、野球やめちゃったんだ・・・)
あんなに大好きだったはずの野球。
あれだけ毎日ボールを受けては投げ返していたのに、グローブは今や押し入れの奥にしまわれている。
この前、犬の散歩から帰ってきたときに、柚葉はたまらず聞いてみた。
「お兄ちゃん・・野球、もういいの?」
直人は麦茶のコップを置いて、静かに言った。
「・・うん。やりきったと思ってる。でも、東京の大学にスポーツ推薦で行くことになった親友がいてさ。アイツにだけはカッコ悪いところは見せたくない・・負けたくないんだ。」
それを聞いたとき、柚葉の胸の奥がきゅっとなった。
(お兄ちゃんは、ちゃんと進んでる)
優柔不断な自分はどうだろう?
最近は、なんとなくテレビを見る時間が増えている。
好きなことや夢中になれることはあるのに、それを誰にも言えず、心の中だけにしまっている。
(やりたいことがあるけど、まだ言えない)
『あのこと』は、誰にも話していない。
ただ、心の中でそっと応援しているだけ。
そんな自分を見せるのが、なんだか恥ずかしくて。
(気分転換に、いつもとは違う道を歩いてみよう・・・)
それは、そんなたわいのない考えだった。
夕暮れの住宅街の入り口・・街灯の明かりがぽつぽつと灯り始めている。
秋の訪れを知らせるように、木々の葉が色づき始め、ひんやりとした空気が肌を包み込んでいた。
「この辺りも昔より、随分と新しい家が増えたみたい・・あ、新しい家と言えば・・」
まだ四半世紀も生きていない柚葉だが、記憶に無い建物から流れゆくを実感して・・
「ミコお姉ちゃんも結婚して、新しい家に引っ越したんだっけ・・たしか、お相手は、中学生時代からの同級生で・・・」
柚葉は、最近、結婚した『いとこの女性』のことを思い出した。
旦那様は、レスキュー用の特殊な『大型トラック』を運転する頼もしい人だ。
そして、最近、新居を建てたということを思い出した、その時。
「うん?・・なに、あれ?」
住宅街の静かな路地を進んでいると、ふと前方に一人の人物が目に入った。
全身が黒づくめ・・長身で細身、目深く帽子をかぶり、更に顔は黒いマスクとサングラスでほぼ隠れていた。
その人物は、辺りを伺う様に左右を見渡している。
「ま、まさか・・緊縛強盗!?・・怪しい・・どうしよう・・」
思わず身震いし、しかし、またも柚葉の優柔不断さが、行動をためらわせた。
しかし、その人物は帽子を直し、マスクとサングラスを手直すと、音もなく薄暗い路地へと姿を消してしまった。
「あ、消えちゃった・・パト、ラッシュ、あの怪しい人がどこに行ったか分かる?」
胸のざわつきを感じながら、パトとラッシュに視線を向けた。
柚葉が尋ねると、パトは興奮気味に鼻を地面に近づけ、今にも走り出すかの様に、地面を搔き始めた。
一方のラッシュは慎重に周囲を警戒しながらも、少し震える足で匂いを嗅ぎ始めた。
必死に相手の匂いをかぎ分けようとする犬たちに、柚葉は少しだけ心強さを感じる。
それでも心臓が不安に高鳴るのは収まらず、手のひらにじんわりと汗がにじんでいた。
しかし突然、パトとラッシュが同時にピクリ!と顔を上げ、鋭く周囲を見渡す。
「え?どうしたの、パト、ラッシュ?」
柚葉が声をかけると、草むらの生い茂る空き地から、ガササッ!と大きな音を立てて黒い影が飛び出してきた。
鋭い牙を生やした大きな口を開き、粘り気のある唾液がだらりと垂れ落ちている。
「ハアハアハアッ・・」と荒い吐息が路地に響き渡り。
その目はランランと険しい光を放ち、まるで獲物を狙う猛獣のように柚葉たちを睨みつけていた。
大きな野良犬の出現に、パトはシッポをピンと立て、ぎゃんぎゃんと勇ましく吠え返し、
ラッシュは細く震え、シッポを股の下に隠しながらも「わんわん」と吠え、身構えた。
パトとラッシュは小さな体ながらも、必死に柚葉を守ろうと前に出たのだ。
二匹とも飼い主である、柚葉を守ろうとしている。
(パト!、ラッシュ!・・飼い主の私も、この子たちを守らないと!)
その懸命さに、自分も飼い主として二匹を守りたい!、そう思うのだが・・
自分よりずっと小さな二匹の仔犬に守られていることに、泣きそうなほど、自分への不甲斐なさを感じてしまった。
「だめ!ふたりとも刺激しちゃダメ!」
柚葉は慌てて二匹に声をかけながらも、全身に強張りを感じ、冷たい汗が背筋を伝うのを覚えた。
緊迫した空気の中、襲いかかろうとする黒い影は、ますます1人と2匹に大きく迫ってきた。
「来ないでっ!、あっちに行って!」
大きく手振りを加え、必死に叫ぶ柚葉であったが。
「ガルルっ!!!」と大きな咆哮を上げ、黒い野良犬は柚葉に向かって飛びかかってきた!
その瞬間、柚葉は思わず悲鳴をあげた。
「きゃあっ!?」「危ない!!!」
二つの声が重なる中、細く長い足が剣のように鋭く伸びて、黒い野良犬を蹴り飛ばした。
「ギャッン!?」
蹴られた野良犬は、かなりの距離まで吹き飛ばされ、地面を転がっていく。
その拍子に、蹴りを放った人物の深く被っていた帽子が風で飛び、長い髪がふわりと露わになる。
艶やかで長い髪と、スラリとした長身が、柚葉と2匹を守る位置に立っていた。
「私の後ろにいてなさい・・大丈夫?、ケガはしていないかしら?」
凛とした声は、まぎれもなく女性のもの・・黒づくめの人物は女性だったのだと、ようやくに柚葉は気付いた。
そんなこちらの様子を気にする余裕も、戦意も無くしたようで、黒い野良犬は「キャンキャン!」と鳴き声を上げ、慌てて走り行ってしまった。
女性は「もう大丈夫そうね?」と言いながら、サングラスとマスクをゆっくりと外した。
「どうやら逃げてくれたようね・・良かった、野良犬でも犬を殺すなんて出来ないから」
そして優しい声で、「あなた、大丈夫?」と柚葉に労わるように問いかけた。
柚葉は息をのんで、その柔らかな微笑みを見つめた。
「え・・あ、あ、あなたは・・・!?」
驚きと戸惑いと尊敬が入り混じったまま、その美しい顔に見惚れてしまった。
ふつうの女の子よりもずっと背が高くて、手足も長い。その手足を武器にして、氷の上を大きく使ってジャンプし、スピンし、舞うように動く。
ジャンプは完ぺきとは言えなかったけれど、そこには目をそらせない力強さがあった。
その顔はテレビで見たことのある、憧れの女子フィギュア選手そのものだった。
女性は恥ずかしそうに帽子を戻し、マスクをし直しながら答えた。
「普段は、ファンにバレないように変装してロードワークしてるから、怪しまれるのは仕方ないけど…見つかると困るの」
女性は軽く笑って、柚葉の目を見ながら、長身を屈ませた。
「貴女は昔の私に少し似ているわ・・今の自分が嫌いで、将来の夢に迷っているみたいね?」
その強い意志を秘めた澄んだ瞳は、何もかも見通してしまいそうで、柚葉は怖かった。
「迷ってもいいのよ?、むしろ迷った方が強くなれると思うわ・・心が・・」
彼女は、柚葉の手をそっと握った。
「多くのものを見なさい。多くの人に会いなさい。多くの場所に行きなさい。・・そして、迷ったのなら、貴女の戻るべき場所に戻りなさい」
答えの分からない、謎かけのような言葉を言うと、女性は目線を下に下げた。
「正反対のこの子たちみたいにね?・・じゃあ、私はこれで」
足元では、パトとラッシュが大人しく座っていた。
まるで柚葉が、二匹の中心にあるように見えた。
「え?、それって、どいうことですか?・・あ、ちょっと!」
意味が分からず、また、憧れの存在に多くの言葉をかけたい。
そんな気持ちの柚葉を置いて、女性は素早く帽子を直し、マスクとサングラスをかけ直す。
「良ければ見ていて・・今度の競技会を」
最後にそう告げると、音もなく薄暗い路地へと彼女は姿を消した。
パトとラッシュが、「わんわん)と楽しそうな声を出した。
手を伸ばしたかったが、二つのリードを持っている柚葉は、出来なかった。
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柚葉は、二匹を連れて、いつもの川沿いを自宅に戻っていた。
(どういう意味だったんだろう・・今度の競技会かぁ・・・)
散歩に出た時以上に、柚葉の頭の中では、先ほどののことがぐるぐるしていた。
・・いつの間にか、パトがバタバタと、道ばたの草に顔をつっこむ。
リードがぴんと張られて、柚葉の手が引っぱられる。リードの動きが激しくなる。
「ちょっと、パト。落ち着いて!」
・・いつの間にか、ラッシュはのんびりと、流れる川を見ていた。
今度は、柚葉の手がリードを引っ張る番だ。リードは一定の場所から動かない。
「もう、ラッシュは動いてよ。置いて行っちゃうよ?」
そう言いながら・・・柚葉はまた自分が今、犬たちの中心にいることに気づく。
パトの元気さ。
ラッシュの穏やかさ。
その中間を歩いている自分。
――何かが繋がった気がした。
(そうか・・急ぎすぎてもダメだけど、立ち止まってばかりでもダメなんだよね)
・・・まだ・・なにも始められていない。
でも、何かになりたいと思う気持ちは、たしかにある。
柚葉は空を見上げた。
赤くなった空の向こう、遠くに銀色の月が見えた。
「いつか、あたしも……始められるかな」
まん丸いお月さまが、キラキラと輝く氷の銀盤に見えてくる。
パトが嬉しそうに尻尾をふって振り返り、ラッシュが控えめに鼻を鳴らす。
「……そうだよね。まずは、ひとつ、やってみるところからだよね」
そう言って笑った柚葉の声は、空気の中にふわりと溶けた。
強い意志が込められた言葉ではない・・だけど、決して弱すぎる言葉ではなかった。
足元では、犬たちが彼女を引っ張るように、あるいはそっと寄り添うように、また歩き出していた。
――ひとりの少女と、二匹の子犬を受け入れる玄関は、
ふわりとした風を、いつ吹かそうかと、優しく待ってくれていた――
( 了 )
【しいなの感想】
まさかのキャラ2人再登場(*´艸`*)
パトとラッシュに天国行きエンドを予想してしまいましたが……幸せになれそうでよかった(*´ェ`*)