スイッチくんさま2
【しいなの感想】
これは『成層圏』だ!Σ( •̀ㅁ•́;)
# 成層圏までの一杯
お父さんの「カフェ・コンパス」は東京の郊外にある。昭和を思わせる内装と、ぐるぐると回るレコードの音色が特徴的なレトロな喫茶店だ。開店から三十年、街の風景が変わっても、お父さんの店だけは時間が止まったように変わらない。
でも最近、お父さんは変わった。「成層圏コーヒー」という希少な豆を手に入れたのだ。標高の高い山で育てられたこの豆は、名前のとおり、飲むと成層圏にいるような感覚になるといわれている。けれど、お父さんはこの豆を一度も上手く淹れられずにいた。
「温度が難しいんだよ、みどり」と、お父さんは言う。「この豆はデリケートすぎる。本当の味が引き出せないんだ」
私は夢見がちな性格だから、その言葉を聞いて想像してしまう。本当の味を知った人は本当に成層圏まで飛んでいけるのだろうか。
その日、店のドアが開き、スーツを着た初老の男性が入ってきた。
「髙橋です。成層圏コーヒーをホットでお願いします」
お父さんの表情が強張る。何度挑戦しても失敗してきた成層圏コーヒー。私はカウンターの奥から、お父さんの苦悩する背中を見つめていた。
案の定、出来上がったコーヒーを一口飲むなり、髙橋さんは顔をしかめた。
「これは成層圏コーヒーではない。ただの苦い水だ」
そう言って千円札を乱雑にカウンターに投げるように置くと、髙橋さんは大型トラックを運転して走り去って行った。
お父さんは肩を落とし、私は胸が痛んだ。その夜、私はYouTubeで「成層圏コーヒー 淹れ方」と検索した。すると「夢見がちな魔王さん」というチャンネルがヒットした。動画の中で、黒いマントを着た青年が丁寧に成層圏コーヒーを淹れていく。
「このコーヒーの秘訣は『待つこと』です。お湯を注いでから、ちょうど三分間。この時間が成層圏への扉を開くんです」
私は翌朝早く起きて、魔王さんの手順を真似てみた。お湯を注いでから三分間、神妙に待つ。その時間はまるで成層圏への旅のように長く感じた。
出来上がったコーヒーの香りは、今までのものとは明らかに違った。甘く、深く、どこか懐かしい香り。一口飲むと、本当に体が宙に浮くような感覚になった。
「お父さん、これを試して」
お父さんは半信半疑でコーヒーを飲み、目を見開いた。
「これだ!これが求めていた味だ!」
その日、私は店のホームページを開き、クレームのセクションで髙橋さんの書き込みを見つけた。
「成層圏コーヒーを味わえると期待していましたが、残念でした」
私は返信した。「改めてご来店いただければ、本物の成層圏コーヒーをお出しします」
一週間後、髙橋さんが再び店を訪れた。お父さんは自信をもって淹れたコーヒーを差し出した。髙橋さんは一口飲むと、その場で目を閉じた。長い沈黙の後、彼は言った。
「これこそ、私が求めていたコーヒーです」
それから髙橋さんは毎週金曜日、必ず店に来るようになった。彼の人生の「コンパス」が、私たちの店を指すようになったのだ。お父さんのコーヒーは、彼を成層圏まで連れていくのかもしれない。
私は思う。人の夢を叶えるのは、時に少しの待ち時間と、あきらめない心なのだと。今日も店には、夢見がちなお客さんたちが訪れる。そして私たちは、彼らを成層圏まで連れていく。