ep.77 微睡む甘い香り
唐突に訪れた爆風に乗せて吹き荒れる緑の元素の奔流に木々がざわめいた。
グレージュのメッシュを入れた亜麻色の髪が風に靡き、普段は前髪で隠れているおでこを露わにさせる。アリィは乱れた髪を手櫛で整え、森の中をひたすら歩いていく。
後ろに続くのは皇国軍第3部隊の仲間達。2週間後に控えたエジカロス大森林南部の鬼の掃討作戦の為に、エジカロス大森林の北部を経由し要塞都市ザントガルツを目指していた。北部の掃討作戦は完了している為、新たに生まれた鬼さえいなければ脅威はほとんど無いに等しい。したがって、南部を通らず北部から迂回していく方が結果として早くたどり着けるのだ。
「このペースなら予定通り15時にはザントガルツに到着できそうですね」
深緋色の短髪をしたキツネ顔の男――ククレストは進行状況を見定め報告する。
「そうね。鬼もまだ見当たらないし、暫くは鬼に怯えることなく森を歩けそう。でも……」
「先ほどの突風ですね?」
「ええ。上空を通り過ぎる緑の竜の姿がありましたし、緑竜はきちんと働いているようです」
六色の竜の内、緑竜は姿を現した。なら、何故黒竜は姿を現さないの?これだけの黒の元素が蔓延しているのに……。
精霊の黄昏からもう1200年は経っているのに、皇国の記録上黒竜が現れたという記述は見つけられない。それは大陸に蔓延している黒の元素の量を見てみればよくわかる。
「はい、私も見ましたよ。あれが緑の元素を司る竜フィルライナボーゲンなんですね。見るのは初めてです」
初めて見る割にククレストの表情に変化がない。強大な存在を見かければそれなりに感情は動いているはずなのに。
ククレスト曰く「任務中は感情を殺して冷静に対応できるように心掛けている」とのこと。
私はククレストが感情豊かに話す姿を見たことがない。私が直属の上官であるのはわかっているけど、もう少し人間味のある姿を見てみたいと常々思っている。
「なら、もう少し嬉しそうにしなさいよ。時折ククレストは人形なのではないかと心配になるんですよ?」
「いえ、感情を乱すと任務に差し障りますから」
このやり取りももう何度目だろう。頑なに提案を受け入れることはしない。
「前から気になってるけど、何でそこまで冷静に対応することに拘るの?確かに任務は適切に対応しなければいけないけど……」
生真面目に任務に取り組む理由は何だろう?
ククレストは「うーん」と悩み、「ツマラナイ話で宜しければお話しますが……」口籠る言葉に被せるように「それでも構わないわ。聞かせてください」理由を催促した。
カチャン。カチャン。歩く度鎧の可動部の鉄がぶつかり合う音が森に反響する。
十分な間をおいてククレストは語り出した。
「私の先祖はかつてクルス帝国の騎士として国の為に尽くしていました。ですがある時、同期の騎士が城での任務中に命を落としました。斬殺だったみたいです。任務中に城の中で殺されるなんて普通はありえません。仲の良かった私の先祖は、犯人捜しに躍起になり任務を疎かにしてしまいました。それどころか、帝国が友人を殺したと触れ回り、結果として処分を受け騎士を解任され、国外追放まで受けたのです。いくら友人が亡くなったとは言え、任務を疎かにしてはいけませんよね。然るべき機関に調査をしてもらい、犯人を捜さなくては亡くなられた友人も浮かばれません。ましてや帝国が関わっている可能性があるのならもっと慎重に行動すべきでしょう。結局、碌に経緯もわからず、犯人も捕まらず、私の先祖だけが国外追放されただけです。国外追放されたからこそ、帝元戦争で大きな被害を受けなかったのかも知れませんがね。そのことを酷く後悔したらしく、それ以来うちの家系では冷静に対応する為に、感情を殺す訓練をさせられています。その結果、私もそのような行動をすることが染み付いてしまったわけですよ」
当時、クルス帝国には不穏な動きがあったのは確かだわ。その友人は任務中に知ってはいけない何かを知ってしまった可能性が高そうね……。
「それなら教育方針がそうなっても仕方ないかもしれないわね。嫌では無かったの?」
「嫌という感情はありませんでした。それが普通のことだと思っていましたし、任務に支障を出さないことには共感しましたから」
「そう……」
ククレストの家もまた、帝元戦争で生き方が変わってしまった家系だったのね。
「じき、森を抜けます。抜けたら一旦休憩を取りましょうか」
「そうね、アルス湖も見えるし気分転換にもなりそうね」
エジカロス大森林を抜け、青い湖が姿を現した。そこはかつてクルス帝国の帝都イクス・ガンナがあったとされる場所。今ではただの湖へと姿を変えてしまっている。
数多の人生を狂わせた忌まわしき土地。
シキイヅノメの皇国軍第3部隊は、要塞都市ザントガルツまでもう暫く時間がかかるだろう。
― エジカロス大森林 南西部 ―
ミスズが率いる部隊は、一度撤退した鋼猿刃との戦闘区域まで戻ってきている。幸い周囲に魔物の気配はない。緑竜の出現で鋼猿刃も逃げてしまったのかもしれない。
隊士達は露骨にほっと胸を撫でおろしている。
魔物の気配はないのにも関わらず、やたらと甘い香りが辺りを漂っている。これまでに森に入ってこのような臭いを感じたことはミスズの経験上はない。
「隊長、この臭い、何でしょうか……?」
「わかりません。………バニラのような香水?」
皇国軍の中に香水をつける者などいない。軍律で香水などの匂いの発するものは固く禁じられている。
なら、私達とは別に誰かが森の中へ入っているの?
ミスズの脳裏にとある人物が浮かんできた。
今朝、南門から出て行った冒険者3名。あの人達が入っているのかも知れないわね。
「臭いの出所を探ります。緑竜が現れた影響だとしたら確認しなければなりません」
隊士達を率いて更に森の奥を目指していく。
緑の元素に触れた影響なのか、足元から伸びる雑草がやたらと伸びている。
歩きづらくなってるわね。掃討作戦までに足元の整備が必要かも。
烙葉達がいるのは森の深部と言われているが、どこが戦場となるかはわからない。ならば、どこが戦場になっても良い様に整えておかなければならない。多くの兵士が投入されるのだから、進行の邪魔になるようなものは排除するべきだ。
甘い香りが強くなる。
バニラであれば確かに森林の中でも育つけど、この森の中では日照条件が悪すぎるはずよ。ここまで香りを飛ばせるほど育つはずがない。そもそもバニラが自生してるという話なんて聞いたこともない。それなら、何がこの香りを発しているの?
足を進めていく内に、バニラの香りの中に鉄の臭いが交じり込んで来た。
「総員戦闘用意ッ!!」
各々が武器を握り締め臭いの先に意識を集中させていく。
ゆっくり、ゆっくりと慎重に進んでいくと、そこには――鋼猿刃の死骸が散乱し、周囲を血の色で染め上げていた。血の海の中において血の色に染まることもなく、中央に直立するひとつの横を向いた人影があった。珊瑚珠色の小紋に身を包み、長い黒髪を耳より高い位置でポニーテイルにした女性。見た目的には10代後半くらいのヒュムの女性に見えるが、後方に流れる髪に沿って生える角が鬼であることを主張していた。
着物の鬼女!?
突如として現れた鬼女――嗣桜に、ミスズ達の足は自然と止まっている。
あの鬼女が鋼猿刃の群れを……?
嗣桜の顔がゆっくりとこちらへと動いて来る。そして――目が合った。
その瞬間、ぞわりとした悪寒が走り全身に鳥肌が立った。
「あれぇ~?これ貴女達の獲物だったかな?ごめんごめん、襲ってきたからつい殺っちゃった♪」
嗣桜は笑顔を浮かべ、まるで「失敗しちゃった」とばかりに頭を掻きながら首を傾げている。
突然の出来事に脳の処理が追いつかない。ただ呆然と嗣桜の姿を眺めていた。
その態度を不審に思ったのか、身体をミスズの方へと向き直ると両手を胸の高さで合わせる。そのまま頭を下げ「ごめんね」鬼とは思えない言行にミスズは面食らう。
何なの、この鬼!?ザントガルツで目撃されたって鬼女はコイツよね!?
頭に浮かぶのは不審な鬼に対しての疑問ばかりだ。何か言葉をかけばければ、そう思うのだが何を言えばいいのかわからず口を噤んだままだった。
反応のないミスズ達に、嗣桜は恐る恐る顔を上げ表情を窺っている。
「あはは……、許してもらえないかぁ~。なら、もうどうでもいいや」
嗣桜の顔から笑みが消えた。腰に手を伸ばし、背中の帯に差してある鉄扇を抜き取り広げていく。
「どうせ貴方達はここで死ぬんだしぃ~、あまり気にしても仕方ないよねぇ~?」
嗣桜の殺気が空間を侵食していく。
「呑まれるなッ!!臆病風に吹かれれば命を落とす!!皆気合を入れよッ!!」
恐怖に呑まれ立ち尽くしてはただの的でしかない。ミスズは上に立つものとして率先して嗣桜に駆けて行く。
キィィィィィン。
金属のぶつかり合う甲高い音が響いた。
「きゃぁぁぁぁッ!!」
背後から女性隊士の絶叫が響き、ミスズの足を留まらせた。
振り返れば、男性隊士同士が刃をぶつけ合っている。
「この鬼めぇぇぇッ!!」「人に化けようがバレバレだッ!!」
叫びと共にぶつかり合う刃に力が籠る。
「お、おい!!何をやっている!!離れろ!!!!」
ミスズが指示を飛ばすも、男性隊士二人は手を止めることはない。それどころか他の男性隊士もまた斬り合いを始めてしまっている。ミスズの部隊の半数は男性隊士で構成されている。どういうわけか、男性隊士だけが仲間に向かって刃を向けているのだ。
「男共を止めろッ!!鬼の前なのがわからないのッ!?」
女性隊士達が羽交い絞めにするも、男性隊士の力には及ばず止めきることはできていない。
一体何が起こってるというの!?こんな同士討ちをするような真似……。
不意に嫌な考えが浮かび、ばっと嗣桜へと顔を向けた。
これがあの鬼女の異能だとでも言うの!?
嗣桜は鉄扇で口元を覆い、同士討ちをする皇国軍の姿を眺めていた。口元を覆っていても、その目を見れば愉しんでいることが容易に感じ取れる。
「早く止めなくていいの~?大事な大事なお仲間が死んじゃうわよぉ~?」
鬼女に背中を向けるのは危険な気がする。それでも、仲間を見捨てることなんてできない!!
ミスズは同士討ちをする男性隊士の下へと駆けた。
すでにお互いがお互いを傷つけ合い深手を負っている者もいる。このままでは鬼女と戦うどころの話ではなくなってしまう。
「おいッ!やめろ!!」
ミスズが男性隊士の肩に触れたその時、男性隊士の瞳がミスズへと注がれた。その瞳には憎しみと怒りが宿っており、とても上官に向ける瞳ではなかった。敵を見るような眼差しに、ミスズは咄嗟に後方へと飛んだ。それと同時に無数の刃が伸びてくる。
「くそっ!?」
刃を隔てるように水が溢れてくる。反射的に発動速度の速い初級水属性魔法スプラで水の障壁を生み出し迫りくる刃に備えた。刃が水壁とぶつかり合う。水の圧力に刃の勢いは削がれたものの、完全には防ぎきれていない。刃は水の守りを突き抜け、ミスズの四肢に突き刺さる。
「ぅ゙ぅ゙っ!?」
痛ッ!!……でも、これくらいならまだ!!
刃は表面を突き刺したに過ぎなかった。反射的に水壁を張ったのもそうだが、それ以上に女性隊士達が男性隊士達の身体を掴み留めてくれたことで被害を最小限に留めることができたのだ。
一歩後ろへ下がり、突き出された刃を身体から抜いていく。初級回復魔法ミライズで傷ついた身体を癒し、男性隊士達から距離を取った。
「ふふふっ、どう?守るべきお仲間に刺される気分は?」
背後から悦に入る嗣桜の声が耳に届いた。
ミスズは嗣桜の顔を睨みつけ思案する。
感情的になるな。落ち着いて状況を分析するのよ。
一呼吸挟み現状を把握することに努める。
今までの言動から人を操る力がありそうだけど、何で男性隊士だけなの……?操れる対象が男性だけ?でも、私に攻撃してきたのが気になる。烙葉や凛童は女性に対しては極力危害を加えないようにしていたのに……。鬼女は別の行動理念なの?
「た、隊長ぉぉ………」
震える女性隊士の声に振り返れば、抑え込まれていた男性隊士達が女性隊士ごと立ち上がり、剣を逆手に握り直していく。
「まさかッ!?やめろぉぉぉぉッ!!!!」
刃が心の臓を貫き、確実に死ぬ為に突き刺したまま手首を90度捻っていく。
「「「「「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」」」」」
男性隊士達が次々と自決していく。しがみ付いていた女性隊士達は力なく地面へとへたり込んでいった。
「あらら~、そんな簡単に自決を選ぶなんてどういった軍律なのかしらねぇ?」
馬鹿な……。
ありえない……。
確かにとある条件下では自決を促すものはあるけど……、今はそんな状況じゃないのよ………。
なんで……、何でこんなことに………。
男性隊士は皆自決し、力無く大地に臥せている。女性隊士に至っても目の前で自決する姿を目撃してしまった為に混乱し、正気を保てているのかわからない。
夢であってほしい……。
嫌な夢を見てしまったで終わらせてほしい……。
だが、身体に残る痛みがまざまざと現実であることを突き付けてくる。
地に臥した男性隊士からはドクドクと血が溢れ、赤く大地を染めあげていく。
バニラの香りと血の臭いが混ざり合い、気持ちの悪いその臭いにミスズは吐き気を覚え手で口を覆った。それでも気丈に足を踏み留め、自分の足で身体を支えて立っている。
嗣桜と戦う前から勝敗は決してしまった。嗣桜とまだ手を合わせる前だというのに、男性隊士達は自ら命を絶ち、知能の高い鬼と戦うにはあまりにも戦力が足りなさすぎる。
隊士達は心を折られ、もはや戦う気力を持ち合わせていない。
それでもミスズには隊士達の命を守る義務がある。その想いだけが嗣桜との戦いに駆り立てている。
「もう勝負は着いたじゃない。まだ向かってくる気?」
「仲間をこれだけ失い、成果もなし帰れるものかッ!!」
せめてあの子達だけでも無事に帰らせないと。
地面に崩れ落ちた女性隊士達へと叫ぶ。
「貴女達は逃げなさい!逃げて現状をロクシマ兵士長へ伝えてッ!!」
ミスズが嗣桜に向かって駆け出した。
見る限り鬼女の武器は手に持った鉄扇。そこから予測されるのは鉄扇を鈍器のように扱い叩きつける攻撃しかない。
「あら、貴女も帰ってくれても良かったのに」
間合いに入り込み、ミスズの剣が上段から振り下ろされた。
キィィィン。嗣桜の鉄扇が刃を受け止める。
「真っすぐ突っ込んで来るなんて芸がないわね~」
だが、すでにミスズは次の一手を打っていた。手元から光が溢れ広がり始めた。
「なら、こんなのはどうかしら?」
その瞬間、二人の身体は光に包まれる。
ミスズは上級光属性魔法ルストローアを発動させ、浄化の力で嗣桜の力を削ぐことを優先させたのだ。
「照明にしてはきつすぎるんじゃな~い?」
嗣桜から闇が生まれ光が押し戻されていく。
単発の魔法で駄目ならッ!!
支援魔法ブラスターで魔法の威力を底上げし、ルストローアを重ねて発動させた。
白の元素が集い、より輝きを増した光が二人を包み込む。闇は光に呑まれ、目視で確認することが困難になっていく。
― 我は闇を纏う者 光を喰らい 未来を狩り取る
汝は黒き絶望を知るだろう ズフィルード ―
言葉が紡がれ、闇が光を喰らっていく。
支援魔法で強化されたルストローアに対して、嗣桜もまた詠唱をすることで黒の元素への干渉力を上げズフィルードの出力を上げている。
互いの元素がぶつかり合い、干渉し合い、対消滅を発生させていく。魔法は霧散し、残されたのは剣と鉄扇で鍔迫り合いをするミスズと嗣桜の姿だった。
嗣桜が愉しそうにケラケラと笑い出す。
「魔法の扱いはあたし達大差がないみたいよぉ~?」
ミスズの頬に嫌な汗が伝っていく。
実際は魔法の出力だけなら、支援魔法が扱え、詠唱を使用していなかったミスズの方が有利ではある。だが、ミスズは察している。魔法で押し勝てても、嗣桜を倒しきるまで魔力がもたないことを。支援魔法は確かに効果は高いが、魔力の消費量が高いのだ。支援魔法と上級魔法を乱発するのは、ミスズの魔力量では不可能だ。だからといって剣での近接戦闘では、鬼である嗣桜に分がある。クォルスのような加護の剣であれば不足する力を補えるかもしれないが、ミスズの持つ剣は隊長格の兵士のみに支給されるニグル鉱石製の剣である。硬さと強度こそあれど、強固な鬼の皮膚の前では長期戦に耐えうるものでもない。
「顔色悪くなっちゃってるけど~、ど~したのか~なッ!!」
嗣桜の膝蹴りがミスズの腹部へと突き刺さった。
「がッ!?」
身体をくの字に曲げ、剣にかける力が緩んでいく。
嗣桜の鉄扇が剣を上空へと撥ね退けた。その際、鉄扇の先端が顎を打ち抜き後方へとよろめく。そして背中から倒れ込んでいった。背中を打ち付けるも慌てて上半身を起こしていく。
嗣桜が歩み寄りミスズの顔を覗きこむ。より一層バニラの甘い香りが鼻孔を擽り、ミスズの頭の中はぼんやりと霞がかっていく。
「あんたも軍属なんて辞めて女の幸せってやつを享受しなさい。いるんでしょ?惚れた男の一人や二人。子を孕み、幸せな家庭を築きなさいな。ふふっ、大丈夫よ。大きくなるまでは見逃してあげるからねぇ〜」
愛する人と結ばれ、子供を産むことだけが幸せの形ではない。確かに、そういった未来を夢見たこともあったけど、それ以上に家族を、ザントガルツに生きるすべての人達から鬼という呪縛から解放したいと思っている。それが叶った先になら……。
嗣桜はウインクをするとミスズの背後へと視線を向けた。
「他の子はきちんと逃げてくれたわねぇ~」
その言葉にミスズは背後を確認する。女性隊士達の姿はなく、男性隊士達の亡骸だけが横たわっていた。彼女達が逃げ出してくれたことに安堵すると共に、鬼女と二人きりという現実に身体を震わせる。
抵抗しなければ私はきっと無事にザントガルツまで帰れるのだろう。でも、そんなことをしては私はもう二度と鬼と戦うことができなくなってしまう……。この身に刻まれた恐怖が、鬼と向き合う力を奪っていく。今生き延びたからといって、いずれ私も鬼に喰われるのだろう。家族や友人もまた―――。
「あの男共の死骸は食べちゃってもいいわよねぇ~?腐らせるのも勿体ないしぃ~」
ミスズの横を通り過ぎ、命を散らした男性隊士達の亡骸へと歩いていく。
「ま、待て」
声を張ったつもりだが、思ったほど声が出ていない。それどころか声は震えていた。
嗣桜の足が止まる。
振り返り嗣桜の背中へと言葉を投げる。
「私の部下達を見す見す喰わせるものか……」
嗣桜は振り返り、ミスズの姿を眺める。
「見逃してあげるってあたしの優しさがわからないわけ~?」
淡々と発せられた声には怒気を感じさせる圧が込められていた。先ほどまでの愉しげな可憐な少女然とした姿は鳴りを潜め、そこに在るのは人喰いの鬼女。その腕が伸びて来れば簡単に喰われてしまうだろう。それでもミスズは立ち上がる。自分が自分である為に、守るべき仲間の為に、いま一度剣を強く握り締めた。
だから私は自分を奮い立たせるために叫んだ。
「鬼になんて屈してやるもんかッ!!私はザントガルツにおける皇国軍の副兵士長だッ!!誇り高き軍人だッ!!男も女も関係ないッ!!人に仇名す存在を排除するのが私の責務ッ!!命を賭して最後まで戦ってやるッ!!!!」
不思議と心が軽くなった。圧倒的に絶望的な状況にも関わらず、心は晴れやかだった。心が解放されたおかげか、感覚がぐっと鋭くなったような気さえする。
「あはははははははっ」
嗣桜の高笑いが森へ響いていく。
「そっか~、死んじゃったのが男だけってのも可哀そうよね。華を添えてあげなくっちゃ」
嗣桜はにっこりと微笑むと、鉄扇を振るいミスズに向かって黒き風が吹き荒れる。
「硬殻防壁」
黄の元素の力を借りて守りを固めた。風の速度の前では躱すことは困難だと判断し、傷つくのを覚悟の上で黒き風に向かって駆けて行く。
「威勢は良いみたいだけど、それで本当に大丈夫~?」
ミスズが黒き風と激突する。
パリィン。一瞬で硬殻防壁の守りを突破され、纏う鎧に傷をつけていく。留め金が吹き飛び、鎧の一部がずり落ちる。可動部付近のレザーはずたずたに破れ、白い柔肌が覗いている。
ただの風ではないのはわかってたけど、風が金属を切り刻んでくる……。でも、黒い風は鬼女が手に持つ鉄扇から放たれていた。あれを振らせない懐に飛び込めば!!
支援魔法のインパクトを剣に施し切れ味を底上げして嗣桜に飛び込んでいく。
嗣桜は鬼の力を以って大地を力強く踏みしめた。嗣桜の足元が窪み、周囲の地面がひび割れていく。
足元が不安定なり、ミスズの推進力は落ちていく。それでも攻撃を諦めない。身体を捻り武技名を紡ぐ。
「閃華殺皇ッ!!」
白の元素を刃に纏わせ、身体の捻りを活かして剣を振り切った。白の元素が魔力と結びつき、光の飛ぶ斬撃となって嗣桜へと飛んでいく。
「もうッ!!鬱陶~しぃな~」
黒の元素が集い、嗣桜の前に黒い壁が出現した。そこに光の斬撃がぶつかり対消滅していく。
ミスズの動きは止まらない。地面が割れ、不安定な足場であっても前へ前へと突き進む。剣に再び光が集い邪を断たんと輝き出した。閃華殺皇は二段構えの武技だ。光の飛ぶ斬撃と光の刃による二連撃である。本来は光の飛ぶ斬撃を叩き込んだ後、同じ場所を刃で斬り裂くと威力が跳ね上がる武技である。ミスズは飛ぶ斬撃を囮にし、確実に二撃目を届かせる為に動いている。
「はぁぁぁぁッ!!」
ミスズの一太刀が嗣桜の首へと迫る。最早鉄扇での防御も回避も間に合わない。
光の太刀が嗣桜の首を斬り裂き、切断された頭が傾いていく。長い黒髪をも断ち斬り、頭と切れた黒髪が地面へとぶつかった。
首を斬ったミスズに喜ぶ表情はない。
まだよ、まだ心臓を断ち斬ってない。完全に命を断ち斬ったわけではないではないのよ。
光が霧散した剣を天へと掲げると、インパクトをかけ直し振り降ろした。
縦一閃。
首の断面から心臓を断ち斬り地面へと抜けていく。勢いそのままに地面を叩いたところで剣の動きがようやく止まる。斬り裂かれた身体が左右に倒れていき、地面へと激突した。
嗣桜の身体を斬り裂いたことに、ミスズの鼓動は速くなる。
ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッド。
静寂の森の中、ただ自分の鼓動だけが煩く主張してくる。
ミスズはただ呆然としていた。知能の高い鬼と単騎で戦い斬り裂いた事実が現実味を帯びてこない。皇国軍が手を焼き、長い年月戦い続けてきた人喰いの鬼の一角をこの手で沈めたのだ。実感が湧かないのも当然だろう。
倒れている嗣桜の身体を眺め、ようやく鬼を倒したことを噛みしめ始めた。
「ははっ、倒したぞ。この手で倒したんだ!これで死んでいった者達の魂も多少は慰められるッ!!ははっ、はは……」
声を出し喜んだとして、失った命は還って来ない。そう思うと、自然と涙が零れた。部隊を率いていたのにも関わらず、多くの仲間を失ってしまった。喜びと悲しみが入り混じり、ミスズは笑いながら泣いていた。
黒の粒子となって散ってしまうかもしれないけど、鬼女の首を持って帰ろう。皆の目に触れれば希望となるはずよ。
斬り落とした首を探す為に視線を足元へと向けてはっとした。
身体がすでに無くなっているのだ。
「なッ!?」
不意に耳元で声が響いた。
「良い夢は見れたかしら~?」
全身に鳥肌が立った。
響く嗣桜の声に、ミスズは顔を引き攣らせ身体を強張らせた。
夢?こいつは夢って言ったの……?
嗣桜がミスズから身体を離していく。
「ふふっ、カワイイ顔しちゃって。食べたくなっちゃうじゃない」
頬に冷たい細長い指がかかり、顎のラインに沿って撫でていく。
「あははっ。そうよその顔よ。喜びに満ちた表情から一気に絶望に落とされた時のその表情。嗚呼ぁ、ゾクゾクしちゃうわねぇ~」
恍惚とした嗣桜の頬が紅潮している。
「ははっ、これだから人間を虐めるのを止められないのよ~。ねぇ?次はどんな表情を見せてくれるの~?時間はた~っぷりあるし~、愉しみましょう♪」
これから自分はどうなるのか、ミスズは恐怖に立ち尽くすのだった。




