ep.70 鬼の襲来
凛童との戦闘から2週間が経過するも、一向にザントガルツに姿を現す様子はなかった。
その間に凛童の右手の解析が行われた。身体の構造自体は人と大差は無さそうではあるものの、穢れを纏っているのか骨や筋肉が黒く淀んでいる。表皮は人肌の色をしているが、大衆的な刃では傷ひとつつけることができない。解剖することができず、表面的な情報しか読み取ることしかできなかった。驚くべき点は、切り離された状態で尚、魔力と魔法の繋がりを断つ力は健在ということ。右手を破壊してしまえば凛童の戦闘能力が格段に落ちると判断され、魔法での焼却処分を試みるも魔法が霧散し失敗。魔力に頼らない物理的に起こした炎は掻き消されなかったが、火への耐性が高いのか焼き尽くすことは叶わなかった。破壊は不可能と判断され、砦に括りつけられることとなった。
皇国軍と傭兵はピリついた空気感を保ったまま時間が過ぎ去り、精神的に疲弊してきている。無意味な時間を過ごさせる凛童の戦略か、はたまた人と鬼の時間に対する感覚の違いなのか。右手を奪い返しに行くと言われてしまえば、ただ待つしかない。仮に右手を森に捨てたり埋めたとしても、街を襲ってくるだろう。凛童が望むのは戦う事であり、戦いこそが鬼にとっての娯楽のようなものなのだから。
賑わう――とは然程遠い客足の食堂。まだ朝ということもあり、自宅や宿に備え付けられている食堂で朝食を済ませる者の方が多い。カミル達の泊まる宿には食堂は無く、素泊まり用となっている為、朝食を求めてほど近い食堂まで足を伸ばしていのだ。朝は日の向きが悪いのか直接陽の光は届かない。向かいの建物や道に当たった光が窓を通して入ってくるのみである。それでもある程度の明るさはあるものの、補助的に証明は点けられている。
すでに朝食の注文は済んでおり、出来上がりを待つばかりだ。
「あれから2週間だぞ。凛童って鬼、本当に来る気はあんのか?」
テーブルに俯すニステルが愚痴る。
愚痴りたくなる気持ちはわかる。2週間も待ちぼうけをくらえば誰だって嫌だ。始めこそ多少の準備期間が生まれたことに喜んださ。でも、先の見えない待機ほど苛立つものはないだろう。
「さすがにこのまま待ち続けてれば、いずれ旅費も尽きちゃうね」
「そうね。クォルスには悪いけど一度ギルドで依頼を受けて資金を稼がせてもらおう」
リアの一言で今日の方針が決まる。
それと同時に朝食が運ばれてきた。
配膳されたお盆の上には、ご飯、味噌汁、浅漬け、生卵が並んでいる。カミルが注文したのは、TKG――所謂卵かけご飯定食だった。
胸の前で両手を合わせ「いただきます」感謝の気持ちを言葉にし食事を始める。
2枚重なった器の中に入った生卵を手に取り、重なった器を並べる。お盆の平らな部分に卵を軽く叩き、割れた個所に親指をかけて片方の器の中に落とす。殻はもうひとつの器の中へ置く。箸に手を伸ばし、生卵を軽く溶いたら卵の準備は完了だ。
醤油に手を伸ばし、ご飯の上に円を描くように1周半注ぎ、素早く箸でかき混ぜる。醤油の量は好みはあるだろうけど、カミルにとっての最適量は概ね1周半であった。
ご飯全体が薄い茶色味になったら、溶いた卵を茶碗の中へ入れ、軽く混ぜ合わせたらTKGの完成だ。
「マジで生卵食うのな……」
意気揚々とTKGを作るカミルに、ニステルがドン引きする。
「え?王国だとTKG食べないの!?」
「いや、帝国でも食べないんだけど……」
リアもまた引き気味だ。
「でも、メニューにもちゃんとあるし、食べる文化はあるんじゃない?」
そう、特別な注文なんかじゃない。メニュー表にしっかりと載っている食事なのだ。
ちなみに、リアはトーストにゆで卵、サラダといった定番メニューで、ニステルはハムをふんだんに使ったサンドを頼んでいる。
「TKGはリディスが好むメニューなんだ。皇国では広く愛された一品なわけだが、あんたらは外国から来たのか?」
やたらと筋肉質な調理師のおじさんが問いかける。髪はずいぶんと後退しているのか、帽子の中にすっぽりと納まっている。
「皇国に来てまだ2週間ほどです。朝食べるTKGは格別ですよね」
そう言うと、カミルはTKGを口の中に描き込み始めた。
「はっはっは、兄ちゃんはTKGを良くわかってんじゃねーか。髪も黒いし、あんたもリディスなんか?」
口の中に入れたものを飲み込み「違いますよ」否定をした。
「カミルは黒髪でもヒュムですよ。ちょっと変わったヤツですけど」
「だいぶの間違えじゃねぇのか?」
カミルが二人を不満げに睨みつける。
「二人には言われたくないんだけど」
「はっはっはっは!要は全員変わりもんだってことだろ?変わってるヤツほど、自分を普通と言い張るもんだ。普通って曖昧な言葉なんざ、主観が変われば普通が普通じゃなくなるってのにな」
「アンタ、そんなこと客に対して言う言葉じゃねぇっての。仕事はしなくていいのか?」
「周りを良く見てみろ」
おじさんは親指で店内を示す。
「どこに仕事があるってんだ?」
おじさんに促され、店内を見てみると他の客は当に帰っていた。今店内にいるのは俺達三人だけだ。
「誇って言うことじゃねぇだろ……」
「まあ、朝なんざこんなもんさ。今日は特に客入りが少ない。給仕の姉ちゃんにもとっくに帰ってもらったくらいだしな」
途端におじさんの顔が引き締まった。
「最近、軍がピリついてるのが影響してんのか、みーんな家に閉じ籠ってやがる。商売上がったりだよ。一体何が起こってんのかねー」
凛童の影響が食堂まで及んでいるらしい。長期化すれば経済に影響を与えかねない。かと言って、いつも通りの生活に戻してしまえば、凛童が現れた時の被害が拡大してしまう。何とも歯がゆい状況だ。
「壁上の見張りも増えてるみたいですからね、何かの脅威に備えてるんじゃないですか?」
当たり障りのない言葉で状況を濁し、食事を続ける。
「また鬼でも暴れやがんのかもな……」
「また?」
「ああ、あんたらは知らんかもしれんが、1年前にも鬼が街を襲いに来たのさ」
おじさんはどこか遠くを見るような表情になった。
「そん時は俺の娘が喰われちまったんだ。……俺は鬼が許せねえ。だから、俺は売り上げの一部を軍に出資してんだ。大した金額じゃないかもしれん。それでも、1匹でも多くの鬼を駆除してもらって、娘の無念を晴らしてもらう為に……」
何て声を掛けたら良いのかわからず、言葉を発することができなかった。
「おおぅ、わりーわりー。こんな湿っぽくするつもりじゃなかったんだがな」
おじさんは背を向け頭を掻き始めた。
「まあ、なんだ……。鬼には気をつけな。それがどんな容姿をしててもな」
それだけ言うと、おじさんは厨房へと消えていく。
「あの人の娘、もしかしたら烙葉の手にかかったのかも……」
悲しげな顔を浮かべるリアが呟いた。
カミル達が戦闘した鬼の見た目は、鬼と呼ばれるに相応な姿をしていた。凛童にしても大鬼に変化している姿は化け物と呼ぶに値する。唯一の例外で言えば、女性の姿をした烙葉だ。見た目だけなら妖艶な大人の女性の雰囲気を持っていた。
「凛童は確実に仕留めねぇとな」
そう言うと、ニステルはハムサンドを豪快に口の中へと頬張った。
「そうだね。どんな姿でも鬼は鬼。相容れない存在なんだ」
カミルは半ば自分自身に言い聞かせるように言葉にした。
対話ができたとしても、鬼は人を捕食対象にしてるんだ。甘さは捨てなきゃ。
汁椀を持ち上げ味噌汁を口の中に啜る。口の中に広がる味噌の風味がどこか懐かしく、優しい味がした。鬼さえいなければこの味は、ひとつの家族の幸せの形に成り得たかもしれない。おじさんが家族に振る舞う姿を想像し、叶わぬ家族団欒の姿にカミルは思いを馳せた。
しんみりとした空気の中、朝食を済ませ宿へと帰っていった。
― エジカロス大森林 深部 ―
黒い球体に凛童は右手を翳した。3本指の緑の鱗状の右手。失ったはずの右手の代替品としてはやや物足りなさを感じながらも、凛童の心は躍っていた。
「これで準備は整った。あとはこの黒の元素を取り込めば――」
黒い球体が右手に吸い込まれ、緑の鱗が黒色に染まっていく。
傍らに突き刺しておいた黒い大剣を右手で引き抜くと、女性に声を掛けられる。
「準備はできたみたいやな」
振り向けば、黒い髪をハーフアップで整え、黒のドレスを着こなす妖艶な女性―――烙葉が笑みを浮かべて立っていた。
「ああ、楽しい狩りの時間だ。吾を愉しませてくれる猛者が現れるかどうか、心が弾むぞ」
ケラケラと笑う凛童の姿は、戦いを愉しむ狂喜に溢れている。その姿は戦いこそが生きる道とでも言いたげな狂気の鬼そのものである。
「わかってるとは思ぉてるけど、女、子供は食い過ぎたらあかんよ?数が増えんと馳走が無くなるからねぇ」
「言わんくても分こぉてるわ。吾も馳走が無くなるのは嫌だ」
烙葉がニコッと破顔する。
「それなら行ぃといで」
烙葉の言葉を受け、凛童は大地を蹴り木の上まで跳び上がった。樹頭に着地すると、次々と樹頭を跳び移りザントガルツ目指して突き進んでいく。
「さあ、カミル・クレストはどう動くんか見ものやな」
― 要塞都市ザントガルツ 東壁上 ―
その日、空から無数の生物が降り注いだ。
「おい!空を見ろ!何か降ってくるぞ!」
一人の兵士が叫び、等間隔に配置されていた十人の見張り番が一斉に空を見上げた。
遥か上空に見えるそれは黒色の塊。
加速度をつけて高度を落とし、その姿の全貌が明らかとなる。
ざんばら髪に浅黒い肌、ずたぼろの服を身に纏った頭に2つの角を持つ存在――鬼が空から降ってくる。
兵士が肉眼で姿を完全に捉えた瞬間、鬼達はザントガルツに降り注いだ。
ドォンッ ドォンッ ドォォォオンッ
鬼が建物の屋根に、壁に激突し、肉塊となりながら穴を空けていく。
「うわぁぁぁぁ!?」「きゃぁぁぁあ!!」「痛い!イタイ!いたいぃぃぃッ!」
東壁側一帯が一瞬にして地獄と化していく。
肉塊となった鬼だったモノが次々と黒い粒子となり空へと舞い上がる。上空へと昇って行き、再び迫り来る無数の黒い塊に向かって飛んでいく。
第2波の鬼の雨。
時間差をつけて降り注ぐ鬼達に、第1波で生まれた黒い粒子が纏わり付いていく。身体が一回り大きく膨らみ、体積を増した鬼の弾丸が再びザントガルツへと降り注いだ。
ドォォォォオンッ
ドォォォォオンッ
ドゴォォォォオンッ
次々と民家を突き破り、街並みが破壊されていく。
直撃を受けた住民の身体は抉れ、街を血の色に染めあげる。大切な人に駆け寄る者、子供を抱えて逃げる者、目の前の光景を信じられず立ち尽くす者。死屍累々の状況に、叫び声が街に溢れ、東壁側一帯が混沌の渦の中にあった。
潰れた鬼達が再び黒い粒子となり空へと昇る。
空には既に第3波が迫っていた。
黒い粒子を取り込み、更に巨大化した鬼の弾丸が三度降り注いだ。
ドォォォンッ
ドォンドォンドォォオンッ
第3波の鬼の弾丸が着弾する。
街並みは大きく破壊され、既に原形を留めていない。建物だったモノの破片が周囲に広がり被害の大きさを物語っている。
それだけではない。第3波の鬼達は、街に降り注ぐも潰れてなどいないのだ。多くの鬼が放った粒子を吸収し、より強力な存在となった鬼達は街を踏み潰しただけで姿を保っている。体躯は膨れ上がり、身長は6mほど。大鬼に変化した凛童を大きく凌ぐ身体を持つ鬼が8体聳え立ち、ザントガルツの中央にある砦に向かって歩き出した。
目的は勿論凛童の右手。
肝心の凛童の姿は未だ見えない。
壁上から狼煙が立ち昇り、ザントガルツに駐屯している皇国軍及び傭兵達へと鬼の襲来を伝えた。
響く破壊音と立ち昇る狼煙に、皇国軍の騎兵団が砦から飛び出していく。指揮するのは黒鳶色の髪を持つ齢50を越えたであろう老兵。白髪の比率が高く成り始めた姿から、多くの苦労を乗り越えてきたことが見受けられる。深く刻まれた皺の中でも、ほうれい線が特に目立つ彫りの深い顔立ちだ。
「第一騎兵団は北側から鬼へ攻撃を仕掛ける!我々の第一の任務は鬼を足止めし、住民が避難する時間を稼ぐことにある!次いで他の部隊の到着まで前線を維持!鬼退治は二の次だ!優先順位を間違えるなよ!」
「「「「了解ッ」」」」
並走していた別の騎兵団も負けずと声を張る。
「第二騎兵団もやることは同じだ!我々は南側から攻撃を仕掛ける!第一騎兵団なんかに負けるなよ!」
「「「「応ッ」」」」
2つの騎兵団は視線をぶつけ合い、十字路を左右に別れて展開していく。
街中での戦いの火蓋が切られ、不穏な空気が街を支配していった。
低く蠢く音に宿を飛び出していく。
ついに凛童が攻めて来たんだ。
外に出ると街の東側に煙が昇っている。南北にある門を無視して直接エジカロス大森林が広がる壁から来たことに、カミルは驚くと共に納得していた。人であれば門から出入りする。その事を当然のように鬼にも当てはめて考えていたことに、思慮の浅さを感じざるを得なかった。
遅れて宿からリアとニステルも姿を現した。
「来やがったか」
リアの視線は東の空に昇る煙を捉えている。
「わざわざ壁越しに登場とは派手だな」
軽口を叩くニステルの表情は明るくない。顔は引き締まり、槍を握る右手に力を入れ直している。
「街の被害が大きくならない内に、凛童を討ち取りに行くぞ!」
リアを先頭に襲撃ポイントまで移動を開始した。
逃げ惑う人々の合間を抜け、幾つかの角を曲がり被害を受けた場所まで辿り着く。目の前に広がるのは瓦礫と化した街並みと、数体の巨大な鬼の姿だった。
「んだありゃ……」
顔を顰めたニステルの目に映ったのは、凛童よりも遥かに大きい鬼の姿。建物の3階に達するほどの大きさの筋肉の塊。異常に発達した筋肉のせいか、重量感があり機動力が無さそうな図体をしている。どれだけの鬼を吸収すればあれほどの体躯になるのか想像もつかない。
「馬鹿でかい鬼が見えるだけで4体はいるぞ……」
鬼の姿を順に追っていたリアがふと気付く。
「壁が崩れてる様子がない?アイツらどこから入ってきたの……?」
巨大な身体を誇る鬼であれば、侵入した箇所が壁にあっても可笑しくはない。壁に視線を向けるも、その痕跡を見つけることができなかった。鬼の襲来時、宿の中にいた三人に空から降ってきた鬼を確認する術などない。侵入経路が不明な点が余計に不安を煽る結果となった。
街の中央を目指して進む鬼の侵攻は速くない。巨大化し過ぎた影響は動きの鈍さに直結しているような節がある。
鬼との距離が近づき、黎架を引き抜いた。
「全体突撃ーッ!鬼をこちらに釘付けにしてやれッ!」
声高に響く号令と共に、大通りから騎兵が飛び出して来た。身に着けている鎧から皇国軍であることが窺える。槍を構えた騎兵が続々と鬼へと駆けていき、「衝波斬」の言葉で無数の魔力の斬撃が飛んでいく。最も近い鬼への集中的な攻撃は、身体のあちこちに被害を与えるも大きな傷跡を残せていない。
皇国軍であっても鬼の侵攻には苦労するのかと、カミルは落胆を隠せない。だが、斬撃を放った真意をすぐに理解することになった。
斬撃を浴びた鬼が、真横を通り過ぎていく騎兵達に目標を定め攻撃に動いたのだ。
「後方半数は鬼の注意を引き続けろ!残りは俺に着いて来い!別の鬼を引きつける!」
四十人ほどから成る小隊を半分に割り、別の鬼へと駆けていく。騎兵隊の狙いは明らかに鬼の侵攻を止め、被害の拡大を抑えることだった。
「鬼はあの騎兵達に任せて、私達は住民の避難を手伝うよ」
カミルとニステルは頷き、鬼へと向けた足を90度曲げ、崩れ落ち始めた街の中へと向かわせる。
街の被害が壁際よりも少し内側の方が大きい?何がどうなってるのか……。
カミルは疑問に思いながらも周囲を見渡し、逃げ遅れた人がいないかを確認する。逃げる人影はもうほとんどいない。建物の崩落に巻き込まれたのか足を痛めた状態で避難する人もいるが、自力で移動できるのであれば当人の頑張りに任せるべきだ。一人でも多くの人を救うには要救助者を優先しなければならないのだ。
「おい!あそこに下敷きになってるのがいんぞ!」
ニステルが指し示す先には、屋根の一部が崩れ下半身が埋もれてしまっている男性がいる。小さな女の子と母親らしき人物が男性の手を引っ張り救出を試みるも、女性だけの力ではビクともしていない。
「おとぉ~さ~んっ。すぐ、たすけるからね……」
女の子が涙ぐみながらも必死に父親の手を引っ張っている。
「もう少しの辛抱だから、しっかりしな」
言葉とは裏腹に、母親の表情は酷く焦っていた。彼女には聞こえていたのだろう。ドスン、ドスンと近寄って来る大きな足音が。
地響きが建物を揺らし、崩れた屋根が更にヒビを広げていく。
「俺が鬼を引き付ける。二人は男を救出してくれ」
そう言うと、ニステルが足音が響く方へと駆け出した。
すぐさまカミルとリアは父親の下へ駆け寄り「手伝います」落ちた屋根の破片を掴み持ち上げていく。僅かに浮き上がった瓦礫から父親を引っ張り出す。足に欠損はなかったが、押し潰されていた影響で青痣と血に塗れている。満足に歩くことは困難だろう。
救出された父親に女の子は涙を流して「おとぉ〜さ〜んっ」としがみついた。引っ張り出すことに成功した母親は安堵を浮かべたが、すぐに表情をぐっと引き締めた。まだ鬼の脅威が去ったわけではない。今すぐこの場を離れなければならないことを、母親は理解していた。
「有難う御座います」
頭を深く下げる母親に倣って女の子も「ありがとう」とペコっと頭を下げる。不安に駆られながらも気丈に振る舞う母親の姿を見て育てば、そう遠くない未来、この女の子も聡明な女性へと成長するだろう。
「仲間が鬼を引きつけています。今の内に避難してください」
リアが父親の方に視線を移す。
「手を貸せれば良かったのですが、私達は被害の拡大を防がなければなりません」
「お気になさらずに。夫くらい担いででも避難してみせます」
母親の力強い眼差しに、リアは頷き立ち上がった。
「ニステルが心配だ。合流するよ」
男の救出はリアとカミルに任せて足音の響く方へと急いだ。リアの怪力が必要だろうし、カミルに鬼を任せるのは荷が重い。必然的にニステルが囮を買って出ることになる。
ドスン、ドスン。
屋根の吹き飛んだ角の民家の奥に鬼の姿を捉えた。
まずは足を止める!
槍を鬼の上空へと指すように突き出すと、槍の周囲に3本の岩の槍が形成された。鬼の頭上、何もない空間に向かってすべての岩の槍を射出する。空を裂き虚空を穿つ岩の槍は、中空で進む力が削がれ、重力に従って鬼に向かって降り注ぐ。
鬼の頭頂付近に2本、右肩に1本の岩の槍がぶつかり砕け散った。皮膚に僅かな傷をつけるも、鬼は傷を気にする素振りはない。突然の空からの攻撃の方が気になるらしく、空を仰いでキョロキョロと見渡している。
目立った傷を与えられなかったにも関わらず、ニステルは気にも留めていない。あくまで足を止めることに割り切っての行動だからだろう。魔力をあまり使わずに目的を達しているあたり、ニステルの思惑通りでしかない。
身体の大きさの割に知能はそこまで高くねぇのか?烙葉や凛童は人の大人や子供程度の身長だったしな。鬼についてまだ知らねぇことが多すぎる……。
鬼の視線が空に向いている隙に、道を走り抜け、鬼の正面へと飛び出した。
岩の槍の3連を生み出し、鬼の左足目掛けて射出する。射出と同時に民家の陰へと身を潜める。
空を見上げる鬼の脛に3連の岩の槍が激突した。魔力が込められ、今度は確実に傷を負わせるべく放たれている。3本の槍が同時に脛を突き、皮膚を食い破っていく。
「ギャァァァ!」
人の言葉なのか、ただの咆哮なのかわからない声を上げ、鬼は痛みに膝を着きしゃがみ込む。その動作だけで風が巻き起こり、地を突く膝が周囲の建物へと振動を伝えていく。
ピキッ、ピキピキッ。
悲鳴のような軋む音が建物から鳴り、不安を掻き立てる。
建物の陰から顔だけ出し覗き込むニステルは、鬼の状態を確認する。
岩の槍は、鬼の皮膚を突き破り確実に被害を与えていた。身体の大きさのせいか、深部までは届いていないが肉を裂いたのは間違いない。
そうか、あの鬼。図体はでかくなったが、身体の強度はそこまで上がってねぇんだ。なら、騎兵の衝波斬が効いてなかったのは何だ?個体差があんのか……?まあいい、あの鬼が脆いのなら、無駄撃ちせず急所を狙った方がいい。
鬼は蹲ったまま動けずにいる。
おいおい……脛が弱点って、まるで人みてぇじゃねぇか。―――身体の構造は似てんのか?なら……。
左掌に鉱石を生み出し、金属でできた金色の槍へと変化していく。
確実に仕留めるには、鬼を真正面から対峙する必要がある。
建物の陰から飛び出し、真正面に鬼を捉えた。
鬼は身体を丸めているおかげで頭との距離が近づき突き出すような姿勢だ。槍を放とうとするニステルにとっては絶好の形である。
気付くな気付くな気付くなよ……。
ニステルの動きに反応する前に頭をぶっ飛ばし終わらせる。それが彼の思い描いた結末だった。
金色の槍がニステルの手元から射出される―――その瞬間、鬼の身体が跳ね上がった。ニステルの動きは読まれていた。いや、ニステルが形成した強力な黄の元素に反応された。そうとしか思えない反応速度でニステルに向かって飛び上がっている。必殺の一撃を放つ為の魔法が仇となるのは、とんだ皮肉である。身体の割に高くまで飛び上がれてはいない。2m、良くて2m半ほど。飛ぶというよりも倒れ込んで来るイメージに近い。それでも6mを誇る巨体に圧し掛かられでもしたら、小さな人の身では一溜りもない。
ニステルは迷いなく金色の槍を霧散させ、黄の元素を周囲に満たした。
俺を押し潰すつもりなんだろうが、飛んだのが運の尽きだ。
槍を地面に敷き詰められた石の合間に突き刺し、魔力を流していく。
― 地脈を巡りし力の波動 大地を守護する鋼槍と化し
その身に風穴を空けるだろう 穿て グラドオム ―
魔力と黄の元素が結び付き、石畳の大地が天へと伸びていく。1本、2本、3本―――幾つもの金色を纏う鋼の槍が、鬼の身体の至るところを貫き、身体を空中で押し留める。
「グァァァァァ!」
鬼が苦悶に満ちた声を上げ身を捩る。身体が揺れる度に鋼の槍が深く突き刺さり、赤き血が穂を伝い大地を染め上げていく。
鬼の足掻く姿に、ニステルは呆れていた。
「図体がでけぇだけで、ただの木偶じゃねぇか。凛童の足元にも及ばねぇな」
鬼の目が見開かれ、ニステルに向かって赤い唾が吐き出された。首に突き刺さる鋼の槍が首の可動域を狭め、まともに狙いを定められずにニステルの3mほど左脇に唾が着弾する。
バゴォンッ。石畳の地面を砕き、あまりの威力に円形のくぼみが形成される。
余波に晒されたニステルは咄嗟に屈み、倒れることを免れた。
辺りに唾の生ぐさい臭いが漂い、その中に鉄の臭いが交ざっている。鬼が吐き出した唾が赤かったのは、血が混ざっていたからである。
良く見れば、唾が直撃した地面の表面が溶け出し、ただの唾でないことを物語っている。直撃していれば、ニステルは確実に命を落としていただろう。鬼が知能や丈夫さを強化していたのなら、殺られていたのはニステルだったかもしれない。助かったのは運が良かっただけ。そう理解した瞬間、体中から冷や汗が噴き出した。
あの鬼は、知能や丈夫さよりも絶対的な破壊の力を伸ばしてやがったんだ。
視線を上げ、次の鬼の動きに備えるも、鬼に動きは見られなかった。赤く輝く瞳の色は淀み、瞳から輝きが失われている。無数の鋼の槍に貫かれた鬼は絶命していた。
「ニステル!無事か!」
背後からリアの声が響く。
振り向けば険しい顔をしたリアとカミルが武器を構えて立っていた。
「ああ、何とか1体は殺れたらしい」
地面に突き刺した槍を引き抜き、そのまま息絶えた鬼を指し示す。
二人が見上げたその時、鬼は黒い粒子となり舞い上がっていく。
「まずい!あのままじゃ、別の鬼の力が強化されちゃうよ!」
カミルの心配事は尤もだ。鬼の命が尽きれば、近場にいる鬼に吸収され、吸収した鬼の力が強化されてしまう。倒すのなら、近場に鬼がいない状況か、同時に退治しない限り、別の鬼の養分となってしまうのだ。
「つっても、殺らなきゃ住民が被害に遭うだけだ。仕方ねぇよ」
優先すべきは人の命。それは揺るがない。舞い上がった黒い粒子は東側の壁の方へと流れていく。別の鬼が強化されてしまうが、仕方のないこと割り切るしかない。
ニステルは突き出した鋼の槍を消し去り、土属性魔法で凸凹した道を平らにしていく。道が荒れたままでは、救助や援軍が通る際の障害になってしまう。王国軍にいた頃の教えが、緊急時に役立っていた。
「他に逃げ遅れた人はもういねぇのか?」
「私達の周囲には、鬼に向かっていく気配しかないよ。皇国軍と合流して鬼を排除しよう」
リアの言葉に二人は頷き、黒い粒子が去った方へと駆けて行く。
― 要塞都市ザントガルツ 北門 ―
悠々と歩きながら北門に迫る影があった。
見た目10歳ほどの袈裟を身に纏う蠱惑的な美少年。黒い髪をポニーテイルにまとめ、歩く度に艶のある髪が揺ら揺らと左右に揺れ動く。左手には身長の1.5倍ほどの黒い大剣が握られ、肩に担ぐ姿は異様に映る。
「くぅはっは。吾の手土産は好評のようだな。嗣桜に投げ入れて貰った甲斐があったわ」
凛童とザントガルツまでの距離は、あと500m。
北門の上に展開する皇国軍が凛童が放つ濃密な黒の元素を感じ取り、慌ただしく動き回っている。
「さて、吾の方も楽しませてもらおうか」




