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ep.36 青い衝動

 恐怖。それは人が獲得した生存本能だ。経験を通して蓄積される生きる残るための判断基準そのもの。命の危険がある行動、場所、人物。それらを遠ざけることで、人は生き長らえてきた。

 それでも圧倒的な力の前ではその生存本能も役に立たないこともある。自分の力では到底太刀打ち出来ない存在、現象。それらの前では、人は身体の動きを止めてしまう。死を受け入れ最期の時を待つ者、現実を受け入れずただ立ち尽くす者。どちらに転ぼうと結果は変わらない。それに抗うことができるのは、生きる意志を持ち、生き残る為の行動が取れる者だけである。


 ただ振り下ろされる短剣を眺めていた。いやらしい笑いを浮かべるドムゴブリン。嬉々として見下ろす瞳、つり上がった口角。俺は絶対に忘れない。この悔しい思いを…。


 短剣の尖端が迫ってくる。右目の上の額から左目に向かって短剣の刃で斬り裂かれていく。短剣に押され、左瞼が強制的に閉ざされた。その直後、左目に激痛が走る。

「ぐぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ッ!!」

 額から血が飛び散り、左目から熱い液体が溢れ出た。斬られた額と左目が熱く、ジンジンと痛みを訴えてくる。垂れ流れる額の血が右目の中へと侵入し、映る世界すべてが赤く染めた。


 認めない。

 こんな現実認めないッ!

 リアを残して死んでたまるかぁぁ!!



 痛みのせいか世界が歪み始めた。

 そして、赤く染まった世界が白くぼやけていく――。



 次に()()()()()のは、いやらしい顔を浮かべ、短剣を振り下ろしてくるドムゴブリンの姿だった。


 先ほど見た光景が繰り返されている。

 ……巻き戻った!?


 瞬時に次に取るべき行動を理解した。

 振り下ろされる短剣の軌道は()()()()

 伏せながら右へ転がれ!

 思考と同時に身体が動く。


 ブゥン


 身体の捻りでふわりと浮かんだ髪の毛一部を斬り裂き、頭の上を短剣が通過する風切音が聞こえる。地面を転がり、うつ伏せの状態で身体が止まる。

 だが、まだだ。まだ安心はできない。動きを止めれば命を奪われる。

 身体を両手で押し上げながら「駿動走駆(しゅんどうそうく)!」を発動させる。顔を上げれば、ドムゴブリンの双眸がこちらを捉えていた。避けられたせいか顔が強張り、忌々しげな表情に変わっている。身体が少しずつこちらを向き始め、さらなる攻撃を仕掛ける準備に動いていた。

 圧縮した魔力で足に風の元素を纏うと、弾かれるように飛び出す。狙いをつける余裕もない。ドムゴブリンに向かって肩から体当たりするように飛び出しただけだ。

 肩がドムゴブリンの胸元に突き刺さる。爆発的な勢いの乗った体当たりに、ドムゴブリン諸共カミルまでもが吹き飛んだ。


 ドムゴブリンの背後に回ろうとしたのが裏目に出た。棍棒の個体に吹き飛ばされたカミルの頭上に短剣が振りかざされている。

 此処からじゃ間に合わないッ!武技であれ、魔法であれ、瞬間的にカミルの元に届かせる手段を持ち合わせていない。このままではカミルが……。

 嫌な汗が出る。胃がムカムカする。嫌な未来を想像し、リアの心は後悔の念でいっぱいだった。

 絶望の淵に立たされたリアの思いとは裏腹に、カミルはドムゴブリンの動きを読み切り対処をし、ドムゴブリンと一緒にこちらの方へと吹き飛んできた。

 予想外の出来事に、吹き飛ぶカミルとドムゴブリンの姿を目で追ってしまう。

 瞬時に思考を切り替える。

 リアの瞳が怜悧(れいり)なものへと変化していき、自分がやるべきことを理解する。


 短剣の個体の首を()ね、素早く葬り去ること。


 剣を握る手に力が籠もる。

宵刃(しょうじん)

 自分でも驚くほど低く冷たい声で武技を発動させる。

 刀身が藤色に包まれ、霊気を纏っていく。


 世界がひどく落ち着いたように見える。先ほどまでの感情の起伏が消え、攻撃対象と周囲の景色がやたらとゆっくりと感じられた。

 カミルとドムゴブリンは地を転げ、ドムゴブリンの身体が仰向けで止まる。

 リアが駆ける。

 倒れ込んだ今が最大の好機。早くドムゴブリンの首を…。

 痛みに身体を(よじ)っていたドムゴブリンが、頭上から見下ろすリアの存在に気づいた。

 藤色に染まった剣が軽やかにドムゴブリンの首に迫っていく。

 反射的なのか、地の元素で硬化した両手を信頼していたのか、ドムゴブリンの両手が刃を受け止めるべく動いた。手が伸び、刃に指が触れる。そう思った時、ドムゴブリンの指が、掌が、身体を守る役割を果たせず綺麗な斬口を作り斬り離された。それでも剣は止まることなくドムゴブリンの首を目指している。

 ドムゴブリンは覚悟を決めたのか、抵抗することを諦め瞳を閉じた。

 首に藤色の刃が触れ、まるで豆腐でも斬り裂くように切断した。

 ドムゴブリンの目は見開かれ、苦痛に歪んでいる。零れる鮮血が雑草を染め上げた。

 ドムゴブリンを倒したというのに、リアの表情に喜びはない。既に次にやるべきことに向けて動き出した。

 棍棒の個体の命を刈り取る。

 リアの瞳が動き、棍棒の個体の姿を捉えた。カミルを追ってきていたのか、およそ15m先で立ち尽くしていた。

 仲間の数が減ったことで戦意を喪失したのか、棍棒の個体が逃げ始めた。木々の間を抜け、必死の形相で駆け抜けていく。

 後を追い、リアが駆ける。

 ドムゴブリンの討伐は三体だったな。あれを逃がすわけにはいかない。……やけに思考がはっきりとしているな。何とも不思議な感覚だ。

 チラチラとこちらの動きを確認するドムゴブリンは、苦し紛れに棍棒を投げつけてきた。移動しながらでは狙いが定まらない上に、遠くへは飛ばせない。無情にも棍棒は木に阻まれ、リアに届くことなく地に落ちた。

 リアの掌がドムゴブリンの方へと伸びる。

 逃げるドムゴブリンの前方に霧の闇が生まれ広がっていく。

 目の前に現れた黒い霧に、ドムゴブリンは躊躇するも、止まることは出来ずに自ら突っ込んでいく。その瞬間、ドムゴブリンは霧の闇に身体をぶつけ地面を転がった。

 霧が晴れていく。霧散した闇の中から現れたのは岩で出来た壁だった。初級闇属性魔法スヴェンの霧を発生させ、霧の中に隠すように中級土属性魔法グウェルで岩の壁が作られていた。霧の闇だけなら通過することができただろう。だからこそ、ドムゴブリンも突っ込んだのだ。そこに岩の壁があるとは気づかずに。

 倒れたドムゴブリンが頭を振る。激しく打ち付けたのか、鼻血を垂らしている。

 その隙に、リアがドムゴブリンの背後へとたどり着いた。

 これで三体目。

 首を()ねる為に横一文字に刃を振るう。

 気配を感じ取ったのか、予備動作もなく岩の尻尾が急速に跳ね上がる。

 藤色を纏う剣がドムゴブリンの首に当たり斬り進む。硬化された首の筋肉をものともせず、命を刈り取っていく。首の半分ほどを斬り裂いたところで、剣を握るリアの右手と岩の尻尾がぶつかった。手が柄から離れ、衝撃で肩が捻じられる。

「ンッ…」

 痛みで顔を(しか)める。

 肩を捻ったか…。

 尻尾が当たった手が痛みと痺れで一時的に感覚が薄くなり、可動域を越えて捻られた肩周りがズキズキと痛みを訴えてくる。

 首を斬られていたドムゴブリンは動きを止め、尻尾の動きの反動で前のめりに倒れていった。首には半分ほど斬られた状態で剣が留まっている。宵刃(しょうじん)は刃の鋭さを強化する武技。剣の他の部分には何の影響も(もたら)さない。尻尾の動きにより軌道が変わったことで、首を斬り落とせなかったようだ。

 倒れていくドムゴブリンの身体が中途半端な位置で止まっている。どうやらリアの剣が地面に刺さり、首を支えにして留めているようだ。刀身を伝い血がドクドクと流れ出ている。

 右手に力を入れてみた。拳は握れるものの、握力は戻ってきていない。

 仕方ない。利き手ではないけど、左手で握るしかない。

 左手を伸ばすと柄を握った。力を込めると一気に剣を引き抜いた。

 支えを失ったドムゴブリンの身体が地面に伏す。

「リア!」

 後を追ってきたのだろう。振り返ればカミルが駆け寄ってきていた。


 一瞬の出来事だった。顔を上げたら、リアの剣が短剣の個体の手を斬り裂き、首を斬り落としていた。リアの表情からは、いつもの凛々しさが鳴りを潜めている。言い表すなら無表情。感情の起伏もなく、ただ命を奪う為の行動を取る姿は、人形めいた怖さがあった。

 リアが再び動き出す。

 走り出したその先には……棍棒の個体がいるはずだ。

 すぐに身体を起こし、リアの後を追い始める。

 ドムゴブリンが…逃げている?確かに、今のリアの姿には怖さがある。仲間である俺ですらそう感じるのだから、敵対関係にあるドムゴブリンからしたら比ではないだろう。逃げるその形相が物語っている。

 魔法が発動し、ドムゴブリンの足を止めたと思ったら、すぐに決着はついていた。リアが足を止め、何故か左手で剣を握っている。

「リア!」

 ようやくリアと合流することができる。

 呼びかけにリアが振り返る。先ほどまでの人形めいた怖さは消え、顔を(しか)めているように見える。

 右手が赤く腫れている?

「どうしたの?その右手」

 自分の身体で隠すように右腕を背後へと引いた。痛みを感じているのか、動かした時に表情がピクっと跳ねたのを見逃さなかった。

「早く回復薬を――」

「いいから!まだ弓の個体がいるんだ、気を抜くな!」

 リアの言葉に遮られる。

「なら早く木に隠れよう」


 ビュンッ


 頭の右横を何かが横切っていく。

「ぐぅあっ…」

 短く低いリアの悲鳴が耳に届いた。

 横切った物体――放たれた矢がリアの左目を貫いている……。反射的に瞼を閉じたのか、矢の棒部分を挟み込んでいる。左目の端から血が垂れ流れ、リアの顔が小刻みに揺れている。

「リア!?」

 俺のせいだ…。

 俺が声を掛けたから意識が俺に向いてしまったんだ……。

 くそッ!くそぉぉぉッ!!



 再び視界が歪み始め、世界が白く染まっていく――



 リアが右腕を背後へと引いて隠す動きをしている。痛みで表情を跳ねさせた。

 リアの左目に異常がない、ということは……


 また巻き戻った!?


 でも、時間がない!

 反射的に刀を握る右腕を持ち上げた。その瞬間、右手の甲に痛みが走る。

「うっ…」

 矢は手の甲には射さらず、(やじり)が僅かに当たっただけのようだ。カミルの手の甲を掠め、リアの顔目掛けて飛んでいく。

 リアの左目のすぐ脇、髪の毛を掠めながら後方へと飛んでいった。カミルの手の甲に当たったことで僅かに軌道が逸れたようだ。

 ……っしッ!最悪な結末は回避できた!


 ふと、ある考えが過る。

 もう一度巻き戻れば、俺も怪我することなくやり過ごせるかもしれない。

 戻れ戻れ戻れ戻れ……。

 リアが腕を隠す姿を強くイメージして、心の中で念じる。

 もどれもどれもどれもどれ……。

 念じ続けるも、時間が巻き戻る気配がない。

 何で戻らないんだッ!?戻れ!モドレ!もどれよッ!?



 再び世界が歪み、世界が白くなっていく――



 よしッ!巻き戻りが発生したッ!

 巻き戻りが発生する前兆を感じ取り、心の中でガッツポーズを取った。

 意識的に時間を巻き戻すことに成功したんだ!

 今までの巻き戻りは、すべて偶然の賜物。意識して使っていたものではなかった。初めて意識的に発動させることができたことに、カミルは大いに喜んだ。

 喜んだのも束の間、右手の甲の痛みに気づいて呆然とした。視線を右手に向ける。そこには、真新しい傷が刻まれ、血が流れ出し始めている。

 望んだ時間に戻れていない…?

「ぼうっとすんな!」

 いつの間にか近づいてきていたリアに左手を引っ張られる。不意の動きに身体がガクンと揺さぶられ、前のめりになりながら左前方に一歩踏み出し体勢を維持する。

 身体の右横を矢が通り過ぎていき、地面へと突き刺さる。

 そうだ。今は呆けている場合じゃない。

 二人して木の後ろに身を隠し、弓のドムゴブリンの動向を探る。

 あのドムゴブリンは木の上から矢を射掛けていたはずなのに、走って移動した俺達を射程圏内に捉えている。木々が生い茂るこの森では、木の上から移動しなければ障害物が多すぎる。

 顔を少し覗かせ、ドムゴブリンの居場所を探す。

 視界の中に動く影は見受けられない。木の上から移動したのなら、今も木の上にいるのかはわからない。枝伝いに移動したのか、俺達と同じ様に地面の木で姿を隠しているのか…。

「私が囮になるから、居場所を特定してドムゴブリンを仕留めてくれ」

 リアの提案に目を丸くする。

「囮なら俺がやるよ。仕留めるのはリアの方が確実性が高いし」

 リアが首を横に振った。

「やってやりたいのは山々なんだが、右手と右肩をやられてな。今は左手で剣を握っているけど、利き手ではないから振り回すのがやっとなんだよ…」

 右手が赤く腫れ上がり、血で汚れている。

 リアが剣を地面に突き刺し、左手で回復薬を取り出した。

「この回復薬でそのうち動かせるようにはなるとは思うけど、効果が現れるのに時間がかかる。回復量で選んだツケが回っちまったな……」

 予算の都合上、一人一本の回復薬しか用意していなかった。今回用意していたものは、回復量はそこそこあるが、効果が現れるまでに時間のかかるもの。即効性がある回復量の少ないものより良いかと思い、用意したのが裏目に出てしまった。

 コルクでできた蓋を豪快に口で引き抜くと、蓋を地面に落とし回復薬を煽っている。

 リアの腕がやられてしまっている以上、俺がやるしかない。これ以上、リアに負担をかけられない。

「俺がドムゴブリンを仕留めるよ」

 リアの瞳を見つめ、力強く答えた。最早やるしかないのだ。

「そんなに気負うな。仕留めるのが最善だけど、弓の無力化ができればどうとでもなる」

 心遣いは有り難かったけど、これ以上の負担をリアにかけるのは躊躇われた。

「ありがとう。でも、仕留め切ってみせるよ」

 次の交戦で終わらせてみせる。

 ニッと口角を上げたリアが嬉しそうに「任せた」と微笑んだ。そして、リアの表情が引き締まる。突き刺した剣に手を伸ばし、最後の一体の討伐へと向かう。

「準備はいいか?」

 刀を握る手に力を込める。

「うん、いつでもいいよ」

 リアは頷くと、深呼吸をして心を整えている。

駿動走駆(しゅんどうそうく)

 風の元素を足に纏わせ飛び出していく。それに合わせて上半身を出し、視界に入るすべてに注意を払う。いつでも飛び出せるように前傾姿勢を保った。

 リアは真っ直ぐ矢が飛んできた方へと移動している。ドムゴブリンが移動していないなら、そちらにいる可能性が高いからだろう。

 リアとの距離が50mほど離れた時、左前方の木からガサガサという音が鳴り響いた。音は少しずつ木の上に向かって移動している。リアの位置からおおよそ左側に50m。

駿動走駆(しゅんどうそうく)

 標的の位置を確認し、左前方の木を目指して駆け出した。

 リアは回り込むようにして、音がした木を目指している。挟撃できる位置を目指している辺りさすがだ。

 その時、リアの真上の木が盛大にガサガサガサと、広い範囲で音を立て始めた。

 リアは上を確認しつつも足を止めることはない。真上にドムゴブリンがいる可能性があるから当然だ。下手をすれば、弓のドムゴブリン以外の援軍という可能性すらあるのだから。

 音が木を突き抜け、その正体を現した。

 降り注ぐ無数の矢の雨。そのほとんどの矢が黒ずんでいる。

 この光景、見覚えがある。アズ村で魔族に襲われたあの日、燿光の兆しのノルンさんが使っていた武技、翔破(しょうは)の雨に酷似している。

 だが、これは……。矢の数が多すぎる!?

 リアが体を屈ませながら足を止める。地面が隆起し、リアの頭上を覆っていく。隆起した岩の壁が降り注ぐ矢の雨を弾いている。得意の風属性魔法も風が巻き起こるまでに時間がかかる。矢との距離を考え土属性魔法を選んだのだろう。

 翔破(しょうは)の雨は込める魔力の量、使い手の技量によって矢の数が僅かに前後する。12本前後の魔力の矢となるのが一般的だ。だが、今降り注いだ矢の雨は、少なくとも20本以上存在していた。それが意味するのは……。

「弓のドムゴブリンは少なくとも二体以上いる…」

 考えが口から零れる。

 左前方の木の枝の上に一つの影が現れた。弓を構え、リアが魔法を解除し姿を現すのを待っている。

 咄嗟に足を止めるように踵に重心をかけ地を滑る。

 左手を拳銃の形を作り前へと突き出した。

 リアへ攻撃される前に、俺があのドムゴブリンを討つ!

 ありったけの魔力を圧縮しろ。ドムゴブリンまでの距離はまだまだ遠い。半端な威力の魔法では仕留め切ることは難しく、速度が無ければ魔法が届く前に矢が放たれてしまうかもしれない。

 息を大きく吸い、呼吸を止める。

 魔力に圧をかけ魔力の密度を高めていく。

 身体というのは精神の影響を強く受けるようだ。無意識に左腕に力が入り、プルプルと震え出した。

 圧縮した魔力を胸元の宝石へと移していく。

 人差し指の先に水が渦を描き集まり出した。渦の中心に向かい水が流れ、水が圧縮されていく。


― 豪然たる水の意志 其は冷酷なる刃の狩人 アプラース ―


 言葉にする必要のない詠唱を紡いでいた。それは魔法を行使するためというよりも、攻撃が成功して欲しいという願いにも似た想いから来るものだった。

 宝石の中の魔法陣が投影され、指先に魔法陣が展開された。普段起こり得ない現象が起きているというのに、今のカミルにはそれを気にしている余裕はない。

 中級水属性魔法アプラースが発動し、圧縮された水が長さ20cmほどの苦無(くない)のような尖った刃を形成していく。

 圧縮された水刃がドムゴブリン目掛けて撃ち出された。

 木々の間を突き進み一直線にドムゴブリンを目指している。障害物は何もない。魔力を圧縮して撃ち出す力に利用しているから、速度も申し分ない。

 急所に当たれば確実に葬れる自信がカミルにはあった。

 アプラースで生み出された水刃には、ウォータージェットを参考に刃の尖端に圧をかけている。日本の工作機械ほどの威力は出ないかもしれない。それでも組織を抉るだけの水圧をかけたつもりだ。

 カミルが再び「駿動走駆(しゅんどうそうく)」で駆け出した。確かに威力には自信があるが、それは急所に当たる前提の話だ。仕留め切れなかった場合に備え、距離を詰めておく必要がある。

 走る度に膝から崩れ落ちそうだ。魔力を使いすぎているらしい。度重なる武技の発動、アプラースに込めた魔力量が、身体を支える力すらまともに残してくれていない。でも、ここで膝を着いてしまえばリアはどうなる……。

 矢で射抜かれるリアの姿が脳裏を過ぎり、否定するように頭を左右にブンブンと振る。

 走れッ!

 止まるなッ!

 俺がやらなければ誰がヤるんだッ!?

 足に力を入れ直し、大地を踏みしめる。


 アプラースの水刃がドムゴブリンの背中へと迫る中、変化は唐突に訪れた。

 水刃の尖端が凍り出し、見る見る内に全体に広がっていく。(つい)には完全なる氷の刃へと変化した。硬度を増した氷刃が、ガラ空きのドムゴブリンの背中に直撃し、背中から胸部にかけて突き刺さった。唐突の衝撃に、胸から血を撒き散らしながら宙を舞う。成す術なく顔から地面へと落下し、その命を散らせた。


 ドスンッという物音に岩の壁の隙間から様子を窺う。

 目に映ったのは、地面にうつ伏せで倒れるドムゴブリンの姿だった。背中には白っぽい何かが突き刺さっている。

 カミルがやったのか……?ここから見る分には、死んでいるように見えるけど、ゴブリンという種族は狡猾だ。擬死で人が近寄って来たところを襲うのは広く知られたこと。確実に首を()ねなければ安心できない。

 身を守る岩の壁を解除し立ち上がる。

 少し離れた位置でカミルがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。ドムゴブリンを倒しきったというのに、何故あんなにも必死に走っているのかわからない。

「弓のドムゴブリンがもう一体いる!逃げろッ!!」

 カミルの放った言葉に背筋が凍った。

 最初に遭遇した四体を倒したことで気が緩んでいた。何たる不覚。何たる失態。早く移動をしなければ……。

 走り出そうと一歩踏み出したその時、左手に持つ剣の刀身に強い衝撃が走った。その衝撃は、まるで大きな岩が剣の腹に投げつけられたかのように重い。不意の一撃に、左手から剣が弾き飛ばされた。

 剣が地面を滑っていく。

「しまった!?」

 思わぬ出来事に足が止まりかけるも、何とか足を動かした。止まっていては良い的でしかない。

 矢が飛んできた方向に視線を向けと、木の枝の上に弓を構えるドムゴブリンの姿があった。

 ドムゴブリンを仕留める為の武器を落としたのは痛い。森の中という火属性魔法が使い辛い現状で、私が使える攻撃手段は闇属性魔法のみ。初級しか使えない私が攻撃として運用するには、ドムゴブリンにかなり接近する必要がある。剣さえあれば、剣術と魔法を同時に扱えばやりようはいくらでもあったってのに……。拾いに行くより、居場所が分かっている内に囮に徹してカミルに仕留めてもらうのが一番か。

「カミル!」

 名前を叫びながら左手でドムゴブリンのいる方向を指し示した。


 リアの剣が弾け飛んでいく。傷を負うよりはマシだけど、ドムゴブリンに対処できる選択肢が減ってしまった。

「カミル!」

 リアが呼びかけ、指で何かを指し示していた。その先には、弓を構えるドムゴブリンがいる。

 お前が仕留めろ。そう言いたいのだろう。

 リアがドムゴブリンの方へと素手で駆けて行く。注意を引き付け隙を作るつもりらしい。こっちも走るのに精一杯だというのに、どうすれば……。


 なるべくカミルと距離を離れないと、翔破(しょうは)の雨らしき矢を使われたらまた後手に回ってしまう。

 ドムゴブリンの弓が再び引かれる。構えた矢が黄色く輝き、ニタニタと薄笑いを浮かべている。丸腰になったリアを嘲笑うように。

 リアの表情は崩れない。真っすぐ最短距離で駆け抜ける。

 矢の輝きが瞬間的に増す。

 来るッ!

 全身に魔力を纏わせ武技を発動する。

風戯(かぜそばえ)

 身体に纏った魔力が風の元素と結びついていく。

 黄色く輝く矢がドムゴブリンから放たれた。

 矢の速度は至って普通。速くも遅くもない。ただ、進むほど黄色い輝きが増している。

 リアにとっては見慣れた矢の輝き。ガストンが良く使っている武技に酷似している。だからこそ、その効果が手に取るようにわかるのだ。あの矢は進むほど地の元素を吸着させ、一撃を重くする。質量が増えるわけではなく、矢が刺さる瞬間の衝撃を増幅する働きを持った性質だ。つまりは「当たらなけば何ら問題ない」

 黄色い輝きを放つ矢がリアの眼前に迫り、リアが纏う風の元素とぶつかり合った。

 矢は纏った風の元素の上を流れる様に軌道を変えていき、背後の地面へと衝撃音を上げながら突き刺さった。

 ドムゴブリンの顔から笑みが消えた。当たるのを確信していたのか、目の前で起こった事実に呆然としている。

 今ならいける!

 宝石へと魔力を流していき、上級風属性魔法シルフィードを発動させた。リアを中心に暴風が吹き荒れる。木の枝が激しくぶつかり合い、折れた枝が、葉が、周囲に吹き飛んでいく。

 木の枝の上にいたドムゴブリンもその影響を逃れることができない。正面から吹き荒れた暴風に押され、後方へと吹き飛んだ。荒れ狂う風に体勢を立て直せず、背中から地面に身体を打ち付けた。

 よし!一気に勝負を仕掛ける!

 シルフィードを解除し、再び「駿動走駆(しゅんどうそうく)」を発動させ、ドムゴブリンに向かって駆け出した。

 今なら接近戦に持ち込める。一撃で息の根を止めれば!

 ドムゴブリンが目の前に迫り、左手で手刀を作る。初級闇属性魔法スヴェンで手刀に闇の刃を纏わせ、地面に転がるドムゴブリンの喉元目掛けて突き出す。

 その時、タイミングを計っていたのか、ドムゴブリンが後転をするように両足を頭の方へと蹴り上げた。

 突然の出来事にリアは手刀を止め、上半身を逸らし重心を後方へと移していく。ドムゴブリンの足が顔の前を通過する。ギリギリのところで直撃を免れた。

 ちくしょー!仕留め切れなかったッ!

 後方に流れる身体を足を引いて支えようと動かし始めた時、右の太腿に鈍い痛みが走る。

「がぁッ!?」

 太腿が真上へと押し上げられ、バランスを崩していく。

 何だ!?

 太腿を支点として、リアの身体が上空へと持ち上がる。回転しながら宙を舞う。視界に入ってきたのはドムゴブリンの岩の尻尾。後方へ転がるようにして振り上げられたのは両足だけでなく、時間差で尻尾が跳ね上がったらしい。それが太腿に絡み、今こうして吹き飛ばされたってわけか…。

 受け身を取ろうと足を大きく蹴り出し、回転を抑制する。蹴り出した反動でズキズキと太腿が痛んだ。

 回転が収まったら身体を丸め――。

 リアの思考が止まる。

 すでにドムゴブリンが動き出し、リアに向かって走り始めている。

 リアの瞳が鋭い爪を捉えた。着地のタイミングを狙われたら防ぎようがない。

硬殻防壁(こうかくぼうへき)!」

 出した結論は防御を固め、被害を最小限に食い止める、ただそれだけだった。

 せめて頭と胴を守らなければ……。

 顔の前に腕を、手の平で後頭部をを覆い、足を引き寄せ丸まった体勢を取った。

 ドムゴブリンの腕がしなり、するどい爪がリアへと迫る。

 覚悟を決め、目を瞑り身体を強張らせた。


 ドゴォォンッ


 爪で引き裂かれる痛みの代わりに響く低い音。

 その直後に背中に強烈な衝撃が走った。

「がぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ッ!」

 息が詰まる。背中に痛みが走る。何が…、何が起きた…?

 痛みに耐え、目を開けた。

 地面から伸びた岩の槍が、ドムゴブリンの身体を貫いていた。

 高度な土属性魔法はカミルは操れない。それなら一体誰が…?


「おいおい、何だってんだ…これは…?」


 男性の低い声が聞こえる。

 ザッザッと歩く音が聞こえ、岩の槍の横に人影が現れた。砂色の髪を持つ、堀の深い顎髭を生やした男性が困ったような顔で頭を掻き見下ろしていた。

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