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ep.31 諦めなければ夢は叶う

 心が満たされると余裕が出てくるものだ。時間に追われることもなく、お金に悩むことが無くなると、ストレスは圧倒的に減る。

 王都に入ってまず宿を押さえた。寝床を確保出来なければ、野宿が待っている。度重なる野宿は、精神的に追いやられてしまう。王都に入ったことで、魔物の脅威は無くなったに等しいが、今度は人を警戒しなくてはならなくなる。人を疑うことは出来る限りしたくはない。だが、現実は残酷で、窃盗や暴行が少なからず存在する。王都に入る時に、門兵から注意するように念を押されれば、嫌でも警戒しなくてはならない。

 宿を押さえたら、今度は腹の虫を黙らせた。さすがに人の多い街中で、ひたすらお腹を無らし続けるのは恥ずかしい。宿の食堂で肉や野菜やらを貪り食った。正直、味をほとんど覚えていない。味わうよりも、身体が栄養を欲していて、とにかくお腹の中に入れることを優先してしまった。せっかくの王都での初めての食事だったというのに、勿体ないことをしてしまった…。

 

 食事を終え、食堂でぼんやりと過ごす。すぐにでも部屋に戻りたいところだが、ようやくありつけた食事にがっついてしまい、お腹が重い。移動するのも億劫になってしまった。

 王都ということもあり、建物の造りは洗練されている。この宿の食堂を見ても、白を基調とし、大きめの窓が幾つも設けられており、太陽の日差しさえあれば光に溢れるだろう。生憎と、宿にたどり着いたのは夕刻から宵へと移り変わる時間帯。翌朝までお預けをくらった形だ。

 ぼんやりと証明の光を眺めていると、どうしても思考がナイザーの言葉に引っ張られる。

『発現するかは、お前次第』

 前報酬と言われ、ナイザーの瞳から謎の光が左目に注がれた。光の影響で左目が酷く痛んだ。目を酷使し、ギュッと凝り固まった時のような痛み。あれから暫くして痛みは引いたけど、特に身体に変化は無かった。ナイザーの竜人化を目の当たりにしているから、肉体的な変化が起きるんじゃないかとヒヤヒヤしたものだ。単純に俺に適性が無かっただけかもしれないが。

 ナイザーについてはわからないことが多いけど、本人がすでにいないのでは聞きようがない。明日、王国軍に報告を……。

「あ…」

 門兵あたりにまずは聞いておくんだった!

 言付けを託されたのに、食欲に負けて頭から抜けていた。ガックリと背中を丸め、頭を抱え込む。

「どうした?急に頭なんか抱え出して」

 顔を上げ、リアに視線を送ると、不審な行動に見えたのかリアが訝しんでいる。

「いえ、ナイザーからラグラルス・ゲーゲンという王国兵に言付けを頼まれていたのに、門兵に聞き損じたなーと思って」

 ケラケラとリアが笑い出し「腹ペコだったから仕方ないって」とフォローしてくれる。

 記憶というものは曖昧なもので、時間が経つにつれ記憶が薄れる。人の顔や服装が曖昧だったり、固有名詞ですらすぐに忘れてしまう。できれば、日をまたぐ前に伝えておきたかった。可能性は低いけど、王国軍所属の兵士であれば、夜勤をやっていてもおかしくはない。

 さすがに完全に夜の世界となった不慣れな街を歩けるわけもない。忘れないように何かに記しておいたほうがいいかもしれない。


 この世界の紙は未だ基調品。製法が確立され、これから伸びてくるであろう産業だ。現状、大事な書状や契約など以外では、手を出せる代物ではない。羊皮紙という手もあるが、紙よりもまだ価格は安いが現実的ではない。庶民は木簡(もっかん)が紙代わりだ。

 日本という世界の技術を再現できれば、より快適に生活ができるかもしれないが、知識も道具もない。薄い知識だけで作れるほど、長い歴史の中で生み出され、継承されてきた技術は甘くはない。


「明日、朝一で聞きに行けばいいさ。冒険者の登録はその後でも構わないし」

「そうすることにするよ。ふぁ〜ぁ…」

 疲れが溜まっているのか、欠伸が出てしまう。

 欠伸がうつったのか、リアも「ふぁ〜…」と欠伸が出かけ慌てて手で口を覆っている。

「少し早いが今日はもう休むとしよう」

 ガラガラッと椅子を押しのけ、リアが立ち上がった。

 続くように席を立つと、

「意識を失う前に風呂は済ませないと…」

 自分に言い聞かせるように呟く。

「良い心掛けだ。清潔感は大事だぞ。カミルが臭くなったら、私は迷わず置いていくからな」

 悪戯っぽく笑い、リアは階段を登り部屋へと戻っていく。きっと見捨てはしない、はずだ。でも…、エジカロス大森林でやらかしかけた時は思いっきり蹴られたからな…。リアはヤるときはヤる女性だ。言葉通りにふといなくなる可能性があるかも?

「肝に銘じてきます」

 風呂に入らずに寝るのはありえない。それがカミルのポリシーだ。浴槽に浸かることができる状態でなくとも、シャワーくらいは浴びたいと思っている。これも、日本という世界で身についた習慣、というより考え方だろうな。

「温泉に浸かりたくなってきた…」

 叶わぬ夢に想いを馳せ、部屋へと歩き出した。



 カミルとわかれ、一足先に部屋の前まで戻ってきた。


 ガチャッ ギィィ バタンッ


 部屋の扉を閉めカギを締めると、シャツの胸元を掴み上げ匂いを嗅いでみた。特に汗臭いことはない、と思う。ほっと胸を撫で下ろした。

 カミルから風呂という言葉が出てはっとした。怨竜(えんりゅう)との戦闘で付いた汚れや汗は、スプラの水で落としたものの、衣服の匂いまでは気が回っていなかった。空腹で食事のことばかりに意識が向いてしまっていたなんて…。自分の行いに幻滅しそう…。美を求めて努力していたつもりだったのに、いざお腹が空けば食欲に負けてしまう。身なりには人一倍気を使っていたはずなのに…。

 身支度をする間もなく、帝城で突発的にザイアス王国領に飛ばされてしまい、替えの服など持ち合わせていない。昨夜、カミルが寝ている隙に衣服を水洗いしてみたが、石鹸がない以上、匂いが残っているかもしれない。自分の匂いには誰もが鈍感になるみたいだし、もしかしたら周りに変な匂いのする人と思われたかも…。

 考えれば考えるほど不安になる。

「宿の主人に石鹸を借りれないか聞いてみようかな…」

 今出ていくとカミルと顔を合わせるかもしれない。

 髪を耳にかけると扉に耳を当て、廊下の音に聞き耳を立てる。


 トン、トン、トン、トン


 階段を踏みしめ登る音が聞こえてくる。カミルだろうか?タイミング的にはその可能性が高いはず。扉の開閉音が聞こえたら一階に降りてみよう。

 階段を登る音が消え、スタスタと歩く音が廊下に響く。

 息を殺しじっと待っていると、足音が途切れた。

 あとは扉の開閉音が響けば廊下は無人になるはず。………なんだけど、一向に音が響かない。それどころか、物音一つ立たなくなった。

 どうしよう?行くに行けないのが一番もどかしい。少しだけ、扉を開けて様子を見てみようかな。

 ゆっくりと音が鳴らないようにカギを外し、取っ手に手をかける。念の為にもう一度、廊下の音に耳を澄ましてみる。……やはり物音はしない。扉の向こうは静寂そのもの。これはもう覚悟を決めて覗くしかない。

 扉を頭が通る分だけ開くと、ひょこっと顔を出し、まずは扉の造りから見やすい右側を確認する。人影はない。次は左側。反対を見るには少し身体を出すしかない。覗き込むように顔を左側へと向けると――カミルと目が合った。

 リアは思考が停止し固まった。

「何してんの?」

 きょとんとした顔で見つめてくる。カミルの言葉に脳が再び動き始めた。扉を僅かに閉め、なるべく匂いが届かないように気をつける。

「あ、足音が部屋の前で止まった気がしたから…。気になって覗いただけよ?」

 自然に振る舞えたはず。自然にってなんだ…?普通に話すだけなのに…。

「ああ、たぶんそれ俺かも。靴紐が解けたみたいでさ、直してたんだよ」

 どうして今、ここで、靴紐が解けるんだよ!それに、部屋に入ってからでもいいだろうに…。

 予想外の出来事に謎の怒りで感情が昂った。

「そ、そうか。ならいいんだ。それじゃ、また明日な」

 短く答えると部屋の中へと戻る。

 扉に背中を預け、背中を滑らすように力なくその場で座り込んだ。

 扉越しにスタスタと歩き始めた音が響いてくる。

 なんか、疲れてしまった。


 ガチャッ ギィィ バタンッ カチッ


 今度こそカミルは部屋に入った。カギを締めた音が聞こえたから間違いないだろう。

 ゆっくり立ち上がると、念の為にもう一度扉を開け、廊下の様子を窺った。

 静寂が支配している。他の部屋から僅かに会話のような声が聞こえてくるが、くぐもっていてよくは聞き取れない。王都の建物の遮音性は高めらしい。

 今が好機。

 部屋を飛び出し、一階にいる宿の主人のところまで、石鹸を借りに向かった。



 ナイザーは無事に逃げ切れただろうか?

 胆礬(たんば)色のツンツン頭の男――ラグラルス・ゲーゲンは、同僚の帰りを待っていた。

 あれから2日以上も経つ。未だに姿を見せないところを見ると、かなり遠くまで移動した可能性がある。あのナイザーが簡単にやられるとは思えないが、相手はあの怨竜(えんりゅう)、楽観視ができるほどの余裕はないはずだ。


 ナイザー、ラグラルスが所属する王国軍の第6分隊は、1mほどの元素の結晶を王都に運ぶ任務に就いていた。ラグラルスの分隊は、魔物との遭遇に備える遊撃隊として周囲に展開し、安全確保をするのが役割だった。王都の北側に広がるアマツ草原は、魔物が現れないことで有名だ。入ってしまえば、王都にたどり着いたも同然。何事もなく任務を終えることができるはずだった。どこからともなく現れた怨竜(えんりゅう)と遭遇するまでは……。

 不意を突くように放たれた炎弾が、第6分隊を含む王国軍を焼き払った。アマツ草原に入っていたことで、気が抜けていたことは否めない。初動が遅れ、炎弾の一撃で多くの仲間を失った。立て直す間もなく追加の炎弾が着弾し、王国軍は半壊。全滅の可能性すらあった。

 そこで動いたのがナイザーだった。ナイザーの右腕に巨大な光り輝く槍が生まれ、空を翔ける怨竜(えんりゅう)に向かって飛んでいく。

「俺がヤツを引きつけるッ!ラグラルスッ!残った兵を率いて荷を王都へ運べッ!!」

 距離の離れた怨竜(えんりゅう)に槍が当たるはずもなく、難なく避けられる。

 ナイザーが北西に向かって移動を開始した。生き残った王国軍と王都から遠ざかるように離れていく。命をかけて自ら囮を買って出たナイザーの意思を無駄にはできず、残った王国軍を率い、荷を王都へと持ち帰った。

 王都への帰還後、すぐに怨竜(えんりゅう)討伐の為に動いた。襲撃を受けた地点から北西の方角を探索するも、交戦の痕跡もなく、発見するには至らない。怨竜(えんりゅう)の襲撃にも備えなければならない為、成果もなく王都に戻ることになってしまった。


 窓を開けると、ふわりと冷たい風が頬を撫でた。月が街を照らし出し、静まり返った街並みを眺める。

 ナイザー、お前のおかげで被害が最小限に食い止められた。元素の結晶も無事に城まで運び込むことができたし、後はお前だけだ。早く帰ってこい。



 洗濯を終え、衣服をしっかりと魔法で乾かしてから入浴を楽しんでいる。服だけなら干して布団に包まっておけばいいのだけど、替えの下着もないからついでに全部を乾かした。酷使した身体で魔法を使うのは思ったよりも疲労感を感じた。その分、浴槽に身体を沈めた時の解放感は何事にも代え難い。疲れがお湯に溶けていくようだ。

 王都の宿ということで、石鹸や洗髪剤の類は備え付けられていた。これが地方の村の宿ではこうはいかない。石鹸が使えればいい方。なので、私は基本的に旅の荷物の中に常備してある。

 王都の水質は、帝都と遜色がない。これは非常に有り難かった。水は身体の大半を占める。水の質が身体を作ると言っても過言ではないだろう。もしも、この水が硬水だったら、髪が傷んでしまう為、わざわざスプラで水を出さなければならないところだった。

 身体が温まってきたのか、火照りを感じる。美容の為に、毎日15分ほどの全身浴が日課だ。水圧を全身にかけて血行を良くし、内蔵を温めることで痩せやすくなる。最近は野営が多かったことで、なかなか実行するのが難しかった。

 右腕を湯船から出し、顔付近まで近づけて肌の調子を確認する。

 戦闘で付いた傷は綺麗に消え、ぱっと見は綺麗な腕。でも、肌の水分量が足りていないのか、少し荒れてきている気がする。これも野営と空腹の影響かもしれない。必要な栄養を取りきれていないし、ベッドや布団の中で眠れないストレスを感じているせいだと思う。肌だけではなく、髪の質にも影響が出てくるかも知れない。

 少しだけ憂鬱な気持ちになる。

 腕を湯船の中へと戻していく。視線を身体に移し、とある部分で目が止まる。両手が徐ろに二つの胸の膨らみを覆っていく。

 こっちも栄養不足かも?

 リアは年下のカナンやユリカの方が大きいことを密かに気にしていた。揉めば大きくなる、そんな噂を聞いて以来、密かに入浴中に試してはいるが、未だにその効果を感じることはなかった。

 形は綺麗な方だと自分でも思う。カナンもユリカも褒めてくれていたから、周りからしてもそういう認識なんだと理解はしている。でも……、

「もうひと回り大きくならないかな…」

 思わず口に出た言葉が、浴室内で反響した。

 徐ろに指を動かし始める。

 まだ諦めることはしたくない。きっとまだ成長してくれる。そう信じて努力だけは惜しまないでいたい。



 目が覚めると、すでに太陽が高い位置まで昇っていた。ひどい疲れと満腹まで食べた食事、久しぶりに湯船に浸かったことで、布団に潜り込んでからすぐに意識が途切れた。早い時間帯に眠りについたのにも関わらず、我ながら良く寝たものだ。身体がバッキバキで痛い。

 半身を起こすと、グッと両手を持ち上げ伸びをひとつする。滞っていた血流が押し流され、体中に心地良さを感じる。ベッドから立ち上がり、洗面所へと向かう。

 こんな時間までリアが起こしに来ていないことが気になる。もしかして、まだ寝てるのか?

 洗面所に着くと、自分の寝癖の酷さにびっくりした。髪のトップと前髪が前へと流れるように突き出し、左右の髪は後ろへと流れている。日本で昔流行っていたというリーゼントが崩れたような髪型になっていた。確かに昨日は意識が途切れるように眠ったさ。ここまでひどいのは初めてかもしれない。

 とりあえず顔を洗い、歯を磨く。

 この寝癖は、多少の水では直らない。タオルを持つと浴室へ移る。水の抜かれた浴槽に頭を突っ込むと、スプラで髪全体に水を潜らせた。シャワーはあるけど、日本のような便利なものじゃなく固定式のもの。そもそもの仕組みが違うから仕方がないのかも知れない。この世界のシャワーは魔具だ。火と水の元素の結晶を元に作られている魔法の産物。便利な魔法を使っているのに、自由に移動させられない不自由さを併せ持つのはどうなのだろうか?この世界しか知らないのであれば、特に気にすることもないのかもしれない。なまじ文明の利器を知っているからこそ、不自由さを感じてしまうのだ。世の中、知らないほうが幸せなこともあるようだ。

 身なりを整え、隣のリアの部屋の前まで移動する。


 コンコンコン


「リア、起きてる?」

 自分が今しがたまで寝ていたことを踏まえ、リアに呼びかける。

 暫く待ってみるも、中から返事はない。寝ているのか、いないのか判別ができない。


 コンコンコン


「リア、いないの?」

 再び呼びかけるも、反応がない。というより、気配を感じない…?朝一で――という話だったけど、どこかに出かけているのかも知れない。

 とりあえず、食堂へ行ってみよう。そっちで食事をしているかも知れない。

 廊下を進み、階段を下りて食堂へやってきた。昼時に近い時間帯のせいか、食堂にはちらほらと食事を摂る人もいる。だが、肝心のリアの姿はない。

 うーむ。どうしたものか…。王国軍にラグラルスの情報を聞きに行くのは一人でもいいけど、冒険者登録は二人で行ったほうがいい。入れ違いになるかもしれないし、ブランチでも摂って待っているか。


 寝起きということもあり、長方形型のトーストとサラダ、ヨーグルト。トーストのお供はバターを選ぶ。ドリンクはホットのブラック珈琲。お金に余裕があれば、他のメニューを選んでいたかもしれないが…。

 店員のふくよかなおばちゃんから仕入れた情報では、王都は乳製品の生産が盛んらしい。俺達が移動してきた広大な草原、アマツ草原の恩恵で酪農が盛んに行われ、市場には美味しくて安価な乳製品の供給がされているようだ。「美味しいから牛乳にしなよ」とゴリ押しされたが、寝起きは水かブラック珈琲と決めている。ヨーグルトとバターもある、乳製品はそれくらいで充分でしょ。

 昨日は掻き込むように食べてしまったから、今日はゆっくりと食事を楽しみたいと思う。

 胸の前で手を合わせ「いただきます」感謝の言葉を口にしてから食事を始める。

 まずは珈琲で口の中に水分を送り込もう。カップを掴み、顔の高さまで持ち上げる。湯気が立ち昇り華やかな香りが周りへと広がっていく。香りを堪能したら、口の中へ流し込む。想像よりも熱くない。むしろ温いと言ったほうが適切かもしれない。何よりも…、圧倒的に苦味が無さすぎる…。良く言えばマイルド。苦味と甘さのバランスが取れた、一般的には飲みやすいと呼ばれる珈琲だろう。だがしかし、俺の好みではない。エッジの利いた苦味が無ければ、珈琲を楽しめないのだ。残念な気持ちになりながらカップをソーサーの上へ戻す。見知らぬ土地での珈琲は、当たり外れがあるのは承知の上。気を取り直して食事を続けよう。

 バターの包みを開くと、右手に握ったバターナイフの上へと乗せる。6枚切りほどの厚さのトーストを左手で持ち、こんがりとキツネ色をした表面へとバターをそっと乗せ、全体に馴染むようにバターナイフを動かしていく。珈琲は温かったが、トーストの方はまだまだアツアツだ。ジワッとバターが溶け、焼かれたトーストに染み込んでいく。ここで綺麗に伸ばそうと何度も表面を撫でると、バターを吸って柔らかくなった表面がボロボロと剥がれ始めるから注意が必要だ。過去にどうせ食べるならと、綺麗に丁寧に時間をかけて伸ばして表面を駄目にしたことがある。やるなら手早くだ。

 これでバタートーストは整った。窓から射し込む光で、トーストの表面に照りが出ていて食欲を刺激してくる。口を開け、トーストの角にかじりついた。口の中にバターの香りが広がる。コクがあるのにしつこくない。ミルクの風味と僅かに感じる塩味が、トーストの小麦の薫りと香ばしさとよく合っている。店員が乳製品を押す理由が良くわかる。この珈琲を飲むくらいなら、牛乳を頼んだほうが良かったかも…。

 次いでサラダへと手を伸ばす。フォークを手にし、レタスに突き刺した。ドレッシングの類は頼んでいない。サラダの器が小ぶりだったから、必要ないだろう。野菜の味をそのまま味わえばいい。レタスを口へと運ぶ。シャキシャキとした歯応えと、瑞々しいほのかに甘い味が口に広がっていく。野菜が美味しい。水が美味しいからなのか、土が良いからなのか、アズ村で採れる野菜と遜色ない。都に出れば味が落ちそうなものなのに、王都は例外みたいだ。出来の悪い野菜は、土の香りが強かったり、水っぽいだけで味が弱かったりする。ザイアス王国は元素の恵みが強い気候なのかも知れない。

 キャベツの緑、人参のオレンジ、大根の白。色彩も豊かで目でも楽しませてくれる。食べ物が美味しい。それだけで心を豊かにしてくれる、そんな気がする。

 ひと噛みひと嚙み噛みしめて、ゆっくりと食べているが、リアが帰って来る様子はない。余所事を考えていたせいか、フォークの狙いがお座なりに、人参がフォークで押し出された。人参が器の丸みを伝い宙を舞い、テーブルの上へと落ち、弾みで床へと落ちていく。

 やってしまった…。


 その瞬間、世界が歪み、ホワイトアウトしていく…。


 気づけば、身体がまた人参をフォークで刺そうとしていた。でも再び人参が押し出され、テーブルに落ち弾み、床へと消えていく。

 二回も人参を落とすとか…、まだ身体が目覚めきっていないのか?目眩のような症状も出ていたし、体調でも崩しかけているのかもしれない。

 人参を落ちたままにしておくと、誰かに踏まれてしまうかも知れない。さっさと回収しとかないと。

 椅子を少し後ろへと押し、テーブルの横に落ちた人参に手を伸ばす。一つ回収し終えると、もう一つを探す。キョロキョロと辺りを見回すが、落ちたはずの人参が見当たらない。

 どこかに転がっていったのか?仕方ない…。

 椅子から立ち上がると、床に顔を近づけ辺りを窺う。視界に入ってくるのは、テーブルと椅子の足と食堂利用者の足ばかり。肝心の人参は見当たらない。足の陰に隠れて見えないのかと思い、ゆっくりと這うように移動しながら探していると、

「キャー!」

 女性の悲鳴が食堂に響いた。

 反射的に顔を上げてみると、顔を赤くし、こちらを睨む20代前半と思わしき人族の女性がいた。拳を作るとわなわなと震わせている。

「堂々とスカートの中を覗こうとするなんていい度胸ね」

 気づけば食堂中の視線がカミルへと集まっていた。

 人参を探している内に、女性客の足元に屈みながら接近してしまったようだ。

「そ、そんなつもりじゃないんだ!人参が落ちたから拾おうとして…」

 立ち上がり、両の掌を女性へと向けると左右に素早く振りながら否定し、言い訳をしていると、

「最っ低ッ!」

 バチンッと大きな音を響かせる平手打ちをして、お盆を持って女性は去っていく。叩かれた頰がジンジンと痛む。


 その瞬間、再び世界が歪み始め、ホワイトアウトしていく……。


「最っ低ッ!」

 バチンッと平手打ちをしてお盆を持って女性が去っていく。叩かれた頰がジンジンと痛んでいる。


 カミルは呆然とした。

 女性に下着を覗こうとしたと思われたから…、ではなく、去っていったはずの女性が再び目の前に現れ、もう一度同じ言葉と同じ行動をして去っていった事実が理解できなかったからだ。

 未来が見えた…?……いや、頬に感じる痛みは二度あった。実際に二度()たれたはずだ。二度ビンタされただけならまだ納得できる。でも、女性はお盆を持って立ち去ったはずなのだ。去ったはずの女性が、瞬時に目の前に戻ってきて、同じ行動をとって去っていった…。これは明らかな矛盾を抱えている。去ったはずの女性が、何故目の前に戻ってこれたのか。何故二度の痛みを感じたのか…。

 まったく意味がわからない。

 そういえば…、さっきの二度落とした人参もまったく同じ動きをしていなかったか…?

 考えれば考えるほど、混乱してくる。不思議な現象が起こるなんて、まるで天技のような特殊な力が働いたとしか思えない。俺には天技はない。ならあの女性が?二度叩きたいから力を使った?そんなわけあるかッ!二度叩きたいなら、往復ビンタなりなんなりできる。わざわざ力を使ってそんな面倒なことをするわけがない。


『発現するかは、お前次第』


 ナイザーが言っていた言葉が何故か蘇った。

 力が…発現した?何の力を?嫌な経験を繰り返す力?……そんなわけない、と思いたい。まったく自分にメリットがないじゃないか…。別の角度から言語化するなら…?


 時を巻き戻す力。


 都合の良い考えだと思うが、まったく無いとは言い難い。むしろそうであって欲しい。仮に、仮にだ。時を巻き戻す力だとするなら、発動条件は…嫌な経験か?現実逃避?めっちゃネガティブ過ぎやしないか…?しかも、巻き戻せているのは2、3秒ほどだ。そんな短時間しか戻せないものだとするなら、それに何の意味があるんだ?


 一旦考えるのは止めよう。本当に力が発現したのなら、それは喜ぶべきことだろう。特別な人でありたいという願いが叶ったのだから。持つ者と持たざる者の差は、自分の中では大きい。

 途端に顔の表情が緩み始めた。

 思考が落ち着いたことで、周りの状況が見え始める。


「若気の至りってやつだよな。あんなに堂々と覗こうとするなんて」

「俺なんて、覗きたくてもチキって行動に移せなかったってのに、最近の若いのは肝が据わってんな」

「おい見ろよ。ビンタされて顔が緩んでるぞ…。マゾだ、絶対マゾだぞ」


 周りの声が耳に届く度、恥ずかしくなる。と、とりあえず、テーブルに戻ろう…。

 そそくさと席に戻ると、恥ずかしさを誤魔化すように食事を再開する。もはや味などわからない。ただ只管、手を動かし口の中に収めていくだけ…。せっかくの王都の乳製品であるヨーグルトも、一気に掻き込んで、すっかり冷めてしまった珈琲を飲み干す。

 お盆を持ち、店員のふくよかなおばちゃんに食器を返却した。去り際に、「若いとスカートの中とか気になっちゃうわよね。でも、無理に覗いちゃ駄目よ?そういうことしたいなら、素敵な彼女でも作りなさいな」と優しく諭されてしまった。

 逃げるように階段を駆け上がることしかできず、ちょっとだけ泣きたくなる思いだった。


 諦めなければ夢は叶う。

 誰かがそんなことを言っていた気がする。特別な力への憧れが、後発的な天技のような力を与えてくれる機会に巡り合わせてくれたのかもしれない。

 夢は必ず叶う、とは言い難いが、望み、行動しなければ、そのチャンスにすら巡りあえないかも知れない。貪欲に求め続けたい。そう思わせてくれる出会いだった。

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