帝都イクス・ガンナ
人の言葉を操る異質な魔族との遭遇から三日歩き続けた。景色は相変わらず川と森に挟まれた川沿いの道。森の中に比べ視界が開けてることもあり、時折遭遇する魔物との戦闘にも苦労することなく帝都までの道のりを進めている。過ぎた日数から考えて、そろそろ森を抜けてもおかしくはない。
「そういえば」そう前置きをすると、カミルは武技についての質問をしてみた。
「先日のワイルドベアと戦っていた時に、見も知らない武技が使えたんですけど。そんなことってありえるんですか?」
武技は基本的に扱える人に指導してもらい、身体の使い方、魔力の扱い方を学ぶ。武技の発動には武技の名を言葉にしなければならない。武技名がわからなければ使うこともできないし、適当な言葉を口にしたところで発動はしない。
リアは目を丸くした。
「へえ、カミルは精霊に選ばれたんだな」
「選ばれる?どう意味でしょうか?」
「武技が生まれるのは二通りあるんだ。一つ目は、修練を重ね一つの型として昇華させた技が、この世界に認められると脳裏に武技名を授かるらしい。私は経験ないけどな」
この世界に認められる。つまりは世界を構成する元素の源、精霊に認められるという解釈でいいのだろうか?
「二つ目は、精霊が直接武技を授けるらしい。選ぶ基準はしんねーけど、脳裏に武技名と身体や魔力の動かし方を伝えてくるみたいだな。今回のカミルは後者な」
精霊に選ばれる。その言葉は、人よりも優れた存在でありたいと思うカミルの心を満たしていく。思わず頬が緩む。
そこへクヴァの腕が伸びてきて、カミルの首をガシっと締め付けた。
「おうおう!新しい武技ってなんだよ。すげえじゃねーか!」
はしゃぐクヴァの腕にはどんどん力が入ってきており、その度にカミルの首がグッグッとしまっていく。
く、くるしい…。
首を絞められながら頭を揺さぶられ、カミルは苦悶する。クヴァの腕をタップすると、降参の意を示した。
顔色が悪くなっていくカミルの顔を見て「悪い悪い」と謝って来る。
「で、どんな武技なんだ?」
新しい武技とあってクヴァが食いついてくる。どことなくリアもそわそわしている。
「武技の名前は、破蛇颯濤……」
武技の説明をすると二人は興味深そうに聞いてくれた。新しい技の情報には敏感らしい。危険な任務や依頼をこなすことを生業としている者にとって、生存率を伸ばすことができる可能性があるものには耳聡くあるべきだろう。
水属性ということで、二人のウケはそこまで良くはなかった。基本的に人族は火属性、エルフ族は風属性が最も適正が高い。自分の属性にあった武技ならば威力も伸ばしやすいものである。
何故カミルが水属性の武技を授かったのか、水の精霊に選ばれることになったのかはまったくの謎だ。カミルが水属性の適正が高いネブラ族だったのならまだ理解はできただろう。だが、カミルは人族。
水の精霊様に好かれるような行動取った覚えがない…。まあ、選ばれたのは事実だし、有難く使わせてもらおう。
歩き続けていると視界が一気に開けた。川が伸びたその先に、陽の光に照らされ綺羅綺羅と輝く水面が揺らめいている。逆光ということもあり、目が痛いほどだ。
アルス湖。エンディス大陸最大の湖。噂に聞いていたけど、本当に対岸が見えないほど大きな湖なんだ…。
文明を築いていくのに必要不可欠な水源。エジック山脈から湧き出る水がミツハ川を下り、アルス湖へと流れ込んでいく。水産業が盛んに行われ、帝都イクス・ガンナは大陸の中央に位置しながら、魚介類が豊富に取れる。東の山の恵み、西の湖の恵み、どちらも享受できる恵まれた都である。
完全に森を抜けたことで、秋口のまだ暑さの残る陽の光が降り注ぎ、肌をジリジリと焼いていく。川からフワッと吹き抜け頬を撫でる風だけが、歩き続けるカミル達にとっての救いだろう。
森側は小高い丘になっていたようだ。緩やかな下り坂が湖の方へと続いている。
ふと、湖の前に二つの人影があることに気付いた。
「誰かいるみたいでですね」
「旅先で人と会うのは良くあることだ。特に気にする必要はないさ」
リアはいつものこととばかりに気にしてはいない。
「大方、冒険者が依頼をこなしているところだろう」
帝都の外ということもあり、湖周辺にいるのは冒険者が多いとクヴァが教えてくれる。水産業が盛んな帝都では、環境保全にも力を入れているらしく、魔物の問題だけではなくゴミ問題も課題の一つらしい。ゴミを捨てるのにもお金がかかり、払うことができない者がこっそり帝都周辺にゴミを投棄を行ってしまうとか。
どこの世もゴミと戦うのは一緒ということか…。環境を壊すことをすれば、いずれ自分の首を絞めるというのに…。
湖が近づくに連れて、逆光でシルエットだった姿が徐々に浮かび上がってくる。二つの影の正体は、老夫婦だった。傍らには車輪のスポーク部が外れて歪み、荷台の一部がひび割れている荷車が横たわっている。
「どうかされましたか?」
荷車の状態を見たクヴァが駆け寄っていく。真っ先に行動できるあたり、騎士としての自覚が強いのだろう。
老夫婦がこちらに気付き顔を向けた。
「近くの畑で収穫した帰りでしてねぇ、帝都に帰る前に休憩しとったんです。そしたらこんな有様で…」
お爺さんが荷車と、横倒しになった拍子に転げ落ちたであろう野菜に視線を送る。かぼちゃ、玉ねぎ、じゃがいもなど、秋に摂れる野菜たちだ。
「たくさん収穫されたんですね」
撮れた野菜を見て、カミルはアズ村のことを思い出し懐かしい気持ちになった。
「これじゃ、運べもしねえし、持てる分だけ持って帝都に戻るしかねーのよ」
老夫婦二人で持てる量なんてたかが知れている。「持ち運び用の麻袋ならある」とヒラヒラといくつもの袋を見せつけてくるが、それでも大半を置いていくしかないだろう。冒険者に依頼という手もあるが、二人で運べる量しか荷車に載っておらず採算は取れない。
「スポーク部の金属疲労でしょうからね…。仕方ありません」
半ば諦めの混じるお婆さんの言葉に、
「こちらも帝都に向かう予定ですので、私らで運べる分はお持ちしますよ」
リアはにこやかな表情で提案した。
リアは基本的には善人である。外見も良く言葉遣いも丁寧で、頼りがいのある人物だ。困った人を見かければ声をかけるし、手伝えることがあれば力を貸す。その反面、身内や知り合いに対しては言葉使いが粗野だったり、荒い行動を取りがちだ。
「そうしてもらえると助かるが…、お前さん達も帝都までの移動で疲れとるんじゃないのかい?」
お爺さんの視線がカミル達の姿を一巡した。
「これくらい大丈夫ですよ。食材を残していくのは気が引けますし、運ぶのも鍛錬になりますからね」
クヴァが力こぶを作るポーズを取っているが、鎧を装着しているのでまったく筋肉は見えていない。それでもクヴァの優しが伝わったのか、
「そうかい?それじゃ~、お願いしようかね」
お爺さんは暖かい笑みを浮かべている。
「すみませんが、よろしくお願いします」
お婆さんが深々と頭を下げる。
野菜を麻袋へと詰め、荷車を残して歩き出す。遠目に帝都の輪郭が見えている。一週間ほどしか移動に時間がかかっていないにも関わらず、やけに長旅をしてきた気分だ。帝都までは荷物を抱えたとしても2~3時間といったところだろうか。日没までには帝都の門を潜ることができるだろう。帝都に着いたらまずは何よりも宿探しから始めなければならない。
「皆さんは何をしに帝都まで?見たところ、騎士様もいらっしゃるようですな」
クヴァに視線を送りながら、お爺さんが問いかけてきた。
「任務でアルフまで行ってたんですよ。その帰りなんです」
「おお、そいつはご苦労様です。でも…、山脈越えをしたにしては道から外れているような…?」
お爺さんの疑問は当然だろう。本来のルートであれば、ミツハ川を避けて山を下り、帝都の南東の街道を進む予定であった。アルフから来るにしては、通ることのない場所にいる。
「ああ、それなら、そこの黒髪君が川に落ちてしまって。助け出したのは良かったのですが、エジカロス大森林の中で苦労しましたよー」
ここぞとばかりに弄られる。ニヤついた表情で視線を送ってくる。
「黒髪君いうなー!」
このやり取りもクヴァがアルフに旅立った日から減ってしまった。会う機会がなくなったからそうなるのも必然なんだけどさ。
「川に落ちたのは……面目ない」
「はっはっは、自分の非を認められるのは良いことですな」
お爺さんが豪快に笑う。「川に落ちないのが一番ですがね」と続ける。
「無事だから良かったんですけど、その後も森で魔族に襲われたりしましてねー」
クヴァは相変わらずニヤニヤしてこちらを向いている。
「それは大変でしたね」
お婆さんが「ふふふ」と口元を隠しながら穏やかに笑う。
うちにお爺さんお婆さんが生きていたら、こんな穏やかな時間が流れていたのだろうか?
カミルが物心ついた時には、父母どちらの家系の祖父母と呼べる存在はこの世を去ってしまっていた。村の高齢者と接する機会もそこまでなく、カミルにとって高齢者と一緒に過ごすという体験は貴重だ。
「でもまぁ、川に落ちてくれたおかげで私達は助かりましたけどね」
お婆さんが悪戯っぽく笑う。どうやらお茶目なかわいいお婆さんらしい。
「これでもワシも昔は騎士団に所属しておってな、魔物の討伐の遠征で各地を巡ったもんだ」
「へえ、じゃあ俺の大先輩ってことですね」
「そんな大層なものじゃないがね」
謙遜してはいるが、騎士であった自分に誇りを持っているように感じられる。
「騎士を辞めてからというもの、身体を動かす機会が一気に減ってしまってな。何かやることはないかと探っていたら、帝国の役人から畑をやってみないかと勧められてね。帝都の北側の土地が、森に近いこともあって農夫のなり手がいなかったらしい。ちょうど良い機会だったもんで、始めてみたら意外とやりがいがあってやり続けているんよ」
「帝国からしたら、食料事情は国防に関わりますからね。農家の方々には頭が上がりません」
クヴァが少し遠い目をしていた。村に残してきた両親を思い出しているのだろう。クヴァの家もカミルの家と同様に農業をして生計を立てていた。若手は皆、アルフ経由で帝都やザントガルツへと流れていく傾向にある為、村に残されるのは40歳を過ぎた者達が多い。
「若い人達には魔物と戦えるだけの力と体力がありますからね。適材適所ですよ。私達は私達なりにやれることをやりますから」
談笑しながら歩いていくと、帝都の門が見え始めた。門の周りの外壁には六匹の竜が空を飛ぶ姿が描かれていた。一匹一匹色が違う。色合いから元素に対応していると考えられる。六つの元素に愛される都を謳っているのだろうか?
門の上から覗くのは、クルス帝国の城のみ。権力を手にした者が高い場所で暮らすのは、どこの世界でも一緒なのかもしれない。平民は上を見上げるばかり。
そんなことを考えていたら、すぐに門の前までたどり着いた。
時間は日暮れ目前で通行人がほとんどいない北門ということもあり、カミル達以外には通る人は皆無だった。門の両脇には老兵と新兵の衛兵が立っており、身分証の掲示が求められる。騎士であれば盾型に剣の紋章が入ったペンダント、冒険者ならプレートに剣の紋章が入ったペンダント、学生証や市民証などのカード類の物も存在する。
カミルは服の下にある貴重品袋から学生証を取り出した。川に落ちた時に流れて行かなかったのが幸いである。
「お願いします」
初めての帝都。第一印象は大事だろうと、にこやかに学生証を提示する。
衛兵の視線が学生証に移ると、記載内容と有効期限を確認された。その後は「通っていいぞ」と促された。
すんなりと帝都の門を潜り抜けると、所狭しと建物が聳え立っていた。外壁を築いている以上、壁内の土地は限られてしまう。最大限に土地を活用しようとした結果が雑居ビルのような建物の群れ。とは言え、帝都ということもあり、モダンな造りで景観は損なっていない。壁の外からでも見ることができた城は、帝都の中央に位置しているようだ。
「お二人の家はどこだい?」
野菜の入った麻袋を「よっ」と持ち直したクヴァが問いかける。
「ワシらの家は北区の中央寄りの場所だ。迷いやすいから先導しますわ」
帝都は四つの区画に分けられて管理されている。管理を分担し、担当者が細部まで目を光らせやすい環境を作り、治安の維持に努めている。
老夫婦の後を追うように街を進んでいく。日暮れが近いせいか、店じまいをしている店舗が目立つ。飲食店や酒場といった飲食が可能なお店のみが息づく街並みに変わりつつあるようだ。帰宅するであろう子供たちが駆けて行き、綺麗なドレスに身を包んだ女性が酒場に入っていく。見回りであろう騎士達とすれ違い、老夫婦の家へとたどり着いた。
「家まで運んでいただいて、本当にありがとうございました」
老夫婦は頭を深く下げる。運んでもらった野菜入りの麻袋を家の中のテーブルへと置くように促す。
「これも騎士の務めですし、困っている人は見過ごせません」
麻袋をテーブルの上へと置くと、玄関まで移動した。
老夫婦が「せめてお茶だけでも」と引き留めようとしてきたが、「宿探しがありますので」と辞退する。完全に日が暮れる前に宿を確保したい。宿街は街道に近い南区に存在する。移動時間を鑑みても、日が残っているのかギリギリだろう。部屋が残っていればいいのだが…。
「何か困りごとがありましたらお声かけください。騎士団への口利きくらいなら、まだ融通が利くはずですから」
「心遣いありがとうございます。では、我々はこの辺で」
手を振るとカミル達は宿を目指して歩き出す。後ろでは何度も頭を下げる老夫婦の姿が何時までも見えていた。
「宿、全然空いてましたね」
日没直後に宿街にたどり着いた一行は、手頃な価格帯の宿に駆け込んだ。一日の終わりともなると、宿が埋まりやすい。野宿ができる場所も限られているし、野宿したらしたで騎士団に声を掛けられる。ヘタしたらそのまま騎士団の詰め所まで連行される危険性もあるらしい。
今は宿の食堂で食事待ちだ。
「目玉の闘技大会が終わっちまったしな。帝都の出入りにムラがあるとはいえ、明らかに人が少ないな」
リアが食堂を見渡すと、空席が目立つ。
「っと、俺は一旦寮へ戻るわ。暫く帰ってなかったから埃も溜まってそうだしな」
クヴァは騎士団の寮へと入っている。宿に泊まる必要性もない。宿が取れなかった時にカミルを泊めてやろうと考えていた。その必要性もなかったわけだが。
「わざわざ付き合ってくれてありがとう、おやすみ!」
「おう、また明日迎えにくるわ」
手をひらひらと動かすと、扉の向こう側へと姿が消えていく。
リアの方を見ると手持無沙汰なのか、首を傾げて垂れた艶やかな銀髪を、指先にクルクルと巻き付けている。
「カナンさん達がたどり着くにはもう暫くかかりそうですね」
「私一人抜けたくらいで到着時期がずれ込むことはないだろう。漆黒のエルンストもいるわけだし」
「人数が減って動きやすくなってるかもですしね」
「カナン達が来るまで、私はのんびりさせてもらおうかな。カミルは明日、騎士団長様に会いにいくんだろう?」
明日の朝一に、クヴァと一緒に帝国騎士団まで出向くことになった。クヴァが受けた任務の報告と、技能講習で起きた魔族の騒動の報告も兼ねて、カミルも同行することになったのだ。森で出会ったエルフのような閃族?や人の言葉を操る新たな魔族の話までするかはわからない。明日のクヴァの報告に合わせてるつもりだ。
「はい。曲がりなりにも、一番言葉を操る魔族と接触しているのは俺ですからね…。面倒ごとは早めに片付けておけば、学園に帰るのも早くなりますから」
学園という言葉に、リアは毛先を弄ぶのを止めた。
「そうだよな!早く帰らねーと寝取られちまうかもしんねーよな!」
「ハァー」とため息が漏れる。何かとすれば恋愛話に持っていくのも面倒なものだ。学園というところは、そういった類が起こりやすいところでもあるのはわかってる。でも、今現状、そんな感情を抱いている人はいない。同い年の人としか接していないからかもしれないが。
「リアさんみたいにキレカワ系の人がいてくれたら、学園生活がもっと楽しくなるのかもしれませんね」
脳裏にファティの姿が浮かんだが、「ないな」と一蹴する。
「ほ~う、カミルは私みたいなお姉様系が好きなのか?」
どことなく嬉しそうな表情のリア。
どうだろう?そこまで深く考えたことはなかったけど、一緒に居て落ち着くのは年上なのかも?思慮深さとか包容力とか、発育具合も……。
チェックを済ましたリアは鎧を外している。Tシャツ越しの胸元に目線が行ってしまっているのを自覚して、頭をブンブンと左右に振った。
煩悩に負けるな、煩悩に負けるな。
必死に平常心を保とうとするカミルに、視線に気づいているリアは胸をテーブルの上に乗せ「スケベ」と悪戯っぽく微笑んだ。
思春期男子というものは特にチョロいもので、胸元に視線が来たかと思うとすぐに視線を外す。そんな動きを幾度となく繰り返す挙動不審なカミルに、「見過ぎだ」とメニュー表でやんわりと頭を叩いた。
「痛ッ!」
対して痛くもない衝撃に大袈裟なリアクションを取る。この妙な空気を流す良いチャンス。カミルが逃すわけがなかった。頭を両手で押さえる。
「これに懲りたら女性の胸元を無暗に覗き見するなよ?」
流れに乗ってくれたリアに感謝しつつ別の話題へと移していく。
「圧縮魔力については何人かに伝えてあるので、学園に戻った時にどこまで使えるようになっているのか楽しみなんですよ」
「そう、その圧縮魔力ってやつ。私も地道に訓練してんだぜ?」
徐に拳をテーブルの上へと運んできた。拳にグッと力が籠ったと思うと、纏を発動させた。僅かに霞がかった白色の光に包まれる。綺羅綺羅とした輝きを伴って。
「どうだ?」
高位の冒険者クラスともなると、センスが良い人が多いのかもしれない。あれほど苦労して築き上げた圧縮魔力を容易く使いこなしている。
「リアさん、センス良いですね。圧縮魔力での纏になってますよ」
圧縮魔力が広がれば、確実にカミルの魔力の優位性が消えてなくなる。そんな気分にさせてくれる出来事だった。元素への適性の少なさを新しい方法で補ってきたけど、別の何かをまた見つけなければならない。
圧縮魔力を扱えたことが嬉しかったのか、ニシシっと聞こえてきそうな笑みを浮かべている。この笑顔を見れただけでも良しとしておこう。
「何年もかけて使いこなせるようになったっていうのに」
「そりゃ、カミルが道を示したからだろう?手探りでやってたら、同じように時間ばかり使っていただろうよ。瞬間的な使用が可能ってだけで、長期的とか戦闘中とかはさすがにまだ無理だから」
どこか慰めの言葉にも聞こえるリアの言葉を有難く受け取っておくことにしよう。
圧縮魔力について話していると、頼んでおいた食事がテーブルへと運ばれてくる。運んでくれたのは白のブラウス、黒のスカート、臙脂色のエプロンと一般的な給仕服の女性だ。本能なのか、さっきの話題を引きずっているのか、視線はブラウス越しの膨らみに向かってしまう。「浮気者」そう呟く声…、視線の端にいるリアの目が痛い…。
料理を置いて一礼して去る給仕に、鉄の意志で視線をリアに固定したまま笑顔でやり過ごす。
うん、リアさんの笑顔が実にホラーだ。
気を取り直して料理を見下ろす。
運ばれてきたのはとんかつ定食。焼き魚と獣臭い肉がメインの日々が続いたから、臭みの無い肉は久しぶりだ。
「いただきます」
いつものように手を合わせ感謝の言葉を口にしてから食事を開始する。
テーブルの脇にある調味料の中から、とんかつソースの瓶へと手を伸ばす。とんかつの上にジグザグと動かし、全体に馴染むようにかけていく。添えてある千切りキャベツに僅かにかけるのも忘れない。とんかつソースを戻すと、今度はカラシへと手を伸ばした。瓶に備え付けられている小さめのスプーンで掬うと、とんかつの上へ少量垂らしていく。とんかつソースよりも粘度が高いので、じっくりと墜ちるのを待つ必要がある。せっかちな人はスプーンを叩いたり、揺らしたりするが、そんなことをしてしまえば想定外の量がかかってしまう。日本の使い切りタイプやチューブタイプのものが恋しくなるのは仕方がないことだろう。
箸に手を伸ばし、真っ先に手に取るのは豚汁。メインのとんかつに行く前に胃の調子を整える。久々のガッツリとした肉だ。いきなりがっついたら胃が跳ねるかもしれない。まずはこの優しい味噌の味を堪能する。
お椀に口をつけると、スーッと口の中に温かい出汁の効いた味噌の味わいが広がっていく。白味噌と赤味噌の合わせ味噌だろう。白をベースに赤を少しずつ加えて味付けされているのか、味噌の味の濃さがちょうどいい。
一旦お椀を戻すと、待ちかねた一週間ぶりのまともな肉料理のとんかつへと箸を伸ばしていく。掴みあげると、揚げたての衣の感触が箸を通して伝わってくる。ポロポロと衣が皿の上に落ち、掌を受け皿代わりにして口へと運んでいく。
サクッサクッと軽やかな衣の壁を抜けると、ヒレカツの柔らかな味わいが口いっぱいに広がり、どろりとした甘めのとんかつソースと交わり心を満たしていく。久々の美味しい肉の味に、咄嗟に茶碗へと手が伸び、ご飯を口の中へと掻き込んだ。肉の旨味と濃い目のソースをご飯がしっかりと受け止め、噛めば噛むほど美味しさが溢れてくるようだ。
ここで千切りキャベツを一つまみ。シャキシャキの食感と瑞々しさが、口の中の濃ゆい味から解放してくれる。
再びとんかつへ…、いやいや、がっついていくとすぐにとんかつは胃袋に消えてしまう。落ち着け、落ち着け。
箸を一旦置き、湯呑へと手を伸ばす。湯呑から手に温もり伝わってくる。そのまま口へ運ぶと、緑茶の風味が口に溢れていく。
お茶ってなんでここまで心を穏やかにしてくれるのだろうか。
ほっと一息入れたところで、お椀を持ち豚汁の具材を眺め口に入れていく。人参、玉ねぎ、大根、こんにゃく、長ネギ、豚バラ肉。一般的な豚汁の具材だが、普通の豚汁こそが至高。欲を言えば、ごぼうや里芋を入れるのが個人的には好きなんだが、まあ、その家庭や店の味があるだろうから、そこは尊重しよう。
さあ、メインのとんかつへ戻ろうか。とんかつを一切れ掴み、口の中へ…。
ジーという擬音が似合いそうな翠色の瞳が真ん前にあった。
めっちゃ視線感じるんですけど…。
口へと運んでいた箸を止め、仕方なく問いかける。
「リアさん、何か御用でしょうか?」
ニコッと笑顔を浮かべると、
「ちょいちょい、そのとんかつ?て肉を見せてくれ」
リアさんはとんかつを食べたことがないのだろうか?
物珍しそうに見ているリアの顔の前に箸を近づけていく。
「へえ~」とか「ほー」とか唸りながら見ているのがちょっと可笑しく、思わず笑みが零れる。
その瞬間、リアの瞳がキラリと光った、ような気がした。
気が緩んだところを狙われたのか、リアは目の前にぶら下げられたとんかつを丸々口の中へと入れ強奪していった。あまりにも一瞬の出来事に何が起こったのか理解できていない。
もぐもぐと口を動かし、したり顔でこちらに視線を送ってくる。
……とんかつを強奪された?
いやいやいや、そうじゃない。俺の使った箸を、あの艶やかな唇が咥えたってこと!?
ドクンッドクンッと鼓動が早くなる。
体温が上がってくるのが否が応でもわかる…。まずい!今、俺の顔は赤くなっているに違いない!
落ち着け…、落ち着けェ…。
い、今のって…、関節キ…キスッ!?
手に持つ箸が震える。リアさんの顔が見られない。
それでも視界の端にリアの顔が映っている。悪戯っぽく首を少し傾げ、指で唇に触れると「ご馳走様」と言ってくるのが見えた。
この人!完全に俺を弄んで楽しんでいる!!
マケルナ!負けるなカミル…。反応したら負けだ。
箸を握る手に力を入れ直すと、目の前のとんかつに意識を集中させる。淡々と食事を口の中へ入れていく。せっかくのとんかつの味がわからない。それでも手を動かすことをやめるわけにはいかない。油断すると意識が柔らかな唇へと向いてしまう。
淡々と、淡々と…。
「そんな拗ねた顔すんなよ」
顔を上げれば、とびっきりの笑顔のリアが箸をこちらへ突き出している。箸には唐揚げが一つ摘ままれていた。
とんかつの代わりにくれるとでもいうのだろうか?
箸で受け取ろうとすると、「行儀が悪い」と叱責された。
そう言えば、拾い箸はマナーが悪いと昔聞いたことがあったな。
そんなことを考えていると、ふいに「あーん」という甘美な響きが耳に届いた。リアが何をしようとしているのか思い至り、再び顔を真っ赤に染めていく。誤魔化すように、唐揚げは無視してとんかつを口へと描き込んでいく。
「あはははははははは!これだから思春期男子をからかうのはやめらんねー!」
満足そうに眼の端に涙を溜めながらテーブルをバシバシ叩いている。
前々から思っていたけど、リアさんはからかい癖がある。特に年下の男にちょっかいを出す。それで良い想い?をすることもあるけど、やはり男のプライドがそれを許さない、と思う。
最後にもう一目だけ、と思い、リアさんの胸元へと視線を動かしていく。
あ、目が合った…。
ニコッと素敵な笑顔を浮かべると「突牙衝」とかわいく言うと、箸の先端で額を二連突きし、カミルを後方へと突き飛ばした。
座っていた椅子を支点にして、バダンッ!と大きな物音を立て椅子ごと背後に倒れ込んだ。
「そんなに見たければ、バレないようにもっとうまくやるんだな」
頭上から言葉が響いてくる。
リアさんのいう通り、もっと研鑽を積むしかない。謎の誓いを胸に食事へと戻っていった。
翌日、朝日と共に目が覚めた。カーテンの隙間から降り注ぐ日差しが目を照らし、自然と目が覚めた。
久しぶりのまともな食事と風呂のおかげですっきりとした目覚めだ。朝食をトーストとゆで卵で手早く済ませると、食堂でクヴァが来るのを待つ。朝早いということもあり、食堂を利用しているのはカミルだけだった。
客がそんなにいないようだったし、そんなこともあるか。
食器を洗う給仕さんの姿を眺めていると、入口の扉が勢いよく開かれた。
「カミル!起きてるか!」
慌ただしく入ってきたのはクヴァだった。やけに焦った表情でキョロキョロとカミルの姿を探している。カミルの姿を見つけると、真っすぐこちらに駆け寄ってきた。
「おはよう。焦ってるように見えるけど、なんかあった?」
朝のまったりとした空気感が抜けないカミルは、のほほんとしている。
「それが、とんでもないことになっちまって…」
表情を引き締めるとクヴァの言葉を待つ。
「騎士団が、ハーバー先生を指名手配したんだ!!」