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黒い日本刀

 山から離れるほどミツハ川の水流は穏やかになり、道なりも傾斜が無くなっている。時折ピチャンッと魚の跳ねる姿が見え始めたこともあり、食料を確保することが容易になってきている。魚と飲み水さえ確保できれば、帝都までの旅も飢えの心配からも解放され、幾分か心に余裕が出始めていた。


 川沿いを歩き始めて一日と半日が過ぎた。日が傾き、宵の時間が始まっている。

 適当な場所を野営地に定め、焚火の炎が辺りを照らす。野営にも慣れてきたようで、薪集めから着火までがかなりスムーズに行るようになった。

 日中の時間帯に水の中に潜り、水属性魔法で魚を陸地へと押し出すやり方で確保し、焚火の傍らで焼いている。調味料の類は無いので、内臓を綺麗に取り出し、枝に刺して丸焼きにする。取り出した内臓に魔物が寄ってくるのは困る為、処理する度に川の中へと流している。

「いただきます」、何時ものように手を合わせてから焼きあがった魚を手に取ると、腹部に豪快に齧りつく。焼きたてともあり、表面はパリッとしていて中はふっくらだ。残念ながら、下流の魚は脂の乗りが悪いらしく、そのまま食べるだけではお世辞にも旨いとは言えない。不味くはないのだが物足りない。出汁を取らずに作られた味噌汁のような感じだ。貴重な手軽なたんぱく源なのだから文句は言えない。クヴァもリアも同じ気持ちなのか、淡々と食べるだけである。


 食事が終わるとリアが口を開いた。

「そろそろ獣の肉が食べたいところだな。魚肉ばかりだと、こう、力が出ないよな?」

「俺もそうっすよ。たまにはガツンとした肉料理が食べたいよな…」

 クヴァもその意見には賛成のようだ。

 斯く言うカミルも、ウィズ村で食べた生姜焼きやたまごサンドとまではいかなくとも、しっかりとした味の食べ物を欲している。

「明日は一度森の中へ入って狩りでもしようか」

 リアの提案に二人は力いっぱい頷き賛成の意を示す。

 ここに来てリアに対して、ふとした疑問が湧いてきた。

「リアさんってエルフなのに魚を食べるんですね?卵や乳とかも食べていませんでしたっけ?ケーキも卵や牛乳をふんだんに使っていると思うのですが…?」

 リアはカミルの言っている意味がわからなかった。「何言ってんだコイツ」みたいな訝し気な表情になっている。

「エルフも他の種族と同じで特に食事に対してのタブーはないぞ?」

 今度はカミルがリアの言葉を理解できおらず、きょとんとしている。

 その表情からリアは察したのか「また夢の話してんのか?」と問いかけてくる。

「あぁ…」と言葉を漏らすと、カミルは自分の思考がこの世界のエルフと日本の知識のエルフがごちゃ混ぜになっていることに気付いた。

「夢の印象が強烈すぎて頭がこんがらがってました」

「お前がどんな夢を見たのかは知らねーが、私の前では夢の中のエルフの話は止めろ。気分が悪くなる」

 リアがムスッとした表情へと変わる。

「すみません」と素直に謝る。日本版エルフ像はサティを連想させるのかもしれない。

 リアは立ち上がると「寝る」と告げると、少し離れた位置に初級土属性魔法で目隠しを作り姿が消えていく。完全には覆われていないのは、囲い過ぎると空気が淀むかららしい。


 三人で見張り番を回していくことになる。

 昨晩の内に話し合い、カミル、クヴァ、リアの順で回していく。リアは要望もあって一番最後に回っている。何でも、肌の再生する時間が決まっているらしく、早い時間帯から深夜帯はなるべく睡眠を取っていたいらしい。時間も少なくとも4~5時間ほど連続で眠りたいとのこと。女性が外見に男以上に気を遣うのは理解している為、特にカミルもクヴァも反論はなかった。


「それじゃ、、俺も寝るわ」

「うん、見張りは任された」

 拳を作り胸をトントントンと軽く叩く。これはアズ村でクヴァと遊んでいた時に良く取っていた行動だ。このポーズも、叩く回数にも特に意味はなかった。初めは一度胸を叩くのみだったが、クヴァが張り合って二度叩き始め、カミルも負けずと三度叩いた。子供時代ならではの謎の張り合いだ。それもすでに懐かしく感じ始めている。

 クヴァと再会する前はこんな行動忘れていたというのに、クヴァの前では身体が反射的にその行動を取ってしまうのだから、習慣というものは恐ろしい。

 クヴァは少しだけ距離を取ると地面に横になった。特に囲いは作らないらしい。武具はすぐ傍らに置かれており、あれなら襲撃があってもすぐに反応できるだろう。


 二人が寝静まってからは一人の夜の時間が続く。

 パチパチっと爆ぜる音が響く中、黒い――正確に言えば濡羽(ぬれば)色の日本刀に手をやる。

 リアさんとクヴァは、サティさんとシュティニーさんを信用するなと言っていたが、二人の何が気に入らなかったのだろうか?俺はあの家で何も感じはしなかった。この刀だってそうだ。こちらから丸腰だという情報を与えなかったら渡されなかっただろう。尖った耳をしたエルフにリアさんが嫌悪感を抱くのはわからなくもないけど、クヴァが何故警戒するのかがわからない。

 顔の前に刀身が来るように刀を少し抜く。焚火の灯りが身体に反射して刀身をわずかに照らし出す。映るのは自分の瞳と黒い髪の毛。

 闇属性に高い適性があったわけじゃないのに、こうも黒に好かれるとは…。いっその事、服装まで黒で揃えてみようか?

 頭の中で全身黒づくめの姿を想像して、ブンブンと(かぶり)を振る。

 それじゃ、厨二病(ちゅうにびょう)のど真ん中を突き進むことになってしまう。それは痛々しい…。反対に白を基調として揃えるのはどうか?…いや、それだと黒色にコンプレックスがありますと言っているようなもんだ。黒色と相性が良い色って何だろうか?赤?青?着?


 服装のコーディネートを考えていると、刀の刀身に赤く輝く光が映った。

 魔物の襲撃?と思い振り返ると、赤く輝く目を持った熊型の魔族――ワイルドベアが木の陰からこちらを窺っている。


 魔族…。それもアズ村を襲撃した…。

 二人を起こさなくては!


 鞘から刀を抜ききり構える。

 全身を包み込むように圧縮魔力を行き渡らせ、

「纏!」

 いつもよりも声を張り大声で武技を発動させる。身体強化をしながら二人へと届く声量で起こすためだ。しかし、俺が動き出す前にすでに一人後方から飛び出す影が見える。銀髪を靡かせながら剣を構えてワイルドベアに突っ込んで行く。

 はやい!!

 反応速度の早さ、行動に移すまでの早さ、物理的な速さ。おそらく、カミルよりも先に魔族の気配を感じ取り飛び出していたのだろう。

 ワイルドベアとの距離を詰めると、

斬皇牙(ざんこうが)!」

 右肩の上に構えられた剣が斜め下へと振り下ろされ、手首の返しで動きを止めた太刀を右へと振り払う。

 不意を突かれたワイルドベアは即座に後方に飛び退くも一太刀目で腹部を掠め、二太刀目を辛うじて回避する。四点着地をするとリアと対峙した。

 遅れてクヴァが駆けつけてきた。

「魔物…いや、魔族か」

 赤く輝く目を見つけたのだろう。クヴァも剣を構える。いつもの白炎を纏わせてはいない。

 カミルは左手を拳銃の形にすると火の元素を指先へと集め出す。

「俺が牽制します。合わせてください」

 カミルの圧縮魔力で指先の火の元素を介して魔法を発動しようと魔法名を言葉に紡ぐ。


「フラ……、グァッ!?」


 言い切る前に、カミルの胸を目掛けてリアが飛び蹴りを喰らわせた。

 魔法は発動せずにカミルは後方へと転がっていく。

「バカ野郎!森の中で火属性魔法なんて使おうとしてんじゃねー!!」

 鬼の形相でリアがカミルを叱責する。

 カミルはふらつきながら半身を起こす。

 クヴァが駿動走駆(しゅんどうそうく)を発動させると、ワイルドベアとの距離を詰めていく。

「熟達した魔導師ですら森を燃やしちまうことが稀にあるってのに、未熟なお前が放ったら簡単に森に引火すんぞ!」

 それだけ言うと反転し、ワイルドベアへと駆け出した。

 カミルは呆然としていた。リアに蹴り飛ばされたことももちろんあるが、森の奥に幾つもの赤いうごめく瞳がいくつも確認できたからだ。


 ワイルドベアが駆け出した。

 駿動走駆(しゅんどうそうく)で加速するクヴァと衝突する。

 巨躯からは想像できない速度で突っ込むワイルドベアが腕を振り上げ、長く鋭い自慢の爪をクヴァの胸目掛けて振り下ろされた。

 速度の乗ったワイルドベアは脅威だが、直進的な動きになりがちなのをクヴァは知っていた。ギリギリまでワイルドベアを引き付けると、鋭い爪をバックステップで回避する。

 クヴァが飛び退いた空間をすり抜けるワイルドベアの爪。

 爪が通過したのを見届けたクヴァは、突きの構えで勢いよく踏み込んでいく。振り切ったワイルドベアの腕目掛けて剣を突き刺した。

「ガァァア!!」と悲鳴を上げるワイルドベア。刺された腕を引き戻し、クヴァへと肘打ちのように攻撃を仕掛ける。

 その攻撃はクヴァへと届かなかった。ワイルドベアの足元の土が隆起し、少し屈むことで肘打ちはクヴァの頭の上を通り過ぎた。クヴァは初級土属性魔法グランを、ワイルドベアの攻撃に合わせて発動させていたようだ。ワイルドベアの足元が隆起した分、懐が大きく開く形となる。

斬皇衝波(ざんこうしょうは)!」

 魔力を纏ったクヴァの剣が腹部へ向かって振り下ろされた。腹の中心で剣を止めると、剣に纏う魔力を爆発させ、ワイルドベアの巨躯を後方へと吹き飛ばす。

 クヴァにも後方に赤く輝く幾つもの瞳が見えていた。後方にいるであろうワイルドベアの仲間を牽制するように後方へと吹き飛ばしたのだ。

 ワイルドベアは地面を跳ね転がり、木にぶち当たって絶命する。

 それを合図にワイルドベアの群れがクヴァへ向かって襲い掛かった。

 リアが前方へと手を翳すと、風属性魔法が放たれた。

 クヴァの後方から風がブワッと吹き抜けていく。風は進むほど勢いが増し、ワイルドベアの群れに当たり、巨躯を押し戻す。必死に踏ん張り、身体が吹き飛ばないように耐えている。

 無防備になったワイルドベア達に向かってクヴァは衝波斬(しょうはざん)を横一文字に放った。

 1体のワイルドベアの首を跳ね落とし、更に後方にいたワイルドベアの腕を傷つける。

 首を跳ねられたワイルドベアの切り口から、赤い血が上空へと吹き出し、一帯に血の雨を降らせている。目視できる限りの残りの個体は5体。


 一回のぶつかり合いで2体のワイルドベアを倒しきる二人に、カミルはただただ圧倒されていた。場数を踏んだ冒険者と闘技大会新人の部優勝者の実力は伊達ではなかった。魔族との戦闘ということもあり、服の中にある勾玉を確認するも何の反応も示していない。どうしてもあの蒼い輝きに期待する自分に、腿を叩いて渇を入れ直す。

 刀を握る手に力を入れ直し、立ち上がった。

 前衛は二人が務めてくれている。二人の邪魔にならないように、この場から魔法で足止めに徹しよう。

 リアに蹴られた胸に未だに残る痛み。この痛みは戒めだ。同じ過ちは繰り返さない。

 左手を突き出すと初級水属性魔法スプラで水弾を生み出した。狙うはクヴァの背後に回り込もうとしている個体。水弾を撃ち出そうとした瞬間、左前方の木の上からガサガサと葉が擦れる音が響いてきた。反射的に見上げると、ワイルドベアが腕を振りかぶりながら飛び降りてきていた。


 木の上から!?水弾をぶつけ…、間に合わない!!

 魔法での攻撃を諦め、後方へ飛び退く。

 目の前をするどい爪が通過していく。判断が一瞬遅ければ頭を割られ引き裂かれていただろう。

 肝を冷やし、全身に鳥肌が立っていく。心臓が痛いくらいにドッドッドッドッと脈を打つのが早くなる。『死』という言葉がカミルのすぐ隣まで迫って来ている。

 顔からはジワジワと冷や汗が噴き出し、瞬時に攻撃に転じることができなかった。せっかくの水弾が霧散していく。

 空ぶった腕で着地したワイルドベアは、着地の反動を利用してカミルの方へと跳ねるように駆け出している。


 勢いを止めないとこの流れを止められない!

 ワイルドベアは駆けながら再び腕を振りかぶった。

「纏!」

 咄嗟に纏で全身を強化した。純粋な防御手段が思い浮かばず、カミルも攻撃へと意識を切り替えた。

 刀を腰の高さで右の方へと引き構え、ワイルドベアへと一歩踏み出した。

 ワイルドベアの爪が空気を斬り裂き迫って来る。

斬皇牙(ざんこうが)!」

 身体を捻り、爪を目掛けて刀を振り切る。


 キィィィン。


 甲高い音が森へと響く。

 力が拮抗したことにより、ワイルドベアと鍔迫り合いをすることになった。間近で赤く輝く目と視線が交わる。呼吸がわかるほど近く、獣臭がひどい。

 纏を使っていなかったらと考えると顔が引き()る。幸いなのは、ワイルドベアが身体を捻り右手を伸ばすように攻撃を仕掛けてくれたことだ。左腕がこちらへ攻撃できる姿勢だったら致命傷をもらっていたかもしれない。


 ワイルドベアの腕を吹き飛ばして腹を斬るつもりだったんだがな…。上手くいかないものだ…。

 刀と爪の押し合いをしていて気づいた。このワイルドベアは、他の個体に比べて一回り小さい。

 だからこそ木の枝の上に登っても折れなかったってわけか。

 どうすればこのワイルドベアに勝てる?さっき見たクヴァの戦法を参考にできないか?…いや、似たようなことは今の俺にはできない。力比べで勝てるイメージがまったくない。

 そもそも鍔迫り合いに勝つ必要性はあるのか…?


 刀が押され始める。ジリジリと、少しずつ、少しずつと。

 ワイルドベアの口角が上がった気がした。好機と見たのか一気に爪に掛かる力が増した。

 刀がカミルの身体へと近づいてくる……その瞬間、踏み込んだ足を軸にして身体を90度回転させながら反対の足を後方へ引いていく。刀の位置が変わったことで、爪の軌道が逸れ始めた。そのまま爪を刀の上を滑らせ受け流していく。

 ワイルドベアの右腕が爪の軌道上へと伸びていき、カミルに対して右肩部を晒す形となった。

 再びスプラを発動させ、目の前の肩を目掛けて水刃を放つ。ウォータージェットのように撃ち出された水刃が、ワイルドベアの右肩口の皮膚を押し上げ筋肉ごと(えぐ)る。青黒い血が飛び散り、地面を汚していく。ワイルドベアは「ヴァァァ!」と地鳴りのような低い悲鳴を上げ後方へとよろめいた。


 攻め時、そう感じると身体が自然と動いていく。

 刀に圧縮魔力を纏わせていくと水の元素が集まってくる。刀を振りかぶり、振り抜く。


破蛇颯濤(はじゃさっとう)


 振り抜かれた刀から水の斬撃が飛び出した。蛇のように蜿蜒(えんえん)と飛んでいくと、水の蛇が噛みついた。右の胸から背中へと突き抜け、身体を拘束するようにグルグルとワイルドベアを締め上げていく。

 振り切った刀に再び水の元素が集まり出す中、ワイルドベアの足の付け根から頭上へと跳ね上がりながら斬り上げる。刀に纏う水の元素と、ワイルドベアを締め上げる水の元素が結びつき、斬り上げと同時にワイルドベアの身体を一気に締め上げた。

 ワイルドベアの胸部に大きな刀傷をつけ、身体を縛った水蛇が身体を締め上げたことによって表皮を引き裂くことができた。

 動きの大きな技には隙が生じやすい。傷を負いながらもワイルドベアは、傷のあまりない左腕でカミルの左脇腹へ向けて腕を振り切った。

 跳ねながらの斬り上げにより、身体が大きく伸び、空中で回避が取れない。

 ワイルドベアの腕が脇腹を直撃し、吹き飛び地面を転がった。

 激しい痛みに悶えるも、爪で引き裂かれた感覚がない。視線を左脇腹に移すと、服が少し破れた程度だ。地で汚れた様子もない。


 懐に入ったのがよかったのか?近すぎて爪が触れずに済んだ、か?


 痛みに耐えながら片膝を着いて身体を起こすと、ふらつくワイルドベアの姿が見て取れた。満身創痍。カミルの目にはそう映る。トドメを刺す絶好の好機。力を振り絞り、立ち上がろうとするも動けない。ズキズキと痛む脇腹のせいで力を入れきれずにいた。


 ひどい打撲。もしくは骨にでもヒビが入ったか…。でも、今動かなければ助かる道はない。

 カミルは気づいていないが、勾玉から僅かに蒼い輝きが漏れ始めていた。


 片膝を着いたまま放てる威力のある攻撃。カミルは痛みで顔を歪ませながら刀を振りかぶる。

衝波斬(しょうはざん)

 呟くように武技名を唱えると、瞬間的に力を振り絞り刀を振り下ろした。放たれた衝波斬(しょうはざん)は普段よりも小さく、飛んでいく速度も遅い。だが、僅かに蒼みがかっていた。カミルは蒼みに気づいていない。

 斬撃に気付いたワイルドベアは、身体を右へと倒すように動かす。さきほどまでのキレのある動きとは程遠く、左腕が衝波斬(しょうはざん)に飲み込まれていく。


 避けられた!?魔力の動きを察知されたか!?マズイ…。立ち上がらないと……。

 もはや、痛みになど構っている余裕などなかった。満身創痍とはいえ、ワイルドベアはまだ動ける状態だ。今度こそ立ち上がらないと確実にやられる。

 膝に手をかけ、気合を入れるように「うぉぉぉおおお!!」と叫びながら立ち上がる。痛みで脇腹がズキズキと訴えてくる。

 息が詰まる。

 冷や汗が止まらない。

 俯くんじゃない、視線をワイルドベアから外すな。

 必死に自分に言い聞かせる。

 追い詰められたワイルドベアは、片腕を失くしながらも必死に立ち上がる。憎悪に満ちた目がカミルを射抜く。カミルはビクッと身体を跳ねさせると硬直した。

 ワイルドベアが駆け出した。片腕を失ったことでバランスが悪くなったのか、直進することができていない。走る度に刻まれた傷から血が噴き出している。悍ましい形相で血を撒き散らしながら迫って来るワイルドベアに、カミルは身震いし思わず後ずさりをする。


 もう手段は駿動走駆(しゅんどうそうく)で飛び出して、身体をぶつけるように刀を突き刺すか、ワイルドベアの横を転がり、クヴァとリアさんのところまで何とかたどり着くかくらいしか思い浮かばない…。


 ワイルドベアが身体を鎮める。力尽きて倒れるわけではない。飛び掛かるための初動だ。

 カミルは飛び掛かられるタイミングで、駿動走駆(しゅんどうそうく)を発動させてワイルドベアの横をすり抜けていく方法を選び取る。

駿動(しゅんどう)そ…」

 武技を発動させようと、言葉を紡ぎ始めると、


 ドゴンッ!という音と共に、ワイルドベアの身体の真上から黒い鱗状の大剣が突き立てられた。大剣はワイルドベアの首を削ぎ落し、頭がゴロゴロとカミルの方へ青黒い血を垂れ流しながら転がって来る。

 首無しのワイルドベアの身体の上には一つの人影が乗っかっていた。

 ゆるいパーマのかかった()()で、左側だけツーブロックにした男性。見た目だけなら40歳過ぎのような雰囲気を感じる。左耳に黒真珠を抱き込んだ十字架型の耳飾りをしている。

 大剣を突き立てる体勢で前屈みになっている為、顔は確認できない。この世界では稀なカミルと同じ黒髪に、黒い鎧で身を固めた文字通り全身真っ黒な姿だ。

 男性は大剣を真上へと引き抜くと、大剣を支えにして立っていたワイルドベアの亡骸は血飛沫を上げながら前方へと崩れていく。男性は踏みつけるようにバランスを取り、亡骸が倒れ切ると地面へと降り立った。着地の衝撃を膝のクッションで受け止め、黒髪が前へと揺れるように流れる。


 助かった安堵感と同じ黒髪の男性がいるという喜びが入り混じり、期待の眼差しをカミルは向ける。

 着地の体勢から身体が少しずつ上がってくると男性の顔が見え始めた。

 その直後、カミルの身体は硬直することになる。



 男性の顔は…、瞳は……、煌々と赤く輝いている……。

 魔族を倒したのは、()()()()()だった。



 赤く輝く瞳が動き、ギロっとカミルの姿を睨みつけるように捉える。

 カミルは驚愕の顔を浮かべ、動けなくなった。

 驚きすぎて身体が動かないのではない。目が合ったその瞬間から、魔族の男性の眼力に気圧される…。大自然の脅威の前に成す術なく飲み込まれるが如く、魔族が放つ気の波動に飲み込まれている。身体がガクガクと震え、嫌な汗が噴き出して来る。魔族の目には明らかな殺意があった。本来、魔族というものは人間を捕食の対象として見ているが、この人型の魔族にはそれ以外の明確な意思を持って殺しにきている。理由はわからないが確かな確信があった。


 遠くからガチャンガチャンと、走った時に鎧がぶつかる音が聞こえてきた。足音の主達の重苦しい空気を破る声が聞こえてきた。


「「カミル!」」


 ワイルドベアの群れを倒しきったクヴァとリアが駆けつけてくる。どうやら二人も異様な気を感じ取り、魔族の存在に気が付いたようだ。

 魔族は振り返り、二人の姿を見やる。

 その瞬間、二人に畏れの表情が浮かび上がった。身体を固まらせた。

 二人には興味が無いのか、脅威と判断しなかったのか、視線をカミルの方へと戻した。視線が濡羽(ぬれば)色の日本刀の方へと動いていく。



「その日本刀はどこで手に入れた?」



 言葉を介す魔族に、三人が一斉に驚愕の顔を浮かべる。技能講習以来の人間の言葉を操る魔族。今までの片言ではなく、しっかりとした発音で。

 カミルは答えない。答えることができない…。呼吸することさえも困難な気の波動を浴び続けている。

 質問に答えないカミルに魔族はもう一度口を開いた。


「その刀はどこで手に入れたかと聞いている」


 ガタガタと震える身体に渇を入れ、身を削る想いで言葉を紡ぐ。

「ェ、エルフの…、小さな女の子に…、頂きました…」

 恐怖で口がカラカラに乾き、なかなか思うように口が動かない。絞り出せたのは子供が悪戯を見つかったときのような、か細い今にも消えてしまいそうな声。

「エルフ…。あやつか…」

 魔族は忌々しそうな表情を浮かべている。どうやら目の前の魔族とサティは面識があるらしい。森の中に隠れるように住んでいたのも、この魔族から逃れる為なのかもしれない。

 魔族は大きなため息を一つつくと、黒い鱗状の大剣を()()()()()

「すまんな、人違いをしたようだ」

 会話をしているというだけでも奇妙な体験をしているのに、更に謝罪の言葉をかけられた。カミルの頭は混乱した。


 魔族が謝罪する?そんな話聞いたことがない。サティさんと顔見知りっぽいし、手に持っていた大剣は消えるし、もう意味がわからない…。


 魔族は頭を掻き毟ると表情が消えた。背中が(うごめ)き出し、翼竜のような身丈ほどある翼を生やすと、闇夜の空へと舞い上がっていく。

 その姿をただ目で追う事しかできなかった。


 魔族が飛び去ったことで三人は、身体を縛る圧から解放される。

 力が抜け、カミルは地面へと崩れるように座り込んだ。思い出したかのように脇腹からズキズキと痛みの感覚が戻ってきた。脇腹を手で押さえ「すみません…、回復薬、余ってませんか?」と声をかけるのがやっとだった。



 リアから回復薬を手渡され「ありがとうございます」と感謝を伝えると青色の回復薬を一気に煽る。

「これで更に貸しが一つ増えたな」

「恩に着ます。リアさんの蹴りもかなり効いたんですけどね」

 おちゃらけたことを言えるまで精神的にも回復してきている。

「あれは、お前の判断が悪かっただけだろう…」

 リアが冷ややかな視線を向けてくる。「ははは」と誤魔化すとクヴァへと視線を送る。

「クヴァはいつもの白炎を使ってなかったしね」

「森で無暗に炎を使うなと、散々教えられてきたからな。本来なら、実戦前に徹底的に叩き込まれてるところなんだがね」

 魔法はもちろん、焚火にさえ気をつけなければ火事になりかねない。しかもここは山脈一帯を覆うエジカロス大森林。ひとたび火がついてしまえば被害は甚大だ。山から流れる飲み水や食用としての魔物、キノコや果実といった食料、建築に用いる木材や鉱物など、人々の生活に多大な恩恵を齎してくれている。この山脈と大森林を失えば、帝国の国力はかなり低下してしまうだろう。

「次から気をつけます」


 意図的に避けてきた話題に触れようと思う。

「…あの人型の魔族は何なのでしょうか」

 カミルの言葉に和やかだった空気が一変する。二人の表情もどこか引き締まったように感じられた。

「長年冒険者をやってきたが、人の言葉を話す魔族を見たのはこれで二度目だ。一度目は先日の技能講習の時。どちらもつい最近の出来事ってところを嚙みすると、…魔族の中で何か変化が起きてきているのかもしれんな」

「騎士団に入ってまだ半年やそこらだけど、先輩方からそんな魔族の話なんて聞いたことないね。ラウ騎士団長ですらハーバー先生からの報告で知った様子だったしよー」

 ハーバー先生でさえ都市外戦闘訓練の時に初めて遭遇していたみたいだし、クヴァが知りようもないか。

「俺は今回で三度目なんです…。報告に上がっている都市外戦闘訓練と技能講習の時の二度。ついさっきので三度目。他に報告が上がっていないとすると、…その、……俺が人の言葉を操る魔族を引き寄せているのかもしれませんね」

「そんなこと…」クヴァは言葉を飲み込んだ。確定情報が無い以上、可能性がある事柄から調査をするのは当り前である。今回の言葉を操る魔族に関しては、カミルという存在が最も密接に関わっている。先日出会ったサティエリュースも、カミルという存在に興味を示していた。関係ないと言い切りたいところだが、直近で起こったことを鑑みると、カミルという存在を外して考えることができない。

「今回の魔族に関しちゃ、特に異様だった」

 リアは両手を広げて叫び出す。

「魔族が人間に対して謝るかー!?ありえねーだろ!」

 髪を掻き毟って天を仰ぎ見た。

 立て続けに起こる魔族に関する異変に、三人は考えることを放棄した。



「とりあえず、帝都へと急ぎましょう。俺達だけでは答えなんて出せませんから」

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