白の進撃 Ⅱ
八年前。まだ八歳のシャーロックと弟のアルフォンスは探検をしよう、と言い、王城を歩き回っていた。ほとんどの場所は探検し尽くしているとはいえ、新しく王城で働くことになった人や騎士に出会ったり、こっそりと噂話を聞いたり、景色変わらずとも新しい発見が待っているかもしれない。今日の午前中に勉強は終わったが、剣の訓練が午後にある。
教育係のシェンタオに午後の訓練までに戻ることを伝え、二人は出かけた。
キッチンでは新しいコック見習いがエプロンを濡らしながら山のように積まれた皿を洗っていたり、いつもは少し怖いメイド長が若いメイドを褒めていたり、老齢の庭師が大切に育てている花を眺めて微笑んでいたり。
今日も新しい発見がたくさんあった。二人で今日の発見を語りながら自室に戻る途中だった。廊下で二人のメイドの話し声が聞こえた。
「エリック様が白狼の森から人間の男の子を連れてきたって聞いた?」
「聞いた聞いた。その子、人間だけど白狼に育てられたんだって。ねえ、なんで連れてこられたか知ってる?」
「ううん」
「その子、森で育てられたから動物の言葉もわかるし、あと白狼は幻獣でしょ。だからいつか動物や幻獣を率いて戦う騎士になれるんじゃないかって、将来を見込まれて連れてこられたんだって」
「本当?」
「エリック様が嬉しそうに言ってたって、その時乗ってた馬車の御者が言ってた」
シャーロックはアルフォンスの方に振り返った。
「アル、聞いた?」
「聞いた」
「その子に会ってみたくない?」
アルフォンスは頷いた。シャーロックはぽん、と両手を合わせる。
「よし! じゃあ行こう!」
「待てシャーリィ。もうすぐ訓練が始まる。それからだ」
「えー!」
「えーじゃない。ほら、準備しに行くぞ」
「……はーい」
アルフォンスが先を歩く。後ろ髪を引かれながらも、シャーロックはアルフォンスの後を追った。
剣の訓練は王城の中庭で行われた。シェンタオは剣、槍、弓、あらゆる武器を使いこなし、小柄な体型のアニーミャでありながらも大男を一撃で倒すほど体術も強い。シェンタオは二人に、主に剣術と体術を教えている。
訓練が終わり、水を飲むシャーロックとアルフォンスにシェンタオは濡れたタオルを差し出した。汗をかき熱くなった身体に冷たく濡れたタオルはとても心地良かった。
「シェンタオ」
「どうされました?」
タオルで顔を拭きながらシャーロックは尋ねる。
「親父が白狼の森から連れてきた男の子、知ってる?」
シェンタオを見ると、その顔は僅かに曇っていた。
「シェンタオ?」
「……はい、エリック様からお話を伺っております」
シャーロックは噂で聞いたことをシェンタオに伝えた。
「その子、どんな子か知ってる?」
「ああ、いえ。私も、まだあまり関わっておりませんので、よくわかりません」
申し訳ございません、とシェンタオは頭を下げた。シャーロックは首を横に振る。
「いや、わからなかったらいいんだけど。会ってみたいな」
その呟きに、シェンタオの顔はますます曇る。シャーロックとアルフォンスは顔を見合わせ、首を傾げた。
訓練後、シャーロックとアルフォンスは白狼の森から来た少年に会いに騎士団本部へ向かった。二人は出会った騎士たちに少年について話を聞いて回る。
話を聞いた騎士たちは皆首を横に振り「会いに行かないほうがいい」と二人を止めた。それはなぜかと訊くと、騎士たちは口を揃えて言った。「噛みつかれる」と。それでも会いたい、とシャーロックが言うと、騎士の一人が渋々と「修練場の西側に大木があり、そこに小屋が建てられている。恐らくそこに白狼と共にいる」と教えた。
騎士の言う通り、修練場の西側には幹の太い大木があり、その側には木で作られた小屋があった。聞くところによると、かつて倉庫として使っていたものを最近修繕したらしい。小屋の入口は大きく、扉はなかった。
シャーロックとアルフォンスは入口からそっと中を覗き込んだ。中には真白の毛で覆われた巨大な狼がいた。魔力を持ち人間に恵みを与える者――幻獣、白狼だ。その大きさは、立ち上がれば足から頭までの高さは三メートルほどになるだろう。
巨大な白狼の周りには、その白狼の三分の一ほどの大きさの白狼が四頭、囲むように休んでいる。その中に、いた。白髪の小さな少年だ。シャーロック達よりも小さな身体を、巨大な白狼の長い毛に埋めている。
「誰じゃ」
突然壮年の女性の声が聞こえた。巨大な白狼が翠玉の瞳でこちらを見ている。女性の声は巨大な白狼のものだった。白狼の声に、休んでいた四頭の白狼たちは起き上がりこちらを見た。その瞳は冷たかった。
「シュラ、どうしたの?」
そして、白髪の少年。眠っていたのだろうか、白狼たちと同じ翠玉の瞳はとろりとしていた。
少年は巨大な白狼、シュラの視線を追った。その先にはシャーロックとアルフォンスの姿があった。
「誰」
気怠げだった少年の瞳が、一気に警戒の色に染まる。少年の質問に答える前に、シュラが口を開いた。
「金の髪、双子の男児。ああ、そなたたち、あの王の子か」
シュラの言葉を聞いたその瞬間、少年の瞳に怒りの色が燃え上がった。刃のように鋭く、怒りに燃える瞳は二人を射抜く。
少年は立ち上がった。そのままシャーロックとアルフォンスに向かって駆け出す。少年は床を蹴りシャーロックに飛びかかる。少年が口を開けたのをシャーロックは見た。時間がゆっくり過ぎていくように感じた。「噛みつかれる」という騎士の言葉を、シャーロックは思い出していた。シャーロックは腕で顔を覆った。
「ナギ、おやめ」
シャーロックの目の前でガチッと硬いものがぶつかる音が聞こえた。それは歯がぶつかる音だった。シャーロックに噛みつく寸前シュラに止められ、少年、ナギは口を閉じたのだ。
「シュラ、なんで。こいつら、あいつの子でしょ」
「それでも、おやめ」
ナギは不服そうだったが、もう一度鋭くシャーロックとアルフォンスを睨むとシュラの元に戻っていった。
「親父が、何かした?」
震える声でシャーロックは尋ねた。シュラはシャーロックとアルフォンスに顔を向ける。
「聞きたいのかい」
試すような、低い声だった。シャーロックとアルフォンスは一度震えたが、それでも二人で顔を見合わせ、頷き合った。
「俺たちはあいつの息子だ。あいつが何をしたのか、聞かなきゃ」
「あいつが悪いことをしたのなら、僕たちも悪い」
二人は真っ直ぐシュラを見つめる。シュラの足元に立つナギ、そして四頭の白狼は二人を冷たく見据えていた。
「そなたたちは、あの王とは違うようじゃ」
シュラの声が、ほんの僅かばかり穏やかになった。
「わしの名はシュラ。この子はナギ」
次いでシュラはリハン、アーシュ、サリュ、ルシタという四頭の子供たちの名を教えた。
「そなたたちの父は、我らを脅したのじゃ」
「脅した?」
シャーロックとアルフォンスは眉を顰める。
「そうじゃ」
シュラは隣に立つナギを見下ろす。
「ナギは、わしが育てた子じゃ」
「あなたが?」
「ナギは赤子の頃、我らの森に置かれていたのじゃ」
シャーロックとアルフォンスは目を見開く。捨てられたのか、事故で置き去りにされたのか、それはわからない。理由はどうあれ、ナギには本当の両親がいない。父には愛されず、母は自分達が生まれた時に亡くなっている二人は、少しだけナギと自分たちの境遇を重ね合わせた。
「我らと同じ色の毛と瞳。偶然か必然か。それはわからんが、これも縁だとわしはナギを育ててきた」
シュラはナギを愛おしげに見下ろす。ナギはシュラに身体を寄せ、とろりと目を細めた。
「ナギは我らの森に住む動物と幻獣と共に育ってきた。ゆえにナギは動物の言葉を理解している。そして、我ら幻獣と心を通わせている。それを知ったあの王は、将来ナギが動物たちや我ら幻獣を率いて戦う騎士になれると、そう考えた」
ナギが連れてこられた理由は、廊下でメイドたちが話していたとおりだ。
「我らの住む森に王自らやってきて、ナギと我らに騎士団に入るように言った。当然、我らは断った。そうしたら」
シュラはため息を吐き、目を伏せた。
「もし騎士団に入らなければ、森を切り拓く。そう脅してきたのじゃ」
シャーロックとアルフォンスは息を飲む。シュラの言葉の意味を理解するにつれ、沸々と怒りが湧き上がってきた。
「あの森は、わしの夫が命懸けで守った森。そして我らの故郷。なくすわけにはいかなかった」
「それで、ここに?」
シャーロックの問いに、シュラは頷いた。シャーロックは拳を強く握り締めた。
「俺、あいつに言ってくる。あいつに言ってあなたたちが森に帰れるように」
「おやめなさい」
ぴしゃりと、シュラはシャーロックの言葉を遮った。
「きっと、無駄じゃ」
「けど」
「そなたの正義は正しい。じゃが、やはりまだ幼い。弱い。もしそなたが王を説得しに行けば、きっと王子を唆したとして、我らが罰を受ける。もしくは本当に森を切り拓かれてしまうかもしれない」
「そんな……」
シャーロックとアルフォンスは自分たちが無力であることを突きつけられ、俯いた。
「気持ちだけ、受け取っておく」
「でも」
「きっといつか変わる。そなたたちの正義が力を得るその時まで、わしは待つ」
シュラの強い言葉に、まだ力のない幼い王子シャーロックとアルフォンスは顔を見合わせることしかできなかった。
それからひと月ほど、シャーロックとアルフォンスはナギと顔を合わせることはなかった。しかしその間、二人はナギやシュラたちのために何かできないか、と考えていた。
シャーロックとアルフォンスはその日、騎士団本部の修練場のそばを通りかかった。二人は廊下の曲がり角のそばで声を聞いた。
「聞いたぞ。お前、森に捨てられてあのでかい白狼に育てられたんだってな」
「かわいそうにな。親から愛されず捨てられて。まともな人生歩めなくて残念だったな」
嘲笑う男たちの声だ。男たちの言葉から、嘲笑われている者が誰か、二人にはわかった。
次いでどん、という何かが壁にぶつかる音が聞こえた。シャーロックとアルフォンスは一度顔を見合わせると、廊下の角から顔を出した。
そこには男――騎士の一人だろう――に前髪を掴まれ廊下の壁に押しつけられたナギの姿があった。痛みからか、ナギの顔は歪んでいる。それでも、その翠の目は鋭かった。
「はっ。さすが白狼に育てられたガキだ。凶暴で野蛮。王は何を考えてこいつを騎士にしたんだ? こんなやつ騎士にしたってしょうがねえだろ」
「一番危険な任務にでも行かせるんじゃねえの? でっかい魔物の討伐とか」
「ああ、凶暴なこいつにはぴったりだな」
騎士たちが再び嘲笑う。ナギの目に涙が滲む。
身体が沸騰したように熱くなった。身体が勝手に動く。シャーロックとアルフォンスは駆け出した。
「お前ら何やってるんだ!」
「その手を放せ!」
シャーロックは勢いのまま、ナギの髪を掴んでいた騎士の顔に拳を突き出した。「ぎゃっ!」という間抜けな声と共に、騎士は横に吹き飛んだ。髪を掴んでいた手が放され、ナギは自由になる。シャーロックが殴った騎士は床に倒れ込んだ。鼻は真っ赤になり、血が垂れている。
「説明してもらおうか」
シャーロックは、俺ってこんな低い声出るんだ、と驚いた。全身が怒りで満ちていた。隣に立つアルフォンスも同様だろう。アルフォンスの空色の瞳は鋭く、燃えていた。
「王子、このガキが突然噛みついてきたんですよ。だからちょっと懲らしめてやっただけです」
殴られていないもう一人の騎士はナギを指差す。ナギは歯を剥き出し低く唸った。
「ほら、こいつはこんなに凶暴だ。今からしつけておかないと、いつかこいつはあなたたちにも牙を剥きますよ!」
『黙れ!』
シャーロックとアルフォンスの声が重なる。
「お前たちはナギを馬鹿にした。噛みつかれて当然だ!」
「お前たちはアンリールの騎士だろう。恥を知れ!」
双子の王子の本気の怒りに、騎士たちは口を噤んだ。
「二度とナギに手を出すな。次、ナギに何かしたら……!」
シャーロックは自分よりも背の高い騎士が着ているシャツの襟を掴み、無理矢理引き寄せた。バランスを崩した騎士は無様に膝をつく。
「覚悟しろ」
シャーロックが乱暴に掴んでいた襟を放すと、その騎士は鼻を殴られた騎士と共にさっさとどこかへ去っていった。
「ナギ、大丈夫か?」
「怪我はないか?」
シャーロックとアルフォンスはナギに駆け寄った。
「なんで、ナギを助けたの?」
戸惑いで揺れ動くナギの瞳が、シャーロックとアルフォンスを映した。
「放っておけないって思ったんだ」
シャーロックは少し屈み、背の低いナギに視線を合わせた。
「ずっと、ナギたちのことが気になってたんだ」
「ああ。僕たちに何かできることはないか、ずっと考えていたんだ」
シャーロックとアルフォンスは顔を合わせ、頷く。そして再びナギに視線を向ける。
「ナギたちを、悪いやつから守る。それが今できることかなって」
ナギは大きな目を丸くした。シャーロックは優しく笑った。
「実は、さっきエスメラルダに会ってきたんだ」
「エスメラルダに?」
シャーロックは頷いた。エスメラルダというのは、アンリール騎士団四番隊隊長の女性のことだ。褐色の肌に高いところで一つに結った艶やかな長い黒髪、エメラルドの瞳を持ち、その左側を黒い眼帯で覆った長身のエルフだ。槍の名手で、ナギはエスメラルダから槍術を教わっていた。
「ナギは今まで白狼たちと森で暮らしてきたから、あの馬鹿親父にされたことを考えると俺たちのことは絶対許せないはずだし、他の人間たちのことも警戒するだろうし、当然信用もできない。だから噛みつく。でも本当は良い子だって、エスメラルダが言ってた」
「悪いなナギ。シャーリィはナギと仲良くなりたいと思っているんだ。だからエスメラルダに話を聞いたんだ」
「それはアル、お前もだろ」
シャーロックは肘でアルフォンスを小突く。
「ナギ。俺たちのことは許せないと思う。それでもいい。でも忘れないでほしい。俺とアルは、ナギの味方だからな」
シャーロックとアルフォンスはナギを優しく見据えた。
「あ、りがとう」
小さな声だった。しかしシャーロックとアルフォンスにはしっかりと聞こえた。シャーロックはそっとナギに手を伸ばす。ナギは噛みつかなかった。シャーロックの手はナギの頭の上へ。柔らかな真白の髪を、さらさらと撫でる。アルフォンスもナギの頭に手を乗せた。気のせいだろうか、ナギは心地良さそうに目を細めた。