7.水面下
時は前後し、正嗣と古山がすれ違ったあの日に戻る。
「それで、あいつが戻ると言ったのか?」
十二畳ほどある広い和室の一室で向かい合った男が二人。
一方は古山。もう一方は壮年の男、会長の磯谷だ。
頭髪は白く、頬や目元に深く皺が刻まれているものの、眼光は鋭く老いを感じさせない。
「いえ…。ですが、いずれそうなります。あいつはこっちの方が性に合ってる…。奴ほどこっちの世界に合う男を、俺は見たことがありません」
磯谷は黙って古山を見つめていたが。
「──そうか…。好きにするといい」
「は。ありがとうございます。会長に認めていただければ、こっちも大手を振って奴を引っ張れます。あいつも会長の命なら嫌とは言わんでしょう──」
すると、磯谷は間髪入れずに。
「俺は好きにするといいと言った。認めるも何も、決めるのはあいつだ」
「は、はぁ…」
てっきり了承を得たと思った古山は、拍子抜けした様だった。
「もういいだろう。──下がれ」
「は…」
古山は頭を深く下げたあと、部屋を退出した。
磯谷は視線を庭へと向ける。中央にどっしりと根を下ろす桜の黒い枝先に、淡いピンクの花がチラホラ咲きだしていた。
「さて。どうする? 岳…」
腕組みした磯谷はそう口にして、見えぬ相手に問いかけた。
+++
週の半ば、平日の今日、大希と再び会う約束をしていた。
この前、大希は言っていた通り低山に登ってきたらしいのだが、その報告と次登る山は何処がいいかアドバイスが欲しいとの事で。
次回は俺も一緒に行くことになっていた。
俺はダイニングテーブルでコーヒーを飲む岳に、何処がいいのか尋ねる。
大学時代は山岳部部長だ。これ程、頼りになる人物はいない。
「この近辺だったら、こことここがいいな…。あとは──そいつ、車出せるって?」
「ん。ちょっとくらい遠くても、日帰りできるならいいと思ってんだけど…」
「じゃあ、ここも初心者向きだな…」
そう言って、俺が渡した地図アプリにピンを付けていく。俺は対面に座ってその様子を眺めていた。
朝食が終わり、出勤までの岳との時間。今日は少し遅く出勤してもいいからと話を聞いてくれたのだ。
「…そいつ、祐二の送ってきた写真の奴か?」
「ん、浅倉大希。俺より二個年上だったかな? 彼女いるんだってさ。でも、バイなんだって。──俺と岳のこと、話したら驚いてた。話して良かったよな? なんか、俺と身長近いし年上って気がしなくてさ。気楽に話せるって言うか…。接客業だからかな? あいつも聞き上手だから──って、岳?」
気が付けば岳がじっとこちらを見つめている。どこかムッツリとしているようにも見える表情に、俺は首をかしげるが。
「…なんだよ。岳」
「好きな奴が一生懸命、他の奴の話をしてるってのは、けっこう妬けるな?」
「た、岳? って、だって大希はそんなんじゃ──」
「わかっててもさ。俺も自分がこんな風に思うようになるなんて…。思ってもみなかったな」
そう言って苦笑すると、テーブルについていた俺の手に岳が自分の手を重ねてくる。
「な。キスして欲しい…」
「はぁ?!」
ぼぼぼっと顔が赤くなる。音まで聞こえるかと思った。
こんな明るいうちに、自分からキスなどしたことがない。岳がしかけてくることはままあるが。
それでも岳は諦めず、じっとこちらを見つめてくる。普段の岳が見せない子供っぽい態度に、俺はくらくらしながらも。
「…分かった」
そう言ってテーブル越し身を乗り出すと、握られた手をそのまま、岳の唇にそっとキスをした。
その時だけ閉じた岳の瞳が再び開く。
色素の薄い茶色の目。少しグリーン掛かっても見える。今は優しく笑んでいた。
その瞳を覗き込みながら。
「…これで、いいのか?」
「いい。…けど、もっと欲しくなるな──」
そういうと、重ねていないもう一方の手が頬を滑り首筋を捕えて、今度は岳から口づけてきた。
すぐに終わるキスではない。
そこから岳の思いが伝わって来る様で、切なくなる。
嫉妬なんてらしくない、なんて簡単には言えない。
俺だって同じだから。
分かっていても、やっぱりどこか落ち着かなくて、切なくて。
自分の行動で相手をそんな思いにさせてしまうことに、今更ながらに気づかされる。
ごめんな。──岳。
大希と山へ登るのは、やはり止めようかと思った程だ。
テーブル越しなのがもどかしく感じるキスだった。
+++
待ち合わせの時刻になると、前回と同じように大希が迎えにきた。
それを岳が玄関先まで出て来て見送る。大希はそれに気付き、助手席の窓を開けると。
「はじめまして。浅倉です。今日も大和さんお借りしますけど、昼過ぎには帰すので。すみません…」
言いながら頭を下げる。
「いや。気にせず楽しんでくるといい。…大和」
「なに──」
俺は助手席に乗り込みながら、肩越しに振り返れば。岳はまだ閉め終える前のドアに手をかけ、唇の端にキスをしてきた。
うおっ!?
カッと頬が熱くなる。外でキスすることは珍しい。俺が嫌がるからだ。
いや。正直、嫌じゃない。──二人きりなら何時でもいいんだ。
けど、今。俺の隣には──。
「…けん制」
ぽつりと大希が呟いた。
「…気を付けて行ってこいよ? 今日は俺も早く帰ってくる」
行ってらっしゃいのキスにしては、濃いもので。さり気なく、岳の親指が俺の唇を拭って行った。最後にぽんぽんとその手が頭に降ってくる。
俺は恥ずかしさ爆発で、こくこくと首を縦に振ることしかできなかった。
「じゃあ──」
大希が車を発進させ、そこで岳とは一時お別れとなった。小さくなる岳を、俺はまるで子どもの様に、見えなくなるまで見送る。
暫く車を走らせた後、大希は。
「鴎澤さんて、いつもあんな感じ?」
「…岳でいいよ。いや、その、いつもはあんなんじゃ…」
まともに隣の大希を見られず、視線を外へと泳がす。大希は笑いながら。
「俺、警戒されてるね?」
「…いや。たまたまだって。大希彼女いるって知ってるし、たまたま…」
「大和、だまされやすそうだから心配なんだって。でも、…岳さんもいい男だね? 男女構わずモテそう。心配にならないの? 仕事で綺麗なモデルさんなんかとも付き合うだろうし…」
ぐ。痛い所を突いてくる。
仕事に私情は持ち込まない。岳は常々そう口にしている。だからどんなに魅力的なモデルに出会っても、それは、被写体であって個人的な興味の対象にはならないそうだ。
それは俺もちょっと気がかりではあって。岳が浮気するとは思っていない。ただ、相手がどう出るかは分からないのだ。
欲目なく、岳は誰もが一瞬は必ず見惚れる容姿の持ち主で。
まさか、ずっと監視しているわけにいかねぇし。
そこは岳を信じるしかないのだ。
ま、岳の性格だと、だまされたり他に手を出して楽しむタイプじゃないしな。
いい男ゆえにへんに絡まれる心配はあるが。
「気にはなるけど…。そこは気にしたってしかたねぇし。岳の事は分かってるし、信じてるから」
「へぇ…。凄いね? お互いがっちり信頼してるって感じ? いいなぁ…」
「大希だってそういう奴、見つかるって。いま付き合ってる子だってそうなるかもしれないし…」
「ならない、ならない! そういうのじゃないし。羨ましいなぁ…」
終始そう呟きながら、大希はハンドルを握っていた。
その横顔は何処か寂しげで。前と同じ表情だ。ほんの一瞬、見せるだけの表情なのだけれど。
俺はその表情がずっと頭から離れなかった。
前回と同じように、祐二の働く店に行ったあと、昼飯を食べながら色々情報を交換し、解散となった。
店では祐二も少し相談に乗ってくれ、やはり岳と同じ場所を薦めて来る。
今回は俺と大希だけで登る話になっていると言えば。
「どうせなら、俺も行くか? 身体がなまると困るからいつも週末はどっかは登ってるんだ。休みは合わせられるからさ」
「マジ? 祐二いいの? 大希は?」
幾ら低山とは言え、祐二がいるなら心強い。
「…いいんですか? 仕事、忙しいんじゃ──」
大希は眉根を寄せて済まなそうに口にする。
「大丈夫だ。結構、融通が利く職場でさ」
「──なら、お願いします」
大希も笑顔で答える。それを見て祐二は満足げに頷くと。
「じゃ、そう言う事で。…よろしく」
ちらと視線が大希に向けられたのは気のせいか。
とりあえず、心強いガイドが付いたことで、俺は安堵したのだった。
+++
その日、祐二から連絡が入っていた。
夕方、帰宅しようと支度していた所へ。
『大和と浅倉君、俺と三人で来週、山に行くことになりました。安心してください』
安心、──か。
そして、今日とった写真の画像が添付されていた。
二人で熱心にテーブルの上に広げた地図を眺めている。浅倉の肩が大和に触れていた。
やはり、友人にしてはどこか距離が近いように感じて、気になるのだが。
「そっか。祐二がな…」
俺の代わりってことか。
なぜか浅倉に関わることは逐一連絡を入れてくる。別に祐二に見張りを頼んだ覚えはない。けれど、気を利かせて連絡してくるのだ。
よくわかってんな。
岳の性格を。
本当は気になって仕方ないのだが、動くことができない。それを分かっているから祐二は二人の様子、浅倉の動向を連絡してくるのだ。
それは祐二も何か感じ取っている、と言う事なのだろう。
「ありがとうな。安心した。色々、よろしくっと」
これをどう受け取るのか。
多分、更に奮起して注意を配ってくれるのだろう。
ありがたい存在だ。
大和の周りにはそういった信頼できる人間が幾人かいて。ふくさん初め、孫の昇もそうだ。アパートでの大和の周囲に目を光らせてくれている。
本人達にそのつもりはないらしいが、何か気になることがあると、会った時に話してくれたり、ごく短いコメントとともに写真を送って来たりする。
この前も、『今日の大和』とタイトルだけのコメントと写真画像が来た。ふくさんと大和、大和に肩を寄せるようにして写る浅倉。
なぜだろう、この男は引っかかる。
長い経験上、何か安心できないものを感じるのだ。隠しているものがありそうで。
勘だけなんだがな──。
まるっきり信用はできない。
暫く様子見だな。
ありがたい大和の周囲の友人たちに感謝しつつ、岳は今日の大和を見つめた。
+++
「来週、大希と山行ってくる。祐二もついてっから」
夕食。食卓に着いた岳へそう報告すれば、
「で、どこにしたんだ?」
余り驚いた様子も、不満そうな顔も見せず、岳は聞き返してくる。ちょっと意外だった。
幾ら祐二がいるとは言え、絶対、いい顔をしないと思ったからだ。
俺はご飯をよそいながら。
「結局一番近いとこにした。もともと、二人だけの予定だったから、すぐ行って帰って来れる気楽なところにしようって」
「二人?」
同じく食卓についていた亜貴が、怪訝な表情で声を上げた。
「…祐二くんがついて行ってくれるなら問題ないな」
味噌汁を盛っていた真琴も一瞬、眉をあげたものの、すぐに平素の顔になって続ける。
ちなみに食事の手伝いは手が空いていたものがするようになっていた。今日は岳より更に真琴の帰りが早かった為、一緒に夕飯を作っていたのだ。
それを帰ってきた岳が見て、苦虫を噛みつぶしたような表情になって。すぐに一緒に手伝うと言って、真琴と俺の間に立ったのには笑ったが。
「気をつけて行って来いよ? 天候にも気をつけてな? 運転は誰で行くんだ?」
「祐二が出してくれるって。大希の車、小回りは効くけどちょっと小さくてさ」
ちなみに俺は免許がなかった。
笑えるが、なんとしても当時は先立つものがなく。そろそろ貯ったお金で取ろうかと思っている。
「…良かった」
岳が小さく呟いたのを聞き逃さない。
「なんで?」
「いや。祐二の車の方が便利だろうと思ってな。低山とは言え、荷物も三人分となるとそれなりだからな? 祐二の言う事をちゃんときけよ?」
「子供じゃねえってのっ」
ご飯を配り終え、憤慨しながら席に着くと真琴が笑って。
「大和のことは心配したくなるんだよ。そうだろ? タケ」
「…ああ。その通り。信頼してても心配にはなる。色々な…」
「なんだよ。頼りないってことか?」
「好きだからに決まってんじゃん」
岳の言うべきセリフを亜貴が横から、かっさらって行った。
「恋人が顔もろくに知らない年頃のどっかの男と二人だけででかけようとしてたんだから。いくら何もないにしても気が気じゃないって。──そうでしょ?」
亜貴はちらと岳を見てそう口にした。岳は髪をかき上げつつ。
「まあな…。祐二もいるし、そこはもう気にしてない」
「んだよ。信用ないなぁ」
とは言いながらも、確かに岳が同性の奴とプライベートで二人で出かける、となれば気になるだろう。それと一緒なのだ。
「…岳、大丈夫だから。安心しろ?」
きっちり目を見て言えば、岳はクスリと笑って。
「信頼してるさ」
そうは言ってもどこか寂し気なにが気にはなるが、とりあえずはそれでその話題は終わった。
「あーあ。俺も行きたかったなぁ。一緒に」
亜貴は天井に目を向けてため息交じりに言う。
「亜貴は試験近いだろ? それ終わったら一緒に行こうぜ?」
俺の言葉を岳が引き取って。
「そうだな…。落ち着いたらみんなで登るか? 亜貴の体力に合わせてな? きっと低山になるな…」
「俺だってそれなりに体力あるって! そんなに非力じゃないよっ」
ぷりぷりと怒り出す亜貴に皆が笑った。
なんといっても、運動会では毎回、最後を走っていた亜貴だ。笑うなと言うのが難しい。
「足が遅いのと、体力は違うんだからっ」
尚も言い募る亜貴に岳は。
「そうだな。お前の頑張りに期待して、少しハードにするか? 片道五時間だ」
「…冗談」
そこで皆、また笑いだすのだった。