27.日向ぼっこ
その日、俺はいつかと同じ、球戯場のベンチでとある人物と待ち合わせをしていた。
目の前に広がる芝生のグラウンドに、今日は子どもたちの姿はない。芝生の養生日らしい。
毎回あれだけ踏まれて蹴られて、掘り返されて。芝も今日はほっと一息ついているのだろうか。
紺のパーカーに白地に黒のボーダーのカットソー、下はジーンズというラフな姿で、ぼーっとそんな景色を眺めていれば。
「──待たせたかな? 大和君」
「っ?! い、磯谷さん…! いいえっ、全然──」
気配を感じなかった。流石ヤクザのトップ──は、関係ないのだろうけど。やはり只者ではないのだと、妙な所で感心する。
今日の磯谷の出で立ちは、薄いブルーのシャツに、生成りのベスト。下も白のパンツスタイルだった。今回は綺麗に磨かれた革靴を履いている。
頭には麦わら色をしたパナマ帽を被っていた。巻かれたリボンは明るい茶色。相変わらずおしゃれだ。品のいいおじさま風に、どう見てもヤクザの欠片も感じない。
慌てて立ち上がろうとすれば、それを手で制される。
「座ったままでいい」
磯谷も傍らに腰掛けた。
磯谷と会うのはあの事件以降、初めてだ。
あの時ろくにお礼も言えず、いつかその機会があれば──そう思い。
正嗣へ連絡すれば、丁度向こうから会いたいと言っていると告げられ、二度目の球戯場デートとなったのだ。
岳と会うのはNGだが、俺とならいいらしい。岳に会うことを話すと、やや沈黙はあったものの、いいんじゃないのか、と同意を得た。
ここまでは一人で来た。以前の様に周囲を気にする必要はもうない。
前と同じように天気がいい。雲はあるものの、空のほとんどは青く晴れ渡っていた。
風も微風。五月半ば、春先の暖かさから初夏のそれに変わりつつある。
「すまないね。呼び出してしまって」
「いえ! こちらこそ…。この前はちゃんとお礼も言えなくて」
そう言って立ち上がると居住まいを正し。
「岳を助けてくれて、ありがとうございました!」
深々と頭を下げる。
本当に。あの時出てきてくれたから、今、岳は自由でいられる。
きっと、今後一切、岳はそちらの世界に足を引っ張られることはないだろう。
磯谷は笑うと。
「俺はちょっと仕上げに出てきただけだ。気にせんでいい。だいたい、内輪もめに大和君を巻き込んだ。こちらに責がある。本当にすまなかった」
そう言って逆に頭を下げて来る。
「い、いいえ! そんなっ…」
俺は恐縮しっぱなしだ。
「今後、岳はこちらには無関係だ。なにがあっても、被害が及ぶことはない。私が保証しよう」
「有難うございます…!」
これ以上、安心出来る言葉はない。
すると磯谷はふいに、真面目な顔つきになって。
「君は──岳が好きか?」
「ええっ! …っと、はい…。それは、もう…凄く…」
いきなりド直球な質問。
人から聞かれて答えるのは、少々照れくさい。けれど、胸を張ってそう言える。
岳のことは大好きだ。たまに意地悪だったり、強情っぱりだったり、子どもの様に拗ねたりするけれど、それすら愛おしいと思う。
我ながら、ベタ惚れでびっくりする程だ。
こんな俺を好きになってくれた。
とても、貴重な存在。
「そうか…。岳をこれからも頼む。あいつは錨がないと、どこへでもいってしまう奴だ。君がその錨になってやってくれ」
「…はい」
俺が、錨。
でも、と思う。
以前の俺なら素直にはいと答えただろう。もちろん、そうなりたいし、実際、なりつつもあるのだろうけれど。
「どうした? 何か素直になれない事情があるのか?」
表情が翳ったのを見て、磯谷は訝しむ。俺は頭を掻きつつ。
「…その…。俺が、『錨』でいいのかなって…」
「どうしてそう思う?」
俺は自分の手のひらを見つめながら。
「…あの事件で、俺は岳にふさわしいのか、少し不安になって…。傍にいたいし、別れたいわけじゃない。けど…、俺が傍にいる所為で、岳に迷惑をかけたり、足を引っ張るような事になったら…」
勿論、岳が大好きだ。
けれど、その思いとは別に、自分の内にある狂気に気付いてしまい。大好きな岳を思うが故、常識が通用しなくなる──暴走する自分がいる。
次もまた同じ事が起きたら暴走しないと言う自信がない。
俺はこの手で──。
古山の首に腕を回した時の感覚を今も覚えている。もし、あの場に岳がいなかったら、古山の言葉を真に受け、命を奪っていたかも知れない。
手のひらに目を落とし、ぎゅっとそれを握り締める。
拘束を解かれた後も、古山は懲りずに、俺を餌に岳を引き摺り込もうとした。
これ以上、岳の足を引っ張る事は出来ない。
俺がいるから──。
邪魔者を排除するのなら、古山より俺だろう。正直、反射的に身体が動いていて。何も考えていなかった。
それくらい、あの時は追い詰められていたのだ。
岳を自由にしたい──。
その一心で。
あんな事、早々にはない。ただの心配し過ぎだと思う。けれど、万が一岳の人生を邪魔する様な出来事が起これば、俺は自分を止められるのか。
もし暴走して不幸な結果を招く事になれば、後悔してもしきれない。
そんな俺が、岳の傍にいていいのか──。
そう考えてしまう自分がいるのだ。
岳は、傍にいていいと言ってくれたけど…。
すると磯谷は息をひとつ吐き出した後、少し考えるようにして。
「それは、岳に言ったのか?」
「いえ…。まだ。でも、言えません…」
「岳には言わんほうがいい」
「あ…。はい…。今のところ、言うつもりは──」
「絶対にな? 言ったが最後──」
磯谷は意味深な視線を送ってくる。
「…言ったが、最後?」
「あいつは、不器用だ。器用そうに見えるがな? 君への思いも上手く伝わらないと思えば、無謀な行動にも走るやもしれん。それくらい、君の事が大切なんだ。…奴も一歩間違えれば狂気に走る奴だ。君と岳はよく似ている。似たもの同士、お互いに助け合いながらバランスをとっているのかもしれんな…」
直接には答えず、磯谷は遠くを眺めた。
「面倒な男だが、岳を大事にしてやってくれ。上手くこの世を渡って行けるようにな? 君以外に錨は務まらんよ」
「…はい」
磯谷はぽんと俺の背を叩くと、ちらと背後に目をむけ。
「さて。そろそろデートはお終いのようだ。…また、老人の暇つぶしに付き合ってくれるかな? 君と会う時は俺も一人のじいさんだ」
「勿論です」
ニッと笑えば磯谷は嬉しそうに眼を細め。
「さて、行くとしよう」
俺は去っていく磯谷の背を見つめた。その先に迎えの部下が控えている。
言わない方がいい。──だろうな。
この気持ちに、自分なりに決着をつけねばならないだろう。
岳にも俺にも、ベストな着地点に。
降り注ぐ日の光を、俺は緑越しに目を細め眺めた。