11.歯車
なんだろう。くすぐったい。岳? でも香りが──違う…。
違和感を感じて起きたいのに、瞼が重く開かない。
それでも懸命に意識を浮上させれば、誰かが自分に覆いかぶさっているのに気がついた。
胸に置かれた手の平、首筋に唇が触れるのを感じる。
岳? …いや、違う。これは──。
「…大、希?」
俺の声にびくりとその肩が揺れた。触れていた手がすぐに離される。顔を上げこちらを見下ろしたのは、間違いなく大希だった。
なんでだろう? 大希がどうして…。
ああ、でも──。
「おま──泣くなって…」
なぜか、大希は泣いていた。
そういえば、さっきもそんな顔してたな…。
車の中で話していた時。大希は泣き出しそうに見えた。
重い腕を何とか伸ばして、その頭に手を置いた。くしゃりと撫でると、ぐいと頭を掴んで胸元に引き寄せる。
「…大丈夫だって。俺が──ついてる…」
そのまま、また強い睡魔に襲われ、目を閉じた。
大希はひとりなんかじゃ、ない──。
+++
「っ…!」
泣くつもりなんてなかった。
なのに、なぜか大和に触れた瞬間、哀しみがどっと胸を覆って。
『だから、大希はもう幸せなんだよ。…って、俺は思う』
今すぐにでも眠りそうな顔をして、じっと前を見つめたまま、大和は口にした。
既に幸せなんて、そんなはずない。俺は不幸のどん底で、底辺で。ずっとこのままなんだ。だから俺は──。
『大希は一人じゃない』
「…っ!」
大和の声が響く。自分がこれからどうなるかも知らず、笑顔を向けてきた。
そんな大和を騙し、今、汚そうとしてる自分。堕ちるところまで堕ちた自分が悲しくて、情けなくて、申し訳なくて──。
それで出た涙だったのかもしれない。
意識を一時取り戻した大和に、そんな自分を見られた。
もう、だめだ──。
何もかも失う。
そう覚悟したのに、大和は大希の頭を引き寄せ抱きしめた。そのまま眠ってしまう。
俺は──…。
これ以上、手をだせないと思った。
+++
岳が古山の事務所を訪れると、既に周知済みらしくすんなりと奥へと通された。
応接間には黒い革張りのソファが並び、そこへ座るように促される。古山の事務所には幾度か訪れたことがあった。
間を置かず、古山が現れる。
「よう。済まなかったな。急に呼びつけて…」
古山は急ぐ様子もなく、どっかりと岳の正面のソファへどっかと座った。胸もとから煙草を取り出すと。
「いいか?」
「ええ」
岳は煙草を吸わない。以前、吸っていた時期もあったが、大和と出会ってからは止めていた。それでストレスを解消する必要がなくなったからかもしれない。
古山は慣れた手つきで一本取り出すと、すかさず部下が片膝をつき火を灯す。紫煙がゆっくりと立ち昇った。
「…話の前に、大和を解放して頂けますか?」
「まあ──心配だよな? だが、それは話の進み具合によってだ」
古山はニヤリと笑う。岳は声音を低くすると。
「あなたにここまでされるほど、不義理な事はしてこなかったつもりですが…」
すると古山は一度、灰皿に灰を落としてから。
「いや。断っただろ? 俺の誘いを──」
岳は深く息をつくと。
「もう、俺は足を洗いました。親父も了承済みの事です。俺みたいなのにこだわるほど、ここが苦労している様には見えませんが…」
ちらと周囲に目を向けた。
調度品も華美で生活に困る気配は見られない。若衆の人数も十分足りている。
組の性質の善し悪しは置いておいて、それなりに羽振りも良く、何か問題が起きている訳でもなさそうだった。
自分にこだわる理由はほかにあるのだろう。
古山はふんと鼻を鳴らした後。
「はっきり言うが、俺は楠が気に入らねぇ。あいつの高い鼻っ柱をへしおってやりたくて仕方ねぇんだ。それには、お前が必要だ。お前はあいつの事を良く知っているからな…」
「そんな理由で俺が協力するとでも?」
古山は薄ら笑いを浮かべると。
「だから、頼んでる。お前には見合った身分も仕事も用意してる。俺と盃を交わせば一つ組を任せる積りだ。でっかい縄張も任せる。…取引もな。お前の歳ではかなりの好待遇だぞ?」
「興味ありません…」
「お前はそう返すと思った。…だから『彼』の出番だ。これから言う場所に行けば気も変わるだろ?」
そういうと、端末をテーブルの上に滑らせた。それは大和の持ち物だった。
見れば画像がアップされている。それを認めて思わず息を飲んだ。
そこには素肌を晒した大和が写っていたのだ。シーツはかけられているが、そこからはみ出した手や足は何も身に着けてはいない。
「…これは、脅しですか?」
古山は含み笑いをするだけで、手にしていた煙草を灰皿に押し付けると。
「今回はそれだけだ。──気が変わったら、また連絡してこい。いつでも待っている」
それで古山との会談は終わった。
+++
岳は古山から知らされた場所へと向かう。
そこは街の外れにあるホテルの一室。くたびれた外観と同様、中も古びていた。
フロントは呼び出せば出てくるようになっていたが、そこは通り過ぎる。鍵は前もって渡されていた。
年季の入った鍵を使い、指定された部屋へ入る。ツンとした煙草の香りが鼻をついた。
室内はツインにしては狭く、調度品も所々塗装が剥げかけている。
シミの残るカーペットを踏みしめ、短い通路を足早に通り抜けると、奥にあるベッドへと向かった。
「…大和?」
ベッドの窓側。そこに、ベッド脇のライトに照らし出された大和が、健やかな寝息を立て眠っていた。
そこだけ、穏やかな空気が取り巻いている。
傍らの床にはリュックが置かれ、椅子には着ていた着衣がかけられていた。
「──…!」
思わず駆け寄り身体を搔き抱く。
大和──。
額に唇を押し当てた。
抱き起こした時、滑り落ちたシーツから覗いた肩も胸も、全て素肌を晒している。辛うじて下着だけは身に着けていた。
確認したが、身体に外傷や何かあったと見受けられる様子はない。
良かった…。
ようやく息がつける。
誰にも触れて欲しくない。大和は俺だけのもの──。
暫くそうしたのち、軽く頬を撫でてみたが起きる気配はなかった。幾ら大和でも、ここまで起きないのは可笑しい。何か薬を飲まされているのだろう。
古山はいつでもこういうことができる、そう言いたいのだ。
と、そこへ端末が着信を知らせた。前と同じ非通知になっている。出ると案の定、古山からだった。
『会えたか?』
「…はい」
『何もしてねぇはずだ。だが、その意味は分かっているだろう? ──よく考えろ』
「……はい」
それで通話は切れた。
ふうと息を吐き出し、腕の中の大和を見下ろす。大和を守るためには一時的にでも奴の言う通りにするしかないだろう。
「ん…? あ…、たけ…」
大和が薄っすらと目を開けた。
「大丈夫だ。寝ていていい…。俺がいるから」
「…ん…」
額を撫でると、安心したように、開いた目を再び閉じた。
何としても、守り抜かねば──。
もう一度、大和を頭ごと抱きしめた。
+++
数時間後、大和を連れた岳が帰ってきた。
岳に抱きかかえられた大和はぴくりともしない。
岳が靴を脱ぐ間、真琴はいったん大和を腕に預かる。一見したところ、目立った外傷はなかった。岳は靴を脱ぎながら。
「寝ているだけだ。他は特に異常はない」
家に帰る前、既知の医者、副島に診てもらったが外傷は特にないと言う事だった。
ただ、睡眠薬が効いているため、今しばらくは目覚めないだろうとのことで。確かに腕の中の大和はちっとやそっとでは起きそうにない。
岳は大和を再び引き取ると、寝室へ寝かしつけ、再びリビングに戻ってきた。
心配だからと、亜貴は岳と真琴が話す間、大和の傍に付き添うと言う。
「それで──いったい何があった?」
岳の前へ淹れたてのコーヒーを置く。軽食のサンドイッチはキッチンのテーブルの上にあったが、多分、手は付けないだろう。
「…古山だ。奴が自分の下で働けと言ってきた」
「なるほど。お前がうんと言うはずがないから、今回の手段をとったと言う事か…。けれど、大和が早々知らない相手についていくとは思えない。買い物の帰りに拉致されれば目立つしな」
「大和の予定を知っていたのは身内くらいだ。あとは──」
「浅倉君か…」
腕組みして唸る真琴に岳は。
「他にいないだろうな。どっかで古山と繋がってたんだろ。調べる必要はあるだろうが──。今更だな…」
「潔さんには連絡させてもらった。これ以上、大和を巻き込みたくなくてな? お前に了解を取らなくてすまなかったが…」
「いや、いい。大和を守るためならなんだって使うさ」
同じ考えに真琴は口元を思わず緩ませたたあと、すぐに表情を引き締めて。
「それで、どうする?」
「一時的にだが、古山の下に入るつもりだ。スタジオの方は北村さんにお願いした」
岳の雇い主である北村は、岳の過去を承知済だ。簡単な仕事なら残りのスタッフでも対応出来る。
事情を話し、大きなものだけお願いしたのだ。真琴は顔をしかめると。
「…それでいいのか?」
「他に手はない」
「ああ見えて古山もバカじゃない。暫くはタケ、お前が離反しないか様子をみるだろう? 手はあるのか?」
「まあな。奴がそうくるならこっちも同じ手でいくさ…」
岳は静かに笑う。真琴はひとつ息をつくと。
「何をするつもりだ?」
真琴の問いかけに岳はこれからについて話し出した。