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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

「君を愛することはない」と言った婚約者が、私にクソ冷たかったお義兄様にブン殴られた話

作者: 鷹目堂

 ――公爵令嬢シェリー・フォンスターには、悩みがふたつある。


 ひとつめは、前妻の子であるギルバート・フォンスターと折り合いが悪いこと。


 シェリーは今年で16歳。5つ上のギルバートは公爵家の長男らしい堅物で、その上口数が少なく、自分にも他人にも厳しい人物だ。仲良くしようと話しかけたことはあれど、どちらかと言うと温厚なシェリーの努力が実ったことはない。


 ふたつめは、婚約者であるモーガン・ペンスリーズがここ半年で急激に冷たくなってしまったこと。


 モーガンはシェリーの3つ上。ペンスリーズ伯爵家の長男で、シェリーとは数年前に婚約と相なった仲である。


 最初こそ、モーガンは紳士を体現したような人物だった。会えば毎回シェリーのことを気遣ってくれたし、「僕が必ず君を幸せにする」と言ってくれたことだって一度や二度じゃない。


 始まりは恋愛結婚じゃなかったけれど、シェリーはいつしかモーガンの優しさに惹かれていたのである。



「――そんな辛気臭い顔でいられると茶が不味くなるだろう」



 ……なのに、一体どうしてこうなってしまったのだろう。


 某日、定期的にフォンスター家で開かれるモーガンとのお茶会の最中。対面に座る婚約者からそう吐き捨てるように言われ、シェリーは思わず項垂れた。


「……申し訳ありません」


 あんなに優しかったモーガンの影は、今やどこにも見当たらない。これみよがしに溜息をつく彼の姿を見ていられず、シェリーは視線を伏せた。


「顔が冴えない奴は声まで冴えないな……。余計不味くなるから喋らないでくれ」


 優しかったモーガンが急変してしまった原因は、約半年前――とある貴族令息の、結婚記念パーティーにある。


 パーティーにはモーガンはもちろん、その婚約者であるシェリーも招待されていた。貴族らしい豪華さの中に温かみのある、とても素敵なパーティーだったと思う。


 が、シェリーは気が付いていなかった。

 隣にいるモーガンの、主役――というか新婦を見る目が、周りと少し違うことに。


 新婦となった令嬢は、とある侯爵家の一人娘だ。家の付き合いでモーガンとは幼なじみの関係にあるらしく、もう10年近く会っていないが、その繋がりで招待状が来たのだという。


 一方シェリーの方はと言えば全くの初対面だったわけだが、しかし新婦を一目見て驚いた。同性のシェリーからしても、彼女は大層美しかったのである。


 笑顔は溜息が出るほど可憐で、何より艶のある黒髪が見惚れるほど美しい。美麗だという噂は聞いていたけれど、まさかこれほどとは。


 ――「新婦のエセル様、とても素敵ですね。幼い頃から愛らしいお方だったんですか?」


 新婦の姿を遠目に見ながらシェリーは尋ね、しかし答えは返ってこなかった。


 不思議に思って隣の彼を見上げると、モーガンは目をこれでもかと見張って硬直している。何かあったかと視線を追うが、そこには新郎新婦が寄り添っているだけだ。特におかしいところはない。


 ――「……モーガン様?」


 再度の呼びかけにも、モーガンは答えない。

 それどころか呆けた様子で新婦を眺めると、横目でシェリーに視線をやってから、静かに息をついてこう呟いた。



 ――「あんなに綺麗になるなら……」



 シェリーにはその、途中で途切れた言葉が、まるで後悔のようにも見てとれて。


 直感的に『比べられた』と感じた。


 新婦とモーガンは幼なじみだ。どの程度の仲なのか推し量ることはできないが、それでも親しかったに違いない。10年会っていなくともパーティーの招待状が来るほどには。


 そんな特別な仲の異性が、あんなにも綺麗に成長している。


 モーガンとて男だ。自分とシェリーとの婚約に政治的意図があると分かっていても、パートナーになる女性はなるべく綺麗であってほしいと願うはずで。


(……モーガン様はきっと、あの人と一緒になりたかったんだわ)


 新婦を見てからシェリーに視線をやったのだって、自分の現実を諦観していたに違いない。あの新婦と結婚できる未来もあったろうに、何故こんな冴えない女と――とか、そんなことを。


 モーガンはそれ以降パーティーが終わるまで不機嫌で、シェリーに話しかけようとすらしなかった。



「……あのパーティーから、お前の悪いところばかりが目に付くな」



 それからだ。

 それから半年、今日に至るまで、モーガンは段々とシェリーに冷たく当たるようになった。


「重い空気を変えるための気の利いた話もできないのか? エセルなら冗談のひとつでも言って場を和ませてくれただろうに」


 エセル――例の新婦への憧れめいた感情も、今では隠すことすらない。

 それどころか度々エセルとシェリーとを比べて文句を言うようになったくらいで、シェリーも「すみません」と繰り返すことしかできない。


「チッ……、そういう態度が場を悪くすると何度言ったらわかるんだよ。エセルならもっと――」


 またエセル、エセルだ。口を開けば彼女の名前が出てくる。シェリーは思わずドレスの裾を握り、俯いた。


 確かにエセルがとんでもなく綺麗だったのは事実だけれど、こうも比較されると惨めになってくる。


 シェリーは元より自尊心の高い方ではない。使用人や周りの貴族から汚い妾の子だと揶揄され、蔑まれ続け、前妻を殺したのはあのガキだと言われたこともあった。


 それでも婚約で少しは世間の風向きが良くなったのに、その矢先にこれだ。もう自信を付けるどうこうの話じゃないし、結婚に対しても不安しかない。


(……そこまでエセル様が良いならいっそ婚約を破棄してくれれば良いのに)


 シェリーは心内に呟き、ばれないよう溜息を吐いた。比較され続ける人生なら、使用人から使えない娘だと言われながら暮らした方がマシだ。


 でもその強さがシェリーにはない。どうせ、使用人から蔑まれればモーガンと結婚しておけば良かったとくよくよするのがオチなのだ。


 私が我慢していれば家が得をするし、利益を生めばきっと家族の1人として認めてもらえる。わかっている。だからもう、良い。心に毒を溜め込むだけならタダだから。


「君みたいな気色が悪い女とまともな結婚ができるとは思えないな」


 こっちのセリフだ、なんて言い返すことはできず。


「前妻のフォンスター夫人を殺したのも君とその母親だって噂があるんだろう? 公爵家の令嬢だからと安易に婚約に踏み切ったのは失敗だったよ」


 ドレスの裾を掴む力が、自然と強まる。


 自分はまだしも、母親を侮辱された悲しみで心が痛くなった。なのに怒りに任せて激昂できない自分の惨めさに、余計息が詰まってしまって。


「エセルとの婚約だったら上手くいったに違いないんだ」


 鼻の頭がツンと痛くなる。泣いちゃダメだ。


「エセルとの見合いが僕に来なかったのだってお前みたいなのと婚約なんてしたからだろう。つくづく僕に不利益しか与えないな」


 内頬を噛む。泣いちゃ、ダメ。



「――仮に結婚したとて、君を愛することはないだろう」



 そう決めたはずなのに、いよいよシェリーは限界だった。わかっていたことなのに、口にされると苦しくて、胸の内から何かが決壊するような感覚に襲われる。


 きつくドレスを握っていた両手を解いた。そのまま顔を俯かせると、呆れたような口調でモーガンが続けた。


「ほら、君はすぐそうやって涙に訴えるだろう。エセルならそんな幼稚で恥晒しなことはしない」


 そんなこと、言われたってどうしようもない。

 そう、シェリーが涙を必死で堪え、何かを口にしようとした時だった。



 ――バンッ!!



 音を立てて応接間の戸が開き、シェリーとモーガン2人分の視線が勢いよくそちらに向かう。


 浮かびかけた涙で視界が僅かにぼやける中、シェリーが確かに目にしたのは人影だった。シェリーの金髪とは正反対の黒髪に、目つきの悪い赤い瞳を更に釣り上げさせた――。


「お、お義兄さま……?!」


 ギルバート・フォンスター。シェリーが不仲で悩んでいた義兄が、不快と不満と不機嫌を全面に押し出しながらそこに佇んでいる。


 一瞬でそれまでの思考が吹き飛び、シェリーは思わず立ち上がった。一体どうしたのだ。


 これまでギルバートがお茶会のさなかに飛び出してくることなんてなかった。というかそもそも彼はシェリーに積極的に関わろうとしない。


 まさかお父様が倒れられたりしたのだろうか。

 はたとそんな不安がよぎったシェリーをよそに、モーガンは弾かれたように立ち上がる。


「ギ、ギルバート様……! すみません、まさかいらっしゃるとは」

「……」

「ご挨拶が遅れて、その、お、お邪魔しております」


 公爵家の次期当主が相手だからか、シェリーに取っていた態度とはまるで違う平身低頭ぶりだ。シェリーとて公爵家の長女にあたるのだが。


「……ああ」


 そんなモーガンに対して、ギルバートの反応は鈍いものだった。低い声で発せられたたった二音に、ついでにシェリーの肩まで震えてしまう。


 ギルバートは、社交界でも有名な寡黙かつ鉄面皮だ。父親譲りの切長の瞳や肩書きも相俟って、同年代からはそこそこ恐れられている存在である。


 義妹であるシェリーだって未だにギルバートが怖い。いくら話しかけても大抵無視か一言返ってくるのみで、まともに会話が続いたためしがないのだ。きっと嫌われている、と思う。


「あの、……お、お義兄さま?」

「……」

「一体、どうされたのでしょうか。ご用件があるのでは……」


 すっかり萎縮してしまったモーガンに代わり、シェリーがそう尋ねる。まさか何の用も無しに来たわけじゃないだろう。


「えと、こ、声がうるさかった、でしょうか。すみません、少しお喋りが盛り上がってしまって」


 これは全くの嘘だったが、けれども婚約者になじられていたなんて言えるわけがない。ギルバート相手なら尚更だし、何より早くこの状況から脱したかった。


 そんな切望にも似た言葉を聞き、ギルバートは視線をちらとシェリーの方へと向ける。

 それから一度、今度はモーガンの方を見ると、眉間に皺を寄せてようやっと口を開いた。


「ああ。……うるさかった」

「! そ、そうでしたか。すみません、今度は気を付けて――」

「うるさくて不快だった。会話の内容もな」


 食い気味の言葉。

 モーガンが一瞬で顔を青くさせたのを、シェリーは見逃さなかった。


「ギ、ギルバート様……」

「伯爵は婚約という言葉の意味すら教えてくれなかったのか?」

「違、その、まさか聞こえているとは、」

「聞こえていなかったら許されるものでもねえだろ」


 ギルバートが、モーガンへの距離を一歩二歩と詰める。


 モーガンの足は竦み、シェリーも口を挟めない。止めなくてはと思っても動けなかった。まさか、まさか聞かれているなんて思わなくって。


「……これだから嫌だったんだ。貴族連中には勝手につけあがって調子に乗る馬鹿が多すぎる」


 ぼそりと呟かれたギルバートの言葉は、少し離れたシェリーには届かない。

 が、相対する婚約者の耳にはしっかり聞こえていたらしい。モーガンは唾を飲み込み、思考を張り巡らせた。もう、言い逃れが通用する状況ではない。


「お、お義兄さま!」

「黙ってろ」

「でも悪いのは私で、」

「黙ってろと言っている」


 こちらを向こうともしないギルバートに、シェリーは本格的に泣きそうだった。

 貴族なのに、公爵令嬢なのに、婚約者になじられるばかりの自分を見て義兄はどう思っただろう。呆れられたに違いない。きっと怒っている。きっと、


「……みっともないな、モーガン」

「え、え……?」

「でも安心しろ。俺はお前が最初から気に食わなかった」


 地を這うように低く鳴るギルバートの言葉を聞いているのは、モーガンただ1人だった。


「お前が、シェリーと婚約した時からずっとだ。半殺しにしてやりてえとすら思った」

「ギ、ルバート様、」

「それが『殺してやりてえ』に変わっただけだ。大した変化じゃねえよな」


 ギルバートが右足を半歩引き、しかしモーガンはそれを認識すらできない。彼の思考を占めるのはただの後悔と恐怖で、他にはもう何も考えられない。


 いけないものに手を出してしまった。

 自分が間違っていた。愚か、だった。


 モーガンは浅はかだった。てっきり、ギルバートは妾の子であるシェリーを気に入っていないと思っていたのだ。


 シェリーは家の中に居場所がなさそうにしていた。だから婚約者である自分に希望を見出していて、それをわかっていたから、エセルという顔も身体も性格も良い女を取られたことに対する怒りを、理不尽にぶつけて。


 でも違った。そうじゃない。これを、どうして『気に入っていない』と言えるだろう。


 ギルバートは確かに怒っている。モーガンに対して、義妹であるシェリーを傷付けたことへの怒りを、今まさにぶつけんとしている。


 モーガンはここまで表情を変えるギルバートを見たことがなかった。違う。こんなのただの家族愛じゃない、溺愛だ。知らないうちに彼はこんな激情を、義妹に対して秘めていて。



「――食いしばるなよ、モーガン。できるだけ苦しんで死ね」



 固く固く握られた拳が、捻られた腰と勢いに乗せモーガンを襲ったのは、そのコンマ数秒後。


 モーガンが意識を失い、同時にシェリーの悲鳴が屋敷中に響き渡ったのも、その間もなくだった。



 ◇◇◇



「……本当に、ウチの子はうっかり階段から転げ落ちただけなんだろうね?」

「ああ」


 訝しげに、しかし額には冷や汗を浮かべながら尋ねたペンスリーズ伯爵に、ギルバートは顔色ひとつ変えずそう返した。


 ペンスリーズ伯爵の傍に立つ息子のモーガンは何も言えず俯いている。と言うより、『口内の怪我のせいでうまく話せない』の方が正しいのだろうが。


「咄嗟のことで庇うことができず申し訳ない。モーガンもだいぶ酔っていたようでね、足を踏み外したらしい」

「……モーガンは酒を飲んでいたのか?」

「うちで出したわけじゃない。馬車か何かで飲んだんじゃないのか?」


 これも全くの嘘だったが、モーガンがそれを訴えることもできまい。

 ペンスリーズ伯爵が息子を振り返り、そうなのかと尋ねると、モーガンは力なく頷いた。と同時に、ペンスリーズ夫人が叫ぶ。


「そんなわけないじゃない! うちの馬車にお酒なんて積んだことないわ!」

「リンダ、落ち着いて……」

「これが落ち着けるものですか! 息子がこんな怪我を負って帰ってきて、母親が可哀想に思って何が悪いの!!」


 甲高い叫び声を聞きつつ、ギルバートは小さく溜息を吐く。……これだから貴族は。少しは静かにすることができないのか、と。



 ――シェリーとモーガンのあのお茶会から、早いものでもう3日が過ぎている。



 あの後、モーガンを一発殴り付けた後の展開は早かった。


 ギルバートは本当にあの場でモーガンを殴り殺してやるつもりだったが、いつもは無能な使用人がシェリーの悲鳴を早く聞き付けたのが誤算だった。人が人を呼び、最終的に屋敷にいたほぼ全員が応接間に集うことになったのである。


 そこからはもう混沌の一言だった。まず血を吐くモーガンの姿を見て使用人の1人が卒倒。


 また別の使用人が叫び、がしかしギルバートが拳を止める理由もなく、駆け付けた庭師に取り押さえられるまで結局十分はかかっただろうか。


 両親が家を空けていたのが幸いと言える。使用人くらいならいくらでも口止めできるし、むしろ見られたことは幸運だ。シェリーに対して不躾な態度を取ればどうなるか、これで使用人も思い知るだろう。


 モーガンが生きていたことは惜しいが、多少気は晴れた。それはきっとシェリーも同じはずで。


「ああ、可哀想なモーガン……。ねえ、本当は違うんでしょう? 言ってごらんなさい、どうしたの?」


 ペンスリーズ夫人はモーガンの頭を撫で、しくしくと涙を流している。その様子を見て、ギルバートはふと良い母親だ、と思った。


 公爵家次期当主というギルバートの肩書きに及び腰な伯爵やモーガンと違い、立場も何も関係なく息子を心配している。母のあるべき姿だ。うるさいししつこいけれど。


 唯一駄目な点を挙げるとしたら、息子が婚約者にたらたら不満を並べる愚図に育ったことくらいだろうか。あとは少し声量を抑えるだけで良い。


「いくら聞いても同じだろ。……帰って良いか? シェリーが馬車で待ってるんだ」


 が、ギルバートの中ではモーガンの血縁というだけで反吐も同義だ。わざわざこうしてペンスリーズ家まで出向いてやっただけ義理は果たしているし、怪我に対する説明も十分しただろう。嘘まみれだけれども。


 というか一刻も早くこの場から去りたい。シェリーを侮辱したモーガンなんざ未だに殺してやりたいのに、我慢しなければならないというだけで苦痛だ。拷問に近い。


「あ、ああ。……すまない、ありがとう」

「ちょっと待ちなさいよ! まだ話は終わって、」


 叫ぶ夫人の声を後に、ギルバートはさっさと部屋の戸を閉める。背後で鳴り続ける甲高い声にまた溜息を吐くと、侍従が苦笑いを浮かべた。


 モーガンは親によく似ている。権力というわかりやすいものに弱いのはペンスリーズ伯爵似、苛立ちを他人にぶつけるのは母親似だ。


 ああいうタイプは扱いやすくて有難い。血縁者にするのはまっぴらごめんだが、……と、そこまで思考し、ふと思い出した。ここに来た一番の目的を果たしていない。


 ギルバートは踏み出しかけた足をそのまま方向転換させ、再度扉に向き直る。


 そして閉じたばかりのそれを開くと、未だ叫ぶ夫人や困り顔の伯爵に向かって一言、置き土産を残した。



「――そういえばモーガン、シェリーとの婚約破棄の件だが、できるだけ早めに書類を作ってくれ。必要ならうちの者に取りに行かせる」



 言い切ると、ギルバートは反応も待たずに戸を閉め、その場を後にした。


 遅れて応接間から響いたのは伯爵と夫人2人分の声。特に夫人の怒声は凄まじいものだったが、公爵家との縁を事実上切られたとあらば、もう息子の怪我どころじゃないのだろう。やはり良い母親ではなかったかもしれない。


「せめてシェリー様にはお伝えすべきだったのでは?」


 半歩後ろを歩いていた侍従が呟くようにそう尋ねる。ギルバートは、婚約破棄の件を当事者であるシェリーにすら伝えていなかったのだ。


「別に良い。先に報告したらどうせ自分を責めるんだ」

「事後報告の方が自責の念に駆られるのでは……」

「良いんだよ。あいつには俺が殴ったからとでも伝えておけ」


 元よりこちらにメリットの少ない縁談であったし、婚約破棄の理由も、モーガンが精一杯気を利かせてこちらに都合の良いようにしてくれるだろう。シェリーの経歴に傷を付ける心配はない。


 ギルバートはシェリーを溺愛している。

 溺愛という言葉がぬるく感じるくらいには愛して、大切にしている。


 幼い頃からそうだった。前妻が亡くなり、後妻として現夫人とシェリーがやって来た時からもう何年もずっと、ギルバートはシェリーのことを考えなかった日がない。


 母を亡くした自分を慰めようとしてくれた。

 走り回って遊んでいる笑顔を愛おしく思った。

 自分と仲良くなろうと必死に頑張っている姿に胸を打たれた。


 でもそれに応えるには気持ちが大きくなり過ぎて、ギルバートは未だシェリーとまともな会話ができていない。誰よりも大切にしているのに。


 シェリーに辛くあたる使用人は痛め付けたし、必要ならなんだって与えた。少しでも生きやすいよう、道端の小石を取り除くように、大切に大切に。


 だからこそ婚約が決まったと聞いた時は動揺して、驚きのあまり相手を殺してしまおうかと考えて、でももう、どこか嬉しそうなシェリーを見たら矛を収めるしかなくて。


 婚約者とシェリーの間には入らないようにしようと決めて、でもそれが間違いだったのだ。今回のことで思い知った。


 シェリーはきっと、長い間あの聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせられていたに違いない。

 気付かなかったのはギルバートが2人の仲を放っておいたからだ。これでわかった。ギルバートがいなければ、シェリーは今後どんな目に遭ってもおかしくない。


「あ、……お、お義兄さま」


 馬車の戸を開けると、そわそわした様子のシェリーが出迎えてくれる。


 それがもう言い表せないくらい幸福で嬉しくて、ギルバートは暫しそのままシェリーの表情を見つめた。可愛らしい。愛おしい。その金色の髪も、翡翠と見紛う瞳も全部。


 モーガンの様な奴にはやはり勿体無かったのだ。とっくにわかっていた結論を出し、ギルバートは馬車に乗り込んだ。相変わらず無口だが、態度は些か柔らかい。


「……あの、お義兄さま?」

「何だ」

「や、その、……ついて来た以上、やはり私も行った方が良かったんじゃないでしょうか。当事者、ですし、お義兄さまに負担をかけてしまうようで何だか……」


 そんな雰囲気を察してか、シェリーの口ぶりも普段よりスムーズだ。ちらちらとこちらを窺う様子が何より愛らしい。


「お前が気にすることじゃない」

「で、でも」

「お前の代わりに責任を負うのが長男だ。……違うか?」


 だから要は、シェリーに関する責任は全て自分が負うということなのだけれども、そんな曲がり曲がった気持ちがシェリーに伝わるはずもなく。


「そ、う、ですか。……そうですよね。すみません」


 シェリーはひとつ言い聞かせるように言葉にすると、それ以降は窓の外へと視線を移してしまった。


 きっと迷惑をかけたと思っているのだろう。ギルバートだってそれを察したものの、しかし掛けていい言葉がわからない。結局馬車を支配したのは沈黙で。


 侍従もその様子を焦れったく思っていたわけだが、ここで余計な口を出せばギルバートに何をされるかわかったもんじゃない。これが宮仕えの悲しいところで、この兄妹はどこまですれ違えば気が済むのだろうと、半ば呆れ気味に思ったその時だ。



「あのっ、でも、あ、――……ありがとう、ございます」



 真っ赤な顔でそう言い放ったシェリーに、一瞬馬車内の時が止まった。


 侍従は思わず目を見開き、社交界一の鉄面皮との呼び声高いギルバートも突然の感謝に面食らう。驚いた。まさかシェリーの方から何か声を掛けてくるとは思わなかったから。


「この間も私のために怒ってくれて、今日も、その、私に配慮してくれたんですよね。……勘違いだったら恥ずかしいですけど」

「……は、」

「だからあの、ありがとうございました。本当に」


 その言葉が、ほんの少しだけ浮かんだ笑みが、ギルバートにとってのとどめだった。



「……図々しいですし、頼ってばかりですけど、お義兄さまがいて良かった」



 心臓が早鐘を打ち、顔に熱が篭る。

 可愛い。愛しい。そんなことわかりきっているはずなのに、余計そうだと思えて仕方がなく。


「次は私、1人でもちゃんとできるよう頑張りますから。今度こそお義兄さまに頼らなくて良いように」


 とにかく全てが眩しくて眩しくて、ギルバートは思わずそっと目を逸らした。


 感覚に、覚えがある。シェリーが初めて家に来た時だ。

 これから家族になる人たちだと紹介され、亡き母への悲しみも癒えず、苛立ちを募らせていたギルバートに笑いかけてくれたあの顔と、ひどく似ている。


 あの時からだ。あの時からギルバートはシェリーのことばかり考えている。今もそうだった。


 ここまで可愛くて愛らしいシェリーを1人にしておくことなんてできやしない。モーガンと2人きりになることを許してはいけなかったし、何より最初から間違っていたのだ。婚約など馬鹿馬鹿しいにも程がある。


「ああ。………そう、か」


 理解し、逡巡し、ギルバートは決断した。


 これから先、何があろうとシェリーから離れてはならない。自分がいなきゃシェリーが危ないし、彼女を守れるのも自分1人だけだ。周りを信用してはいけない。


 ――彼女を、シェリーを、1人にはできない。


 シェリーがついさっき紡いだ決意とは裏腹に、どう見たって捻じ曲がった感情を抱えたまま、屋敷へ向かう馬車は進む。


 お互い秘めた誓いは正反対に、しかしそれぞれが満足げな表情を浮かべながら、沈みゆく夕日を背景に、進む。

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