96 イルミナート
パラフィン紙の改良実験を終えて部屋を出たデルフィーナは、屋敷内がどことなくそわそわとした雰囲気なのに気がついた。
「なにかあるのかしら?」
「何も聞いておりませんが……でも、何かありそうですね」
エレナにもわからないようなので、一緒に工房へ籠もっていた間に何かあったらしい。
とはいえ悪い感じではない。
アロイスが怪我をした時とは空気感が違っていた。
パタパタと掃除道具を抱えて移動するメイドは、足早に奥へと向かっている。掃除が終わって、片付けを急いでいる印だ。
厨房から近いところでは、甘い焼き菓子の香りが漂っていた。
「お客様でもいらっしゃるの?」
ちょうど通りがかった家令を捕まえると、いつもの微笑のまま首肯した。
「はい。アロイス様がご学友を務めたパスクウィーニ家のイルミナート様から今朝先触れがありまして、本日お昼過ぎにご来訪の予定です」
お昼過ぎといえば、もうすぐではないか。
それならメイドが急いでいたのも頷ける。
パスクウィーニ家は、アマデイ侯爵のお家だ。侯爵家のご令息が訪れるとなれば、家令としても張り切ってもてなしの準備をしていたことだろう。
屋敷全体が活性化していたわけだ。
“イルミナート様”のお名前は、以前アロイスから聞いたことがある。
確か、爵位の差があってもアロイスには同等の付き合いを許していた方だった。
家族の晩餐で他の大人達が話しているのを聞いていただけだから、詳しい関係も、“イルミナート様”の為人も、デルフィーナは知らない。
その方がいらっしゃる、と。
今朝の先触れで午後の訪れは少し急だ。
何か急用でもあったのだろうか。
不思議に思いつつ、自分には関係ないことと、デルフィーナは自室で軽めの昼食を取ることにしたのだが――。
この状況は何なのか。
一等良い応接室で、デルフィーナは淑女の礼をとっていた。
ローテーブルを挟んだ長めのソファへ、アロイスと、その対面に侯爵家のご令息が座している。
アロイスが呼んでいるというから来たものの。さて何用だろう。
(それにしても、なんて見事な髪かしら)
デルフィーナは視線を向けすぎないよう注意しながら、内心で嘆息した。
烏の濡れ羽色とでもいうのだろうか。ブルネットでよくあるような、茶色がかった黒ではない。真正の黒だ。
光沢のある髪は、射し込む日の光に当たってつやつやと虹色の煌めきをまとっている。
ベルベットのような手触りの被毛を持った黒猫が、窓辺で寝ている時に見える輝きに、至極似ていた。
(こんな髪を持っていたら貴婦人達に嫉妬されそうだけど――お顔が良いから許されそうね。眼福ってこういうのを言うんだわ)
デルフィーナの指示で髪の手入れをしているコフィアのスタッフ以上に綺麗だ。
侯爵家には、余程優秀な使用人がいるのだろう。
外見を美しく保つのも貴族の仕事の一つではあろうから、さすが高位のお家だと感心してしまう。
高位といえど財のある家ばかりではない中で、これだけ丁寧に身嗜みを整えられるということは、パスクウィーニ家は資産があるということだ。
単なる見栄なら、衣類や馬車にお金をかけるから、髪や肌のケアは後回しになる。男性が美容に注力できるのは真に財がある証拠。
“人を見る時に何処を見るか”はエスポスティ家では常識だ。
さて、そんな手をかけられているご令息だが、何故か不機嫌そうな顔でデルフィーナを眺めている。
これが初対面だが、何か不興を買ったのか。それとも仏頂面が彼の基本なのか。
本来なら不安に思うところだが、いかんせんアロイスがにっこにこな笑顔のため、それどころではない。むしろ、別の心配が頭をもたげてくる。
「イルミナート様、こちらが姪のデルフィーナです。デルフィーナ、こちらはヴィルガ子爵。パスクウィーニ家のイルミナート様だよ。二年ほど帝国に留学されていてね、先頃お戻りになったばかりなんだ」
なるほど。アマデイ侯爵を継ぐお方は、子爵位をお持ちなのか。
単なる貴族家の子息ではなく、本人が爵位を持っている真の貴族だ、と。
さらにはアルムガルト帝国へ留学できるほどのお方、と。
デルフィーナは、さり気なく与えられたアロイスからの情報を、心のメモに書き留める。
「パスクウィーニ家嫡子、イルミナートだ。君が今話題のカフェテリアの仕掛け人か」
ふん、と鼻でも鳴らしそうな渋面で、デルフィーナを見やるイルミナートに、デルフィーナはあれっと思った。
コフィアはアロイスと二人の商会の店で、普通はアロイス主動で開いたものだと考える。
それを名指しで仕掛け人というからには、イルミナートはデルフィーナの事情を知っているということだ。
慌ててアロイスへ視線を投げれば、落ち着けというように頷いた。
「大丈夫だよ。イルミナート様にはさっき、宣誓してもらったからね」
宣誓、とは。
魔法誓詞書を使っていないのか、と疑問を浮かべれば、今度こそイルミナートは鼻を鳴らした。高貴な人でもそんなことをするんだ、と場違いなことをデルフィーナは思う。
「貴族の中の貴族は、声に出した宣誓は必ず守る。魔法で縛るまでもない。それを破るなど、貴人としての矜持がないと言うも同然だ」
傲岸な態度だが、それに見合うだけの地位を彼は持っているし、言葉どおりなら、課せられた責務をきちんと理解し果たしているということだ。
彼の宣誓には契約書以上の拘束力があるとアロイスが判断したのなら、信じていい。
デルフィーナは素直に頷いた。
「はい。ヴィルガ子爵にはお初にお目にかかります。エスポスティ子爵が娘、デルフィーナにございます。仰るとおり、カフェテリア・コフィアは、私が考えて作りました」
「店も、商品もか」
「はい」
イルミナートは、はぁ、と溜め息を吐いた。
「せっかく帝国からめずらかな菓子を土産に持って帰ったというのに、母も姉も、たいして喜ばん。ならばとアロイスの元へ来てみれば」
言葉の代わりに、ソファ前のローテーブルへ目を落とす。
そこには、最近来客時には出している一式――アフタヌーンティセットが広がっていた。
「聞けば、最近のバルディでは紅茶と新しい菓子が流行っているそうだな。それも、一部はレシピが出回ってどの家でも作れるが、大半はカフェテリアへ行かねば食べられぬと。そのカフェテリアで供される菓子や紅茶は、今までにない色形、香り、斬新な食感だとか」
「そうですよぉ。胸を満たす香りと、深い味わい。目にも楽しく、甘さにも種類がある。素敵でしょう?」
デルフィーナが答えられないうちに、アロイスが横から応じる。
イルミナートの機嫌は悪そうなのに、それを煽るような内容で。
「ああ、確かに素敵だ。とても素敵だな。――何故私がいない間にそういったことをするのだ。何故私に知らせなかった」
「手紙を出すより前にイルミナート様がお戻りになったのですよぉ」
「カフェテリアを出してすぐに手紙を寄越していれば、随分前には届いただろう?」
「そうですねぇ。うっかり忘れていました」
「忘れるな!」
イライラしていてもずっと声を荒げなかったイルミナートが、ついに大声を出した。
(うん、仕方ない。こんな風に言われたら怒るのも仕方ないわ)
デルフィーナは強風に煽られる木の気分で、黙して二人を見守る。
「お前は! お前ほどでなくても私も甘味好きと知っていながら、何故私へ美味い菓子を寄越さなかったのだ! 羽馬を使えばもっと早くに知れていたのに!」
「えぇ? でも知ったらイルミナート様は留学を取りやめてお戻りになったでしょう?」
「当たり前だ!」
「帝国の大学卒業目前で退学とか、私が侯爵様に恨まれますよぉ」
「ぐっ……」
そこまでか。留学を取りやめてまで戻ってくる可能性があるなら、確かに教えない方がいい。たかだか数ヶ月の差なら、情報は伏して、卒業して帰国するのを待つ方が断然無難だ。
「母も姉も、土産の菓子を笑顔で受け取ったものの、意味深に「アロイスの元へ行け」と言うから何かと思えば。先触れを出した後集めた話には本当に耳を疑ったぞ。こんな。こんな菓子があるなんて。しかも幾種類も」
「そうですねぇ、だいぶ増えましたねぇ」
店のメニューは季節で変えることにしているが、目新しいものが好きな客が主なため、なるべく飽きさせることのないよう新作を出している。
やっと、人気の菓子がわかってきて、定番ができはじめたところだ。
「これでは私が帝国へ行った意味がないではないか! なんだこれは!」
「それはプリンですねぇ」
「それぞれの名前は後で全部聞く!」
「是非覚えて帰ってくださいねぇ」
「だから、そういうことではない!」
コントか? と思いながら、デルフィーナはじっと耐える。
許されていないから退室もできないし、この様子だときっとそれぞれの菓子について質問される。当分自室には戻れそうもない。
(お菓子のために留学した侯爵令息か……さすがアロイス叔父様の友好関係ね)
デルフィーナは納得した。
そして、ご令息が落ち着くまでお腹が鳴らないといいな、と思う。
食べるつもりだった昼食は、出されたところで呼ばれてしまったから口にしていないのだ。
お腹が減ったなと思うが、そんなことを口に出せる状況ではない。
そんなデルフィーナの空腹を救ったのは、部屋のドアをノックする音だった。
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※追記
二点ばかり、誤字報告を頂戴いたしました。
ご指摘くださり、ありがとうございます。
見落としを拾っていただけるのは大変ありがたく、いつも感謝しております。
ただ、今回いただいたものに関しましては、どちらも判断の上、この漢字を使っております。
意味を考えた上で選んでおりますので、訂正しないことをご理解いただけますと幸いです。





