32 小さな商店街
とはいえ。
デルフィーナはナイフなど持ったことすらないお嬢様であり、お子様だ。平民の子なら家事手伝いをしている年だが、子爵令嬢にそんな機会はない。
扱ったことのない刃物を持たせるのは危険、と二人の許可が下りなかったため、デルフィーナは口頭で指示を出す係となった。
自分でやりたい気持ちはあるものの、前世と同じに身体を動かせる自信もない。仕方なく、アロイスが安全確認してくれた備え付けの椅子に座って、二人が作業するのを見守っている。
厨房の中央には、広めの作業台があった。何をするにも良さそうだが、大人が立って作業するのに適した高さなため、デルフィーナにはかなり高い。
椅子の上に膝立ちすればちょうど良く見えるのだが、長時間するには膝が痛くなるだろうし、お行儀が悪い。
(こういう時は、子どもの身体って不便ね)
嘆息したいのを飲み込んで、さいの目切りにされたビートを眺めた。
甜菜糖を作るには、まずビートの皮を厚めに剥いて、さいの目切りにする。それを、緑茶を淹れるのにちょうど良いぐらいの温度のお湯に入れて、鍋ごと温度を保つようにして一時間ほど待つ。
「お嬢様、お湯がだいぶ熱くなってきましたよ」
「沸く前に火から下ろしてくれる?」
「はい」
「俺がやろう」
作業台の上には薄手の毛布を広げていた。
その上に鍋を置いてもらう。
温度の確認に温度計があれば良かったのだが、現世にはまだないのか、手に入れられなかったためデルフィーナは小さなボウルにお湯を掬ってもらった。
手を入れるには熱い温度でも、口には含める。飲めば大体の温度がわかるので、体感頼りだがそれで判断することにした。
「ん、ちょうど良いわ」
デルフィーナが頷いたので、エレナがさいの目切りにしたビートを鍋に投入していく。全て入れきった鍋に蓋をして、素早く毛布で包んでいく。
火にかけたままだと温度が上がりすぎてしまい、火から下ろすと温度がどんどん下がってしまうので、保温のためだ。
「さて、これで次の鐘まで待ちましょう」
店舗に着いたのが三の鐘頃だった。
一時間ほど作業したから、次の鐘が鳴るまで一時間。
バルビエリでは、朝六時の一の鐘に始まり、二時間おきに大聖堂の鐘が鳴らされる。街の人々はそれを頼りに時間を判断しているのだ。王城と大聖堂には水時計があり、それを元に時刻を知らせていた。
日時計は街中にあるし、富裕層は砂時計も持っているが、外で動く場合、鐘の音を指針にしているのは平民も貴族も同じだ。
「四の鐘までこのままかい?」
「ええ。その間に、バター、生クリーム、小麦粉、卵を買いに行きましょう」
さいわい、店舗のすぐ傍には小さいながら商店街がある。
乳製品を扱う店があるのは確認済みだ。徒歩で行ける距離だから、急に材料が必要になった場合でも困らないと、それもこの店舗を借りる決め手になったのだ。
「なら、彼らにも休憩がてら付き合ってもらおう」
庭で作業中の二人も連れて行くらしい。
動いてお腹がすいているだろうし、軽く食べられるものが売っていれば、お店の味の確認をしつつちょっとしたご褒美をあげられる。
草露で服を汚していたら、ランドリーメイドに小言を言われる可能性がある。彼らも織り込み済みで仕事をしているだろうが、文句を言われる分の心付けとして軽食はちょうど良かった。
エレナが先に行ってくれて、デルフィーナが庭へ出る頃には彼らは手を洗っていた。庭の隅にも井戸があったらしい。室内からは見えない位置で気がつかなかった。
「外にも井戸があったのね」
「草に埋もれてましたからね、見えなかったんでしょう」
なるほど、草むしりをしていて見つけたのか。隠れていたなら気付かなくて当然だ。
カフェテリアの運営で外の井戸を使うことはほぼないだろうが、普通の料理店や住宅として使うなら、泥付きの野菜を洗ったり、ランドリーメイドが仕事をするから、外に井戸は必須といえる。
彼らはあると思って草原から掘り出してくれたのだろうか。
(ありがたいことだわ)
無作為に草むしりをするのではなく、目的を持ってしてくれたと分かって嬉しい。
デルフィーナは笑顔になりながら、商店街に美味しいお店があることを願った。
「らっしゃい!」
小さなお店が並ぶ中にグローサリーを見つけた一同はまずはそこに入ることにした。
木製のカウンターの上には大皿が並んでおり、惣菜を持ち帰れるようだ。
「どれにする?」
「え?」
「お腹が空いているでしょう? 好きな物を選んで?」
フットマンと御者の二人を促せば、ほっこりと笑んで、それぞれ礼を言った後に店主と交渉を始めた。
(こういう店でも値引き交渉ってできるのね)
慣れない庶民の店でのやり取りを、少し吃驚しつつデルフィーナは見つめる。
「お嬢様も何か召し上がります?」
「ううん、今はいらないわ」
じっと見ていたためだろう、気遣ってくれたエレナに首を振って、デルフィーナは店内へ視線を転じた。
焼きしめたパンや、根菜、果菜、鱈の干物など、日持ちする食品と雑貨が置いてある。挽く前の小麦や大麦も置いてあった。
「小麦粉はあるかしら?」
「あるよ。全粒粉でいいかね?」
「精製してから挽いたものはない?」
「ちょっとお高くなるがいいかね?」
「もちろん」
精製した小麦粉の方が口当たりが柔らかく雑味も少ないが、栄養も減る。精製の手間もかかる分、値段が上がるのは当然だ。
この店では全粒粉の方がよく出るのだろう。
小さめの一袋に加えて、布巾、小さな木皿、スプーンも幾つか購入した。
次いで、隣の肉屋で売っていたソーセージを数本買って、さらに隣の牛乳屋に入る。
吊されている看板に牛とミルク缶の絵が描かれているので牛乳屋に違いないのだが、ここではバター、生クリーム、チーズなどの乳製品も売っていた。ついでなのか、卵も扱っているらしい。
「いらっしゃい」
店に入ると、少し無愛想な雰囲気の店主が声をかけてきた。
手にしていた黒い駒をことりとおろす。テーブルに座っていた彼は、店番をしつつ盤を広げていた。
(チェスみたい)
デルフィーナの視線の高さでも見られたテーブルの上には、薄茶と濃茶で格子状になった盤が置いてあった。
「何をお求めで?」
デルフィーナとアロイスを見て、首を傾げる。
店の外には、二人の男。狭い店内に入れなかったフットマンと御者だ。侍女連れの二人の身分を推察して、訝しんだのだろう。普通、使用人を雇うような階級の人間は、こういった店には来ない。
「牛乳と、バターと、生クリーム。あと卵を。少しずつ欲しいのだけれど」
生ものはたくさん買っても取っておけない。余ったら屋敷へ持って帰るにしても、今日使う分だけを求められるなら、それに越したことはない。
「入れ物はあるか?」
「ないわ。持ってきた方が良かったのかしら?」
うっかりしていた。
グローサリーは持ち帰り用の器ごと提供してくれるところも多い――その器をまた持って買いに行けば、その分を値引きしてくれる――のだが、牛乳屋の仕組みは分かっていなかった。
「器ごと買い上げでいいかね?」
「ええ、あるのならお願い」
一応、ここでもグローサリーと同じシステムで対応してくれるようだ。
一度奥へ引っ込んだ店主が、小さめのミルク缶と、ピンク色をした金属に入ったバター、ミルク缶を更に小さくしたような缶を持って戻ってくる。
バターの入れ物は、スプリングコイルのサンプルのため針金を作ってもらった時に見た金属だろう。小さな方の缶も同じ色をしていた。
前世でのアルミに近い扱いをされている金属のようだ。
「こんぐらいでいいかね?」
店主の出してくれた量はデルフィーナが求めるより少し多いが、余す分には構わない。ミルクは飲んでしまえばいいし、バターは使い切れそうだ。生クリームが余りそうだが、初めに考えていたとおり屋敷に持ち帰ればすむ。
「ええ、十分だわ」
デルフィーナは答えて小さな缶を受け取った。
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