22 物件選び
その日は朝から雨だった。
正確には、昨夜半から降り出した雨が止まず、小雨にはなったものの降り続いている。
霧のように静かな水の膜がしっとりと王都を覆っていた。
外へ出ると、濡れた土の匂いがする。
デルフィーナの覚えている雨の匂いは、もう少し違っていた。あれはきっと、アスファルトが濡れた匂いだったのだろう。
まだ馬車の改良はできていないが、雨では仕方ない。
侍女のエレナを連れている以上、晴れでもどのみち馬車に乗るしかなかったので、デルフィーナは大人しく今日もガタゴトと揺られていた。
体感での判断でしかないが、こちらの世界は、中世のヨーロッパほど曇天は多くないようだ。大陸の作りが違うのだから、気候の変動も違うのだろう。冷寒な時代でなくてよかった。
「そろそろ着きますよ」
ぼんやり天気について考えていたデルフィーナは、ギルド職員の声に意識を車内へと戻す。
今日は、商業ギルドから借りる物件の見学を予定していた。
王都内でデルフィーナのあげた条件に当てはまる建物を三つほど見て回る。
まずギルド会館へ行き、担当職員をピックアップした。彼の案内で、会館に近いところから訪れている。
すでに見た一件目の物件は、希望条件は揃っていたものの、少し手狭だった。
客の回転が早い店なら十分な広さだろうが、ゆったり急かされずティータイムを楽しんでもらうには不向きだ。
そこを保留にして、今は二件目へ向かっている。
雨は弱まってきていたが、出入りする度に脱いだり着たりするレインウェアはしっとりと濡れている。こういう時は、侍女がいて良かったと思う。
侍女のエレナには、ギルド会館へ向かう前に大雑把な説明をした。おそらく彼女は今日の予定しか把握できていない。デルフィーナが何をしようと動いているのか、きちんとした説明は追々していくつもりでいる。
まずは傍にいることに、お互い慣れてから。
馬車が止まったので雨用の上着を着せかけてくれるエレナに礼を言って、デルフィーナは外へ出た。
雨で人通りが少ないが、道幅はそこそこの広さがあった。
二件目は店内もかなりの広さがあり、ゆったりとテーブルを配置できそうだ。だが外の明かりがあまり入ってこない。雨のためばかりではないだろう。
「窓がちょっと小さいですね」
「はい。立地からも、夜がメインの料理店が入ることが多いので、元々窓は大きく作られておりません」
住宅地が近いここは、確かに昼の飲食店より夜の方が店として回るだろう。道が閑散とした雰囲気だったのは、仕事に出ていてそもそも人が少なくなっていたかららしい。
地下を含めると三階建てで、厨房も、スタッフルームにできる部屋もあり、広々使えるのは確かだが、デルフィーナはピンとこなかった。
《都内の各所にある公園を望める場所》という条件を挙げていたデルフィーナからすると、店内から公園が見えないのはマイナスポイントだ。
「次に行きましょう」
一通り確認してから、そっとアロイスの袖を引いて伝える。
頷いたアロイスがギルド職員を促して、二件目を後にした。
ほどなくして、弱まっていた雨はすっきりと上がった。雲の切れ目ができて、薄らと明るい空が垣間見え始めていた。
王都のまるきり反対側にあった三件目の建物までは、思ったよりかかっている。
空腹を覚えたようで、アロイスは途中で馬車を止めて簡単な軽食を買い込んできた。三件目に着いたらそこで食べることにして、御者を含めた五人分をエレナに預ける。
いわゆる買い食いというものを初めてするデルフィーナは、それだけでテンションが上がってしまった。
三件目の物件がどんな風か分からないうちから、良い匂いにそわそわしてしまう。
「着きましたよ」
デルフィーナの挙動が微笑ましかったのか、ギルド職員はにこにことしながら止まった馬車を降りて、最後の物件を示した。
デルフィーナはアロイスの手を借りて、馬車から降りる。
ぐるりと辺りを見回した。
大通りから離れたそこは、人通りは多くなさそうだが、ほどほどに商店街――ちいさい規模で、グロサリー、酒屋、牛乳屋、肉屋程度のようだ――にも近い立地で、店の表の道は馬車がすれ違えるだけの幅がある。
これなら来店時、一時的に馬車を停めていても大丈夫だろう。
裏手には庭があるようだが、草がぼうぼうに生えていてその向こうはよく見えない。職員の説明どおりなら、大きな植物公園が見えるはずなのだが。
その職員が、軋む音を立ててドアの鍵を開けている。
店舗の顔であるドアは、少し大きめで、劣化しているのか古めかしかった。色もデザインも重厚すぎて、圧迫感がある。そのせいで入るのを躊躇わせる気配があった。
(三件目も微妙?)
デルフィーナは先の二件もピンとこなかったので、今日最後のここも満足いかないとなると、物件の選び直し――希望条件の見直しをしなければならない。
出した条件は多くなかったので、なるべく全て満たせる物件から選びたいのだが。
「どうぞ」
ドアを見上げて思い悩んでいたデルフィーナは、職員の促す声とアロイスの手に軽く引かれて、最後の物件に踏み込んだ。
結果。
「叔父様!」
「アロイス」
「アロイス! 私、ここが良いですわ」
呼び方を正されたのすら気にならない。
中を見て回ったデルフィーナは、心を決めていた。
ギルド職員の手前、検討しようか、と言ってくれたアロイスは、会話が聞こえない距離へデルフィーナを連れていく。
対外的には、デルフィーナの社会勉強にアロイスが監督者として付き合っている、ということになっている。アロイスはその体裁を忘れず繕ってくれたわけだ。うっかりしがちなデルフィーナにとって、きちんと補佐してくれるこの叔父は本当に助かる存在だ。
「ここでいいの?」
「はい。ここがいいです」
くるくると回りたいのを我慢してデルフィーナは、広々した部屋を味わうように両手を広げる。
その様子を見てアロイスはふんわりと笑った。
「ここが一番明るいもんね。でも多分、賃貸料はここが一番高いよ? 先の二件よりだいぶすると思う」
「でしょうね……。でもここがいいですわ!」
「分かっていて決めたなら、良いよ」
ほとんどデルフィーナの独断ではあるが、アロイスの了承も得たので、契約するのはこの物件に決めた。
それをギルド職員に伝えると、満面の笑みで礼を言われる。
やはりここは少し賃料が高く、中々借り手がつかなかったようだ。
賃貸契約はギルド会館へ戻ってからなので、一行はひとまず先程アロイスが買った軽食を取ることにした。
立食パーティーでもないのに“お嬢様”が立ったまま食べることへ難色を示したエレナに、御者が馬車から大きめの布を出してくる。ピクニックをよくする貴族の馬車には備えてあることが多い、ピクニックシートだ。
店内に広げるのは予定外だが、土足で出入りする床へ直に座ることはできない。使える物があって良かった。
五人それぞれに座って、ラップサンドのようなものを食べる。
だがデルフィーナの知るラップサンドと違って、巻いている衣は薄い肉だった。
別に渡された丸いパンは全粒粉で焼いているらしく、家で食べるものより粗めの食感だ。きっとスープと一緒に食べると絡まりやすくて美味しいだろう。肉巻きの野菜は豆やタマネギや葉物がぎゅぎゅっと詰まっていた。
スパイスは高価だから、庶民向けに売っているこういった商品にはほとんど使われていない。塩も高めのため気持ち振ってある程度で、味わいは素材そのままだ。
スパイスの効いた食事に食傷気味だったデルフィーナには、嬉しい一食だった。
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