02 父との交渉
エポスティ子爵ドナートは、先日誕生日を迎えて三十一歳になった。
ドナートに仕事を押し付け無理矢理隠居した父親の後を継いで早数年。子爵としてやっと貫禄がつき始めたところだ。
豊かなダークブラウンの髪は短くし過ぎると毎朝奔放に跳ねるので、気持ち長めに保っている。今朝も撫でつけるのに時間を要したが、親類に禿頭はいないので毛量の減り具合に関してはこの先も心配ないだろう。
朝食をとるため食堂に入ったときから、今朝はなぜか強い視線に晒されていた。
妻のクラリッサは朝に弱く、昨夜も遅くまで刺繍をしていたようでまだ食堂には来ていない。
第一子の息子は、今は寄宿学校へ通っているためタウンハウスには週末しか戻らない。
ヴァレットもメイドも、いつも通り仕事をし、壁際に控えている者は視線を下げて待機している。
問題は、第二子の娘だ。
今日も祖父譲りの明るい茶色の髪をゆるくおさげ髪に結って、行儀よく果実水を飲んでいるのだが。その焦げ茶色の目は、ひたすらにドナートを見つめていた。
どうやら、父が食事を終えるのを待っているらしい。
気付かぬふりをしていつもと変わらぬペースでドナートは朝食を終えた。途端、待ってましたとばかりにデルフィーナは持っていたボウルを置いて立ち上がる。
「お父様! お願いがあります!」
朝食の間中娘の強い視線に晒されていたドナートは、どちらもよく耐えたと嘆息した。
デルフィーナは頑張って我慢したと言えるだろう。貴族令嬢に必要な教養のレッスンは七歳になってようやく始めたばかりだ。簡単ではない話を持ちかけるなら食事が終わるまで待つ、というマナーをきちんと守った娘に、声以上の意気込みを感じる。
「お願いとはなんだ?」
ドナートは決して厳しい父ではない。だがデルフィーナを必要以上に甘やかす男でもなかった。
デルフィーナはこくりと唾を呑む。
「社会勉強のため、いずれこの家を出たときのため、商会を持ちたいのです。いただいているお小遣いでは立ち上げに足りないため、資金の援助をお願いしたいのです」
「商会を?」
七歳の娘が唐突に言い出した内容に、ドナートは驚いて目を瞠る。
昨夜まで、無邪気に遊んではたまに怒られる普通の女児だったはずだ。それが何を思って商会を立ち上げたいなどと言い出したのか。
そういえば昨日は一日中屋敷のあちこちに顔を出し、離れに住む弟のカルミネとも話をしていたようだ。
ドナートは困惑の表情でデルフィーナを見つめる。
「遊びで言い出したのではありません、私は本気です」
ドナートの顔に否定の色が浮かぶ寸前、デルフィーナは言葉を重ねた。
「お父様とカルミネ叔父様が買わないと判断したあの薬、私が売れるものにいたします」
宣言の内容に更に驚く。
その顔を尻目に、立ち上がったデルフィーナは控えていたメイドに合図を出した。
彼女が押してきたワゴンの上には幾つかの物が乗っている。
湯の入った金属製のピッチャーに、キャビネットに入れっぱなしだった東大陸からきた不思議な形の焼き物、ボウル、厚手の布巾やスプーン、砂時計、ミルクピッチャー、そして昨日贈られた紅茶。
「見ていてください」
テーブル傍に止められたワゴンへ寄ると、デルフィーナは迷いない手つきで紅茶を淹れ始めた。
それは前世で飲んでいた時の淹れ方だ。
薬ではなく、飲み物として、嗜好品としての紅茶の淹れ方。
(道具もないのにゴールデンルールとか無理だけど。
使い方がわからないとしまってあった急須が見つかってホント良かった! 輸入してくれた人ありがとう!
多分これ中国茶のポット的なやつだけど、大きさがかなりあったのはホントラッキー!)
適量を急須に入れて、沸騰寸前で火を止めてもらった熱い湯を注いで蓋をし、布巾で包む。調理場から持ち出した砂時計は大きいためあくまでも目安にして、頃合いを見てボウルに注ぐ。紅茶も珈琲もないここには、当然カップもなかった。
ストレーナーがなかったため、急須の注ぎ口は事前に清潔な布巾で包んで糸で縛っておいた。おかげで茶葉はボウルに入らない。
少し布巾を伝って紅茶がワゴンに溢れたが、目的は達せられたし溢れ方としては許容範囲だろう。
(昨日一度淹れて確認したから大丈夫!)
淹れた紅茶のボウルをデルフィーナはドナートの前にサーブした。
水色は透き通る綺麗な赤だ。
「これは……」
漂う香りが二人の鼻をくすぐる。戸惑うドナートを促すように、デルフィーナはボウルを手で示した。
「どうぞお飲みください」
昨日の段階で、デルフィーナは試飲以外にも必要なことをいくつか確認していた。
一昨日持ち込まれた紅茶の量、うちにはないがこの大陸に運ばれてきた総量はいかほどか。それの行き先、引き取り手の有無。
全ては叔父のカルミネに確認済みだ。離れに住んでいるものの仕事で外に出ていることも多い彼を、なんとか捕まえられてよかった。そして紅茶の現状を彼が把握していて助かった。
薬なら売れるだろうと、海運業の男――船長でもあるブルーノは、高いものも安いものも構わず購入して輸送してきたらしい。
博打にもほどがある気がするが、目新しいものは当たることが多い。外れる例も多いのだが、薬は売れるに違いないと賭けたそうだ。
そのために子爵家へも持ち込まれた訳だが、効能がいまいち分からない点ととにかく苦いことから、買い取りは見合わせようとドナートとカルミネは決めていた。
だが、あれは淹れ方が悪かっただけだ。
確かに茶は古来薬として用いられていた。しかし前世で持て囃されたのは、嗜好品として。その淹れ方で抽出すれば、飲み物として酒類に次ぐ人気を博すものとなる。
前世の世界ではヨーロッパにお茶が渡ったのは、まず緑茶だった気がする。
水質の違いから発酵茶の方が喜ばれ、当初は黒茶が主流だったものの段々発酵度合いを変えて、最終的に紅茶が大流行、果ては戦争まで起こすほど生活に浸透するものとなったはず、だ。
歴史などうろ覚えだが、デルフィーナのいる北大陸へ初めに渡って来たのが紅茶なのは、世界の違いを感じさせる。
ここは前世とは違う世界。けれど人の営みは基本的に変わらない。趣味嗜好は共通しているように思う。
だから、紅茶は絶対に売れる。
水さえ合えば確実に売れる。
淹れ方とともに茶葉を販売するか、あるいは飲める店を出すか。そこはまだ決めかねているが、輸入できる茶葉の量によるだろう。
ともかく紅茶を持ち込んだ男から全て買い上げて、紅茶を前面にだした店を経営して、珈琲を手に入れるための資金作りをしたい。
あっという間に飲み干したドナートに、デルフィーナは二杯目をすすめることにした。
「これは、ミルクを入れても美味しいんですよ」
紅茶に続けて、適量をピッチャーからボウルに注ぐ。
先程より少し濃く入った紅茶は、抜群にミルクティー向きだ。
薬にミルクを混ぜるなど聞いたこともない、とドナートは二杯目も恐る恐る口にした。
一口含んだ途端、また驚いたように目を瞠る。
「いかがですか?」
得意気な表情になってしまったのは許してもらおう。デルフィーナはにこりと笑いながらドナートを伺った。
「なんとも言えない香りと味わいだな」
深く息を吐いたドナートは、満足げな顔つきだ。
しかし一旦閉じた緑の目を開いたときには、また困ったような面持ちになっていた。
「デルフィーナ」
「はい」
「これを軸に、商会を回そうというんだな?」
「はい」
「確かにこれは売れるだろう。だが――」
わざわざ商会を立ち上げる必要があるのか。
エスポスティ子爵家はその成り立ちであるエスポスティ商会を持っている。そこで売るのではダメなのか。ドナートの当然の疑問をデルフィーナは打ち消さねばならない。
「この紅茶は、東大陸から持ち込まれたものです」
「ああ」
「エスポスティ商会が扱うには、圧倒的に量が足りないでしょう」
「新たに飲食店部門から飲み物専門店を出せばいい」
「それならば私が新たに商会を立ち上げても構わないでしょう?」
一理ある。ドナートは唸った。
「商会の従業員はどうする?」
「募集をかけますわ」
「商会長が七歳では集まらないかもしれんぞ?」
「募集の時にはそこを伏せますから」
「騙されたと怒る者がいるかもしれん」
「そういった者は端から雇う気はありませんわ」
「む……」
澄まし顔のデルフィーナに、ドナートは苦虫を噛み潰したように声を漏らす。
「それに、この淹れ方は今のところ私しか知らないはずですわ。これを新たな商会で独占するつもりです」
どのみち紅茶の輸入量が安定して増えないと茶葉を売ることはできない。
ならばそこが安定するまでデルフィーナの商会でのみ飲めるものとすればいい。
「エスポスティ商会は大きくて客層も豊かでしょう?
専門店を作っても、飲み物全般を扱う店となれば色々と人の出入りがあるはずです。そうなると、レシピはいずれ盗まれますわね。
紅茶は東大陸へ行きさえすれば手に入る訳ですから、すぐに別の店が出てきますわ」
海を渡るのは大変だが、手に入れてしまえば確実に売れるのだ。高リスク高リターンを狙う商人は絶対にいる。
その点、デルフィーナの目の届く範疇で小さな店を開くのならば、レシピの流出は抑えられるだろう。
もちろん、雇用する者はよく調べてからとなるが、人数が減る分リスクも減る計算だ。
「むう……」
唸ったドナートは、腕組みをして黙考の姿勢に入ろうとする。
それを遮るように、デルフィーナは更に提言した。
「それと、アロイス叔父様をお貸しください」
「アロイスを?」
出てきた名前にドナートは目を瞬いた。
「私の監督をしていただく方が必要でしょう?」
デルフィーナは肯定するように頷く。
たかが七歳の女児が会頭をつとめて商会を開くのは、いくらなんでも無謀が過ぎる。
従業員は募集をかけると言ったが、当然ドナートの息のかかったものが募集の前に回されてくるだろう。エスポスティ子爵家に関わる者がまわりを固めるに違いないが、部下ではない立場でデルフィーナを抑えることのできる人間も必要だ。
それはデルフィーナにも分かっている。
だが監督者がデルフィーナの意に反する行動を取るようでは計画が頓挫する懸念がある。そのリスクを避けるため、監督者はデルフィーナに協力的な人につとめてほしい。
アロイスはドナートの弟だが、祖父の後妻の連れ子で、ドナートやカルミネとは血が繋がっていない。
子爵家の人間ではあるが子爵家の血を引いていないため、ドナート達に遠慮があるのか、未だ婚約者すらいなかった。男性は結婚を急がないため、そのうちするだろうとドナート達は楽観している。
かなり年が離れていたためドナート達に可愛がられて育ち、それもあってか、家を支えられるようにと、大学を出た後は領地でそちらの管理に携わっている。
とはいえたいしてすることもない領地だ。実際は何でも屋みたいなことをしているらしい。
(こうして考えるまで、おばあ様とは血が繋がってないって、今まで気づいてなかったよ)
その義祖母の連れ子であるアロイスなら、デルフィーナのやりたい事に必要以上に口を挟んでくることはないだろう。
商会が成功して大きくなったとしても、運営を任せられる。
領地経営の監査もしているのだから数字にも明るい。一店舗の収支計算など容易いものだろう。
デルフィーナは、やりたいことは明確だし採算が取れる案は持っているが、実際の店舗経営は未経験で知識もない。
どこに店舗を出すべきか、規模はどのくらいがいいのか、どういった場で宣伝をすべきか。等々の、商人、社会人としての見識はない。
なくても商会は開けるが、珈琲への第一段階でしかない資金作りが遅々として進まないのでは困ってしまう。
アロイスはデルフィーナを可愛がってくれているし、まだ若い分考え方も柔軟だ。新しいものも受け入れやすいだろう。
デルフィーナがこれからしようとしていることは、多分どれも新しい物事となる。協力者に拒否反応が出ない方がいい。
デルフィーナに対しては少しおっとりと見守る姿勢の強いアロイスは、領地では有能だと人気がある。
人当たりも良い、つまり商人に必要なコミュニケーション力が高い。
思考が柔軟で有能で経営力があってコミュニケーション力が高くて、デルフィーナに優しい。
そんな人材を知っているのに引き込まずにいる訳がなかった。
ドナートの様子はと見れば、腕組みをしたままうんうんと唸っている。
七歳の娘の口車に乗ってみるべきか。出資金は戻らないものとして賭けてみるべきか。
紅茶の淹れ方だけ娘から高めに買い取って、それを欲しがっている資金として与え終わりにするか。
「お父様、設立にかかった費用は必ずお返ししますわ。もし万が一運営が上手く行かなくても、赤字にだけはいたしません。赤字になりそうなら、その前に商会をたたみます」
商会が軌道に乗らず失敗しても、借金さえ作らなければドナートにとっては痛手とならないだろう。
「私のいただいているお小遣いを、数年分前借りするだけ、とはお考えいただけませんか?」
ドキドキしながらデルフィーナは胸の前で両手を組む。祈るような娘の姿勢と乞い願う眼差しに、ドナートは音をあげた。
「わかった」
知り合いの商人が独り立ちするのを資金援助するのと変わりない。娘本人もお小遣いの前借りだというのだから、ドレスや装飾品の今後必要となってくる物を数年与えず済ませばいい話だろう。
そう割り切って考えてしまえば、そこまで悪い話でもない。
デルフィーナの淹れた紅茶は、また飲みたくなるものだった。上手く運べば成功するだろう。商人としての勘もそう告げている。
「それほど大きな額は出せないが、最低限必要な資金は出してやろう」
ドナートの言葉に、デルフィーナは飛び上がって喜んだ。
「本当ですか?!」
喜色満面といった笑みに、ドナートも釣られてしまう。
約束ですよ! とデルフィーナは父の手を取ってブンブンと握手をする。
見守っていたメイド達も、微笑ましそうに空気を和ませている。
「あら、まぁ、なにかあったの?」
二人の様子に、ようやく食堂にやってきた子爵夫人は、何事かしらと首を傾げた。
ヴァレット=従者
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