153 滞在最後のゆうべ
ペチ、コトン、という小さな音が静寂の中、たまに響き渡る。
傾き始めた陽光が差し込む部屋の中、デルフィーナはアバティーノ公爵と向かい合って座っていた。
数ある応接室のうちの一室であるここは、いつも使っている晩餐室の近くにある。つまり家族や親しい客人が使う一角だ。窓からは、表の庭の緑がよく見える。
その窓にほど近いところに、二人は座っていた。
二人の間にはカードテーブルがある。だがその上に広げられているのはカードではなく、将棋の盤だった。
おそらく一番低いテーブルを出してきたのだろうが、それでも足つきの将棋盤を乗せると高さがある。
デルフィーナが盤上を見るには椅子が低かったので、クッションを積んで座面を上げてもらっていた。両サイドに肘掛けがある椅子のため、不安定さはなく、転げ落ちる心配はない。
ゲームルールは既に公爵家の家人に伝えてあるから、本気で指したいのなら閣下はそちらへ声をかけるだろう。
だからこれは将棋を建前にした、滞在最後の交流ということだ。
公爵を相手に将棋を指しながら、デルフィーナはたまにされる質問に静かに答えていた。
明日、デルフィーナは公爵家にいとまを告げる。
なんだかんだのんびり過ごさせてもらったため、十日ほどの滞在となっていた。この滞在日数は、おそらく公爵家側に調整されていた。
閣下がデルフィーナに出した課題も、デルフィーナを屋敷に留めるための後付けの理由に過ぎなかったのでは、と今のデルフィーナは考えている。
本命は、デルフィーナの護衛を決めること。そしてドナートとの認識の摺り合わせと、今後についての打ち合わせだった。
公爵家に死蔵されていた東大陸産の品々の活用方法をデルフィーナがかなり見つけたのは、きっと副次的な結果でしかない。公爵家の執事達は喜んでいたから、それはそれでよかったのだろうが。
だから、もっと早くにデルフィーナが品の確認を終えていても、何かしら理由をつけて引き留められていたはずだ。
とはいえデルフィーナにとっては魅力的なお屋敷だったから、引き留められても素直に留まっていただろう。
エスポスティの家ではやりたいことが多く、毎日が充実している分、忙しなかった。豪奢な部屋だけは居心地が微妙だったが、総合的に考えて公爵家で過ごした日々はのんびりしていたと思う。
ほぼ城というような広いお屋敷なので、客の見られる場所の全てを見ることは叶わなかったが、中庭では間近に孔雀を見せてもらったし、裏庭では騎士達の稽古を見学することもできた。
公爵家は、私的な騎士団を持つことを許された家柄だ。所有する所領を守るためである。だから大多数が領地に居るのだが、公爵の移動に合わせて一部の騎士達は王都に滞在している。
騎士団を抱える許可があるとはいえ、軍事力の保有は脅威であるため、王家は常に公爵家を意識している。
アバティーノ公爵がどれだけ力を持っているか、その領地の状態やおこなっている事業を考えれば、それも当然だとデルフィーナですら思う。
時に挑発し牽制し、忠誠を試し、重用し、婚姻し、王家は国内の力ある各家との関係を保ってきた。そんな中の筆頭がアバティーノ公爵家なのだ。
騎士達はいつなんどき何が起きてもいいように、有事に備えて鍛錬を欠かさない。
その有事の相手が誰であるかは慮外なのだろうな、と見学しながらデルフィーナは思っていた。
騎士達の動き、人数、統制の取れた雰囲気などから、デルフィーナはいかにアバティーノ公爵とヴォルテッラ家が力ある存在なのか、改めて認識していた。
庭では他にも、館と繋がる形の古いオランジュリーをじっくり見せてもらうことができた。
南方から取り寄せたシトロンやオランジュは堂々とした枝振りで、長くそこに生えているのだとよく分かった。名も植えた当時から引き継がれているのか、異国風に呼ばれていた。
東大陸からの植物ももちろんいくつかあり、主に香辛料のなるものが多かった。
他は薬用とされているもので、思ったほど花はなかった。
そもそも植物を観賞用に育てる意識は、実はバルビエリでは未だ薄い。
花を愛でる心はあるものの、“見るためだけの花”を得ようとする気持ちや、より美しい花を生み出そうという考えや動きは、社会が成熟してから始まるものだ。
自然にあるものをあるがまま愛でるとか、庭に植えるとかはあるが、品種改良はまだまだ手つかずの世界。
温室で育てるのも、実用性が先に立つ。
それはバルビエリで上から数えて五指に入る身分の公爵の屋敷であっても、同じだった。
これならば、王家所有の温室、王立公園にある温室内も、似たり寄ったりかもしれない。
植物細密画の画集をどの路線で進めるか、もう一度考えよう、とデルフィーナに思わせるオランジュリーを見られたことは、予想外の収穫だった。
カツン、と音が響いてデルフィーナは意識を盤面に戻す。
公爵の指した手を受けて、デルフィーナは考えてから、ペチ、と駒を置く。
勝っても負けても構わないが、手を抜くのは怒られそうだから、一応真剣に指している。
とはいえ駒の持ち方はたどたどしい。
小さな手は大人ほど器用に動かないので、慣れない駒は棋士の持ち方を知っていても上手くできない。
中指と親指で駒を持ち上げ、人差し指と薬指でサイドを支えつつ中指で下ろすと、パチン、と綺麗な音で目的のマスに指せるのだが、デルフィーナにはどうしても無理だった。
公爵家の撞球室付きの使用人は幾度か練習したらできるようになっていたから、ちょっと羨ましかったのは内緒だ。
王の囲いに金二枚と銀一枚を使い守りを固めた後は、飛車角を使いつつ相手の駒を減らしていく。
チェスやシャトランジと違うのは、取った駒を盤上に復活させられるという点。
公爵は桂馬を上手く使って攻めてきていたが、まだ慣れないゲームのためか、若干デルフィーナが優勢となっていた。
香車の動きが結構好きなデルフィーナは、これを使ってまた相手の駒を剥ぐ。
駒が成るのに慣れなかった公爵は善戦したが、一日の長があったデルフィーナに軍配は上がった。
戦法やら定石やらはデルフィーナには分からない。
知っていたのは初心者向けの、王の囲い方だけ。
東大陸からもっと将棋盤が入ってくれば、北大陸でも流行るだろうが、ルールが少し難しいので、シャトランジの上級者でないとすぐにゲームが終わってしまいそうだ。
流行って将棋を指す人口が増えたら、そのうち戦法やら何やらが研究され始めるのだろう。盤が少ない以上、まだまだ先の話だ。
感想戦をやるようなレベルではないので、デルフィーナはすぐに盤の上を崩した。
そのまま駒を箱に入れて中央でひっくり返し、山を作る。
「閣下、ルールが分からない方には、将棋崩しもアリですわよ」
「将棋崩し?」
「はい。駒を山にして、音を立てず一本の指で駒を取っていくのです。音を立てたら次の人の番。全ての駒を取り終えたらゲーム終了で、多く駒を取れた方が勝者です」
不安定な山を崩さないようにしつつ、数多く駒を取っていく遊びである。
将棋を指すよりも頭を使わずに済むため、一局後の気分転換にちょうどよかった。
すぐに将棋崩しのルールを理解した公爵は、さっそくやる気になっている。
デルフィーナの手には大きな駒も、公爵の指で押さえられると小さく映る。その指で、公爵は動かしにくそうに倒れていた駒を取っていた。
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