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119 出立




 小鳥達のさえずりが、窓の外で響く。

 朝の寒さがだいぶ減って、彼らも活発に動けるようになってきたようだ。

 爽やかな空気にぱっちりと目覚めたデルフィーナは、ぼんやり天蓋を見上げた。


 今日は、公爵閣下との面会の日だ。

 ドナートが手紙を出して、了承の返事を得られたのが昨日のこと。

 昨日の今日で、と思うが、閣下はそのお立場ゆえお忙しいのだろう。

 気構えは済んでいたから、デルフィーナに否やはなかった。


 マリカにリーノ、ウベルトにマリーザ。それまでの人生で、持っている固有魔法が恐ろしいもの、くだらないもの、役に立たないと思っていた者達。

 彼らはデルフィーナにより、その先入観を覆された。そして今は、役に立つ喜びと、以前はなかった自己肯定により、生き生きと仕事をしている。

 彼らのことを思い出し、デルフィーナの対公爵閣下の方向性は決まった。

 その考えの基になったのは、アロイスが聞かせてくれた、過去にいた“稀人”の話だ。

 似たようなことを求められる可能性があるのなら、今、既にやっていることを、より積極的におこなえばいい。

 武器、軍事に関すること以外は知る限りを伝えても、デルフィーナにダメージはない。

 求められる代わりに、どれだけこちら側から求められるのか。そこは不明だが、ある程度妥協するしかない。

 相手の方が立場は上、しかも遙か上なのだ。身分制社会であることはどうしたって踏まえて考えなければならない。

 上手く立ち回れば、何とか交渉に至れるはずだ。

 カルミネとドナートから聞き出した公爵閣下の情報はさほど多くないが、これを役立てつつ、臨機応変にいこう。

 相手の出方が分からない以上、その場その場で対応するしかない。


「よし!」


 気合いを入れて、デルフィーナは起き出した。







「ギリギリでしたが、なんとか、間に合いましたね」


 珍しく朝食の席に現れたクラリッサは、食事の席に見合わないものをその手に抱えていた。

 やつれた様子の見え隠れするその顔には、くっきりくまが浮いている。化粧で誤魔化すこともせず出てくるなど、いつもならありえないことだ。


「お母様?」


 まっすぐデルフィーナに視線を定めて歩んでくるクラリッサは、ある程度の距離で足を止めた。


「今日はこれを着ていきなさい」


 手にしていたものを広げて見せる。

 それは、シックな藍のベルベット地に、青と水色と金の糸で刺繍を施したドレスだった。


「貴方が落ち着いて公爵閣下に相対せるように、貴方が無事に戻ってこられるように、願いを込めて刺しました」

「お母様……」

「私の魔法は、こういう時、役に立つのよ」


 公爵への謁見が決まった時から、食事時間以外、クラリッサは自室に籠もっていた。

 仕事が立て込んでいるのだと思っていたのに、作っていたのはデルフィーナのドレスだったとは。

 食事を始める前だったデルフィーナは、立ち上がって近づくと、しげしげとドレスを眺める。


「素敵……こんなに綺麗な刺繍は大変でしたでしょうに…」


 細やかに描かれた花は、時間の許す限り刺されたものとわかる。

 嬉し泣きしそうになるのをこらえて、デルフィーナは笑顔を浮かべた。


「ありがとうございます。今日はこれを着て参りますわ」


 エレナへ視線をやると、丁寧に受け取ってくれた。

 部屋に置いておいてもらい、朝食後、着替えるとしよう。

 手からドレスが離れて、クラリッサは肩の力を抜くようにほっと息をついた。数日間、根を詰めていたのが緩んだのだろう。

 ゆらりと身体が揺らぐが、それでも倒れることなく、朝食の席に着く。


「今朝は控えめにいただくわ」


 デルフィーナを見送ったら寝るのだろう。食べてすぐ横になるのはよくないと経験から知っている彼女は、アーモンドミルクに少しのパンと、フルーツだけを選ぶ。

 デルフィーナはといえば、これから腹を据えて対峙しなければならない大仕事が待っているのだからと、しっかり食べている。

 朝食用のメニューではあるが、デザートまで平らげて、身体に力をみなぎらせた。




 朝食を終えたデルフィーナは足早に部屋へ戻ると、エレナに手伝われながら外出の準備に取りかかった。

 クラリッサの用意してくれたドレスへの変更に伴って、靴を選び直す。元々落ち着いた臙脂のドレスを着る予定で、差し色として小物は白を選んでいたから、そこは変えなくてもいい。


 手早く着替えを終えて鏡台の前に座ったデルフィーナの髪を、エレナが丁寧に結う。

 今日のデルフィーナは、珍しくハーフアップの髪型を選んだ。

 この髪型だと、簪をさせるからだ。


 東大陸からの輸入品で、使用目的が分からず離れの一室に飾られていた品を、デルフィーナが買い取ったのは懐かしさを感じたからだった。

 だがこんな日には、気持ちを引き締めるため装飾という武装が必要だ。

 化粧のできない年齢のため、ドレスとアクセサリーで決めるしかない。だから今日はこの簪をつけることにした。


 そもそもヘアゴムのないこの国では、髪を結ぶのは紐である。

 ゴムよりも手間のかかる物であるため、多少髪を巻き込んでも痛みを感じずに済む三編みなどに普段はしていた。

 だが今日は気合いを入れたい日。モチベーションアップのためにも、しっかり自分を飾り付ける。


「こんな感じでどうでしょうか」


 手鏡を遣って後ろ姿をエレナが見せてくれる。


「うん。良いわね」


 この手鏡も鏡台の鏡も、デルフィーナが魔法をかけてからとてもはっきり映るようになった。

 揺れる簪の揺れ具合まで見える。

 身だしなみが整って、すぐにデルフィーナは屋敷のエントランスへと向かった。




 屋敷の入り口には、既に馬車が待機していた。

 乗り込むのを待つ状態で、馬達も大人しくしている。

 ファサードに出て待っていたドナートに、デルフィーナは楚々と歩み寄った。後ろには、いつもどおり――ただし余所行きの侍女らしい正装をしたエレナが続く。


「準備は良いようだな」

「はい」


 言葉少なに答えたデルフィーナへ、ドナートも頷きを返す。


 基本的に紳士は手袋をはめている。いくつか理由はあるが、そのひとつとして、洗っても落ちないインクの汚れを隠すため、というのがある。

 元来の理由は、防寒だったり、擦り傷切り傷の防止だったり、素手で女性に触れないように、だったりしたのだが。もはや装飾として不可欠になっている。

 一昔前は貴族でも文字の読み書きをせず祐筆に任せていたため汚れなかったが、文官として勤めるならば必須の能力であるため、今は概ねの貴族がペンを持つ。


 フォーマルな装いのドナートも、当然手袋をしていた。

 その手が差し出されて、デルフィーナはそっと手のひらを乗せる。

 普段ドナートにエスコートされる機会のないデルフィーナは、アロイスと高さの違う手に掴まり、馬車へと乗り込んだ。


 デルフィーナは、まだ他家の訪問をしたことがなかった。これが初となる。


 初めてのお呼ばれが公爵家というのは、普通なら何とも豪儀な話だ。

 だが全く嬉しくない。


 お友達を作って、あるいはお付き合いのある家へ親に伴われて、お家を訪うというのが、本来の淑女の交流のスタートだ。

 だというのに、デルフィーナは公爵に呼び出されてのお伺い。なんとも言い難い初の他家訪問に、なんとも苦い心地となる。

 だがもうこれは覆しようがないので、諦めて、初めての<他所のお宅>を楽しむこととしよう。


 緊張感が少ない様子のデルフィーナに、ドナートがそっと内心で嘆息していることなど気付きもせず。

 デルフィーナは走り始めた馬車の窓から見える外を眺めることにした。






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