01 苦味での目覚め
(うぇっ、にがっ、苦…っ! なんでこんな濃く淹れちゃったの?!)
舌を刺激する苦味にデルフィーナは顔をしかめた。
幼いながら淑女として躾けられていたから、舌を出すまではしなかったが、危うく大口を開けてしまうところだった。
今は来客用サロンで、父母と叔父とともにエスポスティ子爵家傘下の海運業者と接見しているところだ。先日この北大陸に戻ってきたという男は、東大陸から持ち帰った茶なる薬を振る舞ってくれた。その客人の前で舌を出す下品な振る舞いはできない。
(ん……? 濃く…? どういうこと……?)
酷い味に寄せた眉のまま、デルフィーナは自分の思考をいぶかしむ。
そうして手にしたボウルを見つめた。
この香りを嗅いだ時も、私が飲みたいのはこれじゃないんだよなぁ、とうっすら考えた。
つまり自分はこの飲み物を知っているということだろうか。
「これは……薬とはいえ苦いですな」
「濃く淹れてこそ効能があるとか」
「しかし東大陸人は本当にこれを日常に飲んでいるのか?」
「そういう話でしたよ」
頭上を飛び交う会話は、それぞれ茶を口にした大人達のものだ。
「しかし、船員の話では、もう少し薄かったようにも思いますね」
「どの程度が適正なのでしょうな?」
「いかんせん馴染みの薄いものですからな……」
「薬と思えば飲めますが……」
「魔法薬の方が効き目がありそうだな……」
(馴染みがない、そうなのか)
黒いほどの水色を見ながら、デルフィーナは四人の声を聞く。
子爵夫妻たる父母ですら馴染みがないものを、自分は一体どこで知ったのだろう。
(私が飲んだのは、もっと薄くて、香りもよくて、ミルクが入っていて……)
でもミルクをたっぷり入れて飲むなら、もっと好きなものがあった。
これみたいな赤みがかった色じゃなくて、茶色を煮詰めたような黒い液体。とても香りが良くて、豆を挽く段階から嬉しかった。
美味しいカフェオレ。
ミルクを入れないブラックコーヒー。
そう、珈琲。
それを思い出した瞬間、大量の記憶が脳裏にスパークする。
溢れ出るものに、デルフィーナの頭はパンクした。
気づけば自室に戻っていた。
どれだけぼんやりしていたのだろう。
ソファに座ったまま、何をするでもなくデルフィーナは放心していたらしい。
「思い出した……」
呟きを拾って、室内にいたメイドが振り向く。
「お嬢様、口直しに何かお飲みになりますか?」
どうやら紅茶の苦さに呆然としていると思われたらしい。無言で固まったデルフィーナはメイドに付き添われて、挨拶もそこそこに部屋へ戻ってきたようだ。
倒れこそしなかったが没我の状態だった。
「お願い」
こっくりと頷いてデルフィーナは舌に残った苦味に顔をしかめる。
異常なほど濃く淹れられた紅茶を飲んで、その苦さで思い出したのは、デルフィーナのいつかの前世だった。
多分、直近の前世ではない。なんだか四つ足で走っていたり風に乗っていたり花畑を飛び回っていたような記憶もうっすらある。ただ今世は人だったから、以前人だった頃の記憶が多く甦ったのだろう。
それが良いことか悪いことかは未だ分からないが、混乱する頭は整理しておいた方がよさそうだ。
メイドが用意してくれた果実水を飲みながら、デルフィーナはゆっくりと引き出された記憶を思い浮かべる。
名前は覚えていない。
性別は今と同じ女性。
ブルネットの髪にダークブラウンの瞳に、象牙色の肌をしていた。
一般的なサラリーマンの家庭に育ち…サラリーマンとはなんだっただろうか…学校は大学まで出た。やっとのことで企業に就職したものの身体がついていかず、病に倒れて離職して、その後は覚えていない。
好きだったものは珈琲と、美味しい珈琲が飲めてスイーツが食べられる喫茶店巡り。
学生時代の友人とアフタヌーンティやビュッフェ巡りもしたし、お金がない時は自作もした。
視覚で覚える方だったのか、見ていた建物やテーブルの上のもの、珈琲や紅茶を淹れる道具の他、レシピ集まで思い浮かべられる。
その割に音はほとんど記憶していなかった。人の顔も曖昧だ。鏡を覗いた記憶もないから、自分がどんな顔だったのか分からない。
今と比べるのもなんだから、覚えていなくて構わないけれど。
味は一番覚えている。
だからこそ記憶が引きずり出されたし、懐かしさに今あえいでいる。
珈琲が飲みたい。
とにかく珈琲が飲みたい。
ブレンドでもストレートでもエスプレッソでもドリップでもなんでもいい。酸味が強かろうが苦味が勝ろうが焙煎度合いがどんなだろうが構わない。珈琲が飲みたい。
デルフィーナの前世は紅茶より珈琲派だった。
(珈琲が! 飲みたい!!!)
そして紅茶が渡ってくるより前にヨーロッパへ伝来していたはずの珈琲には、今世、噂ですら出会ったことがない。
影も形も香りもない。
ということは、ここには、珈琲が、ない。
非情なる現実に、デルフィーナはがっくりと項垂れたのだった。
詳細とはいえないまでも、一部だけ克明な前世の記憶を得たデルフィーナは、今後の目標を立てることにした。
珈琲が飲みたい。その思いは実際に飲むまで消えることはないだろう。
それなら、なんとかして本懐を遂げるしかない。
幸い、全く実現不可能な夢ではない。
デルフィーナは自分を取り巻く環境に心から感謝した。
まず、デルフィーナの家は子爵家だ。
商家に生まれた高祖父は、立身出世の人だった。
大陸は戦時と平時が波のようにくり返す時代。武器とその元となる鉄に目をつけた高祖父は、一人立ちした後立ち上げた商会でそれらを扱った。戦火の収まっている地域から武器を買い取り、余った鉄があればどこからでも集め、鍛冶職人を引き入れて武器を作り、キナ臭い地域へ運ぶ。完全な武器商人だ。
そうして最終的に、今住んでいるバルビエリ王国と当時の国王が隣国との戦に苦しんでいるところへ、武器とそれで釣った傭兵を売り込み、勝利に導いたのだ。
その功績を認められ、爵位を賜った。
元々商人だ、爵位を賜った後も商売を続け、純粋なる貴族からは見下されながらも、四代目へと爵位を継いでいる。
現当主の代から、海運業にも手を出し始めた。
船の性能が良くなって、大陸間の行き来が辛うじてできるようになったのだ。
とはいえ東大陸はまだまだ遠く、南大陸もそれよりは近いとはいえリスクはそこそこある。メインの業務とするには依然問題が多い。
だが、東大陸はバルビエリ王国のある北大陸より南にある。
珈琲の木があるのは紅茶を作っている東大陸か、それとも南大陸か。緯度は東と南、どちらも北大陸からするとかなり赤道に近いはずだ。
明確な地図がないから、今までの生活で知った事柄から推測するしかないが。
食生活を思い返せば、動植物も前世とそれほど差はないように感じる。
つまり、どこかには珈琲の木がある。
珈琲の木は観葉植物にもなっていた。一人暮らしの室内で育てた覚えがある。
あの木をなんとか見つけたい。まずはそこからだ。
だがデルフィーナはまだ幼い。使える魔法もほとんどない。子爵令嬢の身で、珈琲の木を探しに行くのはかなり厳しいだろう。
(どうしたらいいんだろ……)
暗闇を模索するような心地となったが、諦めるつもりはさらさらない。となると、できることを一つ一つしていくしかないだろう。
一歩も踏み出していない状態からめげるなど論外だ。
デルフィーナは一つ頷いて立ち上がると、学習用に設置された机に向かった。
紙とインクを取り出すと、ペンを滑らせやるべき事柄を羅列していく。
・珈琲の木を見つける
・持ち帰る
・大きく育て豆を収穫する
・焙煎する
・挽いて抽出して飲む
単純明快だ。だがこれを細分化していくと、それぞれに大変な壁がいくつも出現する。
デルフィーナはウンウン唸りながら、思い付く限りの方法と実現させるためのあれこれを書き込んでいく。
その唸り声は、就寝時間を宣言したメイドにベッドへ押し込まれるまで続いていた。
初めての投稿です。お楽しみいただけましたら嬉しいです。
次回は土曜日に投稿予定です。