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トラギエーディヤと恋  作者: 鍋谷葵
出会いの夏
6/41

 未だ書庫で作業をし続ける椿さんを置いて僕と鼻歌混じりの上機嫌な先輩は、玄関から外へ出た。相変わらず玄関の扉は建てつけ悪く、好奇心に身を費やす先輩の逸る手では中々開けられなかった。先輩じゃ開けられなかったから、結局僕が開けた。最初の一歩をくじかれたお陰様で、ちょっとだけ先輩の好奇心は減ったみたいだ。いくら好奇心で動く人であっても、目の前を阻む何かがあると少しだけ気持ちは減るらしい。けれども、少しだけ減っただけでその歩みを止めるわけでは無い。先輩は、鼻歌を止めただけで、プラチナの髪を風になびかせながら確かな足取りで旧校舎の裏へ、未踏の竹林へと歩いて行く。もちろん、僕もそれに追従する。

 ただ僕としては、好奇心を減らすだけじゃなくて、今から予定を変更して欲しいっていうのが本心だ。体力が無さすぎることが、足を引っ張って僕の気持ちを衰微させているのは確かだ。けど、汗水たらして働いて、その後休憩なしで、青い香りと土の香り、砂っぽい乾燥した空気が立ち込める外を歩くのは辛い。辛すぎる。外は相変わらずの暑さを誇って、僕の体力をじりじりと削って行くのだから。こんななけなしの体力じゃ、この猛暑の中歩くというのは苦行の内。足取りも重いし、やる気も無い。せめて、先輩から何かお褒めの言葉があれば良いのに。


「そう言えば、お礼がまだだったわね杏子。まあ、いつものことだけれどありがとう。そして、これからもよろしく頼むわね。頼りにしてるわよ」


 竹林の目の前に着くと先輩は、翻って僕の顔を見た。赤い瞳を猫の様に細めて、はにかんでいる。相変わらず見惚れる笑みだ。そんな、笑みで先輩は僕に『ありがとう』を伝えた。それはもう筆舌を尽くしても語りきれないほど、素晴らしい言葉だ。この青々として、清々しい夏の空に似ている力を持っている。一瞬にして衰えていた気概は、より一層勢いを増して活き活きと復活した。疲労でぐったりとした表情筋も、再び張った。多分だけど、目は見開いて、キラキラと瞳を輝かせ、口元も綻んでいたと思う。全く、夏の暑さなんて馬鹿馬鹿しくなった。美しい微笑みと甘い言葉は、僕の疲れをすべて吹き飛ばした。活気漲る体は、一刻も早く、先輩と一緒に目の前の青々とした竹林に赴きたいという気持ちに溢れた。

 けれど、その前に僕も言葉を返さなきゃならない。『ありがとう』を受け取ったのなら、返礼を返すのが義理だから。だから、嬉しさに上ずろうとする声を何とか普通の抑揚に抑えて僕は言葉を返した。きっと、顔つきは綻んだままだと思う。


「どういたしまして」


 先輩は、僕がやっとのことで紡いだ言葉に言葉を返すわけでも無く、相変わらずの微笑みだけを返した。ただ、その微笑みの中に込められた意味は、ついさっきの感謝では無いみたいだ。どうやら、子猫を可愛がるような、愛玩みたいな感情が込められている。まあ、それも僕が感じただけだから、本当に先輩が、そんな風に思っているかどうかは分からない。だけど、さっきまでの感情とは違うことだけは、確かだ。

 微笑む大人っぽい先輩の表情は、いつの間にか消えていた。代わりに先輩は、子供っぽい無邪気で朗らかな表情を浮かべた。香ってくる土の匂いが、良く似合う表情だ。そんな年相応の笑顔は、僕の心をさらに焚き付けた。恋心は、どんな笑顔でも燃えるみたいだ。


「さあ、行きましょう。湧き立つ好奇心が待ってくれないわ。賞味期限が短い好奇心には、細心の注意を払って迅速に片を付けるのが最良よ。ねえ、だから行きましょう! ほら、早く!」


「ちょっと、待ってください! ちょっと!」


 野性味あふれる笑顔を浮かべる先輩は、僕の右腕に唐突に抱きついた。ふくらみの柔らかさが右腕に集中した。素直な恋心に滾る僕の心は、沸騰した。顔も赤くなった。体は一瞬にして熱くなった。けれど、先輩は僕の気心なんて当然知るはずも無く、お転婆な声を上げて大きく歩き始めた。気が動転しそうだったけど、そこは何とか腹から出る声で抑えた。

 少しだけ声を荒げて僕は恥ずかしがった。けれど、発した大きな声は僕の興奮する心を少なからず緩めた。燃える恋心は、したたかに燃えた。そ若干の理性を取り戻した僕からしたら現状は何だか、とてつも無くありがたく感じられた。役得だ。右腕の柔らかさが、僕の心を温める。


「イッ!」


 神様はどうやら僕が抱く下心を見透かしているらしい。

 竹林に接近するまで単に生い茂る雑草としか見えなかった苔むし過ぎた石畳の連なる湿った笹を被った道に足を踏み込むとすぐに、虫が僕の首を刺した。そこそこの痛みがあった。ちゃんとした痛みがあるから虻だと思う。きっと神様が、虫という使者を使わして僕を罰したんだろう。少しメルヘンが過ぎるけれどね。まあ、当然の報いと言えば当然の報いだ。いや、でもこんな奇跡を遣わせたのも神様なんだから別に罰する必要はないと思う。人間のそう言った欲が一番強いことは、神様だって分かるんだからさ。下心をしたたかに抱いたって、良いじゃないか。

 うん、良い訳だな。とかく、今は甘んじて罰を受け入れるし、快く現状の幸福を享受しよう。それこそが、僕にとっての幸運なんだから。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 竹林の中は、旧校舎の一階と同じくらい薄暗かった。おおよそ、竹が伸びすぎているからだと思う。ここの竹は、手入れを何時からしてないのか、背が高い。それこそ旧校舎の二階から竹林を望めば、緑の壁がみたいに見えるくらいには、立派で高い竹だ。けれど、その弊害として光がなかなか入らない。そのせいで、中は夏の燦々とした陽気があるのにもかかわらず薄暗いし、ジメジメしている。キノコでも生えてくるんじゃないかって思うくらいには。だから、鼻に付く匂いも爽やかな青さなんかじゃない。もっと、成熟して、密度の濃いうっそうとした青い匂いだ。不快にはならないけれど、普段森から離れて暮らしている僕らからしたら、中々強烈な香りだ。

 香り満ちて、苔が生す、笹で道幅を狭められているたなけなしの道を僕と先輩は歩いた。途中、蜘蛛の巣が髪の毛に引っかかったり、苔に足を滑らせて転んだり、踏んだり蹴ったりな出来事が色々と起こった。けれど、何とか順調に歩めた。いつの間にか僕の腕に抱きつくことを止めて、右隣を歩く先輩は、特別変な出来事に遭う来なく平然と進む。そして、僕に不幸があるたびに気にかけてくれる。

 ある意味役得だ。

 でも、神様、流石にやり過ぎだと思うんです。いや、先輩に気にかけてもらえる分だけ幸せですけど。それにしたって、罰が地味に辛い罰って陰湿ですよ。もしかして、神様も先輩が好きだったり!

 不躾なことを心で叫ぶと、少しべたつく僕の頭の上に笹が二三枚ひらひらと落ちてきた。これも、何か天罰の一種なんですかね。どうせだったら、何かもっと大胆な罰にしてください。

 僕はそんなことを心の中で呟くと、天罰染みた笹の葉を頭の上から握り取って、左側の雑木の中に捨てた。何の気なしに、笹を捨てた左側の小さな白や黄色の花々が所々に裂いている雑草畑には、中々興味深いモノがあった。つい立ち止まってしまった。


「バラが咲いてる」


 そう、バラが咲いていたのだ。色は真っ赤で、棘も生き生きと力強く生え備わっている一輪のバラが咲いていた。綺麗だ。鬱蒼とした緑色の中で、紅が綺麗に映える。心なしか、華やかな香りもする。その衝撃は、僕の口から零れた。

 ふと、反射的に出てしまった声は先輩の歩みを止めた。僕が立ち止ったため、数歩先を歩いていた先輩は踵を返して僕を赤い瞳で見た。また違う好奇心の光を感じられる視線のまま、僕に歩み寄るとさっきまで僕が見ていた地点に目を配らせ、屈みこんだ。それから、うっとりとした綻んだ表情を浮かべて、麗しい唇にほっそりとした人差し指を当てた。僕も、先輩に視線を合わせるように屈みこんだ。


「本当にバラが咲いているわね。綺麗。でも、不思議ね」


「どうしてです?」


「だって、バラは日本じゃ自生して無いもの。それも西洋バラ。そんな花が、こんな所に生えるはずがないのよ。誰かが、植えなきゃね。それに、バラって本来は春に咲くものよ。なのに、夏に咲くなんて言うのは、やっぱり人が植えなきゃ有りえない話。品種改良されたバラじゃないと、季節外れの花は見れないのよ。綺麗だけど不思議ね」


 綻んだ表情で先輩は可愛らしく首をかしげると、その動作と見合っていない凛とした声で僕の疑問に答えた。反射的に発した質問なのにもかかわらず、随分と詳しく答えてくれた。その知識量に、僕は驚いた。それと同時に、なんだか申し訳ない気がした。何せ、僕は朗らかに気軽に質問したのに、先輩はあの無邪気な表情を崩して、凛とした表情となっていたのだから。

 結局、そんな申し訳なさも僕の主観に過ぎない。僕は、それを知っている。なら、そんなものはすぐさま捨てて、普段通りの会話をしよう。悪気なんていうのを抱いていたら、二人っきりのロマンチックな状況が台無しだ。あと、先輩の疑問についての答えは知っているけど言わないようしよう。そっちの方が、先輩の良い表情が見れる気がする。ちょっとした意地悪だけど、いつもの労働の対価として見れば安いものだと思う。さっきの申し訳なさとは、矛盾しているけど、矛盾こそが悪戯心だ。だから、僕は微笑み、言葉を返す。


「本当ですね」


「ええ、本当に……。まあ、良いわ。今は、先を急ぎましょ! こんな不思議の奥にある不思議はもっと面白いでしょうからね!」


 同調するいつもとは、ちょっと違うほくそ笑む言葉を僕は返した。すると、先輩は唇に指を当てたまま神妙に声を漏らした。落ち着ききった大人の声と表情だ。紙とインクの匂いが良く似合う。けれども、そんな知的で大人げは、ほんの僅かな間だけで瞬く間に、好奇心に上書きされた。先輩は、勢いよく立ち上がるとまた土の匂いが一番似合う無邪気な表情変えて、活気あふれるの声を上げた。

 僕も先輩に続く様に、立ち上がった。また、歩みを進めよう。まだ見ぬ不思議を見るために。内なる決意を先輩は見透かしたのか、僕の右手を取って颯爽と走り始めようと、その一歩を進めた。纏う雰囲気と同じような先輩の温かさが、僕の右手に伝わる。心地のいい温かさだ。ふわりと、先輩の香りが鼻腔をくすぐる。青春の風が吹いた。

 ただ、忘れちゃならないこともある。そう、僕は神様に目を付けられているっていうことを……。


「イッダ!」


 僕は、走り出す先輩につられて走り出そうとした。けれど、苔に再び足を滑らせてしまった。というか、若干足をくじいた。そして、そのまま倒れそうになった。やっぱり、罰なのかもしれない。

 だけど、その罰は甘い。

 僕は倒れ込むことは無かった。ただ、くじかれて平衡を失った体は地面に着くことなく、引っ張られた。それも、結構な力で。気付いた時には、先輩の顔が目の前にあった。赤い瞳が、心配そうに僕を見つめる。


「杏子、大丈夫かしら? さっきも転んでたけど。これからは、足元に注意した方が良いわよ。意外と杏子は抜けているんだから」


 凛として、心配する声は僕の目を見開かせた。


「ええ、大丈夫です……」


 ちょっとだけ上ずった声、これが今僕の出せる最大限の声だ。


「そう、なら行きましょう。杏子、急かさないから気を付けて歩きましょうね。さあ、行きましょう」


「ええ」


 悪戯っぽく先輩は僕に微笑んだ。そして、ゆっくりと僕の歩みに合わせてくれた。痛む右足首も、なんだか甘い。頭の中は、桜色のとめどない怒涛に溶かされた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 先輩に手を引かれ、惚気る思考に頭の舵を取られながらも僕は確かに一歩ずつ進んだ。随分と長い道を歩いたような気がした。でも、それは気の紛れだ。大体、学校の敷地内にあるのにそんな長い道がある訳無いんだ。けれど、先輩との甘いひと時は僕を長い幸せの錯覚に陥れた。

 僕の時間間隔の麻痺は、唐突な眩さによって解除される。ピンク色のとろけた思考は、元に戻った。僕の右手を包んでいた暖かさと柔らかさも、いつの間にか晴れていた。どうやら、気付かない間に僕と先輩はついに、竹林の終わりへと辿り着いたようだ。そこは、薄暗い竹藪の道とは異なり、夏の日光が存分に満ちていた。この光が、僕の思考を元に戻した正体だ。

 そこは、綺麗な円状に開けた場所だ。校内にあるにしては、そこそこ広い。町中にある小さな公園くらいの広さだ。しかも、手入れがされていないのにもかかわらず生える雑草も背が高いものなど無く、クローバーとか、名前を知らない紫色の小さな花を咲かせるような背の低い草花しかなかった。そして、僕らが歩いてきた苔むした石畳は続いていおり、その先、空間の中央と見受けられる場所には、石造りで苔むして、千切れかかったしめ縄がかかっている小さな寂れた鳥居があり、さらにその先には、距離まもなくして木造の小さな小さな社があった。加えて、これらの右隣には、かなりの年月を過ごしてきた枝垂れ柳と、それがかかる濃緑に濁りきった小さな池があった。すごく不思議な光景だ。まるで、神社みたいだ。けれども、庭のようだ。それも、和洋折衷の。何せ、鳥居と社の左側には、結構な数の赤いバラが咲く木があるのだから。

 この不思議で神秘的な空間の中を先輩は好奇心のままに歩みを進めて行った。それも、苔むした石畳の上を通って。やっぱり、あの鳥居と社が気になって仕方が無いんだろう。僕も気になるくらいだから、好奇心旺盛な先輩はもっと気になっているはずだ。

 鳥居と社の神秘は、分からなかった。けれど、空間の不思議だけは、あまり驚かずに見当がついた。なんたって、旧校舎の裏にある綺麗に開けた場所で思い当たるものなんてたった一つしかないんだから。多分、ここが古暮貌が残した庭なんだろう。バラが溢れる庭だって、苧環昇が本に書いていたし、きっとここがその名残なんだ。まあ、それがどうして意外と綺麗に残っているのかは分からないけど。

 どこかに懐かしさを感じさせる不思議な光景は、僕の目を奪い続けた。目に付く草木、花、池、全てが美しく見える。あれだけ、僕のやる気を衰微させていた暑さも、この景色を見れば、舞台演出の一つにしか見えない。

 それに、普段のクールな印象からは、考えられないほど朗らかな表情を浮かべている先輩が居る。はしゃぎ切っている。お転婆なお姫様みたいだ。飛ぶように石の上を陽気な足取りで進んで、自然な笑い声まで出している。可愛らしい声だ。けれど、以外とは思わない。だって、あれこそが先輩の自然体なんだから。他人の印象で、自分の雰囲気を決められている先輩のありのままの姿なんだから。


「杏子! こっちに来なさいよ! ふふ、面白いわよ!」


 無邪気に笑う先輩が、鳥居を前にして僕の方へ振り返った。明るい陽光と眩しい笑顔が、僕を襲う。どっちにしても、眩い光は心地良い。見えない束縛から解放された先輩の笑顔は、僕の胸を温める。 


「ええ、少し待っていてください!」


「早く早く! 好奇心は待ってくれないわよ!」

 

 屈託のない黄色い声を上げる先輩に、僕の足は自然と動いた。やっぱり、夏の暑さの鬱屈は演出に過ぎない。今、僕の足は新緑の香りを吹いてくる風より早く動こうとするのだから。くじいた足の痛みすらドラマチックだ。

 先輩、待っていてくださいね。

 僕は、はしゃいで時折ジャンプをする先輩の下に走った。風は、気持ちよかった。汗ばむ背中が、ひんやりとした。


 

ご覧いただきありがとうございます。

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