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トラギエーディヤと恋  作者: 鍋谷葵
出会いの夏
5/41

「じゃあ、先に行ってるわよ椿、杏子」


 どこで、何の作業をするのか伝えられていないのにもかかわらず、先輩は階段を上って行った。ふわりと、プラチナの長い髪がなびいた。スカートも同じように舞った。どうやら、今日の柄は白らしい。不躾だ。うん……。


「あら、見えてる。可愛いパンツね」


 椿さんは、先輩の下着を見ても微笑むだけであった。どうして、そこには何も思わないんだろう。

 ともあれ、二人の頭のネジが緩んでいるということは、今に始まったことじゃない。だから、椿さんを見限ったりはしない。面倒臭い人だけれど、変なプライドを持って、自分の身の丈をわきまえずに、自身の美をふりまくような傲慢な女性よりはよっぽどマシだ。いや、こんなことを言う僕の方が、傲慢かもしれない。女性を知らないのに、女性を知っているようなことを思っているんだから……。ネガティブシンキングだな。

 ちなみに、先輩に関しては、多少面倒なところがある方が可愛らしいから特別抜けていることを切り取って邪険にするなど絶対にありえない。恋の盲目だよ。僕が、先輩を嫌うことなんて今は無い。多分、これからも無いと思う。恋心が冷めやらない限りはね。確信は無いけれどね。

 先に履き替えている椿さんに遅れないように、僕は靴をスリッパに履きかえた。二人の先輩のことを何とはなしに思っていたら時間が経っていたようだ。そして、先に旧校舎二階に上がった先輩に遅れないように、なるべく早足で椿さんと僕と一緒に階段を上がって行った。木造の階段は、軋む音を心地よく鳴らした。


「そうだ、杏子君。今日の貴方を呼んだのは、書庫整理を手伝ってほしかったからよ。他の生徒会の人たちは全員部活で、忙しいらしくてね。まあ、陽太でも良かったんだけど、あいつも部活で忙しいでしょ? だから、暇そうな貴方に頼んだのよ。それに、あそこは文芸部の部室の一部だし」


 踊り場で椿さんは、ポンッと拳を掌に叩いた。そして、思い出したかのように今日僕を呼んだ理由を伝えてきた。

 少しとぼけた声色だ。でも、そんな声色の中に僕に手伝わせることを後ろめたさも感じられる。あんな感情の発露をしてくるくせに、どうしてこういうところには気を遣うのか、これも椿さんの不思議だ。どっちか一方向に振り切れればいいのに。けれど、割り切れない不器用な感性が、彼女が副会長である理由で、大抵の人から好かれる理由だ。先輩と違って、人間味が感じられるから。あの人は、自分が信用した人じゃないと話さないから。それに、離さないから……。

 うん、何でこんなナーバスになったんだ? とかく今は、変なことを考えていたことを悟られないように返答をするのが先だ。


「そうですか。でも、あの部屋相当汚いですよ」


 僕は、歩き続ける椿さんを前に立ち止った。自分の中を悟られないように、部屋を片付けることが嫌だと彼女に思わせるためにだ。ただ、慌てて言ったことだから、気付かれるかもしれない。


「だから片付けるんでしょ」


 だけど、心配することは無かった。椿さんは、踊り場で立ち止まる僕を数段先の階段から見下げると、少しだけ不思議に思う声で、首をかしげながら語りかけた。感情の隠し事は、成功したらしい。それか、本当は分かっていたけど、僕のことを思って言わなかったのかも知れない。けれどそんなのは、独善の邪推に過ぎない。

 だから僕は、言葉が響き終わるのを待たずに歩き出す椿さんに追従する。栗色の髪を手でなびかせて、フローラルな香りを風の流れに含ませる彼女の後姿は、美しかった。古ぼけた秋の信濃川の油絵が、春に変わったように見えた。その背中はいつの間にか、広く感じられた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「こんなに酷かったかしら? ねえ、椿?」


 少し錆びた真鍮のドアノブを回して、ブラウンの扉を開けると先輩は首をかしげた。そして、額に手を当てる椿さんに、言葉を掛けた。


「私に聞かないでよ桔梗。というか、貴女たちが片付けることになってたでしょ? どうしてこんなになるまで、放置しておいたのよ」


 久々に開けた書庫の第一印象は、かび臭くて、所々に蜘蛛の巣が張っている。よくもここまで、放置してたと思う。椿さんの言う通りだ。教室を半分にしたくらいの意外と広い部屋に、所狭しと古ぼけた木造の本棚が並べられ、収まりきらない本は本棚の上や、通路に薄らと埃かぶって積み重なっている。雑然とした光景だ。片付けられることなく何年、下手すれば数十年放置されたこの状況が、カビの臭いや蜘蛛の巣の悪影響を強調させているように感じる。一応、文芸部管理の部屋だけど滅多に入ることが無いからこの様だ。整備の義務が、部員である僕らにあるけれど、普段使っている部屋が書斎だからしょうがないと言えばしょうがない。大体、書斎自体は綺麗に使っているのだから義務は果たしている。毎週金曜日には、先輩が散らけた本を元通りにしたり、先輩が持って来たお菓子の空袋を始末したりとか、色々掃除しているから問題は無い。だから、椿さんは僕と先輩とに残念な視線を送らないでください。確かに片付けてない僕らをそう思う気持ちは、分かりますけど。


「まあ、そんなことはどうでも良いんです。始めちゃいましょう」


 とりあえず、少し痛い視線から逃れるため、僕は一足先に寂れきった書庫に入った。

 寂れきった部屋の中は鬱屈を溜めこんでいたと思っていた。けど、古い遺物の中にも、ほんの一部分だけ良い所がある。それは、陽が入ることだ。背の高い建物とうっそうとした竹林、そこそこの大きさがある塀に四方を囲まれた背の低い旧校舎の中でも、随一に日光が入る。書庫は、南向きの窓から差し込む光で満ちている。くしゃみを誘う様な小さな埃たちが、光の中で柱を作っている。幻想的だ。

 ただ、日光が入るのは良いことばかりでは無い。閉ざされていた部屋のありとあらゆる温度を上げているのだから。つまり、この部屋はびっくりするほど暑い。カビと埃の臭いも、熱気に煽られれると強烈になる。つんとした臭いが、鼻を痛める。

 流石に、こんな臭い部屋に先輩たちを入れる訳にはいかない。それは、失礼というものだ。というか、もうレディーファーストを破っているのだから、必要な礼儀としてこの部屋の空気だけでもまともなものにしよう。それこそが、僕に今できる最低限の礼儀だ。


「どうしたの杏子?」


 先輩の僕の共同に対する疑問符を耳に掠めて、書庫の南側についているブラウンの木材で縁取られた両開きの大窓に、僕は足早に急いで近づいた。そして、その埃かぶった真鍮製の取っ手を押し、窓を開けようとした。けれど、窓は重かった。しばらくの間、開けていない窓は、どうやら蝶番やら何やら錆び付いているみたいだ。

 けど、ここで諦める訳にはいかない。もう一度力を感じさせない細い腕に力を入れて、足腰に力を入れて思いっきり窓を押した。

 すると、窓は少し心配になるような音を立てて開いた。勢いに任せて、外に飛び出そうになった。後ろで束ねた僕の黒い髪が、僕の目の前にふわっと出て来た。心臓が止まりかけたけど、そこは何とか踏みとどまった。


「杏子君、大丈夫!?」


「杏子!?」


 二人の心配する声が聞こえる。そんな心配してもらわなくとも、僕は大丈夫です。けれど、それを無下にするのは、勿体ないと思うので受け取っておきます。その意思を伝えるには、二人に向かってはにかめば良い。そうすれば、無事も何もかも伝えられるだろうから。

 乗り出しかけた窓から僕は、後ろを振り返った。そこには、目を開いて、口に手を当てて驚いている二人の美しい人が居た。瞳が綺麗だ。赤とこげ茶色、両方とも栄える。それに、カビと埃の臭気も外の青い風に流されて薄まった。良い気持ちだ。けれど、多分、二人は気が気じゃない面持ちだと思う。何せ、後輩がいきなり歩き出して、いきなり窓を開けて、いきなりその身を外に乗り出しかけたのだから。


「大丈夫ですよ。僕は、この通りピンピンしてます」


 だから、僕は微笑んで二人の緊張を解す。出来るだけ、柔和な言葉も付け加えて。


「なら、良いわよ。さあ、早くやりましょう椿。時間が惜しいわ」


「そうね。早いこと終わらせちゃいましょうか」


 あれ? 思ってた反応と違う。もっと、何か、青春的な反応が見れると思ったのに……。自惚れだな。素っ気の無い二人の反応こそが正しいのかもしれない。でも、少しだけ寂しい。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 素っ気の無い反応が終わって、さてはて片付けの時間がやってきた。椿さんによると、ここにある要らない書物を全部校舎の書庫に、数回に分けて持っていくようだ。今回がその一回目らしい。もっとも、生徒会長は、不要だったら捨てればいいとか言っていたらしいけど、そこは椿さんが全力で否定して、とりあえずは校舎の新しい設備がそこそこ整った書庫に保管するようだ。

 流石は椿さん、正しい判断ができる。何なら、椿さんが生徒会長になれば良いと思う。古い書物を不要と判断するような人が、生徒会長であったら全てが台無しだ。古い書物の価値が分からない様な人間じゃ、全然だめだ。そうした書物にこそ、先人の残した知恵が色濃く残っているのだから。


「ねえ、杏子君。そっちの棚の本、取ってくれないかしら? 洋書とか諸々こっちで纏めるから」


「杏子。そっちの本を取って。それと、ここの棚の本を全部部室に持ってって、本棚に仕舞っておいて。埃かぶってるし、日焼けもしてるけど、後で読む分には問題ないから。よろしく頼むわよ」


 でも、僕がこき使われるのは不服だ。さっきの心配をどこ吹く風、二人は僕に命令し続ける。いや、先輩たちも本棚から本を取り出したり、書斎から持って来た箒を使って埃を払ったり、蜘蛛の巣を払ったりしているけれど。

 けれど僕の仕事量は、二人をはるかに超えている。小間使いじゃないんだから。後で一緒にやれば良いんじゃないか? そっちの方が、荷物を二分できるだろうし。けれど、重い荷物を女性である二人に持たせるわけにもいかない。それに、美しい人とこんな密室で居られるのも役得って考えれば役得だ。

 それなら、僕はテキパキ働きますよ。汗水たらして本を持って椿さんが持って来た段ボールの中に入れて、一階の玄関まで運んで、また戻って。腕まくりたワイシャツに汗がにじむ、垂れる前髪に汗が滴る、目は虚ろに……。肉体労働はきつい。

 

 そんなこんなで、僕らは今日分の片づけを何とか終わらせた。時刻は、午後四時半といった具合だ。少なくとも、玄関の振り子時計はその時間を示している。未だ太陽が、暮れる様子を見せずに空に昇っているところを見るとなんだか、いわゆる夕方とは思えない。もう一時間くらいたったら、間違いなく夕方なのだろうけど、空は未だに空色だ。茜色にすらなっていない。

 筋肉がきつい。パンパンに膨れ上がってる。明日は、筋肉痛間違いないだ。これから、もっと運動することにしよう。陽太までの体力は要らないから、せめてこのくらいの仕事で息切れしない様に。

 兎にも角にも、これにて今日の仕事は終わりだ。この埃かぶった書庫も、今となっては新鮮な空気と元の木の艶を取り戻した。これでまた、旧校舎の魅力が復活した。多分、僕らはもう片付けることは無いだろうけど。

 夢も希望も無いな。普通だったら、後輩に残すだとか、何とか思えばいいのに……。まあ、新入部員が僕一人っていう時点で、夢も希望も無いだけどさ。

 だったら、今だけの夢と希望を持てば良いじゃないか。これで、僕は先輩と二人っきりになれる。甘酸っぱい青春の時間を迎え入れられるんだ。

 やっとだ……。金の糸と銀の糸とで双頭の鷲が綺麗な装丁が施された、なんだか心惹かれるロシア語の興味深い古書も見つかったし、しばらく僕は()()時間が過ごせそうだ。まあ、英語すらまともに読めないのに、ロシア語なんて読める訳無いんだけど。それでも、辞書を使えば何とかなるかもしれない。薄いし。一つの挑戦としてだ。充実した青春の時間が待っている。挑戦の青春と、恋の青春がね。榊が言ったような、先輩を振り向かせるための時間さ。


「ねえ、椿。貴女って、あの竹林の奥に入ったことある?」


 けれど、先輩は僕との日常よりも好奇心が優先されるらしい。先輩は、プラチナの髪を青い風になびかせてながら窓枠に片腕をついている。そして、吹く風に情熱を含ませて、背後で本棚を次の作業に向けて整理している椿さんに興味深そうに尋ねた。おおよそ、竹林でも見ているのだろう。


「いいえ、無いわよ」


 仕事が忙しいのか、椿さんは先輩の好奇心とは真逆に素っ気なく答えた。


「ふーん。そうなの」


 先輩も椿さんの受け答えに素っ気なく返した。と、思いきや、先輩はいきなり窓から離れて、入り口の傍らで息を上げている僕の方を向いた。ちなみに、僕は例のロシア語で書かれた本を持っている。


「ねえ、杏子。今日は、あの竹林の奥に行ってみない? 何か、面白そうな匂いがするわ」


「えぇ……」


「二人とも、行くんだったら自分たちが読む分の本を部室に運んでからにしてね。そこに、桔梗が欲しいって言った本を纏めておいたから」


 素っ気なく、椿さんは右手の人差し指で本が大量に詰め込まれた段ボールを指した。あまりにも素っ気ない態度だ。公私の分別がついているのは、すごいことだけど、あれだけ元気な彼女がこうも素っ気ないとなんだか寂しい。

 いや、それは違うのかもしれない。考えてみれば、僕と先輩を二人っきりにさせてあげたいっていう気遣いなのかもしれない。あくまでも、もしかしての話だけれど。それでも、なんだか寂しい。元気な人には、元気な素行が一番似合う。


「分かってるわよ。それじゃあ、杏子。さっさと、その段ボールを運んで」


「えっ?」


「ほら、良いから、四の五の言わずに!」


 けれど先輩は、数回手拍子をすると今日一番大きい声で、僕を急かした。少しは、椿さんを見習ってください。

 大体、そんな声が出るのに、どうして自分でしないんですかね?

 いや、そんな疑問は無駄でしかないって分かっているだろ僕は。だったら、気に病まずに仕事をしますよ。それが、終わったらいよいよ二人っきりだ。それだったら、僕は頑張る。目いっぱい仕事をしますよ。例え、二人っきりの時間が、あの書斎じゃ無く、竹林の中であろうとね。二人は変わらないんだから。


 でも、やっぱり、仕事はきつい。

ご覧いただきありがとうございます。

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