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例年と比べて短い梅雨が明け、夏も本番となる七月の下旬。
新潟県中越地方の中部の長森市。日本一の大河、信濃川の中流を挟んで栄えている町だ。
その市街は、都市としてそこそこ発展してはいる。だけど、都会というにはアーケードの中に錆びたシャッターを下ろした商店が所々に見受けられ、ツタの絡まった背の低い廃れたビルが一番発展していなければならない駅前の大通りの所々に幾つか寂しげに佇んでいる。ただ、そんな駅前にも窓ガラス塗れで、SF小説から出てきたような銀行の入った背の高いビルもあったり、かなり大きな商業ビルがあったりする。そんな、どっちつかずの何とも言えない中途半端な発展を遂げた長森市街は、青々とした雲一つ無い晴れ空の下、都市の呼吸を続けている。
「暑い……」
けれども、その呼吸は暑すぎる。
長森市街中心部から少し離れた僕らの通う、進学校とも何とも言えない普通の高校、県立霧宮高校にすら伝わってくるんだから。ちなみに、駅のから見て東側、繁華街とは逆側の落ち着いた方に僕らの高校はある。西側には、繁華街がある。西側に学校があったらって思うこともあるけど、今は落ち着いた方に学校があってよかったと思う。なんたって、この暑さだ。加えて、騒音があったら多分僕の頭はパンクするだろうと思う。
校内には、目下に迫る夏休みに向けた熱気と授業に対する気だるさを存分に含んだ空気、加えてこびり付くような暑さとが合わさった混沌とした十代の空気が、余すとこ無く流れている。空の青さからは考えられない怠さだ。加えて、酷い暑さ。怠さをもたらすね。本当に、倦怠に満ちた空気だ。
ただ、教室には冷房があるからそんな暑さは割と軽減される。
冷房が利いていようとも、倦怠の空気が校内にありふれていれば、当然授業に集中できることは無い。涼しかろうが、全体的に暑ければ意味が無い。そんな冷房の利いている中での数学の授業は、クラスの半分以上がうな垂れて、ワイシャツの白色を、カーテン遮るクリーム色に弱まった日光に強調させながら寝ているという有様だ。起きている人も居るけど、そんな人たち大多数は、一次関数についてボソボソとした口調で教える禿げ頭のお爺ちゃん先生に隠れ、ささやくような声で雑談をしている。もっとも、起きている生徒の内、真面目な生徒は凛とした姿勢と視線で、先生の言葉を聞き、板書を写している。
ただ、そんな殊勝な生徒はクラス四十人の内で五人にも満たない。この現状を先生は注意するべきなのだけど、あの人の教育方針はどうやら放任主義の様で、居眠りと雑談は黙認され、だらだらと朝一番の授業は流れて行くようだ。
そんな倦怠に溢れる教室の中。最後列の窓際の席で、僕も毛頭授業を受ける気なんてないけれども、先生を気遣って、一応ノートと教科書を開いておく。けれども、後は先生を大義名分にして欲望に流されるまま鉛筆を持った手で頬杖をついて、ほとんど何も入ってない鞄から文庫本を一冊取り出し、机上に置いてのんきに読書をする。クーラーの直下で、中々涼めないけど、こうして堂々とサボれるんだからこの席は良い所だ。それに、前の席に親友もいるから変な気苦労することも無い。
さて、周囲など置いておいて小説だ。世間からしたら、あまり有名じゃない昔の作家だけど僕はこの人が書く美しい文章が好きだ。特に男女の些細な心の移り変わりが繊細で読んでいて心が透き通る。変な言い回しかも知れないけど、本当にそうなんだ。特に、この主人公が病身の恋人に寄り添って手を握りながら病院の窓から見える桜を語る描写は、今までの陰鬱な描写から打って変わって全てが救われるように見える。だから僕は、何度も何度もこの小説を読み返している。それこそ小説の角が、擦り切れて丸みを帯びるほどには。
けれどそうやすやすと、僕を透き通る物語の楽園へと現実は運んでくれない。
「ねえ、あんこ。アンタ、その髪暑くないの? 見てるこっちが暑苦しいんだけど」
失礼な隣の小柄で、ふわっとした黒髪ウルフヘアの少女が、こそこそと僕の肩を叩いて、耳触りの良い、程よい低さの声でささやきながら読書の邪魔をしてきた。黒い大きな瞳が僕を見つめる。女子特有の甘酸っぱい芳香が、鼻腔をくすぐる。焼けていない白い肌が眩しい。女性としてのふくらみが乏しいことが、少しだけ残念かもしれない。もっとも僕からしたら、そんなところにマイナスイメージを持つことは無い。女性の素晴らしさを外見で判断するような男でないという自負を持っている。
だけど、他の点においてマイナスイメージを持つことはある。
それは、こいつの奔放さだ。今も、了承も無しに人の髪をくるくると弄ぶ、こいつの奔放さは僕を苛立たせる。まあ、少しだけ。友達のイラッとした行為とか、そんな程度だ。でも、それでも、勝手に僕の髪を弄るのは止めて欲しい。意外と、癖がつくんだからさ。
もしかしたら、傍から見れば、男女関係の最たる例で羨ましい状況なのかもしれない。ただ、榊が僕に好意を持っていないことは知ってる。向こうもそれを知っている。
だから、桃山榊は、ただ単純に人の名前を間違えるし、了承なしに髪を弄って僕を少しだけ苛立たせる失礼な奴だ。
「僕の名前は杏子だよ。間違えないで欲しいな」
「たった一文字違うだけでしょ?」
「それでも、あんことあんずは意味が違ってくるから止めて欲しいんだけど。どっちも甘いけど、一方は豆で一方は果実だからさ」
一体このやり取りを僕と榊は何回繰り返して来たんだろう。
何だか、話しかけられる度に言い間違いを訂正して欲しいって頼んでる気がするよ。
まあ、何回言っても直してくれないからもう諦めかけているところではあるんだけど。それでも、あと数回はチャレンジしてみたいね。結果は目に見えて分かってるけど、数回やればこの呼び方にも自分の中で諦めがつくだろうから。
でも、こいつの自分から始めたくせに最後には興味なさそうに頬杖をついてそっぽを向く態度には慣れない。
「ふーん」
どうしてこいつはこうも自分勝手なんだろうって、何回思ったか。今回も気まぐれな質問を僕が答える前に、質問自体に興味を失くしてさ。思って見ればこいつはくるくると回るコマみたいなやつだ。気分が変わりやすくて、与えられた衝撃で直ぐに感情が止まる。でも、こんな風に、興味の無いことはバッサリと切り捨てられるサッパリした女性の方が生きていくには、良いのかもしれない。余計な物事とかプライドに執着しないから。
それに、飽きない美しさもある。
ほら、興が冷めて、退屈でつまらなそうな光を灯した瞳は美しい。頬杖をつきながら、僕の目の前の席で居眠りをしている男を見る熱の籠った瞳は美しい。暗がりと光りは違う美しさだ。それを器用に両方の瞳に灯す、桃山榊は美しい女性だ。
「ねえ、あんた」
美しい女性は、言葉の端々に不満を感じさせる声で、心底つまらなそうな光を瞳に宿して僕に声かけてきた。理由は分かる。どうせ、慣れない賛美を送られたから照れくさいんだろう。だから、そんな眉をしかめて不機嫌そうにしているんだ。間違いないよ。
照れ隠しをする初心な少女に僕は、極めて柔和な視線と口調でもって言葉を返した。照れなくて良いのだという隠喩を込めて。
「どうしたの榊?」
「さっきからこっちを見る目が気持ち悪いから止めてくんない。何回も言ったと思うけど、私はあんたのこと好きじゃないから。それに、あんたには白銀の姫がいるでしょ? なら、私なんかにうつつを抜かしちゃダメよ」
自意識過剰なお節介だ。
いや、そんなことよりも、なんというか、僕は恥ずかしい。
こいつ、何にも照れてないじゃないか! 騙してくれちゃって! いやいや、ただ僕の勘違いに過ぎない。傷は深くない。何時でもあることさ。
そう、こんな取り乱したときは想う人を想おう。
絹のような美しい白銀の長髪、少し釣り気味の目は透き通る赤い瞳、雪のように白い肌、明晰な頭脳、女性にしては背丈も高く、ほっそりとしながらも豊かな女性のふくらみを持つ美しい体つき。声色は、冷たくとも透き通る少し高めのアルト。
あの人を、先輩を想うだけで、心は楽になる。恥は消えて、暖かさが湧き出てくる。勘違いなんてどうでも良い。取り敢えず、僕は榊に言葉を紡ごう。この温もりが消える前に。
「僕は榊になんか興味は無いよ。けど、言葉は快く受け取っておくよ」
「失礼な奴。まあ、あんたなら成就できると思うわよ。私と違って、あんたは直ぐ近くに想い人が居るんだからさ。たった二人の文芸部で邪魔も無いじゃない。なら、後はアタックしてあの人を振り向かせるだけよ。頑張りなさいな。優しさに溢れたあんこなら行けると思うわ。後は、度胸だけよ」
秘めた感情が少しだけ含まれてしまった僕の言葉は、榊の機嫌を悪化させてしまったらしい。女性の心というのは、分からない。けれど、僕にばかり強く言う彼女も目の前に想う人が居るのに、行動をなかなか取れずにいる。それはつまり、本質は同じということだ。僕も彼女も結局は同じなんだ。
「それは榊。お前もだよ。お前もアタックして、アレを振り向かせて見せなよ。あの鈍感をさ」
だから上から目線の榊の応援に僕も上から目線で答えよう。
応酬さ。そうすれば以外な顔も見えるんじゃないか、また美しい瞳を僕見せてくれるんじゃないかっていう期待を込めてね。
「……うっさいわね。私にも乙女の純情ってもんがあんのよ」
「ふふ、榊らしい反応だね」
「ぶん殴るわよ。女々しいあんこちゃん」
「うっさい」
期待は、できる女の悪戯っぽい笑みと僕の嫌味となって返ってきた。苛立つ嫌味だ。そのせいか、随分と素っ気ない一言を榊に返してしまった。
確かに女性っぽい風貌ではあるけどさ。男らしくない細い体つきだし、髪は長いし、指も細い。それに、肌も白いし……。うん、僕って男なのか? いや、性的象徴が付いているから男だ。
ああ、全く! 榊の嫌味はどんどん僕を悪化させていく。止そう、全部ひっくるめて僕のアイデンティティーの一つなんだから。大体、僕が女性っぽいのは母さんの遺伝が強いから仕方が無いことだ。離したことの無い母さんが、未来の僕に残してくれた数少ないものの内の一つだから大切にしないとだ。変に男らしくならなくて良いんだ。あの親父も、『自分を愛せ』って言ってたし。
「意外と反抗できるじゃないの。それを先輩へのアタックに換えれば、上手くいくわよ」
「……」
「何よ、その呆れ返ったような目は?」
どうして、いや、榊の性分なんだから仕方がない。それでも、ちょっと僕がしんみりとしたんだから、自分の言った言葉をもう少しくらい気にかけて欲しい。これが、女々しいって言われる理由なのかもしれないけど。それでも、ねえ……。
「いや、なんでもないさ。それよりもほら、あいつが起きるよ」
「……!」
やっぱり、榊は美しい。
想う人の後ろ姿を見るだけで、頬を赤らめて、目を輝かせ、穢れの無い少女の純情を輝かせるんだから。
授業終了のチャイムが鳴り、気怠い声で授業終了の挨拶が行われた。
小説が読めなかったのは残念だけど、最後に小説なんかよりもよっぽど透明で、澄み切った光景を見れたから重畳だ。
「おはよ」
「うぃーおはよ、榊。良く寝たー」
少しだけ上ずった榊の声の後に、眠気を感じさせる間延びした幼馴染の声を聞いた。
けど僕は、幼馴染の顔を見ずに席に着いて、弄られて少し癖のついた髪を頬を緩ませながら触り、読みもしない文字列に視線を移した。目の前の純情を見ないためだ。誰にも見られない関係にこそ美しさがあるからね。
だから、僕は榊の声色から僕の幼馴染に、榊はどんな表情をして目覚めの挨拶をしているのかを想像した。ちょっとだけ頬を赤らめながら言葉を交わしているのか、それとも照れを隠すために後ろで手を組んでもじもじとさせながら笑っているのか、いろんなことが思い浮かんだ。
純情を妄想するのは、なんだか心が晴れる。倦怠の曇天から青春の晴天へと心の天気は移り変わった。
けど、そんな心の晴れ模様は一瞬にして曇天へと変わった。
「杏子。朝、言うの忘れてたけどさ、姉ちゃんが放課後、旧校舎に来いってさ。用事は知らないけど、とにかく来いって」
幼馴染は、榊の純情に満ちた声を無視して僕に声を掛けた。それに、僕はその雰囲気を読めなさすぎる言動に衝撃を受けて、彼を見上げた。
栗色の明るいサッパリと整えられた髪を弱められた日光の中に目出せながら、見上げれば随分と背が高く、ほっそりとした肉体にも力強い筋肉をうかがえる。やっぱり、サッカー部のエースの体つきはお世辞抜きしてカッコいい。そんな幼馴染は、僕を見ながらふだんは大きなキリッとしたこげ茶色の目を猫のように細めて、人懐っこくはにかんでいた。
いや、そんな顔は僕に見せるんじゃなくて、榊に見せろよ。想われている人を放っておいて、そんな素敵な表情をしちゃいけないと思うよ。鈍感が過ぎるよ。
ほら、お前を想う人は親の仇のような表情でこっちを睨んできてるじゃないか。
僕が悪い訳じゃ無いのに……。
「分かったよ。はあ」
「何で溜息つくのさ? もしかして、姉ちゃん苦手? 確かにあの人、ちょっと強烈なところがあるけどさ」
やっぱり、鈍感だ。首をかしげて、僕の言葉と溜息の意味が分からないようにしている。僕としては、誰にでも分かるように、溜息を吐いたんだかけれど。
でもそれが、僕の幼馴染、茨木陽太の良い所だ。だから、一年生でサッカー部のエースに成っても気が病まなくて済んでるんだ。きっと、普通の人なら羨望の眼差しと嫉妬の静かな声で少しずつ精神がすり減って行くだろうからさ。まあ、運動部でエースを張るような人は普通の人とは違う鋼の心を持っているんだろうけどさ。
「ちょっとじゃないでしょ。当日休んだ会長の代理で出た入学式で、弟とその幼馴染を見つけて、キャーキャー声を上げるなんてさ」
幼馴染の姉は、榊の言う通りだ。
僕と陽太が、あの人のせいでどれだけ苦労したか……。
廊下を歩けば、同級生からクスクス笑われるし、先輩たちには変な噂が広がって変な目で見られるしで、ロクなことが無い。けれどあの人が、悪い人じゃないことは確かだ。ちょっと頭のネジが緩いだけで、基本的に人当たりが良いし、頭も二年生の次席だから良いし、運動もできるらしいしね。それに、陽太と同じで顔を良い。もしかしたら僕と陽太に関すること以外は、完璧な人なのかもしれない。けど、欠点の一点が酷過ぎると思うんだよ。
「まあ悪い人じゃないことは確かだから大丈夫だよ……」
「それは言えてるわ。根っからの善人ですものね」
足を組んで腕を組みながら榊は、照れくささを隠す様にそっぽを向きながらあの人のことを肯定した。
本人が、目の前にいる訳じゃ無いんだから素直に言えばいいのにね。
「そう言ってくれると姉ちゃんも喜ぶよ。それじゃあ、放課後の旧校舎に行ってくれよ宮内」
「うん、分かったよ。というか部室があっちにあるから、どの道行くことになるんだけどね」
「なら、余計な手間じゃなくて良かったよ。そんじゃあ、姉ちゃんと白銀の姫によろしく言っといてくれよ」
「分かったよ」
元気な言葉を最後に陽太は、突然スイッチが切れた様で、パタリと机に突っ伏し、寝息を立て始めた。これから、放課後まで熟睡するつもりなんだろう。きついサッカー部の練習があるから仕方がない。いつものことだし。
「寝ちゃった」
もう少し陽太と話したかった榊は、少し残念そうに肩をすぼめた。
けれど、陽太は部活がある。色んな人の期待を背負っている部活がある。それなら、今はそっとしてあげた方が良い。ただ、落ち込む女性を放っておくのは、男としてどうかと思う。まあ、鈍感な陽太のことだから仕方ないけれど……。
でも、とりあえずシュンとしている榊に声を掛けよう。何か、気晴らしになるかもしれない。
「まあ、元気出せよ」
「うっさい」
ぶっきらぼうに榊は言う。もうちょっと優しくしてくれても良いと、僕は思うんです。
無駄なやり取りをしている間に、授業開始のチャイムが鳴った。
こうして僕らの何ら変わらない夏の一日は始まる。
そしていつも通り、変わらずに終わると思っていた。
あんな不思議なことが、起きるまでは……。
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