プロローグ
あるアパートの小さな一室。
南向きのベランダ窓からは、燦々とした夏の陽光が部屋全体を焼き尽くさんと差し込む。ジリジリとアブラゼミの鳴き声も。しかし、流石は文明の利器。冷房のおかげで、存外部屋の中は暑くない。もっとも、暑くないと言っても涼しいかと言われたら、涼しくは無い。軽く汗ばむ程度の暑さまで軽減されている程度である。
そんな部屋の中で、部屋の主たる少年は、暑苦しさを感じさせる黒い長髪を畳の上に、蜘蛛の巣のように無造作に広げて、仰向けになり、目元に届く日光に目をすぼめて、懐かしそうに一枚の写真に微笑んでいる。
時間と体感を忘れたように、夏の命が輝き、暑さが猛威を振るおうとも、少年は写真から目を逸らすことは無かった。桜舞う中で、撮られた少年と、少年よりも頭ひとつ背丈の高い幼馴染が写る三ヶ月ほど前の懐かしい写真をじっと、心で味わう様に、倦怠に干からびかけた心を潤す様に見つめている。
春風が優しく頬を掠め、桜の花びらが空に舞っていたあの青々と晴れた素晴らしい入学式の朝。
僕は素敵な人と出会った。
きっと、いいや絶対。一生忘れることの無い出会いだ。あんなに美しい人は、僕の十六年間を通しても見たことが無いんだから。それに、若いころの衝撃っていうのはずっとついて離れないものだろう。それだから、僕はあの人を忘れることが出来ない。
日本人離れした絹の様に艶やかな白銀の流れる髪。かと思うと、瞳は輝きを忘れずに、吸い込まれるほど赤くて、大きい。肌は透き通るほど白く、唇は舞い散る桜と同じ色。すらりとした繊細な身体は、優雅に佇む百合の花のようだった。もちろん、今もその美しさは変わらない。けれども、初めての衝撃を上回る美しさは無いと思う。
それほど、僕にとっては特別だったんだから。
気持ち悪いエゴの言葉かもしれないけど。
僕は、あの人と出会うために生まれて来たんだと思う。
眺め、心に浮かんだ取り留めない言葉が、倦怠の干上がりを見せている心を麗らかな、生命全てを抱きかかえる雨のように潤した。そして少年の色彩は鮮やかに。心には、写真と同じ様な溢れんばかりの薄桜色の儚い満開の桜を咲かせた。飽和する青春の眩いばかりの桜色が心を満たす。一切の濁りを含まない無垢たる桜色に浸る彼は、乾ききった口で、青臭い言葉を漏らした。
「ねえ、先輩」
声は誰の耳にも届かない。
ただ、アブラゼミの鳴き声にかき消されるばかりである。
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