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二十九回目

「ワン」

 これは一を英語で言ったとかではなく、鳴き声である。

 この世でワンと鳴く生き物なんて限られているが、一応説明しておくと、犬である。

 そう、今度は犬に転生した。飼い犬……というか、盲導犬らしい。飼い主のアキヒラ氏は全盲で、いつも愛犬のアムを連れて歩いている。

 まあ、何かあったら吠えて知らせるといった感じ。まさか、人間不信だった私が、人間と信頼関係を紡いでいく生き物になるなんて笑える。まあ、アキヒラ氏は悪い人ではないのでいいのだが。

「アム」

 閉じた目のまま、慣れた様子でアムの頭を撫でるアキヒラ氏。なんとなくくすぐったい。頭撫でられたことなんてなかったからな……

「よしよし。今日も散歩に行こう。よろしくね」

「ワン」

 アキヒラ氏は毎日散歩をしている。アムの散歩というのもそうだが、アキヒラ氏の散歩も必要不可欠なものだからだ。

 健康体でいるためには毎日適度な運動が必要なわけで、それはアムもアキヒラ氏も一緒だった。

 この盲導犬という体は気が抜けない。アキヒラ氏は全盲で何も見えない。雰囲気を感じ取ることはできるが、それだけだ。だからアムである私が小さな危険を知らせてやらなければならない。

 そのためには周囲に気を配らなければならないし、ただ歩くだけでは駄目なのだ。盲導犬も楽じゃない。

 ……と、普通に話してきたが、これは本当にあった話が元になっている。「これはとある盲導犬のお話」というノンフィクション小説で、全盲のアキヒラ氏に寄り添って生きる盲導犬アムの生涯を綴ったものだ。

 生涯、ということは当然終わりまで描かれている。終わりというのは「死ぬ」そのときまでということだ。

 また死ぬのか、と思いながら、何日かアキヒラ氏と過ごした。アキヒラ氏は気の優しい人で、私の周りにいなかった部類の寂しさを抱える人だった。

 盲目で生まれたがために、家族には陰で疎まれ、小学生の頃は心ない悪戯をされて、笑い者にされてきた。年が上がるにつれ、そういう者も少なくなってきたが、今度は誰にも相手にされない。まるで世界から自分がたった一人、切り離されてしまったかのような錯覚に陥った、と語っていた。

 そんなアキヒラ氏に与えられたのが、盲導犬のアムである。一人で暮らしていくために与えられた。が、当然、犬は家事をしてくれるわけではないので、家事などは変わり者と言われる小説家と共同生活することで賄っていた。

 その変わり者の小説家がこの物語の作者だったりするのだが、これは余談である。

 いつもと同じく、アキヒラ氏を先導して歩く。アスファルトは熱く、茹だるようとまではいかないが、まだ夏の余波を残していた。

 アキヒラ氏は涼しげな顔をしているが、まあさすがに今日が「運命の日」だとは知るまい。

 今日、交通事故が起こる。

 私はなんとなく読んだ本の内容を覚えていた。犬になったら知能がなくなるとかそういうことはないらしい。カレンダーも読めたし時間も読めた。中身紆余曲折あったけれど元人間だからな。あまり気にしなかったけれど、人間の知能を持ったまま他の生き物に転生するというのは案外便利なのかもしれない。

 ぶおん、と車の音がした。

「ワン!」

 止まれ、と語りかける。まあ、犬の鳴き声しか出せないのだが。

「アム?」

「ワンワン! ワン!」

「うん、わかった。止まればいいんだね」

 よく動物語わかるよな、と思っていたら。

 どしゃあ。

 アムは頭だけ轢かれた。

 何を考える間もなく死んだ。

 何が目的なんだ、一体。

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