二回目
目をゆっくりと開けると、体は重たく、天井を見上げるくらいしかできなかった。ファンタジー世界観でしか見たことがないベッドの上の装飾……名前が思い出せない……が見えた。
やけに広いベッドだ。まるで貴族とかそういう高貴な類の人の家みたい。ラブホというほど厭らしさはないし、何よりふかふかで気持ちいい。
体が重いが、どういう状況だろう。病院という感じではない。私は屋上から落ちたのだから、ベッドに寝かせられるのは納得がいくが、点滴とか輸血とかが刺されているはずだ。あと心電図とか。とにかく管がたくさんつけられて動きにくいはず。何年も前に死んだおばあちゃんはそうだった。
体は重いが、痛みがないのもおかしい。屋上からまっ逆さまに落ちたのだから、下手したら集中治療室レベルの話だし、頭から落ちなかったとしても、全身を地面に叩きつけられたはずだから、「体が重い」程度で済むはずがないのだ。
というわけで、状況確認のために起き上がると、衝撃的なことに気づいた。
お腹が、膨らんでいたのだ。太ったとか、そういう話ではない。手を当てずとも、私の中に宿るもう一つの鼓動が、どくんどくんと確かに脈打っていることがわかる。
え、妊婦? ますます状況がわからない。どれだけ世界に絶望していたからって、身売りとかに手を出すほど落ちぶれていない。コカインベイビーといって、薬のやりすぎによる想像妊娠みたいなのもあるらしいが、私は健全な中学生だったはずだ。
どういうことだろう、と自分のことをぺたぺた触っているうちに、ふとあることに気づいた。
髪を引っ張ったり、千切ったり、切ったりされたことがあったため、私は万年ショートヘアを保っていたはずだった。それが、指通りのよい滑らかな長髪になっている。純粋な黒だったはずの髪はプラチナブロンドで、儚くも美しい。
「まさか……」
私は身重の体を引きずって、ドレッサーの前に向かう。この体は重くてかなわない。妊婦さんってこんなに大変なのか、と思いながら鏡を覗く。
見つめ返してくるのは透き通るような青い目。ビー玉を空に翳したような色だ。当然ながら、黒髪黒目の私とは全くの別人である。
けれど、この姿を私は知っていた。
ステファニー・ミロナ・ライトナイツ。私の好きなファンタジー小説の一つに出てくる御仁だ。彼女は侯爵令嬢で、ラスティア王国の皇太子の婚約者。
「……なんてこと……」
肩書きを見れば輝かしい人物だろうが、実はこの人物には悲劇が降りかかる。しかも、物語の序盤で、命に関わるレベルの。
見ての通り、ステファニーは皇太子の子どもを身籠っているのだが、実はこれが私の好きだった物語「ようこそ、輝かしき世界へ」の始まりなのだ。
これは世に言う異世界転生というやつなのだろうが、私の命はもう数刻もないかもしれない。
カレンダーを探す。ステファニーは変わり者と呼ばれていて、日めくりカレンダーを持っている。子どもの頃からの趣味で、楽しみのある日を待ち遠しく思いながら、カレンダーを一枚ずつ毎日破いていくのが楽しくて仕方ない人らしい。確かに、日めくりカレンダーで特別な日の日付に到達したときは特別な喜びがある。
今はそうではなく、単純に日付の確認だ。何故なら、ステファニーは死ぬからだ。何日って……
国暦八百六十四年、天馬の月、十三夜目。
「あ……」
日めくりカレンダーは、確かにステファニーの死ぬその日を指していた。
絶望しかない。こんな異世界転生に何の意味があるというの? 秒で死ぬじゃん!
こんこんこん、とノックの音がする。私は震えて声が出なかった。直に「奥様?」と侍女の声がする。
私は体を引きずって、鍵を開けに向かった。通常なら、侍女が鍵を持っているのだが、今だけ、ステファニーの部屋だけは勝手に鍵を開けてはならないとされていた。
何故か。
それはステファニー、及びその子どもの命を狙う輩がいるからだ。天馬の月に入り、子どもの出産が近づくにつれ、城に忍び込む不届き者は増えた。侍女に変装していたり、侍女自体が暗殺者だったりした。それゆえの警戒だ。
鍵を開け、私はちらと外を覗く。
そこには侍女のアリーがいた。彼女は信頼できる。
「ステファニーさま、顔色がよろしくないですよ?」
「いえ、大丈夫よ」
「あら、お姉さま、体調不良でらしたの?」
その声にどきりとする。
アリーと一緒に来たらしい女性。白髪に紫色の目を持ち、ステファニーより幾分か背の低い女性。愛らしく着飾った彼女はステファニーの妹、ラナンキュラスだ。
……このラナンキュラスが、皇太子妃の座を狙っている張本人なのだ。
私は知っている。故に嘆いた。
私はこの世界でまで、姉妹に振り回される運命なのか。
「ラナ、来ていたのね」
「お姉さま、大丈夫?」
「ラナの顔を見たら、少し元気が出たわ」
「嬉しいわ!」
んなわけあるかアホンダラ!! 今にも頭を抱えたい気分じゃわ!!
このあと、ラナンキュラスが誘ってくるお茶の席に応じると、ステファニーの悲劇が本格的になる。暗殺者たちの失敗に焦れたラナンキュラスが直接殺そうとしてくるのだ。お茶に薬を入れて。
元気だと言ってしまった手前、断れない。なんで顔見て元気になったとか言ったんだステファニー。
「なら、お姉さま、久しぶりにお茶しない? 最近大変だと聞いているから、気分転換に」
「そうね」
だが、ステファニーもただでは転ばない。解毒剤を持っているのだ。それもかなり希少で、特殊なもの。
大抵薬というものは胎児によくない。が、ステファニーは薬学の権威であり、暗殺の兆候があった二月ほど前から、胎児に毒が回らない薬を持ち歩いている。このことはステファニーしか知らない。
侍女に着替えをさせられ、持ち物の中にそれがあるのを確認すると、私はラナンキュラスとのお茶会に臨んだ。
「いい香りでしょう、お姉さま。楽になれると評判のハーブの配合なんですって」
楽になれるとは死ぬということだ。なんて腹黒い妹なのだろう。
「ああ、まずはお医者さまからのお薬を飲まなくちゃ」
私は水差しを取り、お茶の前に薬を飲む。
ラナンキュラスは微笑む。
「薬学の権威のお姉さまがお薬を他人から処方されるなんて、不思議な話ですわね」
「心労がひどい状態では、私も正常に薬を調合できる自信がないわ」
誤魔化して、私はお茶を口にする。ラナンキュラスの口元に抑えきれない悦びの笑みが浮かぶのを、見ないふりをした。
「どうです、お姉さま? 気分が楽になってきたでしょう?」
あ、意識が遠退いてきた。
やはり、ステファニーの命はここで終わりらしい。自分の死を悟り、子どもだけでも助けるために産もうと手術を受けるのだが、そのステファニーはかろうじて残った本能だったということか。
このステファニーの死と引き換えに、子どもが生まれ、次の皇太子となる。ステファニーの夫は建前上ラナンキュラスを後妻に迎えるが、物語のメインはそちらではなく、悲劇の母親から生まれた子ども、アスタークルを取り巻く少女たちの青春の一幕である。
それが「ようこそ、輝かしき世界へ」という小説である。