百回目
「おはよう、なつみ」
そんなはるかの声は嗄れていた。白髪になって、皺の増えた人物。でも、手だけは一緒に本を読んだりしたときと変わらない、はるかがそこにいた。
2100年。私が知っている時代から、八十年もの月日が経ったなんて実感が湧かない。ただ、はるかの老いだけが、現実を物語っている。
ひんやりとしたカプセル。私の手を握るはるかの体温が高く感じられた。それらの事実が、私がコールドスリープで眠っていたことを物語っている。俄には信じがたいが。
「……はるか、なの?」
「ええ、なつみ。ごめんね、八十年もかかって」
「今までのは、夢……?」
「違うとも言えるし、そうとも言えるわ。あなたがこちらに戻ってくるように、人工的に悪夢を見せていたの」
「は……?」
人工的悪夢って何その悪意に満ちた言葉の羅列。怖い。
一からゆっくり話しましょう、と私ははるかに手を引かれて立とうと思った。が、八十年も眠っていた私の体は立ち上がり方を忘れてしまったらしく、べたーん、と豪快に床に転がってしまった。
筋肉が衰えているのだわ、とはるかが車椅子を持ってきた。老いた姿のはるかに気を遣わせるのは、なんだか申し訳ない気がした。
髪を摘まむと、はるかのものとは違い、私は私の記憶のままの黒い髪をしていて、肌も十代半ばくらいのままだ。コールドスリープ……記憶が正しければ、体を冷たくすることで人体を仮死させ、若い姿を保ったまま、何年も生き永らえさせる術、だったはずだ。
何度も何度も夢を見て、行き着いた先が、八十年後の世界。馬鹿馬鹿しいと思えるくらいに実感がなかった。
はるかに車椅子に乗せられ、きいこきいこと施設内を回り、診察室のようなところに着く。そこではるかは車椅子を停めて、自分は向かいの椅子に座った。
「まず、なつみ、あなたの身に起こったことを説明するわ。あなたは十四歳の頃、中学の先輩に階段から突き落とされて、打ち所が悪く、植物状態になった」
「え、待って」
階段から? 私の記憶では屋上から落ちたのだが……
「人工的悪夢では、屋上から落ちたことにしたわ。でも、彼女の夢を見たとき、階段から落ちたシーンで、思い出してくれないか、と思ったのだけれど」
それを言われて、はるかの同級生に憑依したときのことを思い出すのと同時、頭がきん、と痛んだ。耳鳴りのような感覚。
……冷静に考えると、学生の自殺者はざらなのに、屋上に簡単に出入りができるというのはおかしな話だ。私が通っていた学校も例外ではない。
ということは、階段から落ちて、打ち所が悪かった、の方が納得はできる。
「さっきから言ってる人工的悪夢って?」
「順を追って話すわ。まず、植物状態になったあなたをお母さんは見捨てようとした。私は必死でそれを止めるために、あなたを救う方法がないか探した。そこにとある科学者が現れた」
ここで医者ではなく科学者が登場する辺り、胡散臭いと思うが、はるかは藁にもすがる思いだったのだろう。
「その科学者はコールドスリープの被験者を探して世界中を回っていた。精神療法もかじっていて、実験に協力してくれるなら、むしろお金を払うと言ってきた」
「……お金がもらえるんなら、お母さんが断らないわけないよね」
はるかが苦笑を浮かべる。所々の記憶は弄られていないらしい。
「私も、中学生だったから、なつみが救えるならなんでもよかったの。それで、OKを出して、コールドスリープの前に試したのが、人工的悪夢よ」
さっきからずっと響きの気になっていた単語が出て、私は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「その科学者が研究していたのはコールドスリープだけじゃなかった。夢についての研究もしていたのよ。海外では精神療法の一つに悪夢を見ない方法を確立させるため、悪夢を見ているときの脳波を取る研究をしている人もいたらしいの。
で、その脳波のデータから人工的に悪夢を作り出すプログラミングをしていたのが、私のすがった科学者だった。まあ、マッドサイエンスすぎて国を追われたらしいけど」
それはそうだろう。いい夢を見たい人はいても、悪夢を見たいなんて人はそういない。
「人工的悪夢を見せることによって、『その夢から逃げ出したい』という意思が、意識を浮上させることがある。……つまるところ、荒療治ね」
なるほど、確かに荒療治だ。人の精神性を逆手に取ったようなやり方は確かにマッドサイエンスだが、実際、それで目覚めた人は何人もいるらしいから、世の中なんてわからない。
「それをまず試して、駄目そうだったから、コールドスリープに移行した感じよ。ただ、人工的悪夢は具体的じゃないと目覚めへの誘いにならないから、記憶を参考に夢を組み立てる、と言っていたわ」
それで、昔見た漫画やアニメなどの話が多かったわけだ。なるほど。
「私は高校を出て、大学に通いながら、その人から学んだ。夢の作り方、コールドスリープの安全な維持方法、それから、色々とね」
おそらく、先程の憑依も教わったものなのだろう。でなければ驚いたはずだ。科学の域を超えているような気もするが、まあ、なんでも一周回ると異なる結論に行き着くものだ。突っ込むのは野暮というものだろう。サイエンスはロマンなのだ。
「彼は三十年ほど面倒を見てくれて、亡くなったわ。ちょうど、コールドスリープの確立も世界的に認められたちょうどいい時期だった。実験の協力者だった私はお金をもらえた。それをあなたが目を覚ますために使ったわ。悪夢の方向性を変えたの」
そうだ。いつからか、あまりゲームやアニメの話ではなくなった。
「私の記憶映像をインプットしたの。なつみが帰って来られるように」
「……なんで?」
そのとき、はるかが浮かべた笑みは、酷薄なものだった。
「なつみを責める者が消えた、安心できる世界になら、帰ってきてくれるかなって」
すう、と体温がなくなる心地がした。
まさか、夢で見せられたはるかの記憶って、本当にあったこと……?
お母さんを騙したり、同級生を責めたり、カウンセラーの先生に詰め寄ったり……
「でもね、なつみはずーっと、志津の言ったこと信じてたから」
はるかがテーブルの引き出しから徐に取り出した黒い物体。それは。
「私のこともうお姉ちゃんって呼べないくらい傷つくんなら、私もなつみにとっての害悪だよね」
それの引き金を引いて、はるかは自らの頭を撃ち抜いた。
まだ、悪い夢を見ているのではないだろうか。
「ねえ、お姉ちゃん……呼び捨てなんかにして悪かったよ」
私はだらだらと赤い液体を垂れ流すはるかにすがり、踞った。
「これが夢なら、覚めて」
……寒いよ。




