天―後
「約束は……覚えてるよね?」
その声に引きずられるように、ユウカの足は自然に吸血鬼のいる高台へ動き出した。
――得体の知れない引き篭もりの老人を信じた私が馬鹿だった。
ユウカの脳内には後悔が渦巻いていた。
――あの吸血鬼の奴隷になるくらいなら舌を噛み切って死のう。
ユウカはそう覚悟を決めながらも、呆気なく倒れた老人の身体と置物のように座っている骸の騎士を恨めしそうに睨んだ。
骸の騎士はそこまでするほどお人好しじゃない、とばかりに何の反応も示さなかった。
「僕の血を飲んだら僕抜きでは生きられなくなる……。口を開けろ」
ユウカは跪いて上を向き、口をだらしなく開いた。既に体の制御権は吸血鬼に奪われているようだった。
舌を噛むことも出来ず、魔王を討つどころか魔物の仲間入り……ユウカは目に涙を溜めながらちょうど真上にある満月を見ているしかなかった。
「……綺麗な月だ」
老人が血反吐を吐いてから小さくそう言った。老人もユウカと同じ月を見ていた。
「まだ生きてたのか……。折角いいムードなのに邪魔だな~。心臓貫いて確実に殺してやるよ」
吸血鬼は途端に不機嫌になり、倒れている老人の元へ早歩きで近づいた。
「最期に一つ……お願いがある」
「あ?」
「誕生日を……祝って欲しい」
――貴方が生まれた時は大きなお月様が頭の上で見守ってくれていたのよ。
老人が子供の頃よく母親から聞かされた言葉だった。
「……何歳なんですか?」
吸血鬼の拘束が解けたばかりのユウカがハッと何かに気付いた様に尋ねた。
「ひゃく」
老人は二ッと顔を綻ばせて笑った。言い終わらない内に吸血鬼のナイフが心臓を引き裂いた。
血みどろのナイフを引き抜き、吸血鬼は満足そうに振り向く。
「……なに笑ってんの? ユウカ」
ユウカは笑っていた。絶望から乾いた笑いをしているのとはどこか違う――本当に可笑しくて笑っていたのだ。ちょうど無邪気な子供がそうするのと同じ様に。
「ハッピー・バースデー!」
ユウカは涙を拭きながら、老人に微笑んでそう言った。
風が吹いた。風に運ばれた赤や青の元素が老人の体を優しく抱擁する。それらの元素は老人の体を繭のように覆い傷を癒すと、また風に乗って消えていった。
「完全に脳が死ぬ前にレベルアップで体力を回復したのか……。ホンッットーーに面倒くさい爺さんだな。次は絶対殺した後に首を切り落とす」
老人は立ち上がった。傷は癒えたとはいえ、腰が曲がっていることとサンタクロースのように髭モジャであることに変わりはない。
吸血鬼はユウカを自分の所有物にする寸前、二度も邪魔され気が立っていた。確実に殺すため、老人の頭を乱暴に掴み首筋へ鋭利な歯を突き立てた。
「……は?」
勢いよく突き立てた鋭利な歯は老人の肌を喰い破ることはなく、無残にも欠けて地面に落ちた。
老人は先ほど「一発だけ攻撃を喰らってやる」とハンデを負った先の吸血鬼に、これで借りを返したつもりだった。
吸血鬼は老人と眼が合うや否や一瞬蝙蝠に化けて素早く飛び退く。
「……なぜ僕はあの老いぼれから逃げるように距離を取った?」
吸血鬼は首を傾げて自問自答する。不意に目の前で手を叩かれれば瞼を閉じてしまうように、それは反射的に起こった行動だった。
吸血鬼の怪力と素早さを持ってしてもあの老人と近距離で戦り合うのはマズイ――肉体に蓄積された経験が発した警告に吸血鬼は素直に従うことにした。
吸血鬼は自らの右手首の動脈をナイフで切り裂き、滝のように流れ出す血液を口の前に掲げ呪詛を唱える。地面に垂れ落ちた血流がボコボコと音を立てて歪に凝固し、グロテスクな翼の生えた悪魔のような魔物が錬成されていく。
「アイツの首を切り落として心臓を喰らえ」
主人の命令の直後、降臨した獰猛な血の悪魔は空気が軋む程に咆哮し老人に襲い掛かる。レベルが上がっても足腰の悪さまでは治らなかったのか、老人は微動だにしていない。
「避けて!」
ユウカがそう叫んだ時には、血の悪魔の鉤爪が老人に大きく振り下ろされていた。思わず視線を逸らしたユウカだが、老人の叫び声も鮮血が飛び散る音も聞こえてこない。ただ耳に入ってくるのは――まるで子犬が飼い主に甘える時に出すようなクゥーンという間の抜けた鳴き声だった。
血の悪魔がしていたのは老人に対する攻撃ではない、老人の差し出した左手に右手を乗せ忠誠心を示す行為「お手」だ。
「〈人形操舞〉で魔物の使役権を奪った……?」
ユウカと吸血鬼の理解はほぼ同時だった。
吸血鬼は並の魔物と異なり高い知能を備えている種であり、特にこの個体は暗殺用として送り込まれた精鋭の吸血鬼であったために勇者が習得する魔法やスキルは一通り把握している。
――あの老いぼれの急激な変化は一体全体何だ? ゆっくり考察したいところだけどそれより今僕が考えるべきは……どうやってここを生きて脱出するかだ。このまま戦い続ければ間違いなく首が飛ぶのは僕の方になる。
吸血鬼は冷や汗を浮かべながらも、自身と老人との実力差を客観的に認めていた。勝てる相手と勝てない相手を見極める、それが彼が長らく生き永らえることの出来た秘訣だった。
吸血鬼の視線は洞窟の出口に繋がる通路へ、そして高台の隅にいるユウカへと動く。
老人がすっと手を挙げると血の魔物が吸血鬼の元へ反転し牙を向ける。吸血鬼は蝙蝠の大群に化け、血の魔物の牙を潜り抜け一直線に出口への通路を目指した。
老人は杖の先に火の玉を浮かべていた。ただしそこに集約されている炎は以前のように小さく貧弱な炎ではない。まるで小型の太陽を持ってきたかのような、洞窟の通路自体を丸々飲み込んでしまいそうな程大きく燃え上がっている火の玉だった。
ちょうど蝙蝠の群れが通路に入ろうと密集した辺りで、その火の玉の爆風が蝙蝠たちを炎と爆風の渦へ巻き込んだ。
「クソがっ……! でも"かしこさ"のステータスは僕の方が上だったみたいだね……」
自身の分身である蝙蝠を焼き尽くされ、血を吹き出しながらヒューヒューと荒い呼吸を繰り返している吸血鬼の本体は、ユウカの背後にいた。
吸血鬼は全ての蝙蝠を洞窟の通路へ送り逃亡を図った――のではなくそれらを囮にし、ユウカへ近づいた本命の一匹の蝙蝠をカモフラージュしていた。
瀕死とはいえ吸血鬼の怪力は人間が対抗できるものではない。ユウカは後ろから羽交い絞めにされ、首元には欠けていない方の吸血鬼の牙が触れていた。
「動くなよ。まずは血の魔物を止めさせろ」
吸血鬼を見つけ襲い掛かろうとしていた血の魔物を老人が手を挙げて制止した。吸血鬼は勝ち誇った表情で老人に話かける。
「僕がユウカを殺すのにコンマ1秒も掛からない。いくらアンタに"すばやさ"があっても無理だ……変な気を起こすなよ。僕が求めるのは二つだけだ。まず僕を生きてこの洞窟から返すこと。それからあんたが強くなったメカニズムについての説明」
老人は長い顎鬚を何度か撫でると、やがて悲しそうに首を振った。
「……自分でもなぜ強くなったかは分からないのか?」
老人は頷いている。
「……ならいい、それについては後で徹底的に調べてやる。じゃあ僕は洞窟の外までユウカを人質として連れていくから、僕が無事外まで出たらユウカを解放す――」
老人は再び首を振っていた。
「何だ? 何がダメなんだ?」
老人はただ首を振っている。
「……フザけてんのか? 僕はいつでもユウカを殺せ――え?」
老人がほんの僅かに杖を上げて降ろす動作をしたかと思うと、ユウカがドサリと倒れた。ユウカの倒れたところから広がった血溜まりが吸血鬼の足元まで流れた。
そしてユウカを盾にしていた吸血鬼の心臓部には、半径三cm程の穴がポッカリと空いている。
「やりやがった……この怪物め」
吸血鬼は老人に毒突き、グラリと体を揺らして倒れた。老人は杖を地面から少し離したごく一瞬の動作の内に〈エアリアルブラスト〉を撃ち込んでいた――その魔法がユウカを貫通することを気にも留めずに。
吸血鬼は人間の悪意を甘く見ていたことに後悔しながら息絶えていった。召喚主である吸血鬼が死んだことによって血の魔物も蒸発して消えていく。
「……うぅ」
ユウカは小さく呻いて体を起こした。
仕方無かったとはいえあそこまで躊躇なく人を撃てる老人が恐ろしい――そんな感想を抱きながら、老人の〈エアロブラスト〉が風穴を開けた自分の左肩の辺りを擦る。
「あれ?」
吸血鬼の体同様、ユウカの体にも皮膚と骨をくり抜かれて出来たはずの穴が消えていた。
困惑し老人を見つめると、老人は吸血鬼に腹部を刺されたタケルの前に立っている。老人がふと杖を持ち上げたかと思うと、タケルの腹部に出来た傷はきれいさっぱり無くなっていた。まだタケルに意識はないようだが、微かに呼吸はしている。
ユウカは勇者が習得する魔法のリストを学術院で学んだ記憶から掘り起こし、「死者蘇生」に当たる魔法があるのかどうか探した。
しかしそれに類するような魔法は見つからない。そもそも勇者が覚える回復魔法は〈ヒール〉しかないのだ。であるならば、あの老人がタケルに施したのも単なる〈ヒール〉なのだろう……その治癒力は通常とは大きく逸脱しているにせよ。
「もしかして……私に〈エアロブラスト〉を撃ち込み即座に〈ヒール〉も詠唱していたんですか……?」
ユウカは恐る恐る老人に尋ねた。ユウカが〈エアロブラスト〉を被弾したことに気付いたのは倒れた後であり、それまでは痛みを感じる間も無かった。
「……」
老人はユウカの眼を見つめ深く一礼する。
恐らくその一礼には質問への肯定と、攻撃を当ててしまった非礼に対する謝罪という二つの意味が込められているのだろう。
「謝らないでください。謝罪するのは私の方です……。今までの非礼の数々、本当にごめんなさい」
ユウカは老人よりも深くお辞儀した。
老人は気にするな、とばかりに手をひょいひょいと振っている。
老人が倒れているタケルを抱き起そうと腰を屈めると、それまで戦いを傍観していた骸の騎士が地鳴りのような音を鳴らしながら徐に立ち上がった。
ユウカは急いで老人の元に駆け寄り、袖を引っ張って骸の騎士を指差す。骸の騎士は太刀をひっくり返すように上に放り投げ刃の部分を握ったまま、じっとその場を動かなかい。
「くれるってことでしょうか……?」
ユウカの言葉を聞いた老人はよたよたと骸の騎士まで歩み寄り、ぺこりと頭を下げ骸の騎士から巨大な太刀を受け取った。
騎士としての誇りである武器を渡す――これは骸の騎士から出来る最大限の賛辞だった。
◇ ◆ ◇
老人は長年彼が住んでいた小屋の入り口へ骸の大太刀を立てかけると、背負っていたタケルをユウカへ託そうと優しく地面に降ろした。タケルはまだ気を失っているらしいが、直に目を覚ますだろう。
しかしユウカはタケルには目もくれず、せっせと小屋の中で旅支度を始める老人の所作を見ている。
色の剥げた数十年物の鞄に、様々な書き込みがされた地図や携行食のクルミを詰め込む老人の姿は、ユウカの瞳には待ちわびた遠足に出かける少年のように映った。
暫くして老人は小屋から出てくると、まだそこに突っ立っているユウカを見て目を丸くした。
「私も連れて行ってください!」
ユウカは老人の眼を見て小柄な体から想像出来ないほど大きな声で言った。ユウカがこれ程大きな声で本心を伝えるのは初めてのことだった。
老人は拒否するつもりでいた。
――可哀想だけれど小さな勇者には危険すぎる旅路になるだろう。
しかし老人はユウカの瞳を見て考えを変えた。何か大きな炎が灯っていたような気がしたのだ。
「……」
老人は頷いた。タケルの体を毛布でくるんで小屋の中に寝かせ、旅行鞄を背負い腰に杖を差した。
「行きましょう」
老人は右手に骸の大太刀を掴み、左手にユウカの手を握り、月の浮かぶ方向へゆっくりと歩み始めた。
この日はじまりの村から、二人の勇者が旅立った。