間 章
「アキ君はお姉ちゃんが守ってあげるからね」
笑顔で宣言されたその言葉に、僕は大きく目を見開いて絶句していた。
弟想いの姉を持てたことに心打たれていたわけではない。悪漢に襲われた僕を庇ってくれていることに、感謝しているわけでもない。
僕の眼は正確に姉を捉えていたが、同時に周囲の惨状にも焦点が合っていた。
血、血、血。朱、朱、朱。
清潔感そのものの真っ白いカーテンは、不気味な朱いアートで着色され、
薄型のテレビは、画面の光が遮断するほどの濃密な朱が塗りたくられ、
柔軟性を売りにしているソファーは、大量の血液が染み込んで湿り、
血溜まりのフローリングの上で、僕の父親は自らの血液で半身浴を楽しんでいた。
まだ五十にも届かぬ年齢で事切れた父親。薄くなる方向ではなく、徐々に白髪混じりになっていく頭が、今時の若者でもせぬような真紅で染め上げられ、人生の幕を閉じたまま横たわっていた。
僕の隣で寝ている父親とは違い、姉の足元には、母親が同じようにフローリングの床と顔面をご対面させていた。口も鼻も自分の血で埋もれ、苦しくはないのだろうか? いや、苦しくないんだろうな。だって見た感じもう死んでるし。
「怖がることはないよ。アキ君は何も悪いことはしてないし」
ペチャリと、裸足の足が母親の血溜まりを踏んだ。
息が止まった。姉との距離が数センチ縮まっただけで、僕の恐怖心は格段に跳ね上がった。
「アキ君が怒られる理由が、お姉ちゃんには分からない」
二歩目、三歩目と、ソファーやテーブルを避けながら、姉が僕の方へゆっくりと近づいてくる。笑顔のまま、あらゆる状況を疑うことすら忘れた優しさで。
ある一定の距離まで狭まった時、僕はついに逃げる決断を下した。尻もちをついた姿勢のまま後退するが、すぐに背後の何者かによって、僕の抗いは終了を遂げる。普通に壁だった。僕の家のリビングは、世間一般と比べれば広い方かもしれないが、しかし今の姉と一緒にいて安心できる広さではない。
今度は立ち上がって、その足での逃亡を試みた。が、すでに失敗していることに気づく。理解の追い付かない現状に腰が抜け、宙を彷徨う二本の腕が壁や床を叩いたりするだけだった。
「逃げないでよ。お姉ちゃん、悲しくなっちゃうな」
ついに僕と姉の距離は、半歩を残すのみとなった。真頭上から覗き込む姉の顔が、爛々と輝く電灯の逆光となり、今どんな表情をしているのか窺えない。
そして姉は、包丁を手にした右手を僕に差しのべた。
「あー、こんな物持ってるから、アキ君怖がってたんだね」
朱く装飾されたそれを、迷いなしに背後へポイッと投げ捨てた。数回転して刃を下方へ向けたまま落下する包丁は、偶然にも父親の肉体へめり込んだ。
「はい、これで安心安心」
再び右手を差しのべる。今度は両親を死へと追いやった凶器を手にせず、真っ朱に汚れたまま。まるで朱い手袋をしたまま、手相を見てくれと言わんばかりに大きく広げて。
僕の腕は動かなかった。限界の握力で床を掴みながら、自らの両手は震える腕を支えることに専念している。呼吸も荒く、鼓動も速い。全身の恐怖が拒絶に変換されてしまったほど、僕の体は金縛りにあったかのように現実を見てはいなかった。
「大丈夫。アキ君は、お姉ちゃんが守ってあげるから」
さっきと同じ台詞を吐き、姉はゆっくりと顔を近づけてきた。
血塗られた瞳が、僕の引き攣った表情を映す。
磁石のように視線を引き合わせたまま、姉は棒になった僕の右手を取った。僕の手の平が、姉の手の平と重ね合わさる。
そして――、
***
ふと気付くと、場面が変わっていた。
狂った姉は消え、朱い惨状のリビングでもなく、ただ僕一人だけが、白骨に覆われた荒野の真ん中で佇んでいる。
夢の中。あの明晰夢。
恐怖心の洪水から一変、僕の思考は冷静さを取り戻し、一度だけ溜め息を吐いた。
両親が姉に殺されたのは去年のこと。確か九月の中旬辺りで、僕は中学三年生、姉は大学一年生だった。それからすぐに死体を解し、部屋を片付け、今のアパートに移り住み、僕は高校に進学し、姉は生活を支えるために大学を中退して働きだしたのである。
無意識に足が動き、僕は白骨の丘を目指して歩き出した。
あの衝撃的な惨状は、今でも鮮明に思い出すことができる。夢で見ることは珍しいが、包丁を持った姉が笑顔で両親を刺し殺している光景は、嫌でも脳裏にこびりついてしまっていた。
加えてあの台詞。僕を両親から守ったと信じて疑わない姉の言葉は、たとえ記憶を失ったとしても、耳に焼き付いて忘れられないだろう。
白骨の地面に傾斜が現れ、目的の丘に差し掛かったことが分かった。
実は僕は、両親が殺されたあの日の出来事の前後が、記憶からすっぽりと抜け落ちていた。姉が喜んで両親を切り刻むその光景があまりにも強烈過ぎて、脳みそがショックを起こして記憶を欠落させたのだろうと、今は結論付けている。
覚えている始点は、僕が父親に説教されている場面から。そこへ包丁を持った姉が乱入し、止めに入った母親もろとも刺し殺してしまう。そして記憶の終点は、僕と姉の手が触れ合うまで。その前後の記憶が、書き上げたキャンバスの上に黒い絵の具を塗りたくってしまったかのように、記憶を覗けなくなってしまっていた。
だからこそ、腑に落ちないこともある。
足を止め、僕は二つ並んだ頭蓋骨を見降ろした。
一時期、この頭蓋骨は両親のものなんじゃないかと結論に至ったこともあった。ほとんど枕元に近いところに両親の死体が眠っているのだから、夢に出てきてもなんら不思議ではない。
けど、そうと断言できる根拠がない。それが正解なのかもしれないし、全然違う真実が答えなのかもしれない。所詮は僕の夢の中。僕がそうだと決定してしまえば、真実は何通りにでも塗り替えることができるんだけれども。もし僕と姉の頭蓋骨だったら嫌だなぁ。
僕は幾度となくそうしてきたように、片方の頭蓋骨を持ち上げた。同時にそれは粒子となって崩壊していく。
この頭蓋骨が姉のものなのだとしたら、どうしても問い正してやりたい。僕が忘れている真実を教えてほしい。現実の姉に問うのは、あの悲劇の中心に佇む姉を、再び呼び覚ましてしまいそうで怖いから。
何故姉は両親を殺したのか?
何故僕は父親に怒られていたのか?
巡る記憶は空白を彷徨うばかりで、真実を語り出してはくれない。
未だ疑問に残るその問題点は、しかし思い出さない方が良いのかもしれない。
もし僕の本能が意図的にその記憶を隠ぺいしているのだとしたら――、
僕は真実を知った時、どのように狂いだすかも分からないから。