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s_complex  作者: 秋山 楓
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第5章

 我が家であるボロアパートに到着すると、一組の男女が玄関の前で立っていた。女性の方が扉をノックしていることから、僕か姉に用があるのかもしれない。むしろ用がないのにノックとは、ピンポンダッシュ以外の理由はあるのかと自問してみる。


 女の方はクセのないまっすぐな髪が腰の辺りまで伸びており、その色は漆黒のビジネススーツと見分けがつかくなるほどの、呑み込まれるような黒髪だ。一般的な女性の身長からすれば小柄な部類だろう。相佐さんと同じくらいだが、そのスタイルは不条さん並みにスレンダーということが腰のくびれから分かる。む、どこからともなく相佐さんの罵倒が聞こえたような気がしたが気のせいだ。間違いない。


 対して男の方は、一言で言うならデカかった。女の二倍、はさすがに言い過ぎだけれども、扉の上辺はゆうに超え、軽く頭を下げなければ部屋に入れないほどだろう。女と同様、スーツ姿ではあるが、遠目からでもどこか色褪せてる感があり、端整とは無縁なシワがいくつも走っている。女の背後で控えるこちらはなかなか鍛えてるようだが、その身長や撫で肩のせいでどうもヒョロく見えてしまう。


 二人とも扉とご対面して僕に背中を晒しているので、顔立ちまでは分からない。男の方は眼鏡を掛けているようだけど、んな情報どうでもいいか。


 しかしあの男女は何者だ? しっかりした身なりであるから、セールスか宗教の勧誘かと思うも、どうも空気が怪しい。僕が彼らを発見した時にはすでにノックをしていたのに、容姿の描写を終えた一分後、未だに断続的にしつこくノックを続けている。普通だったら居留守かマジ留守かの判断を終えて、とっくに諦めていてもおかしくはない。


 うーん、やだなー、面倒だなー。せっかく相佐さんと嬉し恥かし二人だけの夏休み計画を語って、その幸福感に浸っていたのになー。

 よし、ここは完全なる無視だ。あと数分歩いて戻ってこよう。

 そう決定して一歩踏み出した瞬間、男女はようやく諦めたのか、扉から離れて反転した。

 そして眼が合う。


「…………」


 なんだそのサングラスは。松田優作気取りか? あんたなら『なんじゃこりゃあ!』じゃなくて、普通に『痛っってぇ!』って苦しみに悶える顔してんぞ。

 いかん、予想外の展開にすっかり動揺してしまったよ。だがよく考えろ、落ちつけ。僕は彼らの顔を知らない。ならば彼らは僕がその部屋の住人だってことも知らないだろう。ならばこのまま歩き去って、ただの帰宅途中の高校生を演じることは、まだでき――、


「あなた、長瀬アキラ君ですね?」


 ――なかった!

 しかも『質問』ではなくて、それはもう確定を明らかにした『確認』の口調だった。

 なかなか整った顔立ちで、姉には負けるが(完全な身内贔屓ですよ、はい)そこそこ美人な女だった。ただ丁寧に塗られた口紅の端は釣り上がり、表情全体は柔和な笑みを演じてはいるものの、細められた視線だけは冷たかった。南国の海に氷山が浮かぶ矛盾を持ってして、冷酷な瞳は僕の全身を捉える。


「……はい、そうですけど」


 嘘は言えなかった。それは最良の選択ではない。ここで嘘をつくことは、一+一を知っている人間に、他の答えを提示して混乱を招こうとしている馬鹿と同じことだろうと思った。この女の口調と視線は、そう思わせるくらいに僕を『長瀬アキラ』だと確信している。


 目が泳いでしまった。嘘をつく時に視線を外す人はよくいるけれど、まさか正直に答えてきょどるとは思わなかったよ。それほど女の視線は、僕の眼球を介して脳細胞を盗み見ようとする威力を所持していた。


 僕の視線の先には長身の男がいた。後ろ姿の印象とさほど変わらなく、全体的にむさ苦しさを感じる。まだ若そうではあるが、ぼさぼさの髪にしわくちゃのスーツ、クールビズなのかネクタイのないその身なりからして、すでに熟年層の雰囲気を醸し出している。現時点では口を真一文字に結び、大きなサングラスの下から僕を見降ろし、まだ一言も言葉を発していない。


「わたくし達はこういう者です」


 女の胸ポケットから取り出されたのは、表面が黒い小さな手帳。その中を開くと、POLICEと書かれた黄金のエンブレムの上に、真正面から撮られた女の写真。名前は『黒峰優里(くろみねゆうり)』。


「……警察?」

「こっちの男は『桜枝裕次郎(さくらえだゆうじろう)』と言います」


 質問には明確に答えず、黒峰さんは後ろの男を紹介した。桜枝……さんは何もしゃべらず、ただサングラス越しに僕を睨むのみ。いや、もしかしたら他の場所を見てたり目を閉じてたりしてるのかもしれないけど、軽く引かれた顎はすぐに元の位置に戻ったので、どうやら一礼のつもりだったのだろう。寡黙キャラなのだろうか。


「本日は、長瀬アキラさんにお話を伺いたく参りました」

「僕に話……ですか?」

「ええ」


 そう言って、黒峰さんは警察手帳をしまうと、今度は内ポケットから写真を取り出した。


「この男に見覚えはありませんか? 名前は『椎名平治(しいなへいじ)』といいます」


 ずいと写真を胸元へ押しやられたので反射的に握ってしまうと、黒峰さんは素直に手放してくれた。どうやらもっと近づけてじっくり見てほしいらしい。

 写真には中年男性が一人、写されていた。薄くなりかけた頭には白髪が混じり、子供とどこかレジャーへ向かおうかという格好をしている。背景が川なのをみると、どうやら釣りをしている際の写真らしい。

 しかしどこにでもいそうな中年オヤジだ。たとえ僕とこの人しか歩いていない道端ですれ違ったとしても、十秒もすれば顔の輪郭すらあやふやになってしまうかもしれないほどの特徴のなさ。とても印象が薄い。


「『椎名平治』……。聞いたことない名前ですね。それにこの顔も見覚えがありません」

「そうですか。では、こちらは?」


 いつの間にか手にしていたもう一枚と交換され、僕は再度写真の人物を確認する作業に移る。

 もう一枚の方も、同じ中年の男だった。ただし私服ではなくて、深い藍色を基調としたきっちりと整ったその制服は、一目で警察官だということが分かる。

 先ほどと大きく違うところは、帽子を被っているか否か。帽子によって陰りが入るその顔を見た途端、眼球の裏側辺りにノイズが走る。


「…………あ」

「どうです?」

「見覚え……ありますね。この警察官。確か昨日の夜に、会ったはずです」


 ほぼ間違いない。無機質な写真では無愛想に見えるも、この中年をこの場に具現化して相対すれば、あの優しそうな雰囲気を感じられるだろう。夜道は暗かったが、たかだか昨日の夜、しかも『狩り』を邪魔した相手となれば忘れるはずもできない。


 それにしても、ここで当然の疑問が生まれる。

 彼ら警察が何故、この中年警官の写真を持って僕を訪ねてきたのか。


「この人がどうかしたんですか?」

「殺されました」

「………………?」


 聞こえなかった。僕の言葉の語尾を食い気味に、しかも早口だったために黒峰さんの言葉は耳に届かなかった。再度訊き返そうと息を吸い込んだ瞬間、突如として胃の中のものが押し上げられる感覚に陥る。


 チガウヨ。キコエテイタヨ。


 一つ一つは意味のない破片が脳内に散らばり、自動的に組み立てられていく。そのパズルを受け入れようが受け入れまいが、内臓がひっくり返るような吐き気は止まらない。


 リカイシヨウヨ。


 昨日の夜、親切にも僕を自宅まで送ってくれたあの中年オヤジが。他にも僕のような深夜徘徊をしている子供がいるかもしれないと、笑顔で巡回に戻ったあの警察官が。


 コロ、サレタ……?


「昨日の深夜遅く、何者かに殺害されたもようです」

「あう…………」


 突きつけられる事実。耳元で鐘でも鳴らされてるかのように、グワングワンと揺れる世界。あまりの動揺に、呼吸すら乱れてくる。


 ……落ちつけ。思考回路を修復しろ。平静を演じろ!


 大丈夫。何も変わらない。あの警察官が死んだからといって、僕の世界は今日も変わらず回っているじゃないか!


 呼吸を整えろ。心拍数を抑えろ。そして考えろ!


 そう、そうだ! あの警察官が殺されたことを告げられて、確かに驚いた。その言葉に耳も疑った。だけどそれは予想できなかったことじゃない。確実に予想の範疇だ。ただあまりにも低確率の事象が的中してしまっただけで、なにも超常現象的な何かが起こったわけじゃない。


 万年負け続けた競走馬が最終レースに出場し、誰もが今日も負けるだろうと予想していたところを、一位優勝してしまったものなのだ。幻のゼッケンゼロ番が現れ、優勝を掻っ攫っていったわけじゃない。


「どうかされましたか?」

「いいえ、ちょっと驚いただけです」


 あまりにも長い動揺に、不審に思われはしないだろうか。いやそれよりも、今の僕はちゃんと平静を装うことができているだろうか。顔の筋肉に異様な歪みは感じられないけど、鏡がないので自信がない。


「無理もないことです。先日言葉を交わした人が、なんの前触れもなくこの世を去ったことを聞けば、誰だってそうのような反応をします。正しいことです」


 正しい、こと?

 まさか、こいつ――、

 僕の反応を観察しているのか?

 ちらりと黒峰さんの斜め後ろに仁王立ちしている男に視線を向けたが、未だに口を開けることはなく、表情もピクリとも動かない。

 すぐに視点を黒峰さんに戻し、僕は目を細めて問うた。


「そのことについて僕に話……ですか?」

「その通りです」


 隠そうともせずに肯定する。まあ隠す必要もないんだけど、できればもう少し遠まわしに言ってほしかったかもしれない。一般人に殺人の話とか、正直きつすぎる。


「立ち話もなんですから、お宅へお邪魔させてもらってもよろしいでしょうか?」


 それはもてなすこっちのセリフじゃないのか? と普通なら突っ込んでやりたい気分でもあるが、僕にはそれができない理由がある。警察を、家の中へ上げられない理由が。


「僕の家、とても狭いですよ」

「構いません。もし収まりきらないほどでしたら、こちらの桜枝は外で待機でもさせておきますので」


 その言葉に後ろのでかい男が僅かに苦い顔をしたが、確かにこれほどの身長の人間を招き入れたことはないから、どれほどの圧迫感になるかは分からない。


「……今朝は時間がなかったから、散らかってるかもしれませんよ」

「片付ける時間くらいは待てますが?」


 それくらいは当然だと言わんばかりに、黒峰さんは眉をひそめる。


「…………あー、こういう時には、喫茶店かなんかで事情聴取してるところを、昔のドラマで見たことがあるような気がします」

「不況の影響が漂う昨今、警察としてもできるだけ経費は削減したいものですので」


 むう、それは困るな。僕としても無駄に遊べる貯金は、もうあまりない。


「それとも――」


 黒峰さんは、静かな口調で告げる。


「他に我々を家に上げたくない理由でもあるんですか?」

「………………」


 それは言外に、家に上げなければ無条件でお前を疑うぞ、と言っているかのように、僕の上に重たくのしかかった。


 僕はさらに目を細める。


 家が留守だったってことは、姉はまだ帰っていない。というよりも、社会人である姉が平日の午後四時に家にいることなど、ほぼ皆無といえるだろう。

 ならばこの警察らを家に上げるとなると、自然と僕の部屋に、ということになる。二部屋しかないわけだから、姉の許可なく部外者を姉の部屋に招き入れるのは気が引ける。


 大丈夫だろうか?

 襖一枚隔てた向こうに、『死体』を安置している僕の部屋に、警察なんかを入れて……。

 いや、逆に考えれば、襖さえ開けさせなきゃいいのだ。僕がずっと自分の部屋を見張り、彼らに勝手な行動をさせなければ。


「仕方ありませんね。ちょっと待っててください」

「ありがとうございます」


 商売上の笑みを見せた黒峰さんに対し、僕は露骨に諦めの溜め息を吐いた。ここは分からせておいた方がいいだろう。警察なんかを自分の家に入れるのは嫌だ、と。


 スーツ姿の不気味な刑事二人を背後に従え、僕は家の鍵を取り出した。実はこのアパートに引っ越してきた頃、あまりのボロさから、興味本位で鍵穴に針金を入れてみたところ、なんとものの数秒で鍵の開閉ができたことには驚いたね。ボロい代わりに家賃が激安なのだからあまり文句は言えないが、防犯くらいはしっかりしてほしいと思う。


「こっちです」

 玄関を開けると、正面すぐには姉の部屋。左側の扉二つはトイレと風呂で、炊事場の横の扉が僕の部屋の入口だ。靴を脱いでから三歩、スライド式の扉を開けて、ふと思い出す。


「あ、しまった。ちょっと布団を畳みますので」


 年がら年中出しっぱなしの布団だ。『死体』のせいで押入れに収納することはできないので、三つに畳んで部屋の隅に放置する。


「すいませんが、座布団はないので畳に直座りでお願いします」


 無言で僕の後ろをついてきた刑事二人は、文句もなくその場に腰を下ろした。黒峰さんは正座で、桜枝さんは黒峰さんのやや斜め後ろで胡坐をかいて。

 先に刑事が腰をおろしたのを確認してから、僕はチラリと襖の方を一瞥する。うん、大丈夫だ。隙間は開いてない。


「二部屋……ですか。ここがあなたの部屋ということは、お隣は?」

「姉の部屋です。姉と二人暮しなんですよ」


 僕は黒峰さんの正面で正座する。


「お姉さんは今どちらに?」

「仕事ですよ。僕を養ってくれる社会人ですので」

「失礼ですが、ご両親は?」

「別居中…………」


 内心で自分が言った単語の意味を咀嚼し、反芻する。

 親と別居中というのは、昨夜のあの中年警官にも言ったように、主に話の内容をはぐらかすための嘘にしかすぎない。その場で確かめようのないこと、または確かめる必要のない時などは間違いなくこれで通る。

 しかし相手は僕のことを訪ねてきた刑事なのだ。昨夜のようにばったり会ったのとわけが違う。もしこいつらが僕のことを調べているのならば。

 余計な嘘は、いらない疑いを生むだけだ。


「知りませんか? 長瀬という名の夫婦。一年前のことです」

「長瀬夫妻……」


 黒峰さんは片手で顎をつまみ、考えに没頭するような仕草を作る。

 あまりにもヒントの少ない連想ゲームだが、僕は一般常識でも尋ねるように、それ以上の情報は与えなかった。黒峰さんの方も、ヒントが少ないからこそ、それらの単語が意味することが警察関連であることは理解しているだろう。

 やがて壁掛け時計の秒針の音が聞こえるほど完全なる静寂が訪れたと思いきや、黒峰さんはすぐに答えに達したのか、顔を上げた。


「……思い出しました。昨年の九月辺りに失踪した長瀬夫妻のことですね?」

「その通りです」


 失踪。捜索願を出したのだから、失踪と言えば失踪なのだが、どちらかと言えば蒸発に近いものがあるだろう。


「申し訳ありませんが、そちらも全力を持って捜査しておりますが、手がかりが何一つ掴めていない状況でして……」

「構いませんよ。失踪って言っても、子供の行方不明とはわけが違うんです。しかも夫婦揃ってってことは、世間が嫌になってどこかで隠居してるんじゃないんですかね」


 投げやりな言い方になってしまった。が、それくらい無関心を装って、早く両親の話題から逸れたい。その相手が刑事ならば、特に。


「僕と姉の二人であの家に住むのは、いささか大きすぎますからね。こうして自宅を残して、姉といっしょにこのアパートに移り住んだわけです」

「なるほど」


 納得したかのように黒峰さんは重々しく頷くも、何かが引っ掛かる。

 矛盾ではないが、大前提を失ったような喪失感。


「そんなことより、話を戻しませんか?」

「そうですね。失礼しました」


 黒峰さんはいったん咳払いをしてから、表情を変えずに言う。


「長瀬さんは椎名平治……先ほどの写真の男性に見覚えがあるということでしたが、間違いありませんね?」

「間違いありません。昨夜のことですから、まだけっこう鮮明に覚えてますよ」

「彼と会ったのは何時頃でしたか?」

「確か……夜の十時より少し前だったかと思います」

「どこで会いましたか?」

「正面の道路を右に曲がって、まっすぐ行ったところです。距離で言ったら……五分くらい歩いたところじゃないでしょうかね? 場所ははっきり覚えてますんで、その場に行けばすぐに分かりますよ」

「そうですか。それはまた後ほどにして、あなたはその時間、何故そんなところを歩いていたのでしょうか?」

「…………」


 沈黙は疑われるか? しかし理由が理由なだけに、嘘を嘘としてつき通すしかない。


「ちょっと小腹が空いて、コンビニに行こうとしてたんです」

「その途中で椎名と会ったと」

「ええ、そうです」


 にしても、僕が余計な情報を与えないように受け答えをしているのに、この女刑事はいやに的確に知りたいことだけを詰問してくるな。それだけ慣れているのだろうか?


「しかしこの辺りは現在、とても物騒になっています。よくも単身で夜道を出歩こうと思いましたね」

「通り魔殺人のことですよね? それについては、『まさか自分が……』という精神を貫き通しているんで、別に怖くはありませんよ。コンビニだって歩いて十分もかからないし、襲われたとしても、逃げ切れる自信はありますからね」

「そのように考えている人が一番危険なんですよ。あなたはもっと、警戒心を強めた方がいいのかもしれません」


 余計な御世話だ、と呟いたのは心の中だけで。

 しかしこの刑事たち、メモを取っている様子が一切ない。黒峰さんも桜枝さんも、じっとこちらの話を聞き入っているだけで、二人とも手は膝の上だ。まさか話した内容すべてを記憶に留めて終わるつもりなのか?


「それでは椎名と会って、どのような話をしましたか?」

「特にこれといって会話をしたわけじゃありませんが……」

「構いませんよ。我々は、些細なことでもいいので、その時の状況を詳しく知りたいのです」

「…………」


 それは暗に、君が容疑者かそうでないかを判断するために必要です、と言っているようなものだよな。その時の会話なんて、僕が犯人でないと考えているならば、どうでもいいことのはずだ。


「……そうですね。まず呼び止められて、こんな夜中にどうして出歩いているのかを問われましたね。もちろんコンビニ行くって言いまして、それで……そうだ。僕が補導されるかどうかって話になりました。高校生で夜の十時以降に出歩いているのは、補導対象だからって」

「しかし彼と会ったのは、十時前と仰いませんでしたか?」

「そうですよ。まだ九時五十五分くらいだから、君を補導する気はないと言われました。それでコンビニ行って帰ってくる頃には確実に十時を回ってるはずだから、諦めろとも」

「その後は、椎名と一緒にこの家まで帰ってきた、と?」

「その通りです」


 黒峰さんは目を伏せ、少し思案する。


「……家に着いた正確な時間は分かりますか?」

「さぁ? けど会ったときに五十五分だったんなら、家に着いたのは十時ちょっきりくらいじゃないですか? 誤差があっても一分か二分くらいだと思います」

「なるほど」


 嘘は言っていないはずだ。疑われる要素は多々あるかもしれないけれど、事実この件に関しては僕は何もしていないので、いくら根を掘り下げたって何も出てくるはずはない。


「椎名はあなたをここに送ってからまたパトロールに戻ったということですが、その時にあなたのお姉さんは椎名の顔を見ましたか?」


 身体が強張ったのが分かった。拳を作っている手の平は一瞬のうちに汗まみれになり、生唾が無意識に食道へと落ちていく。

 姉の名前が出たことで、揺らいでしまった。緊張した筋肉は、不自然な痙攣を引き起こす。

 しかし悟られるわけにはいかない。今まで平然と受け答えをしていたのに、一部の質問で躊躇してしまうのは、明らかに不審の対象だ。


「見ました」


 だから簡潔に。早口にならないように、正直に。


「そうですか。ではお姉さんにもお話を聞きたいものですね。あなたが家に帰ってきた時間を正確に覚えているかもしれません」


 そんなに僕の言うことは信用ならないのか?

 いや、実際に自分がとても疑わしいことは理解している。僕の話がすべて嘘であろうが、一部が嘘であろうが、疑わなくてもいい要素は何一つない。

 真実を追求するよりも、冤罪を晴らす方が難しいものだ。


「姉さん今会社ですからね。しかも今日は金曜日なので、何時に帰ってくるか分かりません」

「会社の同僚とのお付き合いなどですか?」

「そうだと思います。たまにものすごい遅い時もありますからね」


 これはまったくの嘘っぱちだ。残業で多少は遅くなることもあるが、姉さんは一度たりとも夜八時を回る帰宅はない。


「明日は土曜日なので、家にいますね?」

「……」


 こいつら、明日も来る気か?

 むちゃくちゃ気が滅入るんですけど。


「分かりません。姉の予定は聞いてませんので」


 思いっきり予定ないって言ってた記憶があるけど、まあいいや。


「そうですか。ふむ……」


 そう呟いて、黒峰さんはようやく警察手帳を広げた。ペンで数秒走り書きをしてから、ページを捲って目を通している。質問すべき内容が、そこに書かれているのだろうか?


「……大体分かりました。あなたの言っていることが本当ならば、椎名は午後十時にはまだ生きていたことになりますね」


 あぁ、もう駄目だ。ここまで言われたからには、どうしても問いたい。


「あの、僕を疑っているんですか?」

「ええ、疑っていますよ」


 不気味な振動が全身を襲った。それが心臓の鼓動だということに気づくまで数秒。耳から入った黒峰さんの言葉は、理解と同時に心臓への影響を強めたようだ。

 後ろで控える桜枝さんの視線が、サングラスにもかかわらず黒峰さんの後頭部に移ったことが分かった。


 黒峰さんは笑みを浮かべている。


 不敵に、嘲るように、楽しむように、引き攣るように。


 僕は――、


 瞬時に冷静さを取り戻し、素直にその言葉を受け入れていた。


 同時に喜ばしいことでもある。

 主観的にも客観的にも、昨夜あの中年警察官が殺害されたとなれば、一番疑わしいのは僕なのは分かりきっていることだから、はっきりと言ってくれた方が心の準備はしやすい。


「勘違いなさらないでほしいのは、私はこの街の人間すべてを疑っているということです。もちろん、自分自身を除いて、後ろにいる桜枝さえも。その中でも、容疑純度の濃い薄いはありますが」


 詭弁……だろう。しかしわざと僕を疑っていると明言したのに、それを取り繕う言葉は何を意味するのか。ただ単に、本当にそう思っているだけ……か?


「一応、お話は今のところは以上ですけれども、何か質問はありますか?」

「そう言えば一つ、気になったことが……」


 これだけは訊いておきたい。警察が僕を容疑者として扱おうが扱わまいが、事件とは関係なしに、最初から浮かんでいる疑問がある。

 黒峰さんは、無表情で「どうぞ」と質問を促してきた。


「どうして僕が、昨夜あの警官と会っていたことを知ってたんですか? 姉以外には誰にも見られなかったと思うんですけど」


 当然の疑問だ。昨夜殺害され、二十四時間も経たないうちに犯行時刻の被害者の行動を割り出すという異常な早さ。加えてその時間に接触していた人物を特定してきた正確さ。気にならない方がおかしい。


「あぁ、それでしたらこれです」


 と、黒峰さんはスーツの内ポケットから、密閉された透明なビニール袋を取り出した。中には一枚の紙切れに、個性的な文字が綴られている。『長瀬アキラ』と。


「この紙に見覚えは?」

「………………ありますね」


 忘れていた。あの警官、僕の名前を訊いて、紙に留めていたっけ。


「最初我々は被害者のダイイングメッセージとも考えたのですが、あまりにもしっかりと執筆されているので、その可能性は否定されました。同時にパトロール中の警官は、職務質問を行った人間の名前をメモすることが常となっていますので、彼が殺害される前に『長瀬アキラ』という人物と話をしていたと判断したのです。そして我々はこの『長瀬アキラ』なる人物を特定し、このようにお話を窺いに来たのです」


 なるほど、と聞いた者を無条件に納得させてしまうほど、黒峰さんの言葉は澱みなく、そして筋が通っていた。事実、聞いた限りでは、矛盾点や説明不足な点もなかったと思う。

 けれど圧倒的な違和感。話だけは万人に通じる成り行きの説明だったけど、しかし僕にとってだけは大前提が大きく覆られるほどの歪みを含んでいた。


「……………………」


 手がかりは『長瀬アキラ』という名前だけ。ここら一帯にどれだけの長瀬さんが暮らしているかは知らないけど、たとえ名前だけでも、住民票やらなんやらを確認すればすぐに個人を特定することはできる。だからそれは不思議ではない。


 問題は僕とこの刑事二人が顔を合わせた瞬間。

 僕が無関係を装って、家の前を通り過ぎようとしただけで、この女は僕個人を特定した。

 家の前で立ち往生していたわけじゃなく、横の道を通りすがっただけで。

 つまり名前から、その人物の顔まで調べ上げているということ。

 車の免許証も持っていない僕の顔を知るのは、それなりに骨の折れることだろう。

 それだけ念入りに調べているということは――、

 僕の両親が蒸発し、捜索願を届けていたことが先に出てきてもおかしくはない。

 それに残してきた本家ではなく、越してきた後のこのアパートも知っているとならば。

 だからこの女、

 さっきまで演技をしていたわけだ。


「……………………」


 僕の両親のことも、姉と二人暮らしだということも、姉が働いているということも、すべて知った上でシラを切り僕を尋ねていたということ。

 最初からすべて演技。

 ある程度詳しく調べてきたのに、それを隠して相手の懐を探ろうとする。

 無意識に顎に力が入り、歯と歯が異様な圧力を生みだすほど噛み締める。

 心の中では舌打ちの連発だった。


「他に質問はありますか?」

「……ありません」


 白々しすぎる笑顔に、一発拳を放ってやりたかった。現に汗でヌメヌメしている手の平は、興奮か怒りで温度が上昇している。拳に力が入る前に、早く帰ってほしいと願う。


「それでは我々はここらでお暇させていただきます。貴重なお話、お時間をありがとうございました。と、その前に……」

「?」

「お手洗いを貸していただけませんか?」


 はよ帰れ!


「僕の部屋から出て、玄関じゃない方の扉がそうですよ」


 我慢しろ、と女性に言う度胸は僕にはない。

 黒峰さんは「ありがとうございます」と言ってから立ち上がり、正座の後遺症もなさそうなはっきりとした足取りで歩む。

 がしかし、黒峰さんにトイレを許可した途端に、僕はある失態に気付いた。

 今まで主な会話を担ってきた黒峰さんがトイレへ立つ。

 この狭い空間に残るは、一度も口を開いていない桜枝さんと僕。

 男二人、正座と胡坐で向かい合う。


 …………気まずっ!


 頭一個分上の位置にある桜枝さんのサングラスを覗き込む。

 その背後で、黒峰さんが静かに扉を閉めて行った。


「…………」

「…………」


 微動だにしないまま、桜枝さんは背筋を伸ばして僕を睨み下ろす。

 不穏な空気が流れた。別に怒られているわけでもないのに、妙な圧迫を感じる。

 ……何を話していいのか、どういう行動をしていいのか、打開策は藪の中。


「えっと…………」


 とりあえず何か提案みたいな切り出し方をするも、実は無思慮。だってこの状況で何言えばいいと思う? 僅かにも動くことがない見知らぬ男を目の前に、どんな話題を運べばいいんだよ!

 と、僕が脳内で奮闘している間にも、ついに桜枝さんの重い口が開かれようとする!

 ……そんな大層なことではないけど、守銭奴の財布並みに堅い彼の口が開かれた。


「姉と二人暮らしとは……なんと羨ましい……」


 マジっすか。


「……姉と二人暮らしだからって、そんな桃色的展開は皆無ですよ」

「なに? そうなのか?」

「現実に妹を持つ人が、『妹萌え』とならないことと同じことです」

「あぁ、なるほどな」


 納得しちゃったよ。ってことはこの人、妹はいるんだな。

 それにしても、なかなかダンディズムを極めた低い声だ。最初見た時には、多くの刑事ドラマの俳優を罵倒したような恰好だなと感想を抱いたけれど、しかしこの声で役を演じてくれるならまだ許容範囲内だ。むしろこの低い声を耳元で囁いてくれるなら抱かれてもいいごめん嘘。


「しかしこの狭い家なら、姉の着替えや風呂上がりなどの、バッタリ遭遇シーンもかなりの確率で臨めるんじゃないか?」


 と、桜枝さんは表情を変化させず、口の動きのみで言う。


「む、俺のことは裕次郎でいいぞ」


 と、裕次郎は言う。


「待て、適応早すぎないか? しかも呼び捨てかよ」

「人の独白に口出ししないでください」


 不思議な会話でした。

 さて、そろそろエロ野郎の問いに答えてやるか。


「……順応が早いというか、初対面の人間への格付けが割とひどいな、お前」

「そんなもの日常茶飯事ですよ。この部屋の構図ですと、姉の部屋を通らなければ、トイレにも外にも行けませんからね。朝の着替えはほぼ毎日観賞してます」

「ふーん。………………チッ」


 何気なく聞き流したいんだったら、舌打ちなんかするなよ。もろ聞こえだよ。

 またしばらく沈黙が下りる。話題がないというよりも、会話をしたくないというのが本音。初めて交わした言葉が、姉との着替えや風呂についてって……。


 ふと僕は、一瞬だけ視線を真横の襖に移した。


 緊張の中の取り調べに続いて、一気に弛緩した馬鹿トークに肩を落としていたので、すっかり忘れがちになってしまっていたが、この隣には『死体』が眠っているんだった。誰も触っていないから、当然にも襖は一ミリだって動いてはいない。しかし刑事たちに何かを悟られ、突如襖を開けられては、反射的にその行動を妨げることもできないだろう。

 ……今の眼の動きも、悟られはしなかっただろうか?


「ところで長瀬君。少し真剣に訊きたいことがある」

「ッ!?」


 少し迂闊すぎたか? まがりなりにも相手は刑事。僕の些細な挙動も、鬼のような観察眼は逃さなかったのかもしれない。

 襖を開けられずとも、その中に興味を持たれるだけでマズイ。咄嗟のことだから、言い訳なんて思いつかねーぞ。


「君にとって、好きな女性に一番してほしいコスプレは何かな?」

「……………………………………………………………………」


 見ろ! 僕が馬鹿のようだ!

 と言いたくなってしまうほどの脱力。

 ……そうか。シリアスとコミカル。黒峰さんと裕次郎を足して二で割れば、ちょうど釣り合いの取れた組み合わせなのかぁ。


「……メイド服です」


 適当に答えてやった。

 ぶっちゃけ、どーでもいーしー。


「ふむ。では二番目は?」

「…………」


 何が目的なんだよぉ。と、涙目になって懇願すれば教えてくれるだろうか?

 マジで意味が分からん。

 だがしかし、実際の心境とは相反して、脳裏に白い靄が現れた。その靄は徐々に形作り、同時に的確に着色していく。

 好きな女性、という材料が混じり合い、そこには何故か笑顔の相佐さんが佇んでいた。

 ぼんやりと、そして無意識に思い描く。

 彼女に何を着せたら一番似合うか?

 んー、いや、でもなー。……そうか、それか。しかし、む? んんー? やっぱり、見慣れてる方が…………別れ際の会話からしても……。

 頭の中の小人さんたちが、一生懸命思考を右へ左へ運んでいるうちに、ちょっとした不慮な事故が起きて、ポロっと口から出てしまった。


「……学校の制服……か……」

「なに!? 高校生のくせに、制服フェチだと? 貴様、どこの賢者だ!」

「何故二番目にそれほど食い付く!?」

「知らんのか? こういうものは二番目に答えた物の方が、本人も自覚していない本音が現れるものなんだよ」

「ぐっ…………」


 実際、二回目に訊かれた時に、一番の物を答えてしまった当人としては反論しきれない。


「長瀬アキラは制服フェチ、っと……」

「ちょっと待てえぇぇぇ! 今、警察手帳に何をメモした!?」


 警察手帳ってそういうことに使うものなのか? 雑然とした図やら文字やら名前やらが書いてあって、事件の詳細を自分なりに分かりやすくメモするためにあるんじゃないのか? 刑事ドラマを基盤としている僕の印象が間違っているだけなのか!?


「まあ待て。こんな些細な情報でも、いつかどこかで役立つかもしれんからな」

「ねーよ!」


 少なくとも、お前がその情報を有益に使う日は絶対に来ない!


「とまあ、冗談はこれくらいにしておいて」

「……冗談っていう自覚はあったんですね」

「当たり前だ」


 表情一つ変えずにあの話題だったから、うっかり真面目に話してるのかと勘違いしそうだったよ。いや……無表情で驚くとか呆れるとか、それはそれで凄いスキルだと思うけど。

 僕はこの場でコブラツイストを極める姿勢を解き、再び裕次郎の正面で居座りを直した。


「黒峰から疑っていると宣言された時、君は大いに動揺したように見えたのだが?」

「…………」


 目を細め、一度裕次郎の顔を睨みつける。急に真面目な話題になったので、思考の方が追い付かず、返事に窮する。


「あぁ、いや、変な意味に捉えなくてもいい。『お前を犯人として疑ってる』と言われたら、誰だって怒るか絶句するくらいはするさ。どちらのパターンの人間も、少なからず動揺することは当然だ」


 当然……ね。


「不安を抱いてると思うから、俺からはそれらを解消させる説明をする。とはいっても、事実は簡潔そのものなんだけどな」

「……お願いします」

「結構。まず被害者の死亡推定時刻は、昨夜の十時半から十一時の間。君と別れて約一時間以内に犯行があったわけだが、実は十時二十分ごろ、被害者はコンビニの前で複数の人間から目撃されているのが分かっている。つまり万が一、鑑識の結果に一時間以上の誤差があったとしても――、」


 僕と出会ったときに殺されたってことは、絶対にない、か。

 小学生でも理解できる時系列問題だ。が、


「そういうことは、捜査上の機密事項なんじゃないんですか?」

「いや、そんなことは決してない。もちろん安易に話すことができないこともあるが、関係者の不安を取り除くことも、警察の仕事の内だろう?」


 そう言い、裕次郎は眉を下げて大きく溜め息を吐きだす。

 無表情以外に、初めて見せた感情的な仕草だった。


「それなのに黒峰の奴、はっきりと言い過ぎなんだよ。あえて相手を動揺させる言葉を吐いて、その仕草を観察するのも一つの手法だとは思うが、あれはいただけないな。妙に警戒されては聞けることも聞けなくなるだろうし、何より一般人を激怒させたら責任問題だ」


 そんな大事になるのか? 警察も他人のご機嫌取りに、無駄な労力を費やしているのかもしれない。と考えると、いろいろと大変なんだなぁ(他人事)。


「それに君を訪れた理由を説明した時、あいつなんて言った? 『殺されました』って言ってたぜ。普通は『お亡くなりになられました』とか、少しは言い淀むものだろう。これも君の反応速度を計るための物言いだったんだろうけど、人死にの事件をああも平静平坦に言えるところは、肝が図太いというかなんというか……」

「裕次郎さんと黒峰さんは同期なんですか?」

「む、思わぬ質問が飛んできたな」


 だって、あいつとか肝が図太いとか、聞いていたこちらからすれば、明らかに上司の女性に対する評価じゃないよな。


「俺が配属二年目で、あいつが四年目。つまり二つほど先輩ってわけさ」

「にしては、えらくひどい言いようですね」

「構わないよ。本事件の捜査本部だって、今のところ俺が一番の年少者で、その上が黒峰だからな。あいつに俺をどうにかする権限はない」


 そういうものなのか? ペア組んで行動しているくらいだから、相手から嫌われるとやりにくいんじゃないかな? ま、マジでどうでもいいことだけど。


「もちろん、俺があいつをどうにかする権限もないんだけどな。あればナース服やチャイナドレスなど、一応取り揃えてはあるから、いろいろ着せられるのに……。あいつ、ビジネススーツしか着てくれないんだもんなぁ」


 軽く変態チックな発言が出ましたが、敢てスルーしますよ、ボクハ。

 そしてビジネススーツだって、まったく赤の他人である第三者の僕が判断したとしても、決して貴方のために着ているわけではないと断言できます。


 と、裕次郎の背後で音もなく襖が開き、黒峰さんが顔をのぞかせた。


 しかしそれが黒峰さんだと確信できたのは、彼女の顔を見てから、ざっと五秒は過ぎていただろう。その間は、自分の家の中で突然見知らぬ人とばったり遭遇した時のような錯覚をし、思考回路が途絶えていた。


 なぜなら黒峰さんは、般若のお面を被っていたからだ。


 両の目尻は天を衝くほど釣り上がり、二十代半ばの女性とは思えぬほどのシワが眉間に発生している。小さな口はきつく結ばれているんだけれども――、


 み、見える。僕には見えるぞ! 不穏な空気に覆われたその下の顔は、耳元まで口が裂け、トドとタメを張れるくらいの巨大な牙が、裕次郎の背中を今にも噛み切らんと上下している。さ、さらに脳天には地獄の鬼もビックリな大きな角。コックの帽子は偉さでその高さが決まるというが、はたして彼女の角はどれほどの権力を持つのか!


 何よりも恐ろしいのが、見る者を恐怖の淵へ立たせるあの眼。眼力なんてものじゃない。視線で人を殺せる殺人技術が開発されたとしてら、その先駆者はこの人だと説明されても素直に納得してしまうほどの力。現在は裕次郎の背中に刺さっているため僕と視線が合っているわけではないのでまだ正気を保っていられるが、もし力の対象が僕だったら、すでに死んでいただろう。うん、死んでいた自信がある。むしろ自ら死を選ぶと思う。


 そして実際に言葉に出すのは恥ずかしいが、しかし人生で一度はマジで言ってみたい言葉が脳内を横切った。


 ……裕次郎。お前はもう、死んでいる。


「………………っ!?」


 衣擦れの音すらまったく聞こえぬ無音だったのに、背後の気配を感じたか、裕次郎の表情が引き攣った。しかし無表情で顔を引き攣らせるとは、なんという高等技術。端からは、ただ無口になっただけのようにも見えるだろう。

 ただ安易に背後を振り返ろうとはせず、どうするべきかと思考を巡らせているところはなかなか見所がある。


「よし、今度制服系のAVを大量に持ってきてやるよ」


 またビックリするほど前の話題に着地したなぁ、おい!


「あぁ、しかし長瀬君の部屋にはDVDデッキどころか、テレビもなさそうじゃないか。これは残念無念」

「貴方が買ってあげればいいでしょう。自腹で」

「……………………」


 何かを諦める音がした。

 あぁ、男が女に籠絡されると、こんな音がするのか。どんな音がしたかは皆さんのご想像にお任せします。むしろ経験すれば聞けるヨ。


「やあ、黒峰サン。随分と長かったじゃないか。便秘気味なのかい?」

「………………」


 何故火に油を注ぐ真似をするのだろうか。その因果関係は、常識ある者なら誰だって知っているはずだ。火に油を注げば、肥大化して炎になる、と。

 はっ!? つまり黒峰さんの神経を逆なでするということは、真性のマゾヒストか愉快犯ということを意味する! 桜枝裕次郎、なんて恐ろしい子……。


「…………?」


 しかし妙な感覚を覚えた。

 裕次郎の台詞が、シナプスを通る電気信号を網目に掛けたように、何かが引っ掛かった。

 明らかに、暗中を模索する意味が含まれている。

 目の前で、黒峰さんが冷たい言葉を飄々と吐いている。

 目の前で、裕次郎が言い訳めいた言葉を淡々と吐いている。

 頭の中で、僕は言葉の矛盾に気づかず気持ち悪さに吐いている。

 ……………………。

 あぁ、分かった。


『随分と長かったじゃないか』


 僕は咄嗟に壁掛け時計に視線を移した。

 時刻は午後四時五十分。黒峰さんが四時何分にトイレに立ったかは覚えていない。覚えていないからこそ――怪しい。

 いったい、彼女は何分間席を空けていた?

 五分? 十分?

 僕自身の感覚としては、とても短かったような気がする。しかしそれは裕次郎と会話をしていたからだ。黒峰さんの存在を完全に忘れていたからこそ、その間の時間感覚が分からない。

 思い出せ。僕は裕次郎とどの程度、話をしていた? 沈黙の時間も合わせて、何分あればすべての会話を再現できる?


 ……分からない。いや、分からなくてもいい。いくら女性とはいえ、トイレから戻ってくるだけにしては、明らかに必要以上の時間を要しているのは確実なのだ。だから問題は……、


 この女、姉さんの部屋で何をしていた?


「それでは長瀬さん。あなたの話はとても参考になりました」


 はっと我に帰る。いつの間にか、黒峰さんが僕の正面で正座をしていた。


「……はあ、お役に立てて光栄です」


 裕次郎の要領を得ないコスプレ談話。あれは僕の時間感覚を乱すために、意図的に話の筋を横に逸らしていたのか?


「今日のところはこれにて失礼させていただきますが、もしかしたらまたお話を窺いに来るかもしれません。事件が事件ですので、新たな発見があるとともに、再び関係者に聞いて回るのも警察の仕事ですので。そこのところはなにとぞご理解ください」

「まあ、その時に時間があれば……」


 今日僕を訪ねたのは、事件当時の話を聞くのともう一つ。

 僕を容疑者の一人に定め、取り調べを装って、家宅捜索の意味もあったのかもしれない。

 だとすれば……非常にまずい。


「できれば長瀬さんのお姉さんとも話をしたいのですが……帰ってくるのは遅いんですよね?」

「早いこともあるし、遅いこともありますから。今日は分かりません」


 例えばこの女がさっき、姉の部屋を物色していたのなら。

 姉と話している時、なにか理由をつけて僕の部屋を捜索するかもしれない。その時、僕がどこにいるのか定かではないが、そんなことをされては困る。

 押入れの襖を開けるだけで、すぐそこに死体があるのだから。


「そうですか。では明日は土曜日ですので、ご自宅にいますよね?」

「……たぶん」


 嘘は言えなかった。余計な嘘は、疑いを濃くするだけ。

 大体、よく考えれば裕次郎の言うタイムテーブルの問題だって、疑いが晴れる事実はまったくないのだ。


 午後十時に僕と会っていた警官が、十時二十分に複数の人間から目撃されていた。だから十時に僕が殺したのはあり得ない。まあそれはいい。しかしどうして十時二十分以降に、僕が誰にも目撃されずに警官を見つけ出して殺すことはない、と証明することができる? どこにそんな証拠がある?

 警察は明らかに僕を疑っている。最重要容疑者かは分からないけど、絶対に容疑者の一人として数えているに違いない。


「わかりました。ではまた明日、来ると思います」


 明日は姉と二人でどこか行こうか、と思うも、こうして明日来ると宣言されているのに家にいなければ、さらに中身のない疑いを膨らますだけ、か?

 いけないな。判断力がネガティブになってやがる。

 視線を伏せ、考えに耽っていると、目の前で衣擦れの音とともに、二人が立ちあがる気配が分かった。見送らなければならない。また姉の部屋で何かをされてもらっては気分が悪いし、二人の姿が見えなくなるまで見届けなければ、今夜は寝つきが悪くなるだろう。

 刑事二人の方が扉に近かったので先に出てもらい、僕があとに続く。特に不審な動きも見せないまま、二人は玄関口に立って僕に向かい合った。


「あっと、そうだ。何か分かったこととか思い出したことがあれば、ここに連絡をくれ」


 裕次郎が懐から名刺よりも小さな紙切れを取り出した。


「俺の携帯番号だよ。君も携帯くらいは持ってるだろ?」

「ええ、まあ……」


 いくら気に入らない相手だからといって、さすがに目の前で携帯番号を破り捨てる度胸はない。少しだけ受け取るのに戸惑ったが、一応は素直にポケットの中へ押し入れた。

 そうしているうちにも、刑事二人は背中を向けて行ってしまう。


「あ、あの!」


 声を掛けると、二人とも怪訝そうな顔で振り向いた。


「捜査、頑張ってくださいね」


 本心だった。早く捜査を進め、早く僕の無実を証明してほしい。


「ああ、頑張るよ」


 そう答え、裕次郎は大きく手を振って返す。

 どう受け止められただろうか。皮肉か欺瞞か素直に労いの言葉としてか。

 二人の陰が住宅の角を曲がると、僕は肩を落とした。

 重いな、と思う。殺人事件の捜査で自分が疑われ、家にまで乗り込まれてしまった。押入れの中に『死体』を収容している身としては、あまりに緊張が重すぎた。

 しかも明日もまた来るという。対策も当然だが、その前に今日のことを姉に報告しなくては……。

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