第3章
僅かに欠けた月が東の空から来訪してから、早三時間が経過した。まばらに浮かぶ雲は時々月の光を遮り、冬でもないのに肌を撫でる夜風は妙に冷たい。
さーて、狩りの時間だ。
死体製造機と化した僕は、物音の少ない夜道に佇んでいた。
時刻は深夜十時前。多くの人が寝入る時間にはまだまだ早いけど、周囲は変に静まり返っており、アパートからここまで人とすれ違うことはなかった。高層ビルが立ち並ぶオフィス街とは無縁な片田舎だから、という事実ももちろん採用できるけど、今一番の理由は事件に巻き込まれたくないからだろう。
誰だって、殺人犯が闊歩しているかもしれない街を好き好んで歩くわけがない。
それは僕が歩いている住宅地を見回せばよく分かる。
電気が消えている家は結構稀だし、場合によってはテレビの音と笑い声が漏れてくる家もある。住宅に遮られて見えないが、すぐ隣には片道三車線の大きな国道も通っており、たびたび暴走族じみたエンジンの爆ぜた音が聞こえることもある。
理由がないのに夜中に街中を歩く人はいない。
殺されるかもしれないのに出歩く人などいるはずがない。
やりやすいと言えばやりやすいし、やりにくいと言えばやりにくい。
人の眼がないことが絶対条件ではあるがしかし、イレギュラーな状況下ではイレギュラーな分子が登場する危険性がある。それを想像するのは難しい。
例えばパトロール中の警察官。
例えば家へまっすぐ帰ろうとするお父さんたち。
例えば絶賛仕事中の殺人犯。
何かを得るためには、それ相応のリスクを負わなければならない。その中で僕は、何気ない日常を幸せだと感じるほどの不幸を背負おうとしているのだ。生半可な覚悟じゃ、脚が震え上がってしまうだろう。
「…………」
コツコツコツと、踵がアスファルトを打つ音が響く。原理は覚えていないが、音というのは昼間よりも夜間の方が遠くまで響くらしい。一歩一歩歩くごとに発生する僅かな空気の振動に比例するように、僕の心臓も徐々に早くなっていく。
誰ともすれ違わない。誰の目にも触れていないと思う。誰も僕が夜道を歩いていることなど知る由もないだろう。
だからこそ、神経はどんどんとすり減ってしまう。
誰かが陰から僕を監視しているかもしれないから。
誰かの耳に、僕の足音が届いてしまっているかもしれないから。
まだ何も悪いことはしていないはずなのに、誰もいない夜道を歩いているだけで、それだけで微かに罪悪感を抱いてしまう。
「…………」
いけない。迷うな。逃げちゃいけない。
と、自分に言い聞かせ、僕は電灯と十六夜の月の光を浴びながら、夜道という無人の商店街を闊歩する。
探し物は『死体』だ。もしくは『死骸』ともいう。もちろん出来立てほやほやの『死体』がそこら辺に転がっているだろうと思うほど、僕は狂った人間ではない。万が一にあったとしても、この暗闇では発見するのは難しい。
……いや、誰かが加工した、もしくは自然発生した『死体』など何の意味もない。僕がこの手で獲物を発見し、この手で刻み、この手で『死体』を生成しなければ、平時を幸福と思うほどの不幸は生まれないのだ。だから目の前に大量の『死体』が転がっていようとも、僕は平然と無視を決め込むだろう。
さて、獲物はどこだ? 僕を不幸へと導いてくれる素材はどこにいる?
けっこうな時間を歩いているのに、いっこうにそれらしき獲物に出会わない。せっかく物騒な事件が起こって、人通りが減っているというのに……。せっかく普段よりもやりやすい状況下だというのに、これではもったいない。
「おーい、そこのキミ」
「…………」
まさかのイレギュラーが発生した。イレギュラー自体は予想の範囲内だし、その内容も予想の範疇だった。しかしマイナスの予感が当たってしまうほど、腹の立つことはない。
声は後ろから。僕が築いた足跡を追うように、小走りな足音がどんどん近付いてくる。
さすがに無視はできないか。逃げられるのなら逃げたで面白みはあるが、しかし警察官と駆けっこをして勝てるほど僕は体力に自信がない。それが『中年』まっただ中の警察官だったとしても、だ。
「………………何か?」
振り向き、半眼で睨みつけてやった。しかし相手は僕の元へ到着するなり膝に手を置いて呼吸を整えていたので、振り向きざまの拒絶光線は見ていないようだった。
走ってきた警察官はようやく息が整ったのか、警帽を被り直しながら困り顔で僕を見据えてきた。ちなみに僕より頭一個分身長が高いようで、自然と僕が見上げる形になる。
「キミ、駄目じゃないか。こんな夜中に一人で歩いてちゃ」
「…………」
優しそうなおじさんだった。その顔もまた、本気で僕の身を案じているかのように、そして本気で注意を促しているかのように。警察官というよりは、小学校の先生に適しているような顔の持ち主だ。もちろん、僕の第一印象では、だけど。
「キミは……高校生くらい? こんな時間にどこ行くの?」
「高校生ですよ。どこに行くかと問われればコンビニです。小腹が減って……家に何もなかったもので」
嘘っぱちである。二十四時間営業していることが常識となっているコンビニに感謝だ。とはいっても、ポケットの中の財布は自販機でしか物が買えないくらいしか入ってないんだけど。
しかし警察官は、困り顔の次には呆れ顔を披露した。
「あのね、キミは最近この辺りが物騒だってことは知ってるよね?」
「通り魔殺人のことですよね? 知ってますよ。けど『まさか自分が被害に遭うとは思わない』ってのが最近の若者の趣向だと思いますけど」
「何でもかんでも『若いから』で済ますんじゃない。それにキミが高校生なら、私は警察官として職務を果たさなければならない。私の言いたいことが分かるか?」
「補導、ですか?」
警察官は黙って頷いた。
そして僕は携帯で時間を確認する。
「まだ九時五十五分ですけど?」
「屁理屈を言うんじゃない。見たところ、キミは今からコンビニに向かうところだろう。行って家に帰る頃にはとっくに十時を過ぎてると思うがね」
まー、そーだろーねー。
「ちなみにキミの名前は?」
「……長瀬アキラですけど」
「長瀬君……ね」
僕の名前をオウム返し、警察官はポケットから出した白い紙に控えた。警察手帳などに書き込まないところをみると、僕のことはそれほど重要視してないようだ。
「今のところ、私はキミを補導する気はない。たとえ十時を超えたとしても、私といる限りはそうする必要もない」
「え、コンビニまでついてきてくれるんですか?」
「何を言うか。キミは今すぐ家に引き返すんだ」
ここは演技で不機嫌な表情を作ってみた。実際内心では不満タラタラではあるが、もうこの男と出会った時点で、『今夜狩りをするのは不可能』と結論は出てしまっている。
「……分かりました。帰ります」
その答えを聞いた警察官は、満足げに頷いた。
「ところでキミの家はここから近いのか?」
「歩いて五分もかかりませんよ。走れば二分で帰れます。だからわざわざついてこなくても……アダッ!」
後ろから頭をペシッと叩かれた。
くそー、暴力警官めぇ。上司に訴えてやるぞ。と涙目で睨み上げる半面、僕はこの警官の根っこを大まかに理解した。
クソ真面目。そして自分に厳しく他人に優しい、お父さん気質。
警察官という職業ではあるが、制服を脱いでしまえば一般市民となんら変わらない普通の中年親父らしさを垣間見れた気がする。
特に会話がないまま数分が無意味に過ぎ去った。そりゃそうだ。見知らぬ警察官と他愛のないお喋りで盛り上がれるほど僕はトーク上手ではないし、相手だって昔ながらの頑固親父風味がするほどの歳なのだ。世代の差とはすなわち、笑いの方面の違いなのだ。
「見えてきました。あのアパートです」
一本の街灯が不気味に照らすボロアパートを指差した。
窓から明かりが漏れているからアパートだと分かるのであり、もしすべての部屋の電灯を消したら廃墟に見えるだろうと思えるほどのボロさ。夏休みなんかに、近所の子供が間違えて肝試しにでもしたくなるほどだ。
しかし僕の部屋は姉がいるから明かりがついているのは当然として、全部で十部屋あるうちの半分は入居しているはずなのに、三部屋しか明かりがついていない。この時間に寝てるわけはないだろうから、まーた住居者が減ったのかなぁ?
「送ってくれて、どうもありがとうございました」
僕は横を歩いている警察官に向かって、律義にお辞儀をした。
しかし警察官は眉を顰めて手を横に振る。
「いやいや、何を言ってるんだ。キミが家に入るまで見届けるぞ。万が一、キミが嘘を言っているかもしれないからね」
………………………………なに?
「それにキミの親御さんにも一度注意を促しておかなければならない。高校生をこんな時間に外出させないでください、ってね」
「……僕は姉と二人暮らしです。両親とはとある理由で別居中です」
「なに? そうなのか?」
と聞いただけで、僕が真面目な顔で頷くと、警官は特に深い訳を聞いてくるわけでもなく、ただ『そうか』と呟いて納得してくれた。他人の家庭内事情を掘り下げないのは有り難いが、親がいないからこんな躾のなっていないガキに育ったんだな、と勝手に解釈されていそうで変に腹が立つ。
「キミのお姉さんは……高校生?」
「いえ、一応社会人ですよ。年齢でいえば、僕より四つ上です」
「そうか。それで、今は家にいるのかね?」
「僕が出てきた時にはいましたし、今も明かりが点いてるのでたぶんいるでしょう」
そんな問答を繰り返しているうちにも、僕らはアパートの扉前まで辿り着いた。
木製の扉の上には、断続的にしか灯らない電灯が蛾などの蟲を呼び、それらが電灯に激突するたびにチッチッと何か小さなものが発火したような音がする。
昼間も指摘されたように僕は都会に対してかなり偏った偏見を抱いているかもしれないが、家の前にこれだけ蟲が戯れていたら、都会の人ならば多くの人が忌避するかもしれない。何より、朝一で扉を開けた時の玄関先に散らばっている、蟲たちの『死骸』を目にした時には僕でもうんざりするほどだ。
ポストの上に貼られた表札を見て、警察官は『長瀬、ね』と呟いた。
「あの、本当に姉さんと会うんですか?」
「ん? なんだその嫌そうな顔は。キミが家を出た時にいたんなら、キミが出て行くのを見咎めなかったってことだ。これは注意を喚起せねばな」
やめといた方がいいのになぁ、と思う間にも、警察官は扉をノックしていた。ちなみにチャイムなどの現代技術の最先端を行く機会音発生装置などは付いていない。軽くノックしただけでも十分に部屋中に聞こえるのだ。
「はーい」と中から女性の声がし、間もなく扉が開けられた。まだ風呂には入っていないようで髪は濡れていなく、仕事から帰宅してから着替えた部屋着のままでのお出迎えだった。
扉を開けて一度僕を確認してから横に視線を滑らせた姉さんは、少しだけ驚いた表情を作って見せた。しかし驚いたのは姉さんだけではなく、隣の警察官もだった。
身内だからの贔屓ではないけれど、客観的に見ても姉さんは美人と呼ばれる部類に入るだろう。街を歩けば十人が十人とも振り返る、ってほどではないにしても、都会を歩けば確実にナンパ対象にはなると思う。って、また個人的な偏見が混じってしまった。
そんな女性が、無防備な部屋着のまま姿を現したのだ。男なら誰だって表情を堅くする。
ただ隣の警察官が驚いたのも一瞬で、すぐに業務用の表情に戻せたのは経験からかもう若くはないからか。どちらにせよ、親子くらいの年齢差がある年下の女性に欲情するほどの変態さんじゃなくてよかった。
「あの……この子が何かしましたか?」
とりあえず先手は姉さんだった。不安げな表情で警察官に訊く。
「いえいえ、特に何かしでかしたわけではないので、心配なさらずとも結構ですよ。ただ最近の夜道は物騒でしてね。こうやって送り届けに来たわけですよ」
「あぁ、それはわざわざご面倒をおかけしました」
丁寧なお辞儀する姉さん。つまらない社交辞令を横に、僕は悪戯した悪ガキのように不満げに唇を尖らせていた。
「それにたとえ物騒でなくとも、高校生の深夜徘徊は補導対象になりますので、お姉さんからも注意をしてやってください」
「はい、分かりました。私からも釘を刺しておきますので」
僕を玄関側にいる姉さんの元へと追いやり、警察官は敬礼してさっさと立ち去ろうとする。僕は姉に倣って、警察官の背中に向かって一礼した。
その後、姉が先に家に入ったのを見届けてから口を開く。
「……あの!」
「なんだい?」
そういえば、名前を知らなかった。
結局、それだけ薄い間柄というわけなんだけれども、僕は真顔で注意を促す。
「……帰り道、気を付けてくださいね」
「ん、ああ。だけど私はまだ派出所に帰るわけにはいかんのだよ。キミみたいな、無警戒な子供がまだ歩きまわっているかもしれないからね」
得意げに笑った警察官は、僕に向かって手を振りながら闇の中へ飲み込まれていった。
優しい人だったな、と僕は再度あの警察官を評価してみる。
仕事だからといっても、他人に対してあそこまで真剣に怒ってくれる人は、今時では珍しいだろう。不幸を探して徘徊してたのに、どちらかといえば幸運に分類される出会いを果たしてしまった。
だからこそ――、
「…………」
僕は彼の消えた夜道を、黙って見届けながら祈ることくらいしかできない。
できるなら、あの優しい警察官が、『死体』へと変貌しないように、と。