第1章
「ねー、アキ君。何かお姉ちゃんに隠し事とかしてないよね?」
朝食時、ご飯を盛った茶碗を僕の手に渡しながら姉が言った。小さなテーブルの上で交わされるその受け渡しが、一瞬止まる。
座布団の上で正座している僕とは正反対に、姉は茶碗を渡そうとわずかながら腰を浮かしているので、自然と僕が上目遣いになる形で答える。
「してないよ」
そう答えることによって、場が時間を再び取り戻す。僕が強引に茶碗を奪わずとも、姉は素直に手渡してくれた。
「そう、よかった」
そのたった一言で姉は満足がいったかのように、朝食の続きを再開した。
テーブルの上には僕と姉、二人分のご飯と味噌汁に加え、少量のスクランブルエッグや冷食のハンバーグなどがおかずとして数食並んでいた。朝食としては十分すぎる量だし、何より僕は、自分が作ったわけでもないものに文句を言える理不尽な人間ではない。たとえそれが、弁当に詰め切れなかった残り物の冷食でも、だ。
味噌汁を啜りながら、ちらりと姉の顔を窺う。仕返しというわけではないが、少し試してみたくはなった。
「姉さんは何か僕に隠し事でもしてるの?」
「してるよ」
即答だった。しかも答えた姉は、そのまま黙々と朝食を続けているので、なんだか気まずい。
そんな調子で会話のないまま進む朝食。つっても、朝食時に会話があまりないのはいつものことなので、特に息苦しいわけではなかった。
「さて、ごちそうさまー。って、あーもうこんな時間だ! 急がなきゃ!」
慌てて食器を流しへ運び、テーブルの周りを行ったり来たり。僕といえば、まだご飯を咀嚼しながらそんな姉を見守ることしかできなかった。だって手伝えることなんて特にないし。
僕が朝食を食べている後ろでスーツに着替え、化粧を済まし、脱衣所の洗濯物を洗濯機に入れてスイッチオン。最後のは僕がやっておくよ、と言いかける頃にはすべてが終わっている早業だ。
「じゃあ行ってくるね。食器は流しに置いといていいよ。帰ってきたら洗うから。学校に遅れちゃだめだよ。あと、鍵も忘れないようにねー」
一気にまくしたて、姉は慌ただしく出勤していった。
いつものことながら、もっと余裕を持って準備すればいいのにと思うも、養われている身としてはその指摘も良心を痛めるのである。
姉が出て行ってから数秒後に朝食を食べ終え、「ごちそうさまー」と今は居ぬ家主に向かって感謝の言葉を呟いた。
ちなみにここは姉の部屋だ。僕の部屋はこの隣。
六畳二間プラス炊事場やトイレ、風呂は完備で家賃三万円の木造ボロアパート。ただし僕と姉の二人暮らしでは、十分の物件だった。いや、十分すぎると言っても過言ではないほどだ。
姉の部屋を見渡してみる。申し訳程度の大きさの洋服ダンスと、壁際の机には仕事用のノートパソコンがある。それだけだ。布団はすでに襖の奥にしまわれているし、机の横に数冊積まれている雑誌は家具ではない。
僕の部屋も同じようなものだ。机の上がノートパソコンではなく教科書が散乱していたり、雑誌ではなく漫画だったり、畳の上には布団が年がら年中出しっぱなしという違いこそあれど。
これ以上、何を望む? これ以上、何を望める?
満足だった。もう十分すぎるほどに。そう、
逃げ出した僕たちにとっては、住む場所があることすら幸せなのだから。
と、一年前の感想はさておき、僕は食器を流しに運び洗う。当然ながら姉の分も。なんたって僕は、他人の善意をそのまま受け取れるほどの姉不幸者ではないからね。
「さて……」
それでもなお時間に余裕はある。ま、ゆっくり今日の授業の用意でもするかと思い立ち、自分の部屋へと向かった。
姉の部屋から扉一枚、薄壁一枚しか隔たれていない僕の部屋。ちなみに姉の部屋で朝食夕食を共にしているのは、単に姉の部屋のほうが炊事場から近いのと、僕の部屋は布団が出しっぱなしだからだ。勘違いしないでほしいが、毎朝朝食を食べながら姉の着替えが見れるからでは断じてない。
今日の時間割を思い出しながら、カバンの中の教科書を確認する。すると、何故か壁際の押入れが気になった。
襖に遮られたそこは、布団をしまわない僕にとってはあまり使用しない場所である。
しかし気になってしまう。いうなれば、玄関の鍵を閉めた後、必ず一度開けようとしてみせ、確実に掛かっているかどうかを確認する作業に等しい。そう、確認せずにはいられないのだ。分かっていても、不安という要素があるために、絶対の自信を得られないがための予防線。
そして僕もまた、毎朝のようにそれを確認せねば気が済まずにいた。絶対に無くなっているわけでもないし、変化しているわけもないのに、確認したい衝動に駆られる。
躊躇う必要なんてない。ここは僕の家で、さらに僕の部屋で、中の物は僕が用意したものなんだから。
僕は襖を開けた。いつも通り、数秒だけでも確認するために。
建てつけの悪い引き戸を開ける。
――そこには、『死体』があった。
すぐに襖を閉める。うん、いつも通りだ。いつも通りとはいえ、自分で押入れの中に『死体』を入れたとはいえ、あまり長い時間目にしていたくないのも事実。そこにあることが、何も変わっていないことが分かればそれでいいのだ。
「さて、と……」
そろそろ時間だ。
通う高校の制服を着込み、カバンには最後に姉特製の弁当を詰め込む。玄関に鍵を閉め、二階建てボロアパートの一室から一歩踏み出た僕は、偶然にも目の前の道を通学してきた友人に手を振り、日常を謳歌する。