第17章
まもなく日没時間のためか、周囲は一気に暗闇へと変貌し、雨が肉眼では捉えられなくなる。しかし幾度となく肌を刺す水滴は本物で、徐々に体温を奪っていく。
僕は水溜りのできるアスファルトの上で呆然と立ちながら、降り注ぐ大雨を受け入れていた。
最終下校時刻を過ぎた学校。それでなくても、期末テスト期間中である今日は昼で学校は終わっているため、生徒の姿はない。教師はまだ残っているかもしれないが、ならば職員室で事務仕事に追われていることだろう。意味もなく、こんな時間にこんな所を覗く理由などない。
場所は体育館横だった。体育館から校舎や武道場に繋がる渡り廊下というべきか。本来ならば人目につきやすい場所ではあるが、前述したように生徒の姿など皆無だし、職員室や学校の敷地外からは死角となっている。さらに近くには街灯もあるため、たとえ人が通りかかったとしても、そちらの明るさに目を奪われ、この場所の存在はさらに闇に溶けることだろう。
目の前には、大きなナイフを手にしたまま、闇に佇む不条さんの姿。
そして、その足元には――、
水たまりに半身を埋める、相佐さんの亡骸――、
「あぁ、まだ死んじゃいないよ」
短い髪がべっとりと顔に張りついている不条さんは、笑ってないのに嗤って答えた。
相佐さんの横たわる周辺は、闇の海となって何も見えない。が、アスファルトに溜まる大量の雨水の中に、若干ながらも有色で濁っているような気がした。黒いアスファルトはどんな色でも呑みこんでしまう絶対性を持つが、たとえ目で見えなくとも、水たまりに混ざったその色など――容易に想像できる。
「最初、胸を一突きしたんだけどな。どうやら脂肪に邪魔されて、心臓には達しなかったようだ。まったく、巨乳ってのは肩がこるばかりで得なんてないと思ってたけど、まさかこんな場面で役立つとは思いもしなかったよ」
ナイフを弄びながら、不条さんは余裕有りげに話す。その間にも相佐さんの命の源が流れ出し、冷たいアスファルトに体温を奪われ続けているというのに。
「それで今から二回目を刺そうとしたんだ。けど長瀬、君が来て中断」
屋根がある場所はいくらでもあるのに、彼女らも僕と同様に水浸しなのは、相佐さんの血を洗い流して、死体を隠ぺいするためか。先日の夜間のように、不条さんは捕まる気はないのだろう。
「よくここが分かったね、長瀬」
学校ってことは大方予想ができてはいたが、その中の場所までは見当がつかなかった。少し探し回った結果がこれか。いや、まだ生きているのなら、このタイミングで探し当てたことを僥倖といえるだろう。
しかしそんな下らないことを不条さんに伝える必要もない。
「これが不条さんの出した答え……決着なの?」
「そうだよ」
不条さんの顔から表情が消えた。濡れた前髪の間から、無機質な視線が僕を貫く。
平静を保とうとしてはいるが、声は掠れ、脚は震えていた。
寒いわけじゃない。怒りに震えているわけじゃない。
ただ、怖かった。
目の前で展開される情景が、記憶の断片と重なった。
トラウマ。
包丁を握ってこちらに微笑む姉と、その足元で微動だにすることなく血の海に沈んでいる母親。僕の側に転がってる父親に代わるものはないけれど、しかし僕のトラウマから恐怖心を煽るのには、それだけで十分だった。
「どうして……相佐さんを?」
不条さんと相佐さんは友達だったんだろ? なんて安い言葉は使わない。だけどそこには、人を刺したくなるほどの衝動があったはずだ。僕に犯され狂った姉が、実の両親をも殺してしまうように。
「そうか。やはり気づかないよな」
と、不条さんはため息混じりに呟いた。
どうして僕にそんなことが分かる?
「私も……長瀬のことが好きなんだよ」
告白された。照れもなく、おくびにも出さず、なにかを諦める口調で、ナイフを手に持ちながら。
しかし意外だった。あれだけ分かりやすい相佐さんと比べるのは悪い気がするも、不条さんが僕に対してそんな素振りを見せたことは一度もないような気がする。ただ僕がそのような感情を向けられることに疎かっただけか、不条さんの感情の隠し方が上手かっただけか。
好きな人に対し、あれだけ普通の友達のように接せられるのは、正直すごいと思う。
「……ずっと前から?」
「いや、好きになったのは最近だ。ある出来事をきっかけとしてな。それ以前は性別など関係なく、一番ウマの合う友達だと思ってたよ」
「きっかけ?」
「初めて長瀬の家に遊びに行った時だよ」
あの刑事たちを追い返すために、みんなを家に呼んだ時だと、すぐに思い出した。
その日を境にして? だとしたら思い当たることは一つだけ。
『虫』、か。
もし相佐さんも同じ理由で僕に告白してきたんだとしたら、まさかここまで大きな効果が及ぶとは思わなかった。普段は飄々としている男子が、不意に心の弱い部分を晒すのは、それほど母性本能をくすぐるものなのだろうか?
「あの大量の虫の死骸を目にした時、私は思ったよ。あぁ、長瀬も私と同じだったんだなぁって」
……同じ?
「不条さんも、機嫌が悪い時に虫を殺してたとか?」
「いいや、違う。私の場合は虫ではない。私が殺してバラバラにして隠しているのは――人間だ」
「人……間……」
貧血が起こったように、視界がぐらりと揺らぎ、足元が安定を失った。
人間を……殺した?
現状、ナイフで胸を刺されて、血を流しながら倒れこんでいる相佐さん。
姉の言う、人を殺した人間特有の濁った瞳。
目的遂行のためなら、躊躇いもなく人を傷つけることのできるあの斬撃。
納得できるできない、信じる信じないの問題ではない。不条さんの手がすでに血で染まっているのだとしたら、僕が否定する権利も受け入れる義務も有りはしないのだから。
しかしそれじゃあ……一体、誰を?
「最初に本気で人を殺してやりたいと思ったのは、去年……中三の秋頃だった」
不条さんは雨で水没しそうな右手を見つめ、ギュッと握った。
去年の秋。それは、姉が両親を殺した時期と重なる。
「当時の私にはね、とても好きな男子がいた。優しくて勉強もできる優等生。多くの生徒から親しまれ、教師から学級委員をやってくれと頼まれるくらいの器だった。正直、最初は好きという感情よりも、憧れの方が強かったかもしれない」
懐古する不条さんは、その時の光景をしっかりと思い出すように、握りしめた右手で額を軽く叩いた。
大量の雨滴がアスファルトを強く打っているのにもかかわらず、不条さんの言葉ははっきりと僕の耳に届く。彼女の声が雨音と干渉し、打ち消しているかのように。
「こう見えても私は奥手でね。その彼とは同じクラスではあったけど、声をかけることなんてことは滅多にできなかったよ。意識するとダメなんだ、私は。相佐とは正反対のタイプだな」
チラリと一瞬だけ足元の相佐さんへ視線が移ったのが分かった。それがまるでナイフの先端を突き刺されたように見え、僕の身体が強張る。
「話をすることもままならないまま、あれよあれよという間に夏休みになり、私は彼に恋人ができたことを知った。その恋人というのが……」
その時、不条さんの表情に明らかな変化があった。
憎悪。
過去を見つめる彼女の眼は、未だに忘れられない敵を映し出している。
「いわゆる不良グループに属する女だった。義務教育もほったらかし、社会に迷惑しかかけないクズ共だ! あぁ、確かにあの女は可愛かった! 髪は金色に染めスカートを短くしアクセサリーでジャラジャラと着飾った不良少女は、真面目な中学生にとってはさぞ魅力的な存在だったんだろうな!」
記憶の中の憎悪が膨れ上がり、不条さんの言葉は当時の心をダダ漏れにしたよう。どうしても許せない過去が、興奮の糧となる。
「他の女だったなら、私は素直に諦めていた! 他の、真面目で、成績は悪くとも品行方正な生徒だったならば、私は彼の幸せを遠くから見守っていただろう。でも、どうしてあの女だったんだ! 何故彼はあんなクズを好きになった!? 何故あんなクズと恋人になりたいと思った!? 何故彼が、あんなに真面目だった彼が、社会のゴミに属さねばならなかったのだ!」
髪の毛から頬を伝い、顎の先から地面へ大量に落ちる雨は、本当に雨だけなのだろうか?
「彼は学校を捨てたよ。だから……私は殺した。彼があんな悲しい目に遭わなければならなくなった根源。あの女を!」
徐々に熱は冷め、流れる前髪の隙間から僕を睨みつけながら、肩で呼吸をする。走り疲れたように、頭上にのしかかる雨が重たいように、不条さんは少し前屈みになる。
「私が警察に捕まっていないし、そういう事件を耳にしないことから、死体はまだ見つかっていないんだろうな。まあ、それだけ慎重に場所を選んだから、そう簡単にはばれない自信はある。ふふ」
裕次郎の言っていた、帰ることのない家出少女。連続殺人犯の妹。なるほど、兄も柄が悪い出で立ちだっただけに、その妹も、か。
しかし捜索願が出されたのに未だに見つけられないとは、どれだけ巧みに隠したのだろう。例えば自室の押し入れの床の下……とか?
「それで、自分と同じ行為をしていた僕に心惹かれたってわけか」
「そうだ。あんな大量の虫を虐殺し、隠匿している人間など他にはいまい。君と私は似ているんだよ。だからこそ、最も理解し合える仲間だと思ってしまった。私の乙女心を奪われるくらいにね。それともう一つ。私としてもあそこまで大量の人間を殺すのは無理だが、複数という点でも一緒なんだよ」
「複数?」
「ふふ、ははは…………」
不条さんが奇妙に笑いだす。
「そうだよ、もう一人殺してやった。彼はルックスも良かったからな。恋人が行方不明になって落ち込んでいる彼の心の隙間に抉り込むように、同じグループのクズが性懲りもなく彼に近づいたんだよ。そして私は、彼に近づく害虫を…………バッサリ!」
ナイフを自分の首に当て、横に引く仕草。
人を殺したことを楽しそうに、あたかも良いことをしたかのように語るその姿はもう……。
「彼のために、二人も殺したさ。この手がどんなに汚れようと、けど彼が正しい道へ戻ってくれるのなら、私はそれでもいいと思ってた! なのに、彼は今、何をしていると思う? 有名私立高校にも簡単に入学できる学力のある彼はね……家に引きこもって、たまに精神病院にも通ってる始末さ! そりゃそうさ、自分が付き合った女が次々と行方不明になっていくんだ。何か悪い物に憑かれてると思うのが普通だ! 彼のためを思ってやったのに、その結果に彼が廃人になってしまって…………ふふふ、ははは! はっはっはっは、あー笑えないね」
特定の人物に心壊れるまでに惚れ、振られてしまった僕たち。
結末では、その後の人生を狂わせてしまうくらいの罪を犯した。
そして幸せを求めるために虫を殺し続けた僕と、
他人のために人を殺した不条さん。
殺害対象をバラバラにし、隠匿している点だけは同じかもしれないが、
その経歴だけを見れば、悲しい人格であることに変わりはない、
が、
……僕と、不条さんが、まったく同じ?
「くく…………」
いけない、笑いが漏れてしまった。
僕の方が笑える状況ではないことは知っている。不条さんが笑顔を消し、訝しげに俯きながら、半眼で僕を睨みつけた。
「不条さんの過去なんてどうでもいいんだけど、不条さんは自分が人間の死体を隠しているからこそ、大量に虫を殺して、しかもそれを自分の部屋に隠している僕に共感を得て、好きになったんだよね?」
「……そうだな。君なら、私が抱えている罪と、その気持ちが分かってくれると思ってね」
はっはっはっは。馬鹿だなぁ。僕は虫けらで、あんたは人間なんだよ? 僕に人殺しの気持ちが分かるはずないのに。
「じゃ、なんで相佐さんを傷つけたの?」
「…………」
きっかけは僕と同じだったかもしれないが、主とする罪は姉の方が似ている。
人間を二人も殺したという事実も当然ながら、私利私欲のためなら、殺人をも厭わない狂った思考まで。誰かのためを思い、人を殺す。自分が狂っていることなど気づかず、正常な判断能力があると信じて、過ちを犯した。
その二人は、どう足掻いても人殺しだった。
しかし彼女ら二人ですらも、完璧に同じとは言えず――。
「相佐さんは、特に素行が悪かったわけでもないだろう? 付き合ってから、僕が不良の道に進み始めたわけでもないだろう? なのに不条さんは相佐さんを刺した……殺してやりたい衝動まで抱いた。それは結局、不条さんが自分だけのために、相佐さんに嫉妬したんじゃないのか? 過去のこととは関係なくさ」
「…………」
不条さんと姉の決定的な違い。それは狂い続けているか否か。
姉さん本人の話では、人を殺してしまうほどの狂気は一時的で、今はあくまでも正常だと言っていた。僕から見ても、あの口調では両親を殺したことを後悔すらしているかもしれない。
しかし不条さんはどうだ? 最愛の人が道を踏み外して気が動転したのは分かる。そして解決方法に殺人を選んでしまったことも、今はいいとする。だが結局、過去に染めた両手の返り血を、現在も最善の手と信じているではないか。
だから訊く。
「罪悪感はあるの?」
「罪悪感?」
「二人の少女を殺してしまった罪悪感と、相佐さんを傷つけた罪悪感さ」
罪悪感による贖罪は罪を浄化してくれはしないが、しかしどうしても訊きたかった。不条さんの心の内を知りたかった。
それがもう、完全に手遅れだったとしても。
「あるわけないさ。特に過去の二人についてなどさらさらない。相佐には悪いと思うも、しかし私も長瀬のことが好きになってしまったんだ。私も長瀬と付き合いたかったんだ。だからお邪魔なこの子には、退場してもらうことにしたんだよ」
もう諦めるしかない。僕だって不条さんのことは友達だと思っていたから、多少は信じたかったさ。けど……そうか、最初からダメだったんなら、仕方ないや……。
不条さんに関しての思い出はすべて、無かったことにしてしまおう。僕の日常に佇んでいたあの女は、ただの殺人鬼だったんだから。
「ふふふ、はははは……」
僕は笑う。
自分の滑稽さに。
不条さんの本性に。
あーあ、そっかぁ。不条さんは、僕と出会う前から人殺しだったのかぁ。
「不条さんは一つだけ勘違いをしているよ」
「勘違い、だと?」
「うん。例えば不条さんが相佐さんよりも先に告白していたとしても――」
これは僕の本音であり、また絶対的に嫌悪することだった。
「その告白を受けていたかって訊かれれば、答えは否だ」
不条さんの眼が、さらに鋭さを増した。同時にナイフを持つ手に力が込められるのが分かる。
それでも僕は怖気づかず、堂々と本音をブチ撒けた。
その言葉は、あの事件から今まで僕を支え続けてきてくれた姉を否定する言葉。
「事故でも過失でもなく人を殺したことのある人間は――」
息を吸い、短く、簡潔に、相手を全否定する言葉を吐く。
「そんな人間は、死んでしまえ!」
その想いは事実であり、あの事件が起こってからずっと、姉に対して抱き続けてきた気持ち。
僕としては、姉には両親を殺した罪を償うために、自殺でもしてほしかった。そうでなくとも、一緒の空間に居るだけでも、全身の産毛が総毛立つようで気持ちが悪かった。眠っている最中に、無意識に姉を求めていたことは驚きだが、しかし意識の中では、四六時中姉を嫌悪していたんだ。
じゃあ何故、今も一緒に暮らしているのか。
そりゃ当然。だって姉がいなくなったら、誰が僕を養ってくれる? 一人暮らしの高校生。仕送りもなく生活費を稼ぐためにバイト三昧。そんな人生が楽しいか?
僕としては、姉には責任を取らせているつもりだった。姉が両親を殺してしまったせいで、生活が苦しくなった責任を。
言っておくけど、僕はシスコンではないんだよ。
「…………」
怒り狂うと思いきや、不条さんは意外にも冷静に溜め息を吐いただけだった。力が入って震えていた手も脱力し、全身から熱が抜けたよう。打ちつける大雨が、頭を冷やしていったか?
「……そうか。君も彼と同じなんだな」
「同じ? 何が?」
「私の気持ちを分かってくれないところだよ」
意味が分からない。不条さんの言う彼には想いを伝えたわけでもなさそうだし、僕には人殺しの考えを理解できる神経は持ち合わせていないんだ。
今の不条さんは、いったい何を見てる? 何を考えている?
僕らが友達だと思っていた不条さんは、どこへ行ってしまったのだろう。
あちらが偽りなのか。こちらが本物なのか。
例えば姉のように、一時的に狂っていたとするのなら――、
ごめん。受け入れられない。
だって不条さんは、相佐さんを……。
「これ以上、私と意見の食い違う長瀬を、私は見ていたくない」
それは唐突だった。不条さんの全身が前方に傾き、視界の中の彼女が遠近法により巨大化する。中段でナイフを構え、猫背のまま水たまりを踏む。
僕は身構えることなどできなかった。ナイフの切っ先を向けながら猛突進してくる人間に反応できる反射神経など持ち合わせていない。せいぜい緊張が瞬時に全身を巡り、眼前の出来事を理解、認識するだけで精一杯だった。
一応、目的は達成された。いつ人質に取られるか分からない、彼女の足元に倒れている相佐さんから距離を取らせる目的は。
問題なのは、不条さんの攻撃を、僕が避けられるかどうかだ。
瞬間的に大量生産されたアドレナリンが、目の前の出来事をスローに見せる。ゆっくりと距離を詰める不条さんと、まったく身動きが取れないまま固まっている自らの脚。
雨がアスファルトを打つ音に混じる、水たまりが爆ぜる音。
等間隔に聞こえるその音を計算すると……ヤバイ。
避けるどころか、なんの抵抗もできないまま刃先が僕の腹に到達してしまう。
まずった。失念していた。不条さんは現役バリバリのテニス部部員。短距離を走るのは最も得意とするスポーツだろう。対して僕は、ろくに運動もしない帰宅部。反射神経の差など、天と地ほどもある。
避けられない。
そう確信した瞬間、不条さんと眼が合い、彼女が笑っていることを知った。
そして、
ドスッ!
視界が暗転してから、柔らかい物体同士がぶつかる鈍い音が聞こえた。
あれ? おかしい。普通は逆だろう。刺されてから気を失うはずなのに。
それに……痛くない?
刹那の間に様々な考えが彷彿し、目の前の闇に質量があることに気づく。視界を遮る闇は暖かい威圧を醸し、僕の方へと倒れ込む。
突然のことに、僕はその闇を両腕一杯に広げて受け止めた。意外に軽かった。
質量のある闇はしかし、僕の支えなど意を介さないように、重力に身を任せて地面へ向けて落下する。
「……え?」
為すがままに倒れ込む闇の重さに耐えきれず膝をついた僕は、その闇の表側を確認して、呆けた声を上げてしまった。
「姉……さん……?」
乱れた髪に、青白くなりつつある顔色。口元に口紅でない朱が混じっていることに気づいた瞬間、咳こむと共に吐血した。
変わり果てたその顔は、見間違えようもなく……僕の姉だった。
「なんで……ここに……」
その時、意識の隅でサイレンの音を聞いた。その音は急激に接近してきたように大きくなり、ドップラー効果を残さずに、一斉に音を消した。それはつまり、僕らがいる場所、学校を通り越さずに、その手前で止まったということ。
「チッ!」
雨音にも負けないほどの大きな舌打ちをした不条さんが、走り出した。手持ちだったナイフを姉の腹に残したまま、一瞬のうちに暗闇の向こうへと呑まれていった。
けど僕は追いかけない。追いかけられるはずはない。
冷たいアスファルトの上で正座しながら、膝枕した姉の顔を、呆然と見降ろしていたのだから。
「どうして…………」
スーツ姿の姉は、カッターシャツを朱色で染めていた。突き立てられた腹のナイフからも延々と流血が続き、闇色のスーツを朱色へと変貌させてしまうほどの勢いだ。
なのに――、
痛いはずなのに、苦しいはずなのに、姉はうっすらと目を開け、僕に向けて微笑んだ。
血で濡れた唇が、小さく動く。
『アキ君は、お姉ちゃんが守ってあげるからね』
ゾクリと、身が凍えた。
聞こえたわけじゃない。全部言えたわけでもない。
けど、姉の言葉ははっきりと鮮明に、僕へ伝わっていた。
「なんで……だよ」
不条さんが突進してきて、姉が僕を庇った、あのタイミング。
あのタイミングなら、聞いていたはずだ。
僕が、姉を全否定する言葉を。
なのに、なのに――。
遠くの方で、声がした。大人数の声が、騒がしく叫んでいる。
ようやく来たか。遅いと舌打ちしたくなるも、僕が裕次郎に助けを求めてからそれほど時間も経っていないはずだから、これでも早い方なんだろう。それよりも、僕が先走っていなかったら相佐さんが殺されていたことを考えると、ゾッとする。
…………あれ?
僕は姉の頭を優しくアスファルトの上に置いて、立ち上がった。数メートル離れた場所で倒れている相佐さんを見てから、僕の足元の姉さんを見降ろす。
…………あれ?
視界に雑音が混じった。現実でない映像が、早送りで脳内に再生される。
白骨の散らばる丘を登り、頂にある二つの頭蓋骨。そのうちの一つを手に取ると粒子となって崩壊し、残った一つの眼窩と眼が合う、あの夢。
僕はもう一度、相佐さんと姉を交互に見つめた。
そして現実へと戻ってくる。脳裏をよぎったのは、一つの事実。
……あれ? 救急車、一台しか呼んでないや。
それからのことは、正直あまり覚えていない。やけに冷たい雨が肌を刺し、駆けつけてきた裕次郎が激しく僕に問い掛けていたのは何となく覚えているものの、どうやってその先の事が進んだのかは記憶になかった。
ただ――、
大急ぎで担架を運んできた救急隊員。予想外にも二人が倒れるのを確認し、彼らがとりあえず一人を運ぼうと身をかがめたその時、
「――――――――!!!」
僕は叫んだ。