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s_complex  作者: 秋山 楓
17/20

第15章

 六月下旬の空は曇天と化し、今はまだ雨は降ってはいないが、いつ降り出してもおかしくない昼下がり。太陽の光が地上まで届くのか疑問に思ってしまうくらいに、分厚く暗い雲が頭上を支配していた。


 本来一人で帰宅するはずだったアパートに、相佐さんという来客を招き入れ、唐突に華が咲いたような感じがする。まあ、イメージ的に。


 当然ながら姉は仕事で居ない。居たとしたら連れてくるわけないし、在宅を確認次第相佐さんを追い返すつもりだったが、当たり前のようにそれは取り越し苦労だった。

 念のため、僕が先に家へと入り、姉の有無と襖の開閉を確認する。


「お邪魔しまーす」


 静かすぎるアパート全体に同調するように、相佐さんの声も控え気味だった。

 靴を脱ぎ、僕の部屋に入る手前で相佐さんが訊く。


「そういえばアキ君。この前のことだけど、刑事さんには話した?」

「え? ……あ、うん。一応話はしたよ」


 一瞬なんのことだか分からず戸惑ったが、あぁ数日前襲われたことかと理解する。

 通報などしてはいない。あれをどう説明していいのか分からないのも事実だし、こちらからあの刑事らに接触するのは、正直あまり気が進まない。


 ん、待てよ。刑事?

 ……しまった! この前、裕次郎からもらったエロDVDが、袋に入ったまま押入れの中に隠してあったんだった! ヤバイ。これはもしや、発見されるのと同時に相佐さんに軽蔑されて、破局への一途をたどるフラグなのか? まさかあの時回収した伏線が、こんなところで影響してくるなんて……!


 って、さすがにそんな大げさな展開にはならないか。

 それよりも、発見されてマズイのは、もちろんその下に眠る両親だ。


 ふと、相佐さんが押入れの方に目を向けていることに気づく。僕が無意識にそちらを見ていたからかもしれないが、前回来た時のことを思い出したのだろう。虫の嫌いな人間にとって、さすがにあの量の死体は嫌悪以上に忌避する対象だ。


「大丈夫だよ。虫の死体は前に見つかった後に全部片付けてある。けど、あの押入れの中は、僕の心の弱い部分なんだ。だから……できれば見ないでほしい」

「……うん、分かった」


 たとえ床板が新品になっていることに気づかれなくても、その上のブツを見られては少々気まずい。勉強どころではなくなってしまうだろうね。

 部屋の電気を付けると、外が夜のように真っ暗なのが分かった。真昼間なのに、暗闇に囲まれた閉鎖感を味わう。


「明日のテストの教科書とかノートとかはある?」

「うん、あるよ」


 ってことは、最初から僕の家に来るつもりだったんだろうな。ま、特に迷惑ってわけでもない。テスト期間中だからといって、どうせ夜に一・二時間くらいしかテスト勉強しないし。むしろ、相佐さんの成績が悪くて留年とかなったら、僕が困るからねー。


 相佐さんを座らせ、僕が家庭教師のように上から覗き込む。


 明日のテストは数学と音楽と化学。僕の得意とする理系科目が二つもあるし、入試に関係のない音楽など捨てておけばよいから教えやすい。


 静かな空間。だけど暖かく、心地よい時間。


 数学は問題を解かせ、理解できないところを僕が優しく教える。


 本当に理解できたのかは分からないが、僕が教えるたびに相佐さんが頷いてくれるのは、とても嬉しかった。


 平凡で、幸せな日常。


 誰にも邪魔されない、二人だけの世界。


 時間も忘れてしまうほどの何気ない一時が、そこにはあった。


 明日の範囲までの問題があらかた終わろうとする頃、窓ガラスを外からコツン、コツンとリズム無く叩いていることに気づいた。


 雨だ。あの雲の分厚さを目の当たりにしては今更驚きではないが、小雨で終わるのか、はたまた土砂降りになるのかは心配どころである。


 一瞬だけ窓ガラスに注意を逸らし、すぐに机に戻すと、相佐さんがこちらを見ていた。

 喜んでもなく、怒ってもなく、悲しんでもなく、気が抜けているわけでもなく、大きな瞳を潤わせて、じっと僕の顔を見上げていた。


 二人の視線が複雑に絡み合う。


 深層心理に溶け込んだ二人の想いが混じり合い、現実へと浮上する。

 僕らは愛し合っている。そして二人きりという空間は、僕らの鼓動を同調させた。

 誰が咎めることもないその雰囲気に後押しされ、


 僕らはどちらからともなく、唇を重ね合わせた。


 思考の沸騰。頭の中を横断するノイズなど、蚊に刺された程度まで気になることもなくなり、またムズ痒くもあった。


 初めてのキスの感想はまったくの無味乾燥で、暖かくとても柔らかい人肌に唇を押しつけているような感触。しかし匂いは相佐さん一色で占め、危うく嗅覚が幸せの幻想へ溺れてしまうところだった。


 永遠にも感じられる時間感覚だったが、実際にはほんの数秒だったのだろう。僕らは二人同じく初めての感触に戸惑い、すぐに唇を放してしまった。


 僕の足元を見ながら顔を真っ朱に染める相佐さんの頭を、僕は優しく撫でてやる。

 が、


 ザーー…………。


 視界に砂嵐が紛れ込んだ。粒子として流れる雑音は、間近にある相佐さんの顔を霞ませる。まるで思考の中のノイズがそのまま視界に現れたように、僕の目の前は一部灰色と化した。


 ただ気にすることでもない。たぶん僕の頭が興奮に溺れ、少しばかり混乱しているだけだろう。たかが頭痛や視界の雑音なんかで、この幸せな空間を壊したくない。


 もう一度、今度は僕の方から相佐さんの肩を抱き、少し強引に唇を奪ってやった。


 静止する時間。

 窓ガラスを打ちつける雨だけが、ここが現実だということを認識させてくれる。


 ザーー…………。


 一度目よりも深いキスを終えると、相佐さんは腰を浮かし、直立する前に再び畳の上へと座り込んでしまった。その顔は、僕を直視することがない。


 心理一体となった僕らは、相佐さんが何を望んでいるのかが手に取るように分かる。それは僕が望んでいることでもあり、お互いがすべてを認め合ったということでもあろう。

 僕はぎこちない動作で、しかしがっついてると悟られないゆっくりとした手際で、壁に寄せてある布団を敷いた。


 ザーー…………。


 時間が進むごとに、雑音がひどくなっていく。鍵の掛かった宝箱と、それを開けるための鍵が手元にあるというのに、本能がそれを開けてはならないと忠告しているように。けど身体は理性に従うまま、鍵を鍵穴へと入れてしまう。


 それは開けてはならないパンドラの箱だと知っていても。

 僕の心理も、今まさにそれだった。

 パンドラの箱の中には、僕が無意識に封印している記憶が入っているのかもしれない。脳裏に過る雑音は、そういうことだ。既視感が危険な記憶と重なるからこそ、そのための警告なのだろう。

 だからといって、どうしてここで止めることができる? 好きな女の子との営みが、記憶の恐怖心に劣るはずがない。思い出して危険な記憶なら、耐えればいいだけのこと。


「ア…………アキ君。できれば、電気、消してほしいな」

「電気?」

「うん。……初めてだから、その……恥ずかしいから」


 布団に横たわる相佐さんを眺め、生唾を飲み込んだ僕は、言うとおりにした。


 ザーー…………。


 立ち上がってひもを引き、電気を消した。とはいっても夜ではないため、薄暗がりの中に相佐さんの輪郭がはっきりと見える。布団の上に乱れた髪も、スカートから伸びる肌の露わになった太股も、仰向けになってもなお存在感溢れるその胸も。


 そのまま僕は相佐さんの上に覆いかぶさり、怖がらせないように、一つずつ衣服を脱がせようとする。静かに目を閉じた相佐さんを見ながら、まずは制服のリボンを解こうと手をかけた瞬間――、


「え…………?」


 雑音が、消えた。

 頭の痛みが、引いた。

 光柱が大空を覆う雲を拡散させるように、

 モーゼが荒れ狂う大海を割るように、

 僕の思考が、僕の記憶が、広大に開かれた。

 忘れられていた記憶が、蘇った。

 すべて。


「あ……」


 薄暗い空間で、無防備に布団に横たわる少女。

 彼女の衣服を脱がそうとする僕。

 現状が失っていた記憶と重なり、芋づる式にすべてが連想される。

 僕の犯した、罪を。


「う……」


 世界が歪んだ。四角いはずの自室が、原形を留めず波打つ。ぐにゃぐにゃと、軟体動物のようにその姿形を変える。

 相佐さんの姿もまた、太ったり痩せこけたり。僕の異変に気付いたのか、崩れる視界の中で相佐さんが上半身を起こしたのが分かった。


「うあ…………」


 蘇った記憶に翻弄されていた。耐えられらい情報量は脳内物質に変化をもたらせ、正常な精神を保てなくする。

 ついには発狂した。


「あああああああぁあぁぁぁああああぁぁあぁ!」


 声が出たのは一瞬。その後は猛烈な吐き気が襲った。脊椎が楽になることを強要し、胃の中の物が逆流する。

 嘔吐した。手の届く範囲にゴミ箱があったから畳にブチ撒けずに済んだものの、吐いた自分でも嫌悪したくなるような異臭が、一気に部屋に充満する。


「アキ君!」


 相佐さんの声が聞こえた。しかしそれに応えられる余裕などない。口の中に残った胃液を、ゴミ箱に吐きつけるばかり。


 僕は、罪を犯していた。


 姉が両親を殺したあの日、僕は何故、父親に怒られていたのか。

 その前後の記憶が、蘇ったのだ。


 遡るのは数時間前。姉が両親を殺すより、父親の説教が始まるよりも前。

 中学生の当時、僕はとても好きな女の子がいた。同じクラスだが話したことは滅多にないし、実質僕には高嶺の花と言えるくらいの可愛い女の子だった。思春期真っただ中だった僕は、勉強にも食事にも手がつけられないほどに恋していた。

 そして友達の後押しもあり、僕はついにその女の子に告白した。

 結果は惨敗。

 当然だ。接点のまったくない男子からの告白など、相当好みの面か、取り柄がなければ付き合おうとは思わないだろう。


 僕は悲しみに沈んだ。純真ばかりの恋心があっさりと否定され、精神が揺らいでいた。もてあました精力は悲しみの海に溶け込み、思考の停止を強要される。

 悲しみを抱いたまま、僕は帰宅した。僕を優しく包み込んでくれる自宅は、悲しみを糧としてやり場のない怒りへと変化させる。もうどうでもよかった。好きな子に振られた若い僕は、その瞬間だけ自暴自棄へ陥っていた。


 それはタイミングが悪かっただけかもしれない。

 家の中には、珍しく早く大学から帰ってきた姉しかいなかった。母親は買い物にでも行っているのだろう。リビングでくつろいでいた姉は、優しく僕を迎え入れてくれた。


 優しい姉。弟想いの姉。僕に一番近しい存在。


 僕の悲しみを親身になって分かち合ってくれるのは、もうこの人しかいなかった。

 だから甘えてしまった。人肌が恋しかったのだ。好きな人に振られ、寒空に立たされた僕には、温もりが必要だった。


 僕は――姉を犯した。


 混乱する記憶は曖昧だが、しかしその時の事実ははっきりと覚えている。

 最初は戸惑い拒絶を表していた姉も、次第に僕の悲しみを受け入れてくれた。何があったのかも問わず、ただ僕を抱きしめてくれた。


 しかし甘い現実はそう長くは続かず、買い物から帰ってきた母親に、僕らの行為を発見されてしまう。さらに仕事から帰宅した父親に告げ口され、あの運命の時間へ。


『アキ君はお姉ちゃんが守ってあげるからね』


 そして姉は狂った。


 僕の悲しみを受け入れ、ネジが抜けてしまった姉が両親を殺したのは、その時の話。僕を守っていると信じ、姉は喜んで包丁を握ってしまった。

 記憶がなかった時は、ただ単に姉が狂い、勝手に両親を殺したのだと思い込んでいた。


 けど、これじゃあ……僕が殺したようなもんじゃないか!


 意思、実行はすべて姉だが、きっかけを作ったのは僕だ。僕さえいなければ、姉は両親を殺さずに済んだ。僕が告白していなければ、両親は死なずに済んだ。このアパートに越してくることもなかった!


「ううぅ……うう……」


 嗚咽が漏れ、涙が零れた。相佐さんが僕の名前を呼びながら、背中をさすってくれていることにも気づいた。


 ゴミ箱に顔を突っ込みながら、一度だけ襖の方を見やる。

 僕は一体、何がしたかったんだろう。自分に都合の悪いことは忘れ、日常に幸せを感じるとか、不幸を意図的に作り出すとか……。消し去ることのできない罪が、僕の両手にこびりついているというのに!


「アキ君……、大丈夫?」


 優しく問い掛ける相佐さんの声が聞こえた。


「ごめん」


 僕は謝った。しかしこんな醜い僕を享受してくれる相佐さんには、今は合わせる顔がない。


「本当にごめん。……一人に、してくれないかな?」

「え?」


 罪だらけの僕には、一瞥とも相佐さんの顔を見ることは許されないような気がした。


「今は、一人になりたい。勝手だけど……こんな汚い姿、相佐さんに見られたくない」

「でも……」


 それでも心配なのだろう。声で分かる。


「僕は大丈夫だから。……お願い、一人にして」

「…………」


 言い終えてから再び吐き気。しかし空っぽの胃からは、濃度の濃い酸しか出ない。

 ゴミ箱と対面していながらも、相佐さんが僕の背中をじっと見つめていることが分かった。どうするべきか逡巡しているのだろう。しかし最終的には僕の意を汲み、背後で荷物を片付ける音がする。


 申し訳ないと思う反面、その決定は少し寂しかった。無言で帰る準備を進める相佐さん。絶対に嫌われたくないと思うも、それは自分勝手というものだろう。ここまで醜態を晒した彼氏と、このまま付き合っていこうとは思えない。


 やがて準備が終わったのか、強い足取りで入口へ向かう。怒っているのだろうか? 無理もない。自分でも、僕がここまで情けない人間だとは思わなかったくらいだから。

 入口の襖が開けられる音。相佐さんに嫌われるのは悲しいが、ようやく一人になれる。

 しかし、開けられた襖の手前でこちらに振り返る相佐さんを、気配で感じた。


「アキ君」

「?」


 低い口調で、彼女の顔を見ることはできないが、しかしはっきりとした宣言した。


「愛してる」


 そして襖は閉められた。

 あーもーホントに、言葉にできないくらいのイイ女だなぁ、まったく。言葉にすると安っぽくなるからしないんだけど。


 他人の温もりがなくなった静かな部屋で、僕は涙を流し続けた。吐き気は収まってはいないが、胃の中の物がすべて吐き出されてしまったために、すでに唾液しか出ない。ゴミ箱に向かって大口を開けながら、僕を嘲笑うかのように次第に大きくなっていく雨音を聞いていた。


 やがて膝立ちできないほどまでに体力が尽き、ゴロンと畳の上に寝転がる。薄暗闇の中で横になった僕は、うっすらと目に映る押入れの襖を呆然と見つめていた。


 僕が――殺した。


 封印されていた事実が大波のように押し寄せ、偽りの平穏に身を任せていた僕を呑み込んでいく。忘れていた現実は一つの真実となって、僕の前に突きつけられる。


 僕も、狂っていた。


 涙が目頭を伝わり、畳へ零れた。

 僕を溺愛するあまり、おかしな言動を吐いて両親を殺す姉。自分にとって都合の悪い記憶は消去し、自分は事件とはまったく関係ないと高を括って、客観的に姉を狂人と決めつけていた僕。


 情けなかった。こんな自分が、嫌だった。

 虚無感と拒否感で頭の中がいっぱいになり、思考がパンクする。

 薄暗い部屋が、視界の端から徐々に暗黒へ染まっていく。

 瞼が重い。身体がダルい。頭が働かない。

 もう、どうでもよかった。

 自分に興味を失った僕は、深い眠りへと堕ちていく――。


 ――物音がして、ふと目を覚ました。部屋の中は相変わらず薄暗く、僕が眠りについた時とまったく変化がない。

 眠れなかった……わけではなさそうだ。あまりにも眠りが深く夢すらも見なかったため、眠りに堕ちた瞬間と今の記憶が完全に繋がっていた。ならば一体、何時間くらい眠っていたのだろう。

 いや、玄関から足音。この気配は姉が仕事から帰ってきた時のものだと、過去の経験からすでに知っていた。……ということは、五時間以上意識がなかったということか。


「アキ君、居るの?」


 襖の向こうから呼びかける姉の声に、しかし僕は応える元気がない。胴体と畳の間に腕を忍ばせ、それを支えとして上半身を浮かすことしかできなかった。


「勉強してるの? 入るよ?」


 ノックもせずに姉は襖を開ける。明るい光がなだれ込み、逆光となった姉の表情は窺うことはできないが、瞬時に僕を見つけて驚きを表したことは分かった。


「アキ……君?」


 現状を把握しようとする姉。スーツ姿の姉が僕を心配するように駆け寄る。が、一歩踏み出したところで、僕が言葉で遮った。


「どうして黙ってた!!!」


 一度だけビクリと身体を震わせ、姉は立ち止まる。

 喉から空気の抜けるような咆哮は、沈黙を生んだ。息切れした僕の呼吸が、妙な間を作り上げる。


「黙ってた……って?」

「僕が夜な夜な姉さんのところへ行ってたことだよ! なんで言ってくれなかった!」


 姉が息を詰まらせた。が、すぐに目を伏せる。


「そう…………、やっぱり覚えてなかったんだ」

「……ッ!?」


 悲しそうな顔をする姉に、僕は軽く殺意を覚えた。

 僕はすべて思い出した。それは姉が両親を殺したきっかけだけではなく、それ以外の忘れている部分も。むしろ相佐さんとのあの雰囲気は、こちらの記憶と重なって先に呼び起されたのかもしれない。


 暗く狭い部屋。ひどく乱れた少女。無防備に布団に横たわるその姿。

 その光景は、僕がいつも見ているはずの、姉の裸と重なった。


 毎日ではない。それでも三日に一度はほぼ確実。普段の夜、眠りに就いた僕は、思い立ったように、夢遊病患者のように、姉の部屋を訪れていた。


 悲しみを受け入れてくれる姉の温もりが、恋しかったのだろう。普段は平静に保っていても、心理の奥では未だに姉に甘えていた。姉の身体を欲していた。最初の時のあの気持ち良さが忘れられず、記憶にはなくとも僕の身体に染みついて取れなかった。


 そしてその夜這いの間隔は、あの夢を見る日付とまったく同じだった。


 白骨の広がる丘を歩く夢。


 あの夢を見た次の日、必ず疲労感と寝不足を感じていたのは当然というもの。だってその晩、僕は姉の部屋に忍び込み、夜な夜な腰を振っていたのだから。


 その行為が夢と連動しているとならば、白骨の丘の頂に眠るあの二つの頭蓋骨は、やはり両親のものだったのかもしれない。両親を殺した二人の子供が、不健全な行為に励む罪悪感として。

 だがしかし、僕は許せなかった。僕がそれらの行為を覚えていないと予想していたのなら、何故教えてくれなかったのか。

 姉は静かに僕の正面で正座し、真剣な顔つきで口を開く。


「アキ君がまだあのことについて悲しんでるんだったら、お姉ちゃんが優しく受け入れてあげなくちゃいけないと思って」


 あのこととは、僕が振られたことか? 自分が忘れていることを姉だけが知っているのは気持ちが悪く、そして怒りが込み上げる。


「ふざけんな! 何が優しくだ! 姉が寝てる部屋に無意識に忍び込むなんて、異常者と同じじゃないか! そんなものは優しさじゃない!」

「そんなことはないよ。悲しいことがあった時、誰かに甘えたくなるのは当然のこと」

「あれから何ヶ月経ってると思ってるんだ! 僕自身、振られたことなんか完璧に忘れていたんだぞ。狂ったあんたの考えなんか、僕に押し付けるな!」


 そして僕は自分勝手にも、とてつもなくひどいことを口走ってしまう。


「弟に犯されて悦に浸ってる、この変態が!!」


 目を閉じ、じっと正座したままの姉は眉間にしわを寄せたまま、微動だにしなかった。怒っているわけではないだろうが、しかし下唇を強く噛み締めてるのがよく分かった。

 叫び声がなくなったため、自分の嗚咽がよく聞こえた。


「確かに、アキ君の言うとおり、お姉ちゃんはおかしくなってた。おかしくなってたからこそ、お父さんとお母さんを殺しちゃった」

「今もとことん狂ってるだろ!」

「今は正常だよ。今の私は、狂ってなんかいない」

「嘘つけ!! 正常な人間が、人を殺したりなんかしない!!」


 再び泣き声が大きくなる。姉の顔は見ずに、畳に額を押しつけて、自分の頭を拳で殴りつける。

 ぐちゃぐちゃだった。本音と建前がドロドロに溶かされ、自分の口から何が吐き出されているのかも分からなかった。ただ、心の奥底に溜めこんでいたものが、支離滅裂に、順序逆転しながら、意味不明な言葉の羅列になって、すべて現実世界へと吐き捨てられる。


「うぅ…………うぅ……」


 嗚咽を漏らしても、姉はずっと目の前に座っているだけだった。僕を肯定しようとも、僕を否定しようとも、僕を下卑することも、僕を嘲笑うことも、僕を心配することも、僕を無視することもなく、ただじっと目を閉じたまま、そこにいた。

 いや……、そこにいてくれた。


「うぅ……ほ……本当は。本当は……」


 本当は、知っていた。姉が狂っていたのは一時的であり、今は本当に優しい姉として僕を支えてくれていることなど、頭のどこかでは理解していた。


 僕がすべてを知って取り乱すことを予想できたから、教えてくれなかったのに。


 僕が甘え縋りついてきたから、受け入れてくれたのに。


 僕が嫌な記憶を思い出さないために、言わないでいてくれたのに。


 姉の最優先事項は、すべて僕を想ってのことだったのに……。


 でなければ、大学を辞めて働きに出たりはしないだろう。

 でなければ、今も僕のそばに居てはくれなかっただろう。


 死体を隠しているのは、僕が……姉と一緒にいることを望んだからだ。


「うぅ……うぅ……」


 僕は自分の愚かさに泣いていた。自分の情けなさに嘆いていた。

 狂っていたのは姉ではなく、自分だったことを認識し、それを否定したいがために、責任転嫁のように姉を責めてしまっていた。

 自分の馬鹿らしさが過ぎて、死にたくなる。


「お姉ちゃんね、」


 ふと、姉が語りかけるように口を開いた。


「アキ君に彼女ができたことを聞いて、とても嬉しかった」


 自分の体が、一瞬だけ痙攣したのが分かった。


「好きな子に振られて落ち込んでたアキ君だもん。やっと前に進めたんだなと思って、とても喜んだ。彼女ができたって教えてくれた日から、アキ君が夜に来なくなったし」


 あの時の笑顔は狂った姉の嫉妬なんかではなく……本当に僕を祝福してくれていたのか。その事実を告げられ、僕は一層情けなさに沈む。


「アキ君は、あの女の子のことが好き?」

「…………うん」

「愛してる?」

「……うん」

「じゃあこれだけは言っとく」


 さらに真剣さを出すためか、姉は居住まいを正した。


「アキ君がその彼女のことを蔑にするようなことがあれば、お姉ちゃん、絶対に許さないから」


 あぁ、

 あぁ、

 あぁ。

 せっかく収まりつつあった嗚咽が、再び雪崩れ出た。

 ただしさっきのものとは、まったく性質が異なる。


 嬉しさのあまり、泣き出してしまった。抱えきれないほどの幸せの重圧に、押しつぶされてしまった。容量を超えた幸福度が溢れだし、涙となって外へ流れ出てしまう。もったいないとばかりに泣き止もうと試みるも、それは絶対に無理だった。次々と生み出される幸せは、心の体積の何倍もの量なのだから。

 幸せすぎるのも、時には不幸なものだ。


「僕は、姉さんが連続殺人事件の犯人じゃないかって疑ってた」

「うん、知ってる。私が親を殺してる現場を、アキ君は目の当たりにしてるもんね。無理はないよ。その意味でも、できるだけ会社から早く帰ってきて、夜中は外出してないつもりだったけどね」

「……ごめん。それに、嫉妬した姉さんが、相佐さんを傷つけるんじゃないかとも思ってた」

「そうなの? それは私の態度も悪かったかもしれない。勘違いさせちゃったようで、こっちこそごめん」

「いいよ、姉さんは謝らなくても。姉さんを狂ってると思ってて、勝手に早とちりしてたのは僕なんだから」


 今まで姉さんを疑っていた小さな罪を懺悔する。


「それに、デート中に襲ってきたのが姉さんだと思ったことも、一瞬だけあった」

「………………え?」

「え?」


 あの夜、僕らを襲った狂人が姉さんでないことは、本能から理解していた。すべてを思い出した今となっては、本能というよりも経験と言うべきか。後ろから抱きついた狂人の体格は、僕が何度も抱いたことのある姉のそれではなかった。だから咄嗟に『あの狂人は姉ではない』と無意識に結論付けられたのであろう。


 そして生まれる当然の疑問。


 連続殺人犯は姉ではなく、そして最重要容疑者は男だ。


 ――ならば、あの狂人は一体誰なのか?


 努力しても止まなかった嗚咽が、ピタリと引いた。ある可能性を思いつき、全身に寒気が走る。

 昼間に行ったゲーセン。不条さんのあの態度。


「アキ君、襲われたって?」


 先ほどとは態度を変え、身を乗り出して本気で不安そうな表情を向ける姉。彼女はたぶん、僕が連続殺人犯に襲われたとでも思っているのだろうが――、

 ――その方が、何十倍も良かったことか。

 僕は姉の質問には答えず、別のことを問うた。


「姉さん。僕が彼女ができたって言った時、大きい方か高い方かって訊いたよね?」

「え? ……うん」

「それはどういう意図があって?」


 その時は、僕を奪ったのはどちらかと確定するための、姉の嫉妬心かと思っていた。しかし姉の気持ちを知った今では、それはまったく別の意味になる。


「アキ君が好きになる女の子だったら、お姉ちゃんは正直誰が彼女になろうと構わない。あまりにも素行が悪い女の子じゃなきゃね。でもあの子、背の高い女の子の方は……」


 そこまで言って、続きを渋る。それはまるで、僕と不条さんが友達だということを知っているからこそ、自分の言葉でその友情が引き裂かれるのではないかと危惧するように。


「言って」


 急かすように懇願すると、姉は強く頷いた。


「背の高い女の子。あの子の眼は……私と同じ眼をしていたから」

「姉さんと同じ、眼?」

「うん。どんよりと濁った眼」


 それはつまり――、


「事故でも過失でもなく、自分の都合だけで、人を殺したことがある眼」

「ッ!?」


 ……そんな、馬鹿な。不条さんが、人を殺したことがある、だと?

 自分の友達を侮辱された憤りが込み上げてくるが、しかし姉さんはただ初対面の印象を語っているだけだ。しかも僕が話すことを強要させているので、僕にとやかく言う権利はない。


「毎日自分の顔を見ているから分かる。私の眼も、とても疲れたようにやつれてるもの。そしてアキ君の友達も、雰囲気こそ明るかったけど、その眼は私と同じ、心を閉ざして人を殺したことを隠そうとする眼だった」


 姉の言っていることに根拠はない。もしかしたら姉と対面した時の不条さんは、昨晩の徹夜かなんかで疲れ果てていただけかもしれない。確かに眼というものは本人が意図しなくてもその人の心理状態を表すんだろうが、しかし自分と同じような眼をしていたからというだけで、人を殺したことがあるなど分かるはずもない……だろう。


 不条さんが――連続通り魔殺人事件の犯人?


 いや、あり得ない。警察が、黒峰さんと裕次郎があそこまで自信満々に犯人を特定し、逮捕間近とまで言っていたのだ。今更冤罪ってこともないだろう。


「じゃあ、一体誰を……」

「そこまでは、分かんないかな」


 それにただの姉の勘違いかもしれないし。

 でも――、

 相佐さんとデートしたあの夜、ナイフで襲ってきたのは不条さんだ。と考えると、何故だか腑に落ちた。不条さんの眼、ゲーセンでした不条さんとの会話。


 ――決着。


「…………ッ!?」


 警報が鳴った。危機感が最大級まで高められ、頭の中にサイレンが鳴り響く。

 あの狂人は、相佐さんばかりを狙っていた。

 僕を殺せるチャンスがあったのにもかかわらず。

 もしあれが不条さんだったのなら……。

 顔を上げ、時間を確認する。午後六時前。ゲーセンを出たのが正午くらいだったから……。

 一般に昼寝といったら、何時間くらい寝る?

 そして起きるのと同時に意思を固め、決着を着けるのだとしたら。

 僕は床に転がってる携帯電話を取り、駆けだした。


「アキ君!」


 姉の横をすれ違いざま呼び止められたが、そんなことに気を回す暇などなかった。ただ狭い部屋を全力疾走で駆け、襖と玄関を開く。


 外は大雨だった。土砂降りとまではいかないが、しかし数秒立っているだけで全身が水で浸るほど。傘を差したとしても、走ってればすぐにその意味をなさなくなるだろう。


 悩む暇などない。夕時で徐々に暗闇へと変貌していく世界。かつ大雨による視界の悪い道沿いを、僕は相佐さんの家に向かって走り出した。

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