第10章
いつも通りの朝になり、しかし昨日の満足感で未だ夢心地の僕は、眠たそうな半眼で姉の部屋へ入った。そこではすでに布団は片付けられており、小さなテーブルの上には朝の食卓が並んでいる。平日なので、ご飯とみそ汁以外は簡単なものだ。
「アキ君、おはよう」
「おはよう」
眠たいなぁ。しかもギリギリまで寝ていたものだから、今日は僕もあまり時間がなかったりする。これもすべて相佐さんのせいだ。昨夜は興奮しちゃってなかなか寝付けなかったんだよチクショー。
テーブルの前に着くやいなや、寝ている間に失った水分を取り戻すため、水を一気に飲み干した。その間にも、姉は空の茶碗に味噌汁やご飯を持って手渡してくれる。
「アキ君は隠し事、してないよね?」
「あー……うん」
いつものアレか。毎度毎度のことながら、あまり慣れたものではない。姉が僕のプライベートを覗き見しているようで嫌なのだ。問い掛けるということは、実際には覗き見ているわけではないんだと思うけど、それでもプライベートに干渉したがっているようで、僕としてはあまり良い気がしていない。
そしていつも通りに「してないよ」と答えようとした。あまりのルーチンワークに口元まで言葉が出かかったが、いや待て待て。僕は本当に隠し事をしていないか? あるではないか。特別隠してるわけじゃないけど、昨日付き合い始めた女の子のことが。
たまには攻撃してやろう。そう、魔が差した。
「隠し事、してるよ」
はっはっは、僕もまだ子供だな。彼女ができたことを隠し事とか言っちゃって、そんなことで意地張るなんてさ。まあ、ちょっとばかり驚く姉の顔を見てみたかったんだけれども。
差し出されるご飯を手に取りながら、そう答えた。
「…………?」
しかし、硬い。僕が茶碗を手に取り、自分の方へ取り寄せようとしているのだけれど、姉は一向に手を放そうとしない。まるで姉の手と茶碗が一体化したかのように、僕らはテーブルの上で握手をしたまま固まっていた。
不思議に思い、ふと視線を上げると、正面では姉が笑ったまままた問うてきた。
「アキ君の隠し事って、なにかな?」
ゾクリと、全身に鳥肌が立った。温度を持たない隙間風が全身を駆け巡り、神経過敏になった肌を、産毛とともに撫でつける。
気持ちが悪い悪寒。
全身を包む寒気とは対照的に、体内では次第に温度が上がっていく。
焦りか? 緊張か? 恐怖か?
得体の知れない感情が体内で循環し、運動熱で上昇した体温は汗を流すことによって、全身を冷却しようとする。
そう、姉の笑顔を見ているだけなのに、こめかみから汗が浮いたのが分かった。
「ね……」
喉の筋肉が収縮し、一度目の発言の失敗する。
「姉さんの隠し事こそ、なんなのさ」
「私のことよりも、アキ君のことが知りたいな」
寒く、空気の流れが止まっている。現実を現実として捉えられていないこの空気、この状況を、僕は前にも体験したことがある。
血まみれのリビングで、包丁を持った姉と対峙したあの記憶。
今の雰囲気は、あの時の状況とよく似ていた。
「か……、彼女ができた……」
言わされた。黙っていられるはずなんてなかった。
僕は、姉さんに逆らった両親の結末を、誰よりも近くで目の当たりにしているから。
しかし姉は僕の言葉が意外だったらしく、驚きを表し言葉を詰まらせた。ように見えた。実際には顔に張り付けた笑顔に変化はなかったものの、凍てついた雰囲気は僅かに弛緩しただけだが、これも一緒に住んでいる僕だからこそ気づけるほどの変化しかなかった。
「どっち?」
「……? どっちって?」
「大きい方か、高い方か、どっち?」
(胸の)大きい方か、(背の)高い方か、どっち?
そういう意味なのだろう。瞬時にその意味を理解し、僕は戦慄を覚えていた。隠すことなどできないほど、指先が震える。茶碗を持つ手から姉に伝わっているはずだが、姉は僕の感情など気にも止めず、ただ崩れた笑顔を向けるばかり。
昔の姉の言葉が、脳裏をよぎった。
『アキ君はお姉ちゃんが守ってあげるからね』
……ま……さか。
僕のことを溺愛している姉が、僕に彼女ができたとすればどう思う? 悪い女が付いたんじゃないかと心配するだろう。言葉通り、相手がどんな女なのか、徹底的に調べて僕を守ろうとするだろう。
けど僕の姉は普通じゃない!
血だまりに沈む父と母。狂った姉ならば、僕を守るためにどんな行動を起こすか。
……考えるまでもなく、行きつく答えは一緒。
最悪だった。最低だった。こんな些細なことで、僕は最愛の人を命の危険に晒してしまうのか?
「大きい、方……」
ただしかし、沈黙はできなかった。僕がそこで黙ってしまえば、本当にいかがわしいことがあると言っているようなものなのだから。さらに言えば、ライオンに追い詰められたシマウマは、もう諦めるしか道がないのだ。下手な嘘は、さらなる被害を生むだけ。僕の精神は、すでに姉の発する雰囲気によって、逃げ場をなくしていた。
これによって、姉の狙いは相佐さんに定められた。僕を守るために姉がどう動くのか、僕は見定めなければならない。
僕が相佐さんを守らなければ!
「そう……」
ようやく綱引きしていた茶碗を手放してくれた。姉は呟き、一度だけ眼を伏せる。
だが次の瞬間、張りつめていた場の雰囲気が、一瞬にしていつも通りの食卓のそれへと変貌を遂げていた。きっかけは、先ほどとは違う笑顔で放った姉の一言。
「よかった」
よかっ……た?
どういう意味だ? よかった? 僕に彼女ができてよかったという意味か? それとも彼女が相佐さんであってよかった? じゃあ不条さんではダメだったのか? どういう意味なのか、いや、どういう意図があるのか……。
「あああぁぁ、しまった。もうこんな時間!」
半分も食べていない朝食をそっちのけに、姉は着替えと化粧を済ませる。その傍らで、僕は朝食に箸も伸ばさぬまま考えに耽っていた。
「ごめん、アキ君。今日は食器片付けておいてくれるかな? お姉ちゃん、また遅刻しそう」
「あ……うん」
言うが早く、姉さんは家を飛び出していった。
考えがまとまらない。が、ともあれ、万が一にも姉さんが相佐さんに危害を加えるような行動を起こすならば……、いや、万が一なんて考え方はよそう。僕の姉は躊躇いもなく両親を殺せる人間だし、それを隠し通す異常さも持ち合わせているんだ。狂った人間がどんな行動に出るかなど、僕には予想もつかない。
だから僕が相佐さんを守らなければならないのだ。何としてでも。
そうなれば、『いつ』だ? 姉さんは『いつ』、相佐さんと接触することができる?
姉がそんな理由で会社を休むとは思えない。仮に休んだとしても、相佐さんは学校だ。側には僕もいる。姉が帰ってくる時間には相佐さんはすでに帰宅しているだろうし、通り魔連続殺人の件があるので、暗くなってからの一人歩きは相佐さんの両親が許さないだろう。
となれば、やはり休日、か……。