第9章
黄昏に照らされた相佐さんの顔は朱に染まっている。ただ、光の加減だけの朱さだけではないだろう。わずかに視線を落とす彼女の全身は、発熱体と化したかのように火照っているに違いない。その証拠に、陰になっている部分も、光とはまた別の朱さで彩られていることがよく分かる。
学校からの帰り道だった。僕と、自転車を引いた相佐さんの二人だけ。
普段から一緒に帰ることが多かったけど、この告白のタイミングは、相佐さん的にはベストだったのかもしれない。大抵の日は、その他に不条さんや横山も同行しているから。
たまたま二人だけになった今日、相佐さんは意を決して僕に想いを伝えた。
「…………」
「…………」
正直、分からなかった。何故相佐さんが告白してきたのか。
僕は相佐さんが好きだ。それは誰にも上書きのできない真実であり、誰にも邪魔のできない本心でもある。僕の日常を構成する大半は相佐さんが占めているのだから、加えて異性という点でも、僕が相佐さんを好きになったのは当然の成り行きだ。
そして相佐さんも僕のことが好きなのだろう。普段の振る舞い、同じクラスに同性の友達も少なからずいるはずなのに、ほとんどの日を僕と帰りを共にすることを考慮に入れても、僕のことを友達以上として区別していたはず。逆にこれだけされてただの友達としか思っていないとか言われたら、とんでもない悪女だ。それだけ君の身体は、男からすれば魅力的なんだよ。
だからこそ、お互いの気持ちが手に取るように分かっていたからこそ、僕は相佐さんの行動に疑問を持つ。僕の予想では、このままどちらからも明言することはなく、いつの間にか恋人のような関係になっていると思っていたのに。
女の子は曖昧な関係を嫌がり、はっきりと言葉や態度で表わすことを好むって、いつかテレビで聞いたことがあるような気がするけど……、
実際、女の子から告白されたのは初めてだから分からない。
「……理由を、訊いてもいいかな?」
「……理由?」
「相佐さんが僕を好きになった理由」
すると、相佐さんはほんの少しばかり泣きそうな顔になった。
ああ、最初に言っておくけど、僕はけっこうサドっ気があったりする。
本気で好きになった相手に、完全明確な理由が存在するはずはないことは、十分承知だ。僕の方だって何故相佐さんを好きになったかと詰問されれば……すべての要素が明確な理由なので、どれを言えばいいのか逆に困る。
「……アキ君と一緒にいると、楽しいから……かな」
「そっか……」
心が震えた。一目惚れを都市伝説と思っている僕にとっては、最高の理由だった。顔が良いだの、性格が優しいだの言われるのは、どこか嘘っぽさが残るから。こういう簡単で曖昧な理由が欲しかった。
「でも、楽しいだけなら今まで通りで良かったんじゃない? わざわざ気持ちを告白しなくても、友達のままでいいんじゃないかな?」
そして相佐さんの顔が憂いを帯び始めた。僕の言葉を否定的に捉えたのだろう。自分の歩み寄りが拒否されるのは、確かに辛い。
しかし悪いと思う反面、心の中でこの状況を楽しんでいる自分が確かにいた。あーあ、何言ってるんだろうな、僕。答えなんて最初っから一つしかないのにさ。好きな女の子にイジメをするただの小学生かよ。
「そ、それは、私の気持ちをアキ君に知ってもらいたかったから……」
自信を失い、語尾が小さく萎んでいった。
悪いけど、これだけは言っておく。相佐さんの気持ちなんて、とっくの昔から気づいていたよ。
「相佐さんはそれでもいいかもしれないけど、僕がどんな答えを出しても、僕たちはもう元の関係には戻れないんだよ」
「……っ!?」
ふっと顔を上げ、視線が合った。息を呑んだ相佐さんの顔が、じっと僕を見つめる。
「当然じゃないか。相佐さんが僕のことを好きだと言った以上、もう『友達』にはなれない」
「そ、そんなつもりで言ったわけじゃ……」
訴える声を、僕は残酷な言葉で遮った。
「だってそうじゃないか。僕が頷けば『恋人』だし、断ったとしても今までと同じように接せると思ってるの? つまり相佐さんは僕たちの関係を壊したんだよ。今のままじゃ満足できないから、自分の都合だけで僕との繋がりをすべて壊した」
「違う、違うよ! 私はアキ君との関係を壊したかったわけじゃない!」
ここまで言えるのは、相佐さんが僕のことを嫌いにならないと、信頼しているからなんだろうなぁ。
そして相佐さんの言葉を否定する的確な要素が浮かばず、ぶっちゃけ自分でも何を言っているのかが分からなくなってきた。きっと相佐さんに告白されたことで脳内が幸せいっぱいの楽園状態と化し、いつも通りうまく思考が巡らないのだろう。うん、そういうことにしておこう。
限界だった。これ以上イジメちゃうのは罪悪感を通り越して普通に悪人だし、あまりにも可哀相だった。普段は奥手な相佐さんだから、告白してきただけでもいっぱいいっぱいな状況だろうし。
「くくっ……」
そして顔の筋肉の方も限界だった。先ほどから嬉しさが飽和状態に達し、綻びを隠し通すのが辛かったりする。自然と笑いが零れ出た。
「あ、あの、アキ君?」
「ああ、ごめんごめん。泣き顔の相佐さんがあまりにも可愛かったから」
ポカンと呆気に取られていた相佐さんの顔が、次第に怒気を帯びていった。ただ、目尻が吊りあがっただけで、口内を膨らませて、プンプンといった擬音語が似合いそうな勢いのものだったけど。
「アキ君の意地悪ぅ。私は真剣だったのにぃ」
「だからごめんって謝ってるじゃないか。いやあ、ちょっと落ち込む相佐さんの顔も可愛かったなあ」
可愛いと言われて照れる相佐さんの頭を、わしゃわしゃと撫でる。そして一通り撫で終えると、僕は咳払いをして本題の結論を述べた。
「それで返事なんだけど」
「…………う、うん」
触れてはいないが、相佐さんの身体が硬直するのが分かった。まるで判決を待つ被告のように、直立不動でじっと視線を地面へ落としている。
「ごめん。悪いけど、相佐さんとは付き合えない。と、振ってみる」
「…………………………」
一瞬だけ小刻みに震えると、俯いたまま動かなくなってしまった。
期待も諦めもない表情を地面へ落としながら、小さな唇を開く。
「……そっ……か」
「だから!」
うわっ、恥ずかしっ! 勢い余って、選手宣誓みたいな大声になってしまった。
「今度は僕から告白する。相佐さん、付き合ってください」
「えっ…………」
驚きの表情とスピードで顔を上げた。その目尻には小さく涙が溜まっており、乱反射した夕陽を浴びて輝きを増している。ちょっと悪いことをしたと思うも、これだけはどうしても譲れない。譲れるわけがない。
頭の中が真っ白になる。興奮による熱が脳内の分泌成分を沸騰させているのか、空白の脳裏に雑音が混じり始めた。真っ白になった思考に、黒い線のようなノイズが走る。
「実は僕も相佐さんのことが好きだったんだよ。だから僕からも告白したかった。先を越されちゃったけど、これだけは譲りたくない」
「なに……それ……」
照れ隠しに破顔させる表情がまた可愛い。茜色の光が映し出す僕の好きな女の子は、どの世界のどの宗教の神々よりも、神々しく見えた。
「ばか…………」
嬉しさを隠しきれず、小さく笑いだす相佐さん。っていうか、相佐さんが僕に対して罵声の言葉を漏らしたのは、これが初めてかもしれない。好きな子の違う一面を目の当たりにできて、僕らの関係が少しずつ進んでいこうとすることに、少なからず喜びを覚える。
……違う一面?
ああ、なるほど。だから相佐さんは告白してきたのか。
僕の隠された一面、あの大量の『虫』の死骸を見たからこそ、想いを伝えられずにはいられなかったのかもしれない。感情の脈動だ。心に闇を抱える弱い僕を守ってあげたいという相佐さんの母性本能が、好きという感情とともに表層へと流れ出たのだろう。好きな相手の弱い部分は、時には女性を優越感で酔わす。特に男性経験があまりなく、その相手に一筋という純真な女性にとっては。
「それじゃあ私も嫌だな。私もアキ君を好きなことは譲れないから、ごめんなさい。そして好きです。付き合ってください」
「いやいやいやいや、何言ってるんだ。それこそお断りだよ。何が何でも僕が想いを伝えたことにしたい。付き合ってください」
「もー」
あーあーあーあー、分かってるよ。自分たちが気持ち悪いくらいのバカップルだってな!
雑音だらけの脳内は、ついに上下左右が反転するようにグルグル回り始める。メリーゴーランドのようなゆったりとした回転ではなく、回し過ぎたコーヒーカップにも負けないくらいの回転率。そして経験者は必ず後悔する、アトラクション終了後の猛烈な吐き気が襲った。
風邪のような症状かもしれない。知恵熱で沸かされた僕の脳みそは、悪性ウィルスを退治できる温度まで上昇して吐き気を催す。
幸せなのに、気持ち悪かった。
幸せすぎて、気持ち悪かった。
不幸な背景を塗りつぶすほどの幸福は、僕に何をもたらしてくれるのか?
いつの間にか、相佐さんと眼が合っていた。満面の笑みは紅潮し、オレンジ色の幸せオーラが肉眼で見えるほど。いやいや、これはただの夕陽か。
「アキ君……!」
幼子のような無邪気な笑みで、相佐さんが僕に飛びついてきた。手に入れた幸せを、温もりとして全身から実感したかったのだろう。その気持ちは大いに分かるし、恋人は恋人らしく……いや、バカップルはバカップルらしく、往来のど真ん中で抱き合おうが知ったこっちゃないさ。
だけど――君は大きな失態を犯したね。
周りが見えていないほどに、僕に夢中になっていたのはとても嬉しいけど……。
僕は迫りくる相佐さんから遠のくように、一歩引いた。
同時に身体のバランスを僕に預けようとしていた相佐さんは、そのままガッチャーンと機械的な騒音を立てて、前のめりに倒れる。
僕と君の間には、自転車で区切られていたんだよ。このまま飛びつかれたら、自転車の質量も僕が支えることになり、とても重いじゃないか!
倒れた自転車がカラカラと乾いた音を立て、その上で僕の彼女がひどい有様で寝ころんでいた。
あ、相佐さん、大丈夫!?
「ふむ、白……か」
「うわーん、避けるなんてひどいぃ。しかも言葉と独白が逆になってるぅ」
捲れたスカートを直そうともせず、先ほどとは段違いの涙目で僕を睨み上げる。いいじゃないか、そのふくよかな胸がクッションとなって、怪我なんてしてないだろ?
とは思いつつも、自分の彼女がアホな露出狂と思われるのも嫌なので、素直に手を差し伸べてあげた。なによりも、相佐さんのパンツは僕だけのものなんだから、誰の眼にも触れされるわけにはいかないし。っと、そこ、相佐さんのパンツは相佐さんだけのものだろ、ってツッコミはいらないから!
なにはともあれ、こうして僕と相佐さんの関係に変化が生まれた。僕たちが付き合うことにより、周りの環境も少なからず変わってくるだろう。それらがどのような方向に倒れるのか、幸福が訪れるのか、不幸が訪れるのかはまだ分からない。
黄昏の夕陽の中を歩き、僕は相佐さんを家まで送って別れた。
とても充実した一日だった。これほどの心の高揚は、日々の日常を幸せに感じられなくなる危険性があるけれど、相佐さんと恋人になれたことは、その危険性もゴミに見えるほどに大きな出来事だった。
幸せだ。
幸せなはずなのに――。
「…………?」
何だろう、このノイズは。頭の中を砂嵐が縦横無尽に吹き荒れ、それにより小さいながらも頭痛が発生する。まるで映らなくなったアナログテレビを、斜め上から叩きつけて無理やり直そうとしているように。
いや、その例えを記憶に置き換えると、まるで意図的に忘れていたはずの記憶を、無理やり思い出そうとしているかのように、砂嵐の隙間から、白黒の映像が見える。
これは、何だ?
僕は何を、忘れている――?