09
上層フロア、四階。
エレベーターの扉が開き、私はそこへ到達しました。
ガラス張りの展望スペースから見える景色は、二階の眺めとも三階の臨場感とも違う、幻想的な眺望です。普段は体験することのない高度から見る夜景――ガラスを通して、誰にも邪魔をされずに見渡せる、B市とA県の暮らしのカケラ。
一体、どれほどの人が、あの明かりの下で暮らしているのでしょう。
地平世界とは比べものにならない平和を享受しながら。
「あ――」
少し離れた床に、場違いに穴が開いていることに気づきました。
視線をやると、直上の天井にも穴があり、金属の弾丸がわずかに見えました。
複合魔法。
向日葵ちゃん、常盤さんと協力して、轟音を響かせながら〈阻害魔法〉を破壊した一撃。その証拠が、ここに生々しく存在していました。
改めて床面を見ると、確かに二階と同じ材質の石に、魔方陣がきざんであります。これが、〈阻害魔法〉――だったもの。
今は破壊され、この場所には魔力の気配も、魔法の結果も、なくなってしまっています。
「――」
周囲を警戒しながら、私は、五階へと向かう内階段に向かいます。
物陰や天井から、機械の敵が襲ってくる様子はありません。
ここまで来ればクロミ自身が相手になる、ということでしょう。
この内階段は、中層フロアと違って来場者が利用しないため、その入口に飾り気のない扉が取り付けられています。
私は、その扉を静かに開けました。
一瞬の警戒の後、その中に歩み入りました。
見当をつけておいた壁面にスイッチを見つけて操作すると、古びた蛍光灯が狭い階段を照らし出してくれました。
それを一段ずつ上ります。
かつん、かつん、と響く靴音。
他に物音のない空間に、反響する私の歩み。
やがて。
目の前に現れた、先程と同じ扉を――。
開け放ちました。
抱えたペットボトルの中で、水がとぷんと音を立てました。
私に残された水は、これだけ。
その音を、玖郎が背中を押してくれたとイメージしてみます。
――瑠璃、行くぞ――。
「――」
私は、五階に一歩踏み出しました。
冷たい風が吹き付けて来ます。
高所かつ屋外にも関わらず、周囲に設置された転落防止の手すりは細くて頼りない気がします。
手すりの他にあるものと言えば、電波塔としての資機材が設置されているコンクリートの小屋と、ここからさらに空へと伸びる鉄塔とアンテナ。
そして。
台座に置かれた、白く輝くターゲットジュエルと――。
その前に立ち塞がる〈闇の魔法少女〉クロミ。
彼女は、いつもと変わらぬ、黒革とシルバーアクセサリーで構成された衣装に、顔の上半分を覆う鈍色の仮面を身につけていました。
私と変わらぬ年格好にも関わらず、こちらに向けて吹き付けるような殺気を隠しもせず――彼女は待ち受けていました。
黒い髪が、風に吹かれて舞っています。
私の青い髪が、風に遊ばれて肩を叩くように。
風が吹き抜ける五階の端と端で、私達は向かいあいました。
「クロミ――」
「意外ね。水のお姫様が一番。しかも、たった一人でなんて」
クロミは、そうやって口を開きました。
「〈阻害魔法〉は破壊しました」
「うん? ああ、〈保護魔法〉にイタズラする魔方陣のことね。素敵なネーミングね」
あはは、とクロミは笑い声を上げました。
「もう少し困ってくれると思ったんだけどな。あっという間に壊されちゃった。さっきの停電と轟音が関係してるんだよね。一体、どんな魔法を使ったのやら」
クロミは、そう言って肩をすくめて見せました。
彼女は、シーナタワーの中で起こっていることを把握していないのかもしれません。私が一人で来ることも、複合魔法のことも知らないとすれば――いえ、演技である可能性も捨てきれません。
「私達は魔法を取り戻しています。もう良いでしょう? 邪魔をしないで、私にそのターゲットジュエルを取らせて下さい」
私は、無駄と知りながらも、そう声をかけずにはいられません。
玖郎であれば、問答無用で先手必勝と言うでしょうが。
クロミがここにこうして立つ理由が、地平世界の革命であるなら、私とクロミが目指す方向は、違っていても似ているはずなのです。
「王位継承試験はこれで終わりです。あなたも、もう終わりにして下さい。できるならば、私と一緒に――」
「本当に、あなたは優しいよね」
私の言葉は、クロミの声に遮られてしまいました。
やはり、彼女には届かない。
「私はあなたに救われたことがある――って話したことあったよね?」
しかし、開戦に備えて身構える前に、クロミは話しはじめました。
周囲への警戒を忘れず、時間稼ぎである可能性を頭に置きながら、私は聞くことにします。
「〈女王候補〉達がこの世界に来てすぐの頃よ。あなた、木の枝から下りられなくなった猫を助けようとしていたでしょ?」
それは、四月のはじめ――この地球世界へやってきて、椎名小学校に転入する、まさにその日のことでした。
しかし、その語り出しは、私が予想していたものとは違いました。
水の領土の貧民街では、ない――?
「魔法も使えず、助けも呼べず、ただおろおろと歩き回っていただけだったけどね。ふふっ。そんな様子を見て、私は思ったんだ」
クロミは、静かに、しかし重たい口調で言いました。
「ああ、〈女王候補〉は、とっても優しい、とっても良い子なんだ。私が憎む、あの地獄のような世界を作った張本人でも、そこで安穏と暮らす極悪人でもないんだ、って思い知らせてくれた」
そして、クロミは言いました。
「これから私がやろうとしていることが、どうしようもなく悪であることを、思い知らせてくれた」
その時を思い出したのか、本当に肩の荷が下りたかのように、クロミから余計な力が抜けたのがわかりました。
「それでようやく、自分が正しいと信じる必要がなくなったわ。私は、私の目的のために悪を為す。あなたたちを殺そうとする私が、正義じゃなくて良かった――」
信じられない押し付けられた正義ではなく、悪を為すことで悪を駆逐しようとした――それが、彼女の覚悟の形。
それが、クロミが私に助けてもらったという内容なら――。
彼女は――『彼女』ではない。
「どうしちゃったんだろうね。これまでずっと問答無用だった私が、余計なことをべらべら喋っているなんて。ここに来たのがあなただったからなのか、これが最後だからなのか」
そう言って、ふふふ、とクロミはもう一度笑いました。
「クロミ――」
「こうなれば、言葉は無用。後は、やるべきことをやるだけだ」
クロミは、大袈裟に深呼吸して見せました。
そして。
「私は、私の大切なものを守るため、悪を為す。――お前を殺して、あの世界をぶち壊す!」
クロミの叫びが、夜気を震わせました。
その気迫を受けて――。
私も、覚悟を決めます。
あなたが私の目的に立ち塞がるなら。
クロミの理由が、動機が、覚悟が例えどんなものであるとしても――。
「負けてあげる訳にはいきませんっ! ――〈操作〉」
私はペットボトルを振り、手持ちの水を全て空中へと放ちました。魔法を使い、その水を宙に留めます。水をいくつもの球状に分割し、私の身体の周りを旋回させます。
これで、タイムラグなく水を補給することができます。
不要になった空のペットボトルを、投げ捨て――。
「――はあっ!」
クロミが地を蹴り、こちらへと走り始めました。
彼我の距離を、一気に詰めてきます。
「――っ!」
私も、ここで待ち受けるつもりはありません。
身体を沈め、重心を低くして駆け出します。
一歩、二歩。
風を切る音が耳に響き、髪と衣装が後ろへ引かれます。
三歩。
投げ捨てたペットボトルが、地面にぶつかり音を立て――。
「〈生成〉っ!」
クロミの声と同時に、空中に三つの岩が現れました。
出現した勢いをそのままに、こちらに向けて放たれます。
私の進路を塞ぐ一つと、回避の軌道を先回りする左右一つずつ。
私は、ひるむことなく加速します。身体を低くして、最初の岩の下をくぐり抜けます。続けて、残り二つの間を走り抜ける――勢いを殺さずに走るのが、クロミへの最短距離なのです。
「もう一つ、〈生成〉!」
私の動きを予想していたのか、地面を掠めるように五本の氷の槍が飛来します。
岩と氷。本来ありえないはずの、複数の属性を操る魔法。
そう見せかけて、クロミが叫ぶ〈生成〉の呪文はまやかしです。その実態は、他の魔法使いの協力により成り立つ〈開門〉を使った他属性召喚なのです。
それは、玖郎が見破ったカラクリです。
対処法は、格納した他属性を放出させ切ること――残弾切れに追い込むことです。
私は体勢が崩れることを気にせず、コンクリートを蹴って跳躍します。
飛来する第二波の氷槍が、空中の私を貫こうと――。
「〈操作〉」
魔法に応え、圧縮した水が靴底から私を押し上げます。
空中に備えておいた水の一部を使った、〈操作〉による飛行です。
物理的にはありえないはずの空中での軌道変更に対応しきれず、槍は空を突いただけで飛び去って行きます。
「はははっ。凄いね」
笑い声を上げて、クロミも空中へと飛び上がりました。
彼女が本来持つ属性である、雷による飛行――身につけた金属を、磁力で操ることで、音もなく、予備動作もなく実現される飛行です。
可能な限り低く飛ぶ私に対して、高度を取るクロミ。
私達の軌道は、間もなく交錯します。
「それじゃあ、これは?」
クロミは、何かを振り払うように右腕を動かしました。
その動きに連動して出現したのは、釘です。
何十本という数の釘が列になり、クロミを中心とした球の周囲に配置されたのです。その一本一本が、釘としては見たことのない長さを持ち、鈍く光っています。尖った先端は、幾何学的な模様のように、球の外側方向を向いて――。
ピリッ、と釘に雷光が走りました。
――いけません。
「――っ!」
脳裏に飛来した瞬間の連想に身を任せて、飛行の軌道を鋭角に変更しました。
まさにその瞬間、消えたと錯覚する速度で打ち出された釘が、コンクリートに深々と突き刺さっていました。
クロミは、雷を操作することで、金属である釘に磁力を与えて、瞬間的に加速したのです。
「良く避けた! でも、次はどうかな?」
二度、三度と、クロミが腕を振ります。
その動きに合わせて、釘の列が二列、三列と空中に描かれます。
その方向は、たくみに広い空間をカバーしています。
「突き刺され!」
「〈操作〉っ!」
私は、叫ぶと同時に、両手を打ち合わせました。
私の周囲を旋回していた水の半分を使い、傘状に広げます。両手の打ち合わせは、水のエネルギーを奪い、瞬時に氷結させるために訓練した動作でした。
透明な水が、一瞬で不透明な氷に変化するのと、射出された釘がそこへと突き刺さるのが同時。
私は、その氷をそのままクロミへと打ち出します。
「――ちっ!」
クロミは、下方向から眼前に迫る氷塊に、回避行動を取ります。私から見て、右方向――。
「〈操作〉!」
圧縮した水の弾丸が、再度釘を用意しようとしていたクロミの腕を弾きます。
その発射位置は、クロミの予想よりもはるかに彼女に近い――。
「氷に隠れて――っ!」
そうです。攻撃に見せかけた氷の傘は、そのまま私を隠して接近させるための隠れ蓑だったのです。
クロミは、弾かれた右腕をそのままに、左腕を――。
その前に、私の右足がその動作を蹴り返します。
「――この」
「〈操作〉っ!」
至近距離。
クロミの両腕は弾かれ、腹部を守るものはありません。
用意したのは、水の弾丸を三発。
狙いは額、喉、心臓。気絶させます――!
「〈生成〉っ!」
クロミの叫びが一瞬早く、炎の渦が生み出されます。
慌てて水の弾丸を打つも、壁となった炎に触れる端から蒸発してしまいます。
一つにまとめて圧縮しておけば、炎の壁を抜けたのに――。
後悔している時間などありません。
炎はそのまま、私を焼き尽くす攻撃へと転化します。
「くうっ!」
後方へと飛び下がりながらも、迫る熱にうめき声がもれます。
シーナタワー五階の床面を削るように、後ろ向きに着地します。
なんとか距離をとったと安堵する間もなく、炎の中心を切り裂くように現れるクロミ。
炎に隠れて、接近された――。
「はああああっ!」
クロミの手には、凶悪な歪さを持つ金属の剣が握られています。
その刃を振りかぶりながらも、三列の釘を用意するクロミ。
全ての釘に雷光が走り、同時にクロミは回避先へと刀を振り下ろす――。
「――っ!」
私は、息を飲みました。
回避可能な軌道は存在せず、氷の防御は釘を防げても次の剣を防ぎきれません。用意した切り札のいくつかが頭をよぎります。ここは――。
「〈開門〉っ!」
私の声に応えて、魔法の扉の向こうから切り札の一つを喚びます。
現れたのは金属の鏃です。
その数は五。
以前、〈開門〉を使った他属性格納について、検証実験を行った際、協力してもらった向日葵ちゃんの魔法を、こっそり確保しておいたものなのです。
時間差で鏃を放ちます。二つは釘の列を乱し、一つはクロミに回避され、一つはクロミが振るう刀身に払われ――。
「ちっ!」
最後の一つが、クロミに後退を余儀なくさせました。
入れ代わるように打ち出される、三列の釘。
その一部は乱したものの、脅威は健在です。
「〈開門〉!」
再度唱えるのは、扉を開く呪文です。
両足を踏み締め、次に取り出すのは常盤さんの風。
圧縮した空気の弾丸です。
ありったけの空気弾を連射することで、飛来する釘と私とを結ぶ線上に弾幕を張り、攻撃を無効化してしまいます。
はじき飛ばされた釘が、ぱらぱらと散らばる音が響きます。
危なかったです。
今の攻防で、私が確保しておいた土と風の残弾はゼロになってしまいました。
加えて、私の周囲を旋回し続けている水の補給も、半分以下です。
長期戦はこちらに不利です。
ならば――。
「ここで決着をつけます!」
強く一歩を踏みだそうとして――。
がくり、と。
右足が持ち上がらずに、体勢を崩してしまいました。
「――」
自分の身体が、意志に反して動かない感覚。
とっさに視線を送った右足には。
――足の甲に、深々と一本の釘が突き刺さっていました。
「は――」
現実感のない光景に、思考が停止しようとします。
先程の攻撃を処理しきれなかったのか、それとも、一本だけ別のタイミングで放たれたのか。
戦いの集中と興奮のせいで――痛みが、遠い。
床に縫い付けられ、足が動かせないという事実だけが、強固に存在を主張しています。
「これで終わりだ!」
声に顔を上げると、信じられない程近くにクロミがいました。
仮面の奥の瞳が、暗い光を宿してこちらを見下ろしています。
右手は剣を振り上げ終えていて、いつでもこちらに――。
「――」
攻撃も、防御も、回避も。
間に合いません。
玖郎――。
目の奥に焼き付いたのは、閃光でした。
一瞬の後――。
永遠にも思えるその刹那が終われば。
その閃光に、轟音がともなっていることが認識できました。
炎。
そうです。それは、生み出され続ける業火でした。
容赦なく、間隙なく、慈悲もなく猛る、あらゆるものを等しく灰へと返してなお止まらない炎。
――茜の、炎。
「私の親友をよくも――」
全身から怒りの陽炎を立ち上らせて。
茜が立っていました。
私をかばうように。
クロミへと向かっていました。
「茜」
私の呼びかけに振り返らないまま、彼女は前を見ています。
「瑠璃。あとは私がやる」
そう言った時には、茜はクロミへと飛び出していました。
「クロミいいぃぃぃ――!」
茜の叫び。
飛行のために生み出された炎の余波が、私に吹き付けました。
熱波の向こうに、衝突する茜とクロミが見えます。
身体を飲み込むほどの炎。
追撃を阻む岩と氷。
幾重にも打ち出される金属の凶器。
その全てを蒸発させる火炎の壁。
振り下ろされる剣が描く曲線と、握られた拳が描く直線。
何度も繰り返される攻撃と防御。回避と追撃。魔法と魔法。
息つく間もなく続く、命の奪い合い。
「無事か?」
かけられた珊瑚くんの声は、私を気遣かったものでした。
「私は大丈夫です。茜のところに行って下さい」
そう返す私の声色は、自分でも分かる程に冷たいものでした。
茜が、私の命を助けてくれたことが。
珊瑚くんが、声をかけてくれたことが。
その余裕と優しさが。
――たまらなく、悔しい。
なぜなら、二人がここにいると言うことは――。
「そうか……。無理するなよ。――〈靴〉」
クロミの雷撃に、一瞬の隙を作った茜――その間に、魔法の移動で割り込み、珊瑚くんは〈盾〉で追撃を無力化しました。
次の瞬間切り返す珊瑚くんの〈剣〉は、茜と連携したものでした。
激しさを増す攻防。
クロミは惜し気もなくあらゆる魔法を放ち。
茜は、〈騎士〉とともにそれを迎え撃つ。
「私は――」
こんなところで立ち止まっている訳には――。
覚悟を決め、声にならない気迫を放ち、私は右足を持ち上げます。
返って来たのは、取り返した自由ではなく、激痛と出血、それでも身動きできないという事実。
「ううっ――」
釘には、金槌で叩かれるための頭が着いてます。
その広がった部分が邪魔をして、足を抜くことができません。
痛みに急速に萎えて行く気力を、気迫だけで留めます。
思考を止めるな――。
「っ――!」
邪魔だと思った釘の頭に指をかけ、引き抜きます。
しかし、その動作のために踏み締めたい右足が痛みで利かないのです。釘の頭も、指をかけるには小さすぎます。加えて、釘は床のコンクリートまで届いており、とても手の力だけでは――。
足が貫通されているという事実をどうしようもなく理解し、嫌な悪寒が背中に走りました。震える自分の身体を抱いて座り込んでしまいたい衝動が、思考を塗り潰すように広がります。
思考を、止めるな――。
「――〈操作〉」
残った水を集めて、目の前に浮かべます。
届く範囲の床面に手を伸ばし、砂利をかき集めて水に入れました。それから限界近くまで圧縮し、円盤状に押し潰します。
それから、回転を与えます。
可能な限り、速く。
――ウォーターカッター。
玖郎が教えてくれた、水の応用魔法。
これなら、金属だって、容易く切断できる――。
「きゃ――ぐうっ」
引き抜くのに邪魔な頭を切り取ろうと、ウォーターカッターを動かし、それが釘に触れた途端――これまでとは比べものにならない激痛が走り、悲鳴を噛み殺しました。
カッターの切断力と同じだけ、回転とは逆方向の力が、釘にかかってしまうのです。床に突き刺さった釘が、その力をテコの原理で増幅し、私の足に伝えているのです。
視界が、反射で浮かんだ涙に歪みます。
できることなら、足も、釘も、もう見たくないのに――。
「それでも――」
深呼吸します。
大きく、三回。
そして息を止めました。
「――――っっ!」
一息に動かした魔法は、釘の頭を切り飛ばしてくれました。
激痛が続くうちに、手の力で持ち上げるようにして、右足を上げました。
広がる出血は、液体であるのを良いことに、〈操作〉で止めてしまいました。
床に突き刺さったままの釘は――見たくもありません。
「はあっ、はあっ――」
荒く息をつき、顔を上げます。
戦いの状況は――。
まさにそのタイミングで。
「〈生成〉っ――!」
茜が放った灼熱の火球が、クロミの顔面に着弾しました。
全てを焼き尽くす茜の炎を、珊瑚くんの〈操作〉を使って収束させた一撃です。
その爆発的な攻撃力は、間違いなくクロミの頭部を吹き飛ばして――。
「私の勝ちだっ!」
茜が、声を上げました。
誰もが決着を予測した瞬間――。
無傷のクロミが、必殺の一撃を構えて、死角から茜へと迫ったのです。
「だめだ、茜っ!」
その事実に目を疑いながらも、唯一行動できたのが、珊瑚くんでした。
「――珊瑚っ!」
茜の悲鳴が響きます。
回避不可能な一撃から、珊瑚くんが身を呈して茜を守ったのです。
珊瑚くんは、頭から吹き飛ぶように宙を舞い、床へと叩き付けられました。
クロミの攻撃は、圧縮した空気の放出でした。轟音とともに解き放たれる、大気を揺るがす一撃。
あれだけの衝撃が、頭部に直撃したとすれば――。
茜の視線が珊瑚くんを追ったのは一瞬。
しかし、その視線をクロミへと戻した時には。
「終わりだ――。〈生成〉」
茜の目の前には、右手をかざしたクロミが立っていました。
必殺の間合い。
次の瞬間、放たれたのは、大瀑布を思わせる大量の水。
クロミによって生み出された流れは、あらゆるものを飲み込み、自然の法則に従って、下へ下へと、全てを押し流してしまいます。
眼前に現れた激流に、抵抗する術なく茜は飲み込まれてしまいます。
一瞬の水没――そこから、炎の反動を使って茜が飛び出しました。
しかし、危機を逃れたはずの茜の表情は、絶望に染まっていて――。
「珊瑚っ! 嫌っ!」
そうです。
この攻撃は、茜ではなく、珊瑚くんを狙っていたのです。
意識を失っている珊瑚くんは、この流れに逆らう術もなく、この高さから落ちてしまう。
助けだそうにも、濁流に飲み込まれた珊瑚くんの位置など――。
「王族の首、とった――!」
クロミが叫びを上げました。勝利を確信して――。
――それは、早すぎます。
「〈操作〉」
私の声とともに、クロミが放出した大量の水は、はじめから存在しなかったかのように、唐突に消失しました。
珊瑚くんは、五階の端で、手すりに腕をからめるようにして止まっています。
「なんとか間に合いましたね」
私の声に、クロミと茜がそろってこちらを向きました。
「瑠璃っ」
「――ちっ」
二人の視線を受けて、私は足を踏み締めました。
右足の痛みすら、この二人に打ち勝つための力にするのです。
状況の急変が連続したせいか、茜もクロミもすぐには動かないようですね。あるいは、さすがの二人も、息を整えるだけの時間が必要なのかもしれません。
「クロミ、水を出したのは失敗でしたね。〈開門〉から投げつけるだけの攻撃を、後からでも〈操作〉が可能な私の前で使うなんて」
私は、すぐに戦闘再開の気配でないことを確かめてから、クロミに向けてそう言いました。
「珊瑚くんを狙った――そう見せかけたかったのですね?」
「え?」
私の言葉に、疑問の声を上げたのは茜でした。
「先程の一瞬は、端から見ていた私には明確でしたが、茜の命を狙うべき一瞬でした。茜の心理的死角をつき、自分の間合いに捕らえた、そんなチャンスに、どうして動けない珊瑚くんを狙ったのですか?」
私の言葉に、クロミからの答えはありません。
「炎よりは水、だったのでしょう?」
その言葉に、仮面の下に見ているクロミの口の端が、わずかに動きました。
「あなたは、〈開門〉を唱えた後で、残った他の属性が火と水だけだと気づいた。相手の属性を使用しないという条件で、私と茜を相手に連戦したなら、当然そうなります。あなたは、必殺の瞬間に、茜に対して炎を使うことをためらった。だから水を選んでしまった。結果として珊瑚くんを押し流すことになりましたが、同時に私が助けに入ることができました」
「それを――」
ようやくクロミから反応がありました。
「それを、得意気に披露して、それでどうするの?」
相変わらずの芝居がかかった仕種で、両手を広げてさえ見せました。
「私の〈開門〉の中が、わずかな炎だけだとして、それがどうしたって言うの?」
「――もう終わりにしてください」
私は、もう一度、そう言いました。
いいえ。
彼女が足を止めれば、私が話すタイミングがあれば、何度でも言うでしょう。
「は? またそれ? あんた、本当に優しいよね。本当に――」
彼女は、低く響く声で続けました。
「その優しさは、残酷だよ。分かってる?」
そして、叫ぶ。
「私は、何があろうと、例え死ぬことになっても、絶対に足を止める訳にはいかないんだよ! あんたの優しさがどれだけ嬉しくても! 引き裂かれるほどに甘えてしまいたいと思っても! 絶対にだっ!」
感情に誘発された雷撃が、クロミの周りに放たれました。
否の応えが返ってくることは、予想していました。
彼女には止まれない理由がある。
自分の命より大切な目的がある。
私に、それがあるように。
彼女にも。
だから――。
私は宣言しました。
「あなたが止まれないというなら、私があなたを止めて見せます」




