05
【瑠璃】
シーナタワーの地上フロアと中層フロアを結ぶエレベーターは、眺望を目的として片側がガラス張りになっています。
上昇を始めたエレベーターの中から、地上フロアに残った翔さんと綾乃さんが見えています。
金属のパイプを構え、私たちに対しては一度も振るわなかった武術を使い、飛びかかる機械の獣を退ける翔さん。
右手の引き金を弾き、左手の電話で指示を出しながら、火花とともに敵を無力化し続ける綾乃さん。
二人の死角を補うように、遠く離れた彼方からの援護も続いています。
「翔ちゃん……」
私と同じように、急速に離れていく地上を見つめながら、向日葵ちゃんがつぶやきました。
「――」
一方で、常盤さんは、静かに遠くを見つめています。残してきた二人を敢えて見ないようにしているようでした。
行動こそ違いますが、向日葵ちゃんも常盤さんも、きっと考えていることは同じでしょう。大切な〈騎士〉を残して、それでも前に進む二人の胸のうちを思うと、私自身がその立場に置かれたかのように苦しくなります。
いいえ。
考えてみれば、これは間もなく私の身にも起こることです。
なぜなら私は、玖郎を置いて地平世界へ――。
「二人とも、気をつけて……」
そんな茜の声は、エレベーターの上昇によって視界から外れてしまう二人に向けられたものでした。
翔さんも綾乃さんも、危なげなく戦っていました。あの様子なら、きっと大丈夫――。
そう思った矢先。
私は、それを見つけてしまいました。
地上に残した二人を囲む、金属の獣の群れ。その包囲網の外側の闇に、その何倍もの数の赤い光があることを。
そんな。
いくらなんでもその数は――。
「っ――」
声を上げかけたその時、私の肩に手が置かれました。
玖郎の手でした。
玖郎は、何も言わぬまま小さく首を横に振りました。
ああ、玖郎もあれに気付いたのです。
でも、それならどうして――。
いいえ。
玖郎が正しいのです。
ここで声を上げても、何もできないのですから。
いたずらに向日葵ちゃんや常盤さんを心配させることできません。
「確認ですが、最優先の目標は〈阻害魔法〉発生装置を破壊すること。クロミとの戦闘はその後です」
話しを始めた玖郎に、茜と珊瑚くん、向日葵ちゃんと常盤さんが、顔を上げました。
その言葉は、倒し切れぬ敵が迫る地上に注意が行かないようにするものだったのかもしれません。
「瑠璃の目撃情報から、発生装置は上層フロアにあると予想できます。ただし、装置が小型ならクロミと一緒に移動している可能性もあります」
「それは最悪ね」
常盤さんは、つぶやいた後に、しまったという顔をしました。失言だと思ったのでしょうか。
綾乃さんを置いて来た事が、本人が思う以上のプレッシャーになっているのかもしれません。
「その場合の基本的な戦略は、クロミの死角から意表を突いて発生装置を壊すことです。僕が気を引きますから、攻撃をお願いします。まあ、状況に合わせて柔軟に、臨機応変に行きましょう」
難しいことはないという口調で玖郎が言いました。
本当にそのような状況になったなら、絶望的とも言えるでしょう。それでも、今、心配しても仕方がありません。細かい状況が確定しなければ、対策の立てようがないからです。
「クロミは、いつものパターンで言えば、上層フロアの屋上――五階のターゲットジュエルの前で待ち受けているでしょう。これも、外れる可能性はありますが」
「このドアが開いたら待ち構えていたりして」
「笑えないからやめろよな」
茜と珊瑚くんのやりとりにも、いつもの元気がありません。
「クロミはともかく、各フロアには先程の機械獣のような脅威が待っているはずです。気を引き締めて行きましょう」
皆が、静かに頷きました。
「さあ、中層フロアです」
玖郎のその言葉を待っていたかのように――。
ポン、と響いた平和な音とともに、エレベーターの扉が開きました。
「――っ。なんなの、ここ……?」
中層フロア――二階へと一歩を踏み出すと同時に、茜が息を呑んでつぶやきました。
無理もありません。
今まで感じたこともない、濃密な魔力がこの空間に満ちているのです。
この二階のフロアは、ドーナツ型のフロアの外側がガラス張り、内側に簡単な店舗があり、穴の部分がエレベーターホールになっているイメージです。
エレベーターを降りた瞬間から感じていたその魔力の濃さは、ドーナツ型のフロア部分に出ると、一層強まりました。
「何だ?」
私達の様子が一斉に変わったことに、玖郎が疑問の声を上げます。
このメンバーの中で、唯一地球世界の人である玖郎には、周囲の魔力が分からないのです。
「このフロア、信じられないくらいに魔力の濃度が高いのです」
「魔力――魔法が発動するためのエネルギーだな? 魔法使いの体内に蓄積するか、発動結果に変化しているはずじゃなかったか?」
玖郎が、特訓中に私が伝えたことのある内容を確認します。口では説明しにくい感覚ですが、その通り――この場合は、後者の発動結果ですね。
それにしても、一字一句違えずに覚えているのは、さすがとしか言いようがありません。
「その通りです。このフロアの魔力は――」
「これ、〈保護魔法〉だよ」
私の言葉を、茜が受け取って断言しました。
ええ、そうなのです。
これだけ魔力の濃度が高ければ、私にも――おそらく他の〈魔法少女〉も、珊瑚くんも――直感的に理解できます。
魔法によって生じた『火』を見て、『火』だと分かるように。
このフロアに満ちている魔力は、〈保護魔法〉が実現された結果なのです。
「ここから、〈保護魔法〉は生み出されて――生み出され続けているのか……」
珊瑚くんが、呆然とつぶやきました。
「どうなっているのでしょうか。茜の〈生成〉ですら比較にならないほどの魔法が、使われ続けているなんて……」
つられて、私も疑問をそのまま口にしてしまいます。
「装置、か」
考えついたというよりは、思い出したという雰囲気で、玖郎くんがつぶやきました。
「え? それは――」
確認しようとした私の言葉を遮る形で――。
「瑠璃ちゃん、〈魔方陣〉だよ。分からない? これ――」
声を上げたのは、向日葵ちゃんでした。
これ、と彼女の視線が示しているのは、足元の床……?
向日葵ちゃんは、そのまましゃがみ込んで、フロアの床に手の平を当てました。
「薄く加工した大理石かと思ったけど、違う。信じられないくらい純度の高い、〈魔水晶〉の一枚岩だよ」
ぞくり、と。
背筋が冷えました。
その瞬間まで理解できなかった、向日葵ちゃんのつぶやきが、唐突に焦点が合うように、理解できました。
この床は、間違いなく魔法を実現するための装置――〈魔方陣〉なのです。それも、私が見たことのないような、巨大で、精緻で、複雑な、理解を超えたものなのです。
ぱっと見ただけでは、向日葵ちゃんが言ったように、白色を帯びた大理石を加工した模様に感じますが――これは、そう見えるように掘り込まれた、無数の紋様。意識して、広い視野を保ってフロア全体を見渡さなければ分かりませんが――複数の円形と、無数の図形と、信じられないくらいの呪文が刻み込まれた、魔法の装置――。
「ん、なんだこれ?」
次に声を上げたのは、常盤さんでした。
「私、最近、雷の〈精霊〉と契約したんだよ。もともと風と雷は相性が良いし、小泉にアドバイスもらったからね。インフラ整備と電気は切り離せないって。だから、集中すると分かるんだけど――」
常盤さんの言葉は続きます。
「この〈魔方陣〉には、一秒間に何千とか何万とか、そういうレベルで電気が流れつづけているみたいなんだよ。繰り返し繰り返し、ずっと」
「ああ、なるほど」
玖郎が、静かに言いました。
「床一面に広がる〈魔方陣〉、それが刻まれた水晶、そして繰り返し流れつづける電気――〈保護魔法〉の正体は、実行され続けるプログラムと言う訳か」
ええと――?
玖郎には何かがピンと来たようですが、私にはさっぱりです。
そこで。
何か重大なことに気付いたように、玖郎が息をのみました。
「だとすると、〈阻害魔法〉は――」
その瞬間。
そのつぶやきが、私の耳に入り、脳まで伝わり、理解される――その一瞬の時間で。
私の中で、何か飛躍的な連想が働きました。
それが具体的に何か理解するよりも速く、分かったことが分かった感覚が、頭の中で爆発しました。
たぶん。
私も、玖郎と同じことを理解できました。
「っ――!」
その答えは、上に。
反射的に、天井を見上げて――。
だから、気づくことができたのです。
天井に張り付いた、巨大な怪物の姿に。
落ちて来る――。
「玖郎、上っ!」
叫びながら、後ろを振り向き、そこに立っている常盤さんと向日葵ちゃんに飛びつきました。
鈍色の巨大なハサミが、私の背をかすめて閉じ合わされる音。
床に投げ出される衝撃と、重量のある物体が乱暴に着地した衝撃がほぼ同時でした。
背後から攻撃が来るというプレッシャーに、硬直したがる体を叱責して前転、歯を食いしばって振り向きます。
着地の衝撃のせいで涙がにじむ視界に、それを――敵の姿を捉えます。
地上で相手にしていた機械の獣、それと全く同じ色をした、巨大な――フロアを塞ぐほどの大きさを持つ、機械のサソリでした。
床の〈魔方陣〉に気を取られている私達の上で、天井を這って接近していたのでしょう。偶然に上を見た私に気付かれたと認識すると同時に、天井から落ちてきたのです。
サソリと対峙すると、視界の大半が、威嚇するように振り上げられた二つの大きなハサミで埋められてしまいます。その奥で、無機質に簡略化された頭部に、いくつかの眼が赤く発光しています。頭部にそのままつながった胴体と、フロアに置かれた観葉植物やベンチを踏み潰す四対の足。一番奥では、凶悪な針を持つ尾が反り返って立ち上がり、私達に狙いを定めています。
体のどの部分も金属で構成されていてロボットのようなのに、一度動き出せば生き物としか思えません。
ハサミを振り上げたまま、昆虫じみた足を動かし、こちらへと迫ってきます。
「っ、向日葵ちゃんっ!」
サソリが振り上げたハサミの先は、動けずにいる向日葵ちゃんを狙っています。
私は、体勢が悪いまま、彼女の軽い体をぐいっと引きます。
ズシン、と重たい音を響かせて振り下ろされるハサミ。
なんとか、向日葵ちゃんは無事です。しかし、あんな力で振るわれる金属の塊は、凶器以外の何物でもありません。
「立って下さい! 常盤さん、手伝って!」
私の叫びに、巨体を見上げていた常盤さんが、なんとか反応してくれました。二人で向日葵ちゃんの両腕を抱えて、そのまま運びます。
とにかく、距離をとらないと――。
『瑠璃! エレベーターホールに戻れ。あの大きさなら、侵入できない』
「はいっ! ――常盤さん、エレベーターホールです」
右耳のイヤホンを通して飛び込んできた玖郎の声に、私は返事を返します。
良かった、無事だったのですね、と安堵する時間もありません。
私と常盤さんは進路を直角に変更し、半ば空中へ体を投げ出すようにして、エレベーターホールに飛び込みました。
「――っ!」
直後、私達を追うように鈍色の巨大なハサミが飛び込んで来ます。
息を飲みながら、向日葵ちゃんの衣装を引っ張ります。
しかし、落ち着いてみればその必要がなかったことに気づきます。
機械の刃は、若干の余裕を残して空を切るだけにとどまっています。ここまで届かないのです。
「どうやら、ここは、安全地帯みたいだね」
荒く息をつきながら、常盤さんがそう言いました。
玖郎の言った通り、サソリの巨体は――特にその大きな二つのハサミが邪魔をして、エレベーターホールには入れないようです。
先程から、ズシリ、ズシリと、サソリの体が壁とぶつかって重い音を立てています。執拗に片方のハサミをこちらへと伸ばして来ますが、届くことはなさそうです。
床の〈魔方陣〉に気を取られていたとは言え、ここまで巨大な敵の接近に気付かないとは、うかつでした。音もなく死角から忍び寄るサソリを想像すると、背筋に嫌な寒気が走ります。
――いいえ、違います。
さすがに、あの巨体が動けば気付くはずです。
サソリが落下してきた位置が、エレベーターホールのすぐ近くだということから考えても、『そこで待ち伏せしていた』と考える方が自然です。
エレベーターホールを塞ぐように落下し、退路を断ったドーナツ状のフロア内を追跡する――それが、クロミの狙いでしょう。
一瞬早く存在に気づけたから、なんとかその状況は避けられたといったところですね。
「玖郎、これもクロミの罠ですね?」
『間違いないな。無事か?』
こちらの応答を待っていてくれたのでしょう。玖郎の声が、即座に帰ってきました。
「はい。三人とも無事です。そちらは?」
『瑠璃の声がなかったら危なかったが、こちらも三人とも無傷だ。僕たちがフロアの特定の位置に来るまで、電源すら入らないレベルで隠れていたと考えるべきだな』
玖郎も、茜と珊瑚くんも無事、ですね。
私は小さく息をつきました。
「良かった。こちらこそ、玖郎からのアドバイスがなければ、フロアの中を走り回っているところでした。今、どこですか?」
『整備用の外階段の入口だ。タワーの外側を通って、上層フロアまで登る方だな。ただ、サソリの尾が目の前で動き回っていて、出るに出られない状態だ』
私は、事前に頭に入れたフロアの平面図を思い出します。エレベーターフロアの向かいの外壁に、階段につながる扉があったはずです。確かに、ここでサソリがハサミを動かしていると、ちょうど塞がれる位置ですね。
「この機械のサソリ、水帝宮のウミサソリより大きいよね。まったく冗談じゃない……」
「常盤ちゃん、瑠璃ちゃん」
座り込んで文句を口にした常盤さんの声に触発されたのか、顔色を悪くしたままの向日葵ちゃんが、私達の名前を呼びました。
「大丈夫、向日葵ちゃん?」
「うん。ごめんなさい、体が完全に固まっちゃって。私、サソリって、あの形が目茶苦茶苦手で」
「ああ、分かるよ。私も、イメージしただけで背筋がゾゾッとするよ」
「うん。突然だったし、頭真っ白になっちゃった。でも――」
向日葵ちゃんは、健気にも立ち上がり、あえてサソリの姿をにらみつけながら言いました。
「ありがとう。もう大丈夫。戦えるよ」
『問題ないようだな』
こちらの様子が、ある程度伝わっているのか、玖郎がそう声をかけて来ました。
「はい。これから反撃です」
私の答えを聞いて、玖郎は言いました。
『では、ここは任せる』
【玖郎】
僕のその言葉に。
瑠璃は、わずかの間を置いて、口を開いた。
『サソリと、〈阻害魔法〉ですね?』
そうか。
僕が思い至った答えに、瑠璃も到達していたようだ。
サソリはともかく、〈阻害魔法〉が出てきたということは、その位置が瑠璃にも分かっているということだ。
「そうだ」
『この後、しばらく通信できなくなりますけど、問題は?』
即座に次の質問が来た。
まるで僕が指示しようと思っていた内容が、分かっていたかのように。
「ない」
『確認ですが。この電話、茜達にも聞こえていますね?』
「そうだ」
――。
瑠璃が言った通り、携帯電話のスピーカー機能を使い、一時的にここにいる全員が瑠璃の声を聞くことができる状態にしている。しかし、その質問は――。
僕は、ある可能性に気づく。瑠璃は、僕がやろうとしていることを、完全に予想できているのではないか、と。
「瑠璃、みんな大丈夫? 三人でやれそう?」
待ちきれなかったように、茜が声を上げた。
僕の右耳に装着したイヤホンには、こちらの声を拾うためのマイクも付いている。普通に話せば十分、瑠璃には届く。
『茜、こっちは大丈夫。そっちこそ気をつけて。珊瑚くんも』
「わかった」
「ああ」
静かにかけられた瑠璃の声に、茜と珊瑚が答えた。
僕は、瑠璃の理解を試すために、次の質問を投げた。
「僕のペットボトルをここに置いておく。隙を見て補給してくれ」
『わかりました。――それでは、玖郎。みんなで上層フロアで合流しましょう』
僕が、瑠璃の反応を見るために放った一言にも、僕の期待以上の答えが返って来た。
「ああ」
本当に。
瑠璃は、こちらの行動を確信しているようだ。
彼女がすべき行動にしても、細かい指示は、全く必要ないようだ。
鋭く、速く、強い。
彼女はいつの間にか、こんなにまで――。
プツッ、ツー、ツー、ツー……。
僕たちをつないでいた電波の糸が切れた。
ここからは――。
「茜、珊瑚先輩。行きましょう」
そう二人に声をかけて、僕は歩き出す。
長い長い上り階段のはじまりだ。
「小泉。本当に、瑠璃達だけで大丈夫か? みんなで協力してあのサソリを倒した方が――」
珊瑚が、別の戦略を提案してくる。
しかし、その案はなしだ。
なぜなら――。
「問題ないです。それより、少しでも登っておきましょう」
僕は歩を進め、そう言いながら、目の前に現れた扉を開けた。
冷たい風が吹き付け、通り過ぎて行く。
シーナタワーの中層フロアと、クロミの待つ上層フロアとをつなぐ外階段は、ここから名実共に外となる訳だ。
金網でできた階段の各ステップと、頼りなくはられた金属の手すり、そして隙間から実感する高さで足がすくみそうになる。体勢を崩して手すりから身を乗り出せば、地上まで真っ逆さまだ。大人が作業する時でも、ヘルメットや安全帯の装着が義務づけられているに違いない。
気を抜けば震えそうになる全身を、意志の力で制御する。
階段を、また一歩、登る。
なぜなら――。
「すぐに瑠璃が、魔法を取り戻してくれます。そのタイミングで、クロミを急襲します」
【瑠璃】
『では、ここは任せる』
驚くことに。
私には、玖郎が何をしようとしているのか、分かってしまいました。
自分でも驚くような、次々と浮かんでくる連想が、一気に解答まで連れていってくれるような、不思議な感覚です。一つ分かれば、そこからするすると、色々なことが理解できてしまいます。
「サソリと、〈阻害魔法〉ですね?」
『そうだ』
玖郎がそう答えることさえ、ほとんど確信を持って予想できていました。
「この後、しばらく通信できなくなりますけど、問題は?」
『ない』
やはり、そうです。
玖郎と、同じことを考えています。
「確認ですが。この電話、茜達にも聞こえていますね?」
『そうだ』
『瑠璃、みんな大丈夫? 三人でやれそう?』
玖郎の答えに被せるように、茜の声が割り込んできました。
一つの事実が確定すると、予想でしかなかった世界が、確定されて見えてきます。
やはり、玖郎は――。
「茜、こっちは大丈夫。そっちこそ気をつけて。珊瑚くんも」
『わかった』
『ああ』
そんなやり取りが、自然と出てきました。
私は、すとんと納得してしまいました。
理解したと思ったこと。私だけが見つけた玖郎の笑顔の意味。そして、この玖郎と分断された状況。ここは任せるという言葉。
変な話ですが、自分が考えた内容に、私自身がついていけない気がしてしまうほどです。
『僕のペットボトルをここに置いておく。隙を見て補給してくれ』
あ、この一言は、玖郎くんからのテストです。
きちんと伝わっているのか、確認するための質問なのです。
だから、私は答えます。
「わかりました。――それでは、玖郎。みんなで上層フロアで合流しましょう」
私の伝えたい内容は、きちんと伝わったでしょうか。
『ああ』
プツッ、ツー、ツー、ツー……。
私は、取り出した携帯電話の『終話』ボタンを押したまま、しばらく余韻にひたってしまいました。
玖郎くんの短い返事には、わずかですが笑顔の雰囲気がありました。
私は、きっと、玖郎が見ている景色の、その一部を見ることができたのだと思います。
そして――。
「瑠璃?」
さすがに、見かねて常盤さんが声をかけてくれました。
ええ。分かっています。
思考を止めるな。
目的を見失うな、です。
「少し、考えをまとめていました」
私は、二人を納得させるため、そう言いました。
「聞こえていたかもしれませんが、茜と珊瑚くん、玖郎の三人は、外階段を登って、高層フロアを目指しています。私達は、〈阻害魔法〉を破壊した後、エレベーターで高層フロアに向かいます」
私の説明に、驚いたように向日葵ちゃんが言います。
「高層フロアに行くエレベーターは、一つ上の三階にあるんだよ。ここから出て、内階段を登って、屋上展望フロアまで行かないといけないよね。この機械のサソリもいるのに――」
向日葵ちゃんの言う通り、高層フロアである四階に行くには、三階のエレベーターを使う必要があります。ここは二階で、どうしてもサソリの存在が邪魔です。
それでも――。
「大丈夫です」
私は、静かに答えました。
「具体的な順番はこうです。一、魔法を一時的に取り戻す。二、サソリを吹き飛ばして三階に向かう。三、〈阻害魔法〉を破壊する。四、魔法を取り戻してサソリを倒す。五、エレベーターに乗って上層フロアを目指す」
「ちょ、ちょっと待って。最初の『魔法を一時的に取り戻す』ってどういうこと? どうやって? そもそも、今の電話じゃ、そんな細かいところまで小泉は言ってなかったでしょ?」
常盤さんの言葉は、いちいちもっともです。
それでも――。
「大丈夫です。玖郎の言葉を借りるなら――条件は全て整った。あとは思考通りに実行あるのみ、です」
言葉を失って、目を丸くしている二人に、私は苦笑気味になってしまった笑顔を見せます。
確かに、いきなりこんなことを言われても、信じられるはずがありません。私には、玖郎にあるような実績が全くないのですから。
――それでも。
それでも、です。
「信じてもらうしかありません。先程の手順を成功させるには、常盤さんと向日葵ちゃんの協力が絶対必要なのです」
私は続けます。
「そうですね。では、これからすぐに停電が起こってシーナタワーが真っ暗になることって、あると思いますか?」
突飛な質問になるように、私はわざと言葉を選びました。
「る、瑠璃ちゃん、何言ってるの?」
「そんなこと、〈試練〉の最中に――いや、そうじゃなくても、起こる訳がないよ」
ぴっ、と私は二人の目の前で人差し指を立てて見せました。
「では、それが起こったら――私の指示を信じて動いて下さい。玖郎を信じるように、私を信じて下さい」
私は、常盤さんと向日葵ちゃんの目を交互に見つめて微笑みます。
それからおもむろに握ったままの電話を操作しました。
「では、電話を一本失礼しますね」