03
【瑠璃】
――黒い光。
その瞬間を、私は偶然にも見ていました。
最終〈試練〉の会場である椎名大通り公園に、召喚されたワイバーンとサイクロプス――その息つく間もない四連撃を、玖郎のわずか数個の指示で突破した直後のことです。
ロープを捨て、スケートボードに乗った玖郎の手を直接引きながら、地上に近い空中を高速で飛行している最中でした。
何かに気づいたらしい玖郎が、疑問の声を上げ――。
まさにその次の瞬間――。
黒い光が、世界に広がったのです。
視界に入っていたシーナタワーの上層フロア辺りから、その光は球状に広がり、ほとんど時差もなく私を飲み込み、どこまでも広がりました。おそらく――世界を飲み込んでしまうほどに。
ええ、分かっています。
もしそれが本当に『光』であれば、球状に広がる様子など目には見えないでしょう。そもそも黒色に感じたことと、『光』であることも矛盾しています。それに包まれたからと言って、私の目に映る光景が黒一色に塗り潰された訳でもありません。
それでも、それは黒色の光としか呼べない何かでした。
あるいは、まるで『魔法のような』何か。
そこまで思考が及んだ、そのタイミングで。
がくん、と。
「え――?」
思わず、声を上げてしまっていました。
私を支えていた力が――飛行を実現していた〈操作〉の力が、唐突に消えてしまったのです。
まるで、玖郎の〈保護魔法〉に触れてしまったかのように。
あとかたもなく。
私の魔法が、消えてしまった――。
なぜ。
その疑問に答えが出ないうちに、私の体は落下を始めます。
「――」
言葉を発する時間もありません。
視界一杯に、アスファルトが広がりました。
地面が急速に近づいて来て、ほんの一瞬で後方へと飛び去ります。それなのに、地面にできたひび割れや小石がやけに鮮明に見て取れて――。
そんな時間の感覚が引き延ばされる中にあっても、それでもできることなど何もなく――。
このままでは、顔から衝突してしまいます。
せめて頭を守らなくては――。
「瑠璃っ!」
玖郎の声。
同時に、私の右手が、ぐい、と引かれました。
地面しかなかった私の視界に、街の明かりと暗い夜空が入りました。それは、瞬間の後には、紺色一色に塗り潰されて――玖郎が、私を引き寄せ、頭部を守るように抱え込んでくれたのです。
続いて、ざざざっと布と地面とが擦れる音。
ほんの短い時間の間それは続き、やがて止まります。
「――玖郎っ!」
私は、飛び起きると、地面に横たわる玖郎の名を叫びました。
瞬きするような時間に何が起きたか、私にはそれを知覚することはできませんでした。それでも、信頼して止まない私の協力者が、何をしようとするのかは、痛いほど分かります。
空中で体勢を崩した私の体を抱き寄せ、スケートボードから飛び降り、自分自身の体でかばいながら着地したに決まっています。
なんて無茶なことを。
「ケガは? 痛むところはありませんか?」
半ば悲鳴になっている私の問いに、玖郎くんは体を起こしながら、静かに応えます。
「問題ない。〈保護魔法〉が発動したようだな。例によって、擦り傷一つない。瑠璃は?」
「はい。玖郎のおかげでどこも――」
そんな受け答えをしながら、私はそれに思い至り、慌てて背後の上空を振り返りました。
そう、今は〈試練〉の最中なのです。
転倒したので、順位を落とすことは仕方ありません。ですが、それ以上に、先程回避したサイクロプスの追撃や、ワイバーンの爪を警戒しないといけません。いつまでも、お互いの無事を喜んでいる場合では――。
そして、見上げた上空には――。
「え? これは――」
いません。
唐突に。
そう、現れた時のように何の脈絡なく。
あれだけ空を埋め尽くしていた飛竜も、隠れる場所などないはずの岩の巨人も。
まるで始めから存在すらしていなかったかのように――。
夢でも見ていたかのように。
消えてしまっているのです。
一体、何が――。
「――っ!」
ばっ、と音を立てて、玖郎が立ち上がりました。
空を見上げ、息を止めます。
一瞬の停止の後、玖郎は何の説明もなく駆け出しました。
何が起きているのか、玖郎が何に気づいたのか、その呼吸を止めた一瞬の間にどれだけの思考があったのか。
私には分からないことだらけです。
玖郎の走りには迷いがありません。
まさに必死の全力疾走です。
シーナタワーへ向かう方向ですが、若干左にずれています。
私も、後を追わなくては。立ち上がり、走りだそうとして――。
そのタイミングで、玖郎が急停止しました。
走り出した時と同様、そこで間違いないと言わんばかりの、自信に満ちあふれた急制動です。
停止の勢いのまま背後を振り向き、上空を見上げ――。
その瞬間、落ちてきた何かに、衝突されてしまいました。
衝撃で生じた風が、私のいる位置まで吹き付けます。
「きゃっ! ――玖郎っ!」
叫びながら、私は自分の顔から血の気が引いていくのを感じました。
上空、視界の外側から剛速で落ちてきた何かが、玖郎に直撃した。
それが柔らかいぬいぐるみであったとしても、あんな速度でぶつかったら、とても無事ではすみません。
私は、衝撃で舞い上がった砂埃の向こうに、必死に眼を凝らして玖郎の姿を探します。
――ああ、玖郎は無事です。
嘘か冗談のように、何事もなかったかのように、立っています。
その両腕に、何かを抱えて――。
今まで、何も持っていなかったのに――。
そこで、それが何か分かりました。
茜と珊瑚くんです。
ぐったりと脱力した状態で、二人は玖郎の両腕にそれぞれ抱えられています。
ということは、上空から高速で落下してきたのは、茜達――?
そこで、思い至ります。
衝撃で砂埃が巻き上がるような速度で、小学生二人が落下してきたにも関わらず、玖郎が受け止めることができたのは――まるで、運動エネルギーそのものが消えてしまったかのように停止したのは――〈保護魔法〉が働いたからなのでしょう。
玖郎が、四月のはじめの最初の〈試練〉で、私と朝美を受け止めてくれた時と同じなのです。
「――あはは。今回だけはダメかと思ったよ」
茜の声が聞こえました。
落下の余韻が残っているのか、めずらしく弱々しい声色です。
「ああ。さすがに覚悟した」
珊瑚くんも、荒い息のままで、そう応えました。
「無事でなにより」
そして、そんな二人を抱えた状態で、玖郎が何事もなかったようにそう言ったのでした。
「直前に、ジャッ爺が教えてくれたんだよ。『右に』って。多分、小泉くんが届く範囲に落ちるように――それにしても良く落ちる場所が分かったよね。もしかして、それも何かを計算したの?」
「何がどうして落下することになったんだ? まあ、ともかく――」
茜と珊瑚は、ようやく自分の両足で地面に立って言いました。
そして、二人そろって玖郎に頭を下げました。
「ありがとう。小泉くん」
「心から感謝を。助けられてばっかりだな」
その言葉に、玖郎は頷き返しました。
「見捨てたとあれば、瑠璃に怒られるからな」
そこで、ようやく玖郎は私の方を向いて言いました。
「〈試練〉は一時休戦にしませんか? 異常事態の上に緊急事態です」
その言葉は、私一人に向けたものではありませんでした。
その時には、向日葵ちゃんと翔さん、常盤さんと綾乃さんが、私の傍まで来ていたのです。
そうです。
この異常事態は、素知らぬ顔で〈試練〉を続けるには、あまりにも異常すぎます。
「みんな無事?」
茜が、こちらに駆け寄りながら言います。
「うん。グリちゃんが急に消えちゃって、結構高いところから落ちたけど、翔ちゃんが助けてくれたから」
「下が柔らかい芝生だったからな。上手く衝撃を逃がして、受け身が取れたんだ」
頷き合う向日葵ちゃん達とは違い、常盤さんは綾乃さんに支えられて立っています。
「私は、地面を走っていただけだから無事でしたけれど。常盤さんが」
「大丈夫。かすり傷だよ」
顔色を青くしながら、そんなやり取りをしています。
「状況の説明を」
玖郎が、足早に歩み寄りながら言いました。
「いや、私の魔法が急に消えたタイミングが、ちょうど地面近くを飛んでいて、ワイバーンの攻撃を避けようと停止した時だったんだよ。だから、無事に着地できたってわけ」
「無事ではありませんわ。木の枝にひっかけて、右腕に」
眼に涙を浮かべながら、綾乃さんが言います。
見ると、常盤さんの右腕の〈魔法少女〉の衣装が裂けて、血がにじんでいます。
「失礼」
玖郎は、一言断ってから常盤さんの衣装をさらに引き裂きました。自分の紺色のウィンドブレーカーの内ポケットあたりから、手早く何やら取り出します。
「出血の量から言えば、それほど深くないはずです。しみますよ」
消毒薬を吹き付け、テープで直接傷口を塞ぎます。
「とりあえずの消毒と止血です。この〈試練〉が終わったら、必ず医者に見せて下さい」
「う、うん。ありがとう。なんというか、手際が良いな」
「さすが小泉さんですね。私からも、ありがとうございます」
半ば呆気にとられた様子の常盤さんと、心配顔をようやく緩めた綾乃さんが、二人揃ってお礼の言葉を口にしました。
「その他にケガは? 隠し立て無用ですよ?」
「わかってるって。本当に他は大丈夫、擦り傷一つないよ」
常盤さんの言葉をあまり信用していないのか、玖郎は、素肌が見えているところを中心に、素早く検分します。
こほん。
玖郎くん、後の心配は綾乃さんに任せれば良いんじゃないかなぁと思うのですが。
「とすると、範囲の拡大でもない、か。――瑠璃。ペットボトルの水を〈操作〉で浮かべてくれ」
唐突に、玖郎は謎の言葉をつぶやきました。その後半は私に向けたものですが――常盤さんの、どこかを冷やすのでしょうか。
説明なく出された指示に、私は腰の後ろにつけているホルダーからペットボトルを取り、キャップをねじってからわずかに傾けます。
「〈操作〉――」
ぱしゃり、と。
水は地面に落ちただけでした。
え。
「あ、れ――?」
魔法が――得意の〈操作〉ができなかった?
まさかそんな。
「瑠璃は、さっきの落下でケガ一つないな」
魔法の不発に愕然としている私に構わず、玖郎が私の両手をぺたぺたと検分してきます。
ちょっと待ってください。それは、優先順位がおかしいです。
最後の大事な〈試練〉の最中なのに、私、魔法が使えないんですよ?
「向日葵、オープンゲートはできるか?」
私の心の声が聞こえないのか、玖郎は、向日葵ちゃんにも同様の言葉を投げかけています。
「え? う、うん。〈開門〉――あれ?」
私と同じく、向日葵ちゃんの魔法も不発のようです。
私だけじゃ、ない。
でも、まさかこんなことが。
「珊瑚先輩。指先から炎を出して、僕を焼いてみて下さい」
玖郎くんは、とうとうそんな事を言い出しました。
「は? 何言って――。いや、〈保護魔法〉があるから、問題ないのか。じゃあ、行くぞ。〈生成〉――ん? 〈生成〉! 〈生成〉っ!」
人差し指を玖郎に向け、珊瑚くんも焦った様子で魔法の言葉を繰り返します。
無理もありません。玖郎の火傷を心配するどころではなく――炎の一つも生み出されなかったのですから。
そこで。
ふむ、と。
玖郎は頷きました。
「この魔法の消失現象ですが――」
そう玖郎が口を開きました。
「クロミによる攻撃です。そして、〈保護魔法〉の『位置の変更』によるものです」
それは、玖郎の思考が導き出した結論でした。
私達の理解では、その飛躍にとても追いつくことができません。
「クロミによる攻撃は、多分そうだろうけど。断言して良いの? 例えばほら、ジャッ爺の課題の一部とか」
茜が質問の声を上げました。
確かに、ジャッ爺が用意した手の込んだ課題だという可能性もあります。魔法が使えなくなるなんて、いかにも最後の〈試練〉にありそうな話です。
「順番に説明します」
玖郎は、そう言って皆を見回しました。
「みなさんも、黒い光を目撃しましたね?」
玖郎の言葉は、疑問ではなく、確認でした。
「あの黒い閃光の後、〈魔法少女〉と〈騎士〉全員が魔法を失いました。この現象は今も継続中です。〈生成〉、〈操作〉、〈開門〉の全てが使えない状況です。〈騎士〉の魔法も同様でしょう。先程のワイバーンやサイクロプスが消失していることから考えて、〈精霊〉も存在できないようです。おそらく、ジャッジメントも出てこれないはずです」
本当に、そうだとすれば――。
「マジか。〈剣〉っ!」
「ジャッ爺、出てきて! 顔を見せるだけで良いから! お願いっ!」
翔さんの叫びも、茜の呼びかけも、玖郎の予想通りに何の変化も生み出しません。
「ジャッジメントが自分の意志で現れない可能性はあります。しかし、ここは悪い方に考えておくべきでしょう。危機に陥ったとしても、ジャッジメントの助けはない、と」
確かに、そうです。
ジャッ爺の課題であれば、命の心配まではないでしょう。それに比べて、クロミの攻撃であった場合は、その限りではないのです。
最悪の状況を想定して行動した方が安全なのです。
「黒い光と魔法の消失は連動している。また、最終〈試練〉の最中であること、ジャッジメントまでその効力の影響下であることから、クロミの一手だと断定できます。最後の〈試練〉に合わせて、とんでもない切り札を用意して来た、といったところですね」
これが、クロミの切り札。
ついに始まったクロミの妨害――予定にない嵐。
「それは分かった。次は、〈保護魔法〉と、位置?」
次の質問は、常盤さんです。
「魔法が使えなくなったんだから、クロミの攻撃は、シンプルに『魔法が使えなくなる魔法』じゃないの?」
確かに、茜の考えは最初に思いつくものです。
玖郎は一つ頷いて応えます。
「その仮説に対する反論は、〈保護魔法〉の存在です」
玖郎くんは続けます。
「魔法の消失現象で、茜と珊瑚先輩、瑠璃、常盤さんが危険な速度で、あるいは危険な高度から落下しています。茜と珊瑚先輩、瑠璃の場合は、地面との衝突の前に、僕が間に入ることができました。地球世界の人間である僕を守るため〈保護魔法〉が働き、衝撃そのものが打ち消されたため、擦り傷一つありません」
玖郎が、私の手をとってひらひらと振って見せました。
「一方で、常盤さんは怪我をしました。落下に対して〈保護魔法〉以外の守りの力が働いている訳ではない。つまり、〈保護魔法〉が存在している、イコール『魔法が使えなくなる魔法』ではない、ということです」
玖郎は、次の説明を始めました。
「では、魔法全てを消すわけではないが、特定の魔法だけを消すような都合の良い魔法があるかというと――」
「それも〈保護魔法〉って訳か」
翔さんがそう言葉をはさみました。
「でも、〈保護魔法〉は――」
常盤さんが、納得行かないという声を上げます。
その感覚は、非常に良く分かります。
本来、〈保護魔法〉は、地球世界の人間を守るためのものです。地平世界の人間である私たち〈魔法少女〉には働かないものなのです。
ましてや、地平世界の人間に対して使った訳でもないのに、魔法を消失させるなんて。
「みなさんの理解の通り、〈保護魔法〉は、地球世界の人間を守るための魔法です。心と体を守るため、魔法を打ち消す魔法。魔法による直接の影響を遮断し、意図的な利用を妨害します」
玖郎は、落ち着いた調子でそう説明します。
「その正体は、人の周りに膜のように張られた『境界』です。具体的には、地球世界の人間の外側五ミリメートルの周囲に存在して、それより内側に魔法が入ることを防いでいます」
あ、それは、私と玖郎の『魔法の特訓』で、試行を繰り返して得た観測結果です。必要がない限り秘密、と決めたのは玖郎でした。それを公開したということは、今がその必要な時なのでしょう。
「クロミの切り札は、〈保護魔法〉の『位置の変更』です。〈魔法少女〉達――地平世界の人間の周囲五ミリメートルを境界として、それより外側に魔法が出られないように変更したのです」
ちょっと待ってください。
結論までの飛躍についていけません。
玖郎は続けます。
「先程の珊瑚先輩の〈生成〉、不発に見えたかもしれませんが、実は炎は発生していました。指先がわずかに発光していたのです。5ミリメートルの位置まで。そこで、『位置の変更』だと考えたのです」
驚いたように、珊瑚くんが再度〈生成〉します。
確かに、炎は珊瑚くんの指先から境界までの空間で、存在しているようです。
こんなわずかな手がかりを見逃さないなんて。
いえ、きっと逆ですね。
玖郎は瞬間的に、私には想像もできないほど大量の仮説を組み立て、それを最も効率の良い方法で検証したのでしょう。
そう言えば、常盤さんの手当をしている時も、そのようなことをつぶやいていました。
こう説明されてしまえば、確かに納得してしまいます。
「ただし、実質的には茜が言った通り、魔法が使えなくなったと認識しておくべきです。クロミの切り札――そうですね、〈阻害魔法〉とでも呼びましょう――これを解除するまでは、魔法なしでクロミに挑む必要があります」
玖郎は、集まったメンバー全員に改めて視線を送りました。
「クロミを打倒するか、あるいは〈阻害魔法〉を無効化するまで、休戦ということでどうでしょう?」
玖郎はそう言いました。
「あ……」
そこで、私は気づいてしまいました。
〈魔法少女〉が挑む最後の〈試練〉――その最中に、最も根本的な『魔法』が消失したと言うのに。それが、立ち向かわなければいけない敵の手によるものだと言うのに。ジャッ爺の助けすらなくなっていると言うのに。
玖郎は。
傍に立つ私にしか、その表情に気付かなかったでしょう。
そうでなければ、誰にも――私でさえ――想像できたはずがないのです。
玖郎の表情は、あの悪い笑顔――彼が、会心の一手を思いついた時に見せる、あの表情だったのです。
そうです。
玖郎は、この状況を利用して、〈試練〉に勝利しようとしているのです。
「そうだね。ジャッ爺も出てこられないなら、本当に危ないことになるかもしれないし――一時休戦は、私も賛成。みんなは?」
茜の言葉に、常盤さん、向日葵ちゃんが頷き返します。茜の視線が私にも来たので、私も頷いて見せました。
「じゃあ、クロミを倒すか、〈阻害魔法〉がなくなるまでは休戦ね。――小泉くん。魔法のない私たちで、クロミに勝てると思う?」
茜の言葉に、玖郎はふむ、と思案して応えました。
「無理だな」
玖郎の率直な回答に、誰かが息を飲む音が聞こえました。
「ただし、対応策はある」
その言葉には続きがありました。
「状況を整理してみましょう。前提条件は、茜達の魔法が使えないこと。正確には、魔法は非常に限定されてしまった」
その通りです。
魔法自体が体から5ミリしか離れられない状態で、一体どれほどのことができるでしょうか。
「パターン1、クロミだけは魔法を使える場合。直接戦闘になった場合は、相当一方的な展開になるだろう。成す術なしだ」
こちらは攻撃も防御もできないのに、複数の属性を操るクロミから一方的に攻撃を受ける。考えたくもない状態です。
「ただし、実はこのパターン1が該当する可能性は低い。〈保護魔法〉の守る範囲と守らない範囲を、地平世界の人、地球世界の人、クロミの三条件で矛盾なく成立させるような、合理的な範囲指定ができないからだ。しかし、問題が立脚する地盤は理論ではなく魔法だからな。なんとかしてしまうかもしれない。可能性はゼロではない」
後半はあまりピンと来ませんが、要はそうなる可能性は低いということですね。
「パターン2は、クロミも魔法を使えない場合。戦闘になった場合は、魔法のない小学生同士のケンカ――とはならないだろうな。それなら、そもそも〈阻害魔法〉を発動させはしないだろう。間違いなく、魔法以外の攻撃方法を用意してあるだろう。例えば、クロミが拳銃一丁でも用意しておけば十分過ぎる脅威になる。実際には、もっと効果的なものを準備しているだろうな」
その通りです。
クロミにとって有利だからこそ、この状況を用意したはずです。
だとすると、どちらにせよ――。
「どちらにせよ、クロミの有利は疑う余地もない、か」
珊瑚くんが苦々しくつぶやきました。
「ちょっと待って。それじゃあ、勝てないってこと?」
常盤さんが、焦ったようにそう言いました。
「その通りです。そこで必要なのは発想の転換です。前提条件を否定してしまいましょう。――魔法が使えない、という状況を打破するのです。可能な限り、クロミと直接対峙する前に」
「それが、先程言っていた対応策ですの?」
拍子抜け、という調子で綾乃さんが言った。
「ええ。その他に手はない、とも言いますが」
冗談めかして、玖郎は肩をすくめて見せました。
「〈保護魔法〉にせよ〈阻害魔法〉にせよ、〈魔法少女〉が扱う魔法としては、異色です。水や炎といった魔法の元素に対応した物だとは考えにくい上に、効果が継続しています。誰かがこの特殊な魔法を直接操っていると考えるより、魔法を実現する何らかの装置が存在していると考える方が自然です」
「装置か。呪文を唱え続ける人形とか?」
冗談だと分かる声色でそう言った翔さんは、玖郎が大真面目に頷いて返したので、目を丸くしてしまいました。
「悪くないですね。光輝く宝石かもしれないし、からくり仕掛けの箱や、怪しい壺かもしれない。どの程度のサイズなのかも想像もつきませんが、何にせよそれを――」
「止めるか、壊してしまえば良い、ってことだね」
茜が玖郎の言葉の続きを受け継いで、そう言いました。
ぐっ、と拳を握ってガッツポーズまでしています。
「それなら得意だよ。手の平から5ミリも魔法が出れば十分――」
明るい茜の声は、そこで唐突に途切れました。
ざわり、と空気が変わったからです。
茜だけでなく、全員がその変化に気づきました。
無数の足音がうごめく微かな音、アスファルトの上を硬質な何かが動く音、草を踏み分けるような音。複数の――例えば大型犬のような何かの気配。
それでも、その気配と矛盾する事実ではあるのですが――生き物の息遣いはまったく感じられないのです。
「数が多い。僕たちを囲む動きだ」
小さく抑えた玖郎の声。
ふと、私の視線の先、木立の陰に小さな赤い光が目に留まりました。
慎重に焦点を合わせると、それは二つ並んだ小さな光でした。
それは、まるで――。
「〈阻害魔法〉発動からのタイミングを考えて、脅威に間違いない。これがクロミの『魔法を使わない攻撃手段』でしょう」
赤い光は、獣の二つの目を連想させる位置にあるというのに、まるで機械に取り付けられたLEDライトのように無機質に光を放っています。
「玖郎。黒い光は、シーナタワーの上層フロアから発生したように見えました」
私は、ここで絶対に伝えておかなくてはいけない情報を口にしました。
玖郎は私をまっすぐ見て。
力強い頷きを返してくれました。
「目的地に変更なし、ですね。シーナタワーまで走ります」
玖郎の言葉に、そろり、と私たちは身構えました。
周囲に次々と増える気配に集中しているため、玖郎以外に誰も言葉を発しません。
「相手に手の平を押し付けた状態で〈生成〉すれば、弾き飛ばせる可能性があります。ただし、交戦は極力避けて」
もしも周囲の敵が狼の群れだとすれば、威嚇のうなり声でも聞こえてきそうなものですが、移動する気配以外にはなにも聞こえません。
それがかえって不気味で、緊張感が増します。
「先頭は茜と珊瑚先輩。二列目に、向日葵、綾乃さん、常盤さん。三列目は瑠璃。翔さん、僕と一緒に最後尾をお願いします」
言いながら、玖郎は放置していたスケートボードの端を踏み付けて手にとると、翔さんに渡してしまいます。
「壊すつもりで使ってください。何もないよりマシでしょう」
「お、助かる」
翔さんは、スケートボードの車軸を握り、何かを確かめるように、ぶん、と振り下ろしました。満足したのか、一つ頷きます。
一方の玖郎は、サイズの合わないウィンドブレーカーのポケットから、なにやら硬そうな革製の布を取り出して、右腕にぐるぐると巻付けています。
「――さて」
その作業を終えると、玖郎は一同を見回しました。
同時にそれは、皆の周囲を鋭く把握する視線のはずです。
「向日葵。怖くないか?」
玖郎の言葉に、一瞬きょとんとしてから、向日葵ちゃんは元気に首を縦に振りました。
「大丈夫っ!」
いつもと変わらぬ、元気一杯の返事。
それは最年少の向日葵ちゃんを心配する一言であると同時に、彼女の明るさを使って、全員の凝り固まった緊張状態をほんの少しだけ解きほぐすやりとりでした。
「よし――」
玖郎は、その答えに満足そうに笑い、右手を上げてシーナタワーを指差しました。
「――走れっ!」
玖郎の声に、私たちは一斉に走り出そうとして――。
その声を合図にしたかのように、『それ』の最初の一体が飛び掛かってきました。