11
「こっちは任せて! 〈靴〉」
言葉とともに駆け出した朝美は、水流に弾き飛ばされて落ちてきた茜を、危なげなく抱き留めました。
そのまま、先に地面に倒れていた珊瑚くんへと歩みよります。
「大丈夫。二人とも意識あるみたい。瑠璃早く!」
三つ編みを跳ねさせながらそう声を飛ばしてくる朝美に頷きます。
足早に歩みを進め――。
すぐに、その前へと到着しました。
ターゲットジュエル。
台座に安置された、拳大の宝玉。
これを先に手に入れた者が、この最後の〈試練〉を制するのです。
私は、それに手をのばし――。
その輝きは白でした。
それは、王族にのみ許された色なのです。
熱いものに触れたかのように、手を引きそうになりましたが。
それでも――。
手をのばします。
私の指が、その光に、触れ――。
「そこまでじゃ。これにて、最終〈試練〉を終了する」
ジャッ爺の声が大きく響きました。
私は、改めて視線をターゲットジュエルへと向けます。
私の指は――まだ、届いていません。
「優勝は――茜姫じゃ」
覆ることなど許さない重々しさで、そう結果が伝えられました。
そんな――。
「これまでの途中経過を勘案した結果じゃ。たとえそのターゲットジュエルを手にしていても、瑠璃姫には勝利はなかった。せめて、手に取る前に終了させた方が、お辛くないと思いましてな。よろしいですかな?」
ジャッ爺の確認は、異義など認めるものではありませんでした。
最後の〈試練〉に勝てたはずなのに――ターゲットジュエルに最初に触れることができたはずなのに。
玖郎が倒れ、クロミを倒し、切り札の朝美を使って、辛くも茜に勝利することができたというのに。
私は――。
私には――。
「――はい。分かりました」
頷くことしかできませんでした。
「そんな。だって――」
こちらに駆け寄り、抗議の声を上げかける朝美を、私は止めます。
「ありがとう、朝美。でも、決まったことだから」
「そんなぁ……」
私の代わりに涙を浮かべ始める朝美の頭を撫でます。
やはり、そうなりましたか。
「この結果は……本当に、そうなの――?」
そして、私の思考と重なるように声を漏らしたのは、茜でした。
「瑠璃、私――」
勝ったくせに、喜びが原因ではない涙を浮かべ始めている茜。
そうですか。
茜も、気付いていたのですね……。
分かってます。
良いのです。
茜のせいではありません。
そんな思いを込めて、私は、親友として彼女に頷き――。
そして。
「おめでとうございます。茜陛下」
臣下として、膝を付いて、頭を下げました。
頭を下げてしまったから、その時の茜がどんな顔をしていたのか、私には見えませんでした。
「ふぉっふぉっふぉ。それはまだ早いですぞ、瑠璃姫」
ジャッ爺が、ぽん、と目の前に現れて言いました。
「戴冠式はこれから。その前に、晩餐会ですじゃ。さあ、懐かしの地平世界へと帰りますぞ。もちろん、特例中の特例、〈騎士〉の皆様も地平世界へとご招待じゃ。そーれ!」
ジャッ爺が、言葉とともに光り輝きました。
濃密な魔力を感じると同時に、頭上に開かれる白い光の扉。
ふわり、と。
私の体が浮きました。
白い光に包まれ、ジャッ爺の魔法で地平世界へと――空中に開かれた扉まで移動するようです。
シーナタワーの五階から足が離れ、少しずつ遠ざかって行きます。
「わわ、私も?」
隣で、慣れない浮遊感に朝美が声を上げました。
「当然ですじゃ。水の〈騎士〉殿」
笑顔の声色で、ジャッ爺が応えています。
本当に、上機嫌なようです。
「玖郎は」
私は、無駄だと知りながら、そう言いました。
「あの少年は、ただの協力者。〈騎士〉ではないため、招待することはできません」
そして、ジャッ爺の硬い声は、予想していた通りでした。
「――分かっています」
「瑠璃……」
朝美が、気遣わしげに名を読んでくれました。
ええ、大丈夫です。分かっていましたから。
玖郎。
これでお別れです。
顔を見ることなく。
結果を伝えることもなく。
約束を果たすこともなく。
これで。
本当に――。
「玖郎っ――」
視界がじわりとゆがみました。
もう会えない。
玖郎に、もう会えない。
ああ。
玖郎。
玖郎。
玖郎っ。
「ま、だ――」
声。
微かに聞こえたその声に、私は涙を拭いました。
五階の端、身近な手すりで体を支えながら、なんとか体を起こしたのは――クロミです。
風に吹かれて体勢を崩しかけ、なんとか手すりを握りしめ、震える両足を踏み締め直して、彼女は上を――こちらを睨み上げました。
「まだ、間に合う――」
よろよろと、右手をこちらへと向けます。
「クロミっ!」
茜の叫びは、迎撃のための緊張感を孕んでいます。
もう――。
「クロミ! もう止めて下さい。気絶していたのは、きっと魔力切れです。これ以上はあなたの体が持ちません! 止めるのです!」
叫ぶ私を見たのかもしれません。
クロミと目が合い、彼女が――香苗さんの顔で、笑った気がしました。
それでも。
彼女は、魔法を唱えます。
「クリエイ――」
クロミの指先から、雷撃の欠片が漏れて――。
――それだけ、でした。
「――っ」
呪文すら言い切ることができずに。
ぐらり、と。
クロミの上体が揺れました。
――魔力切れで、気を失ったのです。
後ろ向きに倒れ、その勢いで横へ転がり、五階の外側へと――落ちて――。
魔法を使おうにも水がなく、今の私には、彼女を助ける術がありません。
「ジャッ爺!」
「彼女を助けて!」
私の声と茜の声が重なりました。
しかし――。
「もうすぐ、扉をくぐりますぞ」
ジャッ爺は、夜の空を見上げたまま、そう言っただけでした。
その声は固く、有無を言わせないものでした。
助けるつもりはない――。
ぐらりとクロミの体が、外へと――落下の方向へと、転がって――。
「きゃっ!」
朝美の悲鳴。
それでも、まだ落ちてはいません。
五階の端に、クロミの指がかかっています。
ぎりぎりで、意識を取り戻したのです!
「お願いですジャッ爺! 彼女を助けて下さい! ジャッ爺!」
「――」
再度の懇願にも、ジャッ爺は応じる気がないようです。
片手だけでは――加えて、クロミのあの状態では、長くは保ちません。
どうすれば。
思考を。
彼女を助けるための――。
ピリリ、ピリリ、ピリリ、と。
「え――?」
場違いな音が、聞こえました。
【玖郎】
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、冷たい。
――。
――――。
その一瞬で十分だ。
『熱い』という感覚に支配され、思考を根こそぎ封じられた状態で、奇跡的に感じた『冷たい』という感覚。原因こそ不明だが、その刹那の冷却さえあれば、僕は思考を加速することができる。
そこからもう一段、思考を加速する。
自己診断の結果は最悪だ。茜が〈契約〉を使って僕の体内にねじ込んだのは、おそらく彼女の魔力だろう。魔法王国の歴史で五本の指に入ると称される魔力量を遠慮なく叩き込まれて、僕の体は高熱を持ち、身動きどころか物を考えることすらできなくなっているようだ。
僕は、茜達との直接対決に敗北した。
茜一人に負けたと言っても良い。
既に〈騎士〉を持つ茜が、〈契約〉を使えると想定していなかった。そもそも〈契約〉自体を考慮していなかった。思考の盲点だった。
いや、反省は後だ。
今は現状を把握し、必要な行動に結び付く思考をする必要がある。
先程の『冷たい』という感覚――茜の魔力を破って、その感覚を届けたのだとすれば、瑠璃の魔力が僕に触れたのだろうか。しかし、検証は不可能だ。目を開く一瞬を待てば、再度、思考も感覚も熱に占領されてしまう可能性がある。希望的観測を避けて、瑠璃の助けはない、と考えた方が良いだろう。
そうだな。使い古された奇跡の表現ではあるが、瑠璃の涙が一滴僕に落ちて、一瞬だけ熱を散らしたとでも仮定しておこう。
経過時間も不明だ。
〈試練〉が終了しているどころか、数日が経過していても仕方ないだろう。僕が倒れている場所がシーナタワーの外階段なら、日常の点検の途中で発見され、病院に搬送されている。現代医学で体内の魔力をどうにかできるとも思えないので、点滴程度の処置しか期待できないが。一方で、さほど時間が経過していない可能性も残っている。〈試練〉が継続中であり、今すぐに回復すれば、瑠璃を助けることができるかもしれない。
起き上がるためには、体内の魔力をどうにかする必要がある。『どうにかする』とは、具体的には何だ?
移動、消失、中和――そう、消費だ。
魔力が余っているなら消費してしまえば良い。
魔力とは、魔法が発動するためのエネルギーだ。魔法使いの体内に――例外的に今現在の僕の体内にも――蓄積している。魔法によって、その発動結果に変化するものだ。
つまり、魔法を使おうとすれば――。
その成功、失敗に関わらず――。
「〈生成〉」
魔力は消費される。
僕は、自分の思考をコントロールして、『熱い』と感じる度に〈生成〉を唱えるようにする。
そんな簡単にいくか――?
いや、できるかできないかを論点にしている余裕はない。
やるだけだ。
魔法に必要なのは、現実をねじ曲げるほど強いイメージだ。
集中して。
僕の右手から、炎が出る。
物理的にありえないとか、燃焼する物体は何だとか、酸素との化合がどうとかは忘れる。
いや、むしろ逆手に取ろう。
――右手は止めだ。
僕の体内に蓄積した炎の魔力を、そのまま火の固まりとしてイメージする。熱いと感じる毎に、僕の呼吸に合わせて口から吐き出される。僕の眼前で魔力は昇華し、魔力が、魔力と結合することで、炎となる。
「〈生成〉」
熱い。――息を吐き。
「〈生成〉」
熱い。――魔法を。
「〈生成〉」
熱い。――炎。
「〈生成〉」
熱い。――炎。
「〈生成〉」
熱い。――炎を。
――――。
――。
どれくらい時間が経過しただろうか。
何度呪文を唱えただろうか。
果たして炎は生成されたのか、それとも全て失敗して魔力は浪費されただけなのか。
どちらにせよ――。
「思考が、戻った……」
無理に声を出すと、軽い脱水症状を起こしているらしく、のどが痛んだ。
微熱と呼ぶには無理があるレベルで発熱もしている。
節々の痛みを無視して、体を起こした。
場所はシーナタワーの外階段だ。意識を失う前から変わっていない。少なくとも、視覚情報から判断できる範囲では変位は観測できない。
日没後の時間であることは間違いなさそうだが、丸一日以上の時間が経過していないとも限らない。
とにかく、状況を確認する必要がある。
体を起こし、ふらつく足を励ましながら、階段を下りる。
行き先に下を選択した理由は、僕の今の体力でも移動が容易いから、そして、〈試練〉が継続中であった場合にエレベーターで上層フロアへ向かうことができるからだ。
階段を下りる一段毎に、〈生成〉を唱えて体内で燃えつづけている魔力を消費する。唱えると、心なしか体調が戻るような気もするが、正確なところは不明だ。
魔法が失敗して魔力が浪費されているのか。
もはや魔力は枯渇しているのか。
少なくとも、炎が吹き出す様子は観測されない――僕は魔法使いの才能には恵まれていないようだ。
しばらく後――。
ようやく二階へと戻ってきた頃には、体調もかなり回復していた。
僕は、外階段から、建物内への扉をくぐった。
置いておいたペットボトルは見当たらない。無事に、瑠璃が回収したと考えて良いだろう。
フロア内は無残なほどに荒れ果てていた。
ここで、〈魔法少女〉と機械のサソリが戦ったのなら無理からぬことだ。
サソリの死体――残骸がないところを見ると、戦いながら他の場所へと移動したか――。
不自然な寒さを感じて視線を動かすと、窓ガラスがある区画で破砕されて、脱落していることに気付いた。
サソリは、ここから落ちたのだろうか。
そのタイミングで。
上の方で、閃光と轟音が発生した。
シーナタワー内に破壊の痕跡が残っていることや、他の人間が一人もいないことから、最終〈試練〉があった日だとは分かっていたが――。
「〈試練〉は終わっていなかったか」
僕は、走り出した。
記憶した地図の通りにフロアを走り、内階段で三階へと向かう。
扉を開けた先は屋外で――。
視線の先には、転落防止の金網がなかった。
床面を見る限り、ここでも戦闘があったのだ。おそらく、〈魔法少女〉とサソリのもの――その証拠に、破壊されたサソリの巨体がそのまま放置されている。戦闘の結果は、〈魔法少女〉の勝利だったようだ。
上空を見上げる。
ここからでは、上層フロアの様子はほとんど分からない。
先程の閃光も、轟音も、今では全く発生していないようだ。
「終わったのか――?」
そうつぶやいたタイミングで。
上層フロアを包み込むように、白い光が降り注いだ。
明るく、柔らかな光。
状況が変化した――これは、最後の〈試練〉の終了を告げるものなのか。
「小泉ちゃん!」
声に視線を動かすと、すぐに気づくことができた。
向日葵と翔、常盤と綾乃が、白い光につつまれながら、下から上へと向かって進んでいる。
僕の記憶と、向日葵と常盤が下から来た事実が齟齬を起こしているが、優先順位は低い。
必要な問いは――。
「〈試練〉は?」
その言葉に――。
「茜の勝ちだ」
みるみる距離が離れるのを気にしたのか、常盤の答えは簡潔なものだった。
「――やはり、そうか……」
上空へと離れて行く四人の視線が、気遣わしげに僕に集まっている。
そうか。
向日葵が言っていた。〈試練〉が終われば、地平世界で祝宴だと。特例で〈騎士〉も招待するのだと。
僕は、自分の手を見下ろす。
当然、白い光に包まれてなどいない。
僕は行けないのだ。
これで、本当に会えなくなるのか。
瑠璃。
覚悟していたはずなのに。
瑠璃。
それなのに。
瑠璃――。
顔を上げて、上空を見上げ――。
そして、気付いた。
五階の端、四階の窓を蹴るような位置に――シーナタワーの外側に、誰かいる。
転落しかけて、腕一本でつかまっているようだ。
その姿は、距離と夜の闇のせいで詳細には認識できないが――状況から、戦いに敗れたクロミではないかと予想する。
クロミ。
香苗。
どちらにせよ――。
その瞬間には、僕は、必要な思考を終えていた。
――一つだけ分かっていることがある。
間違いなく。
絶対に。
瑠璃は、彼女を助けたいと思っているはずだ。
王位継承試験の決着には間に合わなかったが。
今度こそ――。
間に合わせて見せる。
僕は、三階フロアを走り、クロミがつかまる屋上の端とは反対方向へと移動する。同時に、ポケットから携帯電話を取りだし、慣れた番号へ回線をつなぐよう操作する。
間違いなく、これが。
瑠璃の声を聞く最後になる。
伝えたいことも。
話したいことも。
ありすぎて、選べない程なのに。
僕たちに残された時間は、あまりにも少ない。
――プルル、プルル――。
耳の中に呼びだし音が響く。
瑠璃。
――プルル、プルル――。
頼む、出てくれ。
瑠璃――。
――プル、プツッ。
つながった!
――クロミの手が、離れた。
僕は、瑠璃の声を聞く前に、叫んだ。
「おまじないを頼む!」
【瑠璃】
――ピリリ、プツッ。
つながりました!
玖郎、と名を呼びたくて。
負けてしまいました、と泣きたくて。
ごめんなさい、と謝りたくて。
大好きです、と伝えたくて。
それ以上に、クロミを助けて、と叫びたくて――。
「おまじないを頼む!」
息を吸ったタイミングで、玖郎の声が飛び込んできました。
ええ。
そうです。
玖郎には、全部お見通しなのです。
名を呼ぶこともなく、勝敗を確認することもなく、分かっていると受け止めることもなく、僕もだと答えてもくれなくて。
それでも、私がクロミを助けたいと叫ぶことを分かっていて――。
そのために、走りはじめてくれている。
さすがは玖郎です。
だから。
言葉は要りません。
私のやるべきことは――。
玖郎の頼み通り、おまじないをすること。
私達の間で『おまじない』と言えば、琴子さんお得意のあれに決まっています。
玖郎が進んで行けるように。
送り出す私も、進んで行けるように。
背中を、ばん、と。
叩くのです。
玖郎まで届く手がなければ――。
作れば良いのです。
だから、私は――。
「――〈生成〉!」
唱えたのは魔法の呪文。
水を生み出す魔法。
私の苦手な〈生成〉。
四月から続いた玖郎との特訓でも、ついに成長が見られなかった、私に残された弱点です。
無理に水を生み出そうとすれば、わずかコップ一杯の量でも魔力を使い果たしてしまいます。魔力の量は、四月に比べて飛躍的に増加しているというのに。
今、私には魔力がほとんど残っていません。
死力を尽くした茜との勝負に、そんな余裕はありませんでした。
それでも。
ああ。
玖郎にも、しっかりと見て欲しかったです。
私はこうして、玖郎の期待に応えられる。
いえ。
そうですね。
きっと、分かってくれています。
私がちゃんとできることを。
こうして――。
私の目の前に、一抱えほどもある水の球が出現していました。
魔法に必要なものはイメージです。
何もない空間から、沸き上がる泉の清水のように、水があふれ出るイメージ――これが間違っていたのです。
これまでの積み重ねと、今日の〈試練〉で、ようやく気づくことができました。
水は、私達のまわりにあふれています。
目に見えないとしても。
形を変えて。
そこにあります。
だから、正解はこうなのです。
あらゆる空間に偏在し、姿を変えて存在している水を、集めて、まとめて――集積させて、凝縮させて――しぼって、すくい上げるイメージ。
水の〈生成〉は、〈操作〉と表裏一体だったのです。
であれば――。
私ができないはずが、ありません。
水は用意できました。
次です。
「〈操作〉」
その水の球を、圧縮して小さなボールにします。
さあ、準備はできました。
あとはこれを玖郎の背中へと放つだけです。
【玖郎】
瑠璃へと叫び終えた瞬間には、必要な計算は完了していた。
走るには邪魔なウィンドブレーカーは脱ぎ捨ててしまう。同時にイヤホンが耳から外れて、携帯電話とも離れてしまう。
問題はない。
必要なことは伝えてある。あとは瑠璃を信じるだけだ。
走り出す。
床面を蹴って、一直線に。
クロミの落下は、ほぼ理想的な自由落下だ。空気抵抗と風の影響を観測しながら、落下の速度と高度を計算すると同時に、僕とクロミの距離の差から跳躍に必要な速度と角度を再度算出する。
僕の耳に、風の音が大きくなった。助走として疾走可能な距離も時間も限られている。三階フロア自体が広大な面積を持つ訳ではない。許容範囲ぎりぎりだ。
走り目指すのは、機械のサソリによって破壊された金網――空中へと口を開けた、わずかな範囲だ。
この位置が、クロミの落下位置とずれていれば、救出は絶望的だった。
それでも、現実はこの通り。
奇跡は起きる。
手が届く。
届かせて見せる。
「――っ!」
フロアの端を、踏み切った。
すぐに重力につかまり、僕の体も落下を始める。
一秒にも満たない浮遊感。
そして、次の瞬間には――。
上方から落下してくるクロミの腕を、捕まえることに成功した。
【瑠璃】
玖郎の背中。
――見えました!
玖郎は、三階から外へと飛び出しました。
落下するクロミへと理想的な軌道で接近し、手をのばして彼女の腕をつかみます。
次は、私の番です。
「〈操作〉っ!」
私は、両腕を持ち上げ――振り下ろしました。
その勢いを乗せるように、水弾を、玖郎に向けて放ちます。
これが、私のおまじないです。
届いて下さい――。
【玖郎】
クロミの腕を引き寄せる。
彼女は気を失っていて、抵抗はない。
彼女の速度に引きずられて、僕の落下速度が飛躍的に上昇している。
このまま地面にぶつかれば、間違いなく命はない。
それでも。
瑠璃は、絶対に間に合う。
僕は、クロミの頭を両腕にかかえ、地面をにらんで――。
【瑠璃】
放った水弾は、玖郎の背中にはじけました。
玖郎とクロミ。
二人の結末を見届けることなく。
私は、白い光の扉の内側に――。
【玖郎】
背中に、水がはじけた。
これが、僕たちのおまじないだ。
僕が瑠璃を信じて送り出すための。
瑠璃が僕を信じて送り出すための。
そして――瑠璃の願いをかなえて、クロミを助けるための。
おまじないだ。
瑠璃のその魔法を受けて、僕たちはさらに加速したはずだが――。
次の瞬間には、地面が目前に迫っていた。
その認識とほぼ同時に、僕たちの体は、大通り公園に植えられた木立へと突入した。
頭といわず体といわず、小さな枝と葉が何度も僕を打ち、大きな枝に衝突して折断する衝撃が、断続的に襲った。途中で一度、幹と思われる何かに弾かれ、移動方向が大幅に変更されもした。
暗転する視界に、何度も閃光が煌めく。
一際大きな衝撃の後――。
何も感じなくなった。
――。
――。
……。
僕は――。
死んだのか――。
あの高さから落ちたのだ。無理もない。
常識的に考えれば疑うまでもなく――。
いや、常識は必要ない。
僕がいた場所は、魔法のロジックが支配する世界だ。
僕は、〈保護魔法〉に守られている。
シーナタワーの中層フロアから飛び出し――上層フロアから落下してくるクロミを受け止め――木立に突入し、それでも止まらず地面に衝突した。
その高度が、その速度が、その衝撃が、例えどれほどになろうとも――。
瑠璃の魔法で。
彼女のおまじないで。
背中を押されて。
魔法の影響を受けたなら――。
その結果、〈保護魔法〉が発動する。
僕の体や心が傷つくことはない。
「――」
思考の勢いに乗るように、僕は目を開けた。
そこは、夜の椎名大通り公園だった。
街の音は遠く、明かりもどこか遠かった。
見上げたシーナタワーは、外観だけならいつもと変わらぬオレンジ色の光にライトアップされていた。
何事もなかったと言うように。
それは、現実感を失った光景だった。
今までの全てが、長い長い夢だったように感じる。
何一つ確かなものなどないと感じるような、不思議な喪失感の中で――。
それでも一つだけ、確かなことがあった。
「――生きてる」
僕は、生きている。
僕の腕の中で、クロミも生きている。全てを賭けた死闘に気力と体力を使い果たし、目覚める気配もないが、呼吸もしているし、温かい。
〈保護魔法〉は、地球世界の人間である僕を守るため、落下の衝撃を全て消滅させたらしい。それは、死を覚悟するような落下の中、それでも抱え続けたクロミも守ることになったのだ。
「――生きてる。僕も、クロミも――」
空を見上げた。
白く輝く光は、消えてしまっている。
シーナタワーの明るさに負けず、光を届ける星が見えた。
いくつもの思考が、浮かんでは消える。
思い浮かぶのは彼女のことばかりだ。
瑠璃。
瑠璃。
瑠璃。
瑠璃――。
瑠璃っ――!
「――瑠璃」
名を呼ぶ。
瑠璃の名を。
応える声がないことを、僕は知っていた。
――こうして、僕たちの王位継承試験は、終わった。




