五
「悠馬!」
「ああ、奈緒……」
奈緒が診療所に入ると、狭い一室に置かれたベッドにミロルが横になっていた。体には心電図と酸素飽和度のモニターが張られており、顔には酸素マスクが付けられている。点滴の針を刺した腕は真っ青――内出血を起こしているのだろう。痛々しい有様だ。
「何があったの?」
その問いに、悠馬は答えない。
「ねぇ! 悠馬!」
怒気が混じる奈緒の声を聞いても悠馬は動けなかった。問いの答えなど持ってはいないのだから。
「わからないんです」
「わからない?」
「ええ……。今、ミロルさんの血圧は低下していて脈拍も早い。息苦しさを感じていて、酸素を必要としている状態です。今は点滴を急速に投与して血圧を保っているのですがその理由がわからないんです。ですから、どうにか現状を維持するしか方法が――」
そう。原因がわからない。
研修医として大学に勤めた二年間。それは、確かに悠馬に経験値を与えた。だが、すべての疾患に関わったわけではない、自分が裁量権をもって指示をだしていたわけでもない。教科書の知識へ、うっすら経験を重ねた程度。それくらいしか、悠馬には頼れるものがなかった。
そして、その頼れるものでは、現状が説明できなかったのだ。
無力だった。
「そんな……じゃ、じゃあ、救急車とか呼べばいいじゃん! いつも、体調悪くした人はそうしてるでしょ!? ねぇ、悠馬!」
「そんなことできるわけねぇだろうが!」
ドンっ! と机を叩き悠馬が怒声を上げた。その声は部屋に響き渡る。
キン、キンと残る余韻の中、奈緒は身体を小さく縮こませ、リファエルは悲痛な顔をさらに歪めた。
「戸籍もなければ保険証もない。身分を確かめられるものもなくて、この耳で! どうやって病院に連れて行けって言うんだよ!」
「でも! でも、じゃないとミロルさんが――」
「わかってる!」
いらついているのか、悠馬は頭をかきむしりながら唇を噛んだ。
ミロルが倒れたのは一時間ほど前。
初めて皆と食卓をかわしてから、ミロルの体調は少しずつ悪くなっていた。最初は体の倦怠感が現れるなど小さな症状であったが、徐々に体を起こしているのもつらくなり、今日、いきなり意識を失い倒れたのだ。
当然、初期症状から悠馬は診察を行っていた。
最初は疲労だと思った。だが、それだけでは説明できないことが多すぎる。脱水や栄養失調もあったが、今は改善されているだろう。
おそらく循環器系の疾患だとあたりはつけているが、不整脈はない。心不全兆候であるには間違いないのだが、それがどういった原因で起こっているのか、悠馬にはわからない。
「バイタルから予想できる疾患は疑ったさ! でも、正直なにがなんだかわからない。採血データを出そうにも外注だから時間がかかる……今は俺の治癒魔法で症状を緩和してやることくらいしか……」
「そんな」
真っ青な顔をした奈緒がおもわずミロルの手を取った。すると、その手はぐっと握り返してくる。
その反応に目を見開かせた奈緒は、思わず顔を近づけた。その目はうるんでおり、心配がそのまま表情にうつりかわったかのような、そんな顔をしていた。
ミロルはぎこちなく笑みを浮かべる。
「なんじゃ、奈緒。辛気臭い顔をして」
「ミロルさん!」
「そんな顔をするでない。我は奈緒の笑顔が好きじゃぞ?」
「ミロルさん! 無理しないでいいから、話さなくていいから」
「どうやら、我は結局死ぬ運命だったようじゃ。遅かれ早かれ、来るべき時が来たのじゃよ」
「そんなの! そんなの、悠馬が助けてくれるよ! だって、悠馬は医者で治癒魔法師なんだから! わけわかんない力が使える超人なんだから!」
「急にユーマが怪物みたいになってしまったの」
はは、と力ない笑い声が部屋に響く。奈緒も悠馬もリファエルも顔を伏せる。ミロルの言葉にどう返事をすればわからなかったのだ。
どうしてこんなにも無力なのだろうか。
医者だとか、治癒魔法師だとか、そんなものは関係ない。目の前の人を救えなければそれが何の役に立つのか。
悠馬は無意識のうちに歯噛みし、手を握りしめる。
「ねぇ、ミロルさん」
「なんじゃ?」
「元気になったら何が食べたい? 私、なんでも好きなの作ってあげるから。ね?」
奈緒は力強くミロルの手を握りながら瞳に涙をためる。
「泣き虫じゃな、奈緒は。それならの……最初に来たときに食べた甘い卵焼きが食べたいの。あれはうまい」
その言葉を聞いた瞬間、奈緒の瞳に溜まった涙は一気にあふれ出る。
「うん、わかった! たくさん焼くから……だから元気だして?」
「わかっとる。大丈夫じゃよ」
「うん」
「必ずじゃぞ」
「うん……」
必死でミロルに話しかける奈緒の肩をリファエルはそっと抱きかかえた。そして、ベッドから離れるように促す。
しゃべりすぎて、すこしだけ酸素飽和度が下がっていたからだ。
それを奈緒もわかっていたのだろう。それほど抵抗せずにリファエルに従う。そしてぽつりとつぶやいた。
「せっかく仲良くなれてきたのに。こんなに苦しそうで、真っ青で……首に血管まで浮き出て……」
そして両手で顔を覆う。その手のひらの中はどうなっているか想像にがたくない。
が、今の奈緒の言葉を聞いた悠馬は突如として目を見開いて立ちすくんだ。
――今なんていった?
そんなつぶやきが悠馬の中に落ちる。
それと同時に、悠馬の足元から頭部にかけて、熱の波が駆け抜けていった。全身を走る血管が、途端に開き熱を帯びる。
今まで暗雲が立ち込めていた思考は途端にはれ、あっというまに精密機器のごとく理路整然と並びだした。
悠馬の、脳が、肉体が、細胞が、思考が、すべてのスイッチが切り替わったかのような錯覚に陥った。
目の前の壁に、道が開けた。
「血圧の低下、脈拍の増大……そして、頸静脈の怒張……呼吸性変動」
そして、リファエルへと視線を向けると、その視線を受けたリファエルも目に力が戻る。
それは互いの意見の一致。一つの気づき。
今まで当然鑑別に上がっていたはずのそれが、突如として目の前に浮かんできたのだ。
――なぜ気づかなかったのか。
それは、その疾患の危険性が低いと思っていたから。
――あれだけ検査もしたじゃないか。
経験不足からの見落としもあったのかもしれない。
――それなら今すべきことは。
もう迷わない。答えがわかれば、解法は手の中に。
「ユーマ様」
悠馬とリファエルは互いに目配せをして、そして大きくうなづいた。
「心タンポナーデだ」
二人の声が木霊した。
◆
「心タンポナーデ?」
きょとんとした奈緒の疑問を後目に、悠馬とリファエルはすぐさま疑念を確信に変えるべく行動にうつる。
「リファエル! さっき片付けたエコー持ってきてくれ! 急いで!」
「はい!」
リファエルが部屋から慌てて出て行ったのを背中で見送り、悠馬は突然ミロルの胸元に手を伸ばした。
「ゆ、悠馬!?」
悠馬は奈緒が見ているのもはばからず、すぐさまミロルの服のボタンに手をかけた。一つ、二つとボタンが外され、ゆっくりとミロルの肌が外気へと触れていく。
全てのボタンをはずすと、そこにはミロルの豊満な双丘が姿を現した。その胸元にジェル状の消毒薬を垂らすと、リファエルが持ってきた機械の硬い棒を、ぐりぐりと胸に押し付けた。
「ん……んぁ、あ……」
突然の冷たさと刺激に、ミロルの口から思わず声が漏れる。
「ごめんな、ミロル。すぐ終わるからさ」
「な、なんじゃ? あっ……我の身体に欲情してしまったか、の? 命を助けてくれたからの、相手をしてやってもよいぞ? ん……」
「そんだけ馬鹿言えるならまだ大丈夫だ」
そう言いながら、悠馬はリファエルが持ってきたエコー検査の画面を見つめながら手元の棒をぐりぐりと動かしている。ちょうど、左胸の上あたりから中央、そして乳房の下の方を万遍なく棒を押し付けて行った。
動かす度に画像は変化し、そして、その画像に悠馬は釘づけだ。そして、だんだんとその表情が険しくなっていく。
「ユーマ様、どうですか?」
「たしかに、心タンポナーデだ。タンポなんだが……なんだよこれ」
「どうしたんですか?」
リファエルから問われるも、悠馬は動揺しているのか愕然としたままエコー画面から視線を逸らさない。
そして、どうにも釈然としない、といった様子でリファエルを見た。
「出血していない」
「どういうことです? 普通、心タンポの原因は心嚢内の液体貯留。原因としては出血が普通なんじゃ――」
「そうなんだけどさ……その液体の変わりに左心室のあたりが空洞になってるんだ。その空洞に押されるように心臓の動きが悪くなってる。そしてな、ありえないことに……」
「ことに?」
「その空洞の中心に、なんだか丸いものがあるんだが……」
「え?」
その言葉とともに悠馬は画面に視線を戻した。リファエルもエコーの画面を覗き込む。
すると、黒い影の中に白い丸い玉のようなものが浮かんでいた。見る限り、空洞の中に。
「なんだよこれ……。心タンポじゃないのか? でも、だとしたらこの空洞が説明できない! なんなんだよこれ!」
「ユーマ様、落ち着いてください」
思わず手元に力が入っていた悠馬は、リファエルの言葉で力を抜く。そして、再び眉間にしわをよせ考え込んでいる。
「なんだ? 症状は心タンポだ。だが何が違う? 待て。一から考えろ。心タンポはそもそも心嚢に液体がたまって心臓を動きを妨げることで動きを阻害する疾患だ。だが、本来、心臓の動きを止める液体が気体になっている? いや、気体であるならば心臓の動きは阻害されない。それに少なからず皮下気腫になって現れるし、むしろそれなら気胸を疑う。ならこの丸いものが腫瘍かなにかか? だが、心臓の圧迫を阻害するにしては小さすぎる……なんだ? なにが違う? 何が普通とちがう……なにが……ナニガ……」
悠馬は固まる。何かが見えそうで、その考えを必至でほじくりだすかのように固まる。固まる。固まる。固まる。
そうして、悠馬は思考の中に没入していった。
医療の枠組みでは考えられない何か。それなら、何が原因であるというのだろうか。
ここで、原因を特定できなければミロルの命はない。心タンポナーデはそれだけ重篤な疾患だ。徐々に症状は悪化しており、このままだと心不全を引き起こしてしまう。
それを防ぐために。
悠馬は多くの引き出しを開けていった。
研修医時代、学生時代、幼少期、そのいずれの引き出しにも悠馬の答えは入っていない。今から医学書を読み返しても、はたしてこのような症例がのっているかどうか。
――こいつは異世界の住人なんだぞ? 悠馬。
自分自身にそう語りかける。現世界の悠馬に語りかける。そう、異世界のユーマが――。
俯いていた悠馬が突然顔を上げ立ち上がる。
そう、現世界の常識ではわからないこと。医学書には決してのっていない事実。それは――。
「リファエル……。エルフの膨大な魔力って何が源になってるんだっけか?」
「エルフの、ですか? それは、当然魔力……――っ!? 魔力核!」
その考えを察したリファエルは、すぐさま目に魔力を集中させミロルの胸元を凝視した。すると、強い魔力の塊とそこから漏れ出る濃度の高い魔力がつまっているように見えたのだ。
「ユーマ様! 魔力です。心タンポの原因は魔力ですよ!」
「どう見える!?」
「この丸いのがきっと魔力核ですね。すさまじい魔力が迸るほどです。その周囲に強い魔力の溜まりができていて、それがきっと心臓の動きを阻害してるのだと思います!」
「でもなぜだ? 普通は、魔力は空気中に拡散されていくはずだろ!?」
その悠馬の疑問に答えたのは、やはりリファエルだ。リファエルは、真剣なまなざしで悠馬を見つめる。
「それは、この魔力核のせいかもしれません」
悠馬は続きを促すようにリファエルを見上げる。
「私たち天使族やユーマ様のような人間族であるならば、魔力核はありません。生み出された魔力の余剰分は自然と拡散されていきます。でも、魔力核は元々、魔力を蓄えるための器管です。しかし、こちらの世界は魔力が薄い……。ですから、生存本能を働かせた魔力核は魔力を拡散することなく、できるだけ蓄えようと働いてしまった。それで、このような状態になったのではないでしょうか……」
「そうか」
悠馬はエコーの機械を置くと、すぐさまミロルに話しかける。ゆっくりと開く瞳をじっとみつめ、大きな声で話しかける。
「もしかしたら、かもしれないけど、おそらく今こうなっている原因は魔力核だ。だから、今、ミロルの魔力核を摘出すればこの状況は打破できるかもしれない。しなければ、おそらく命を落としてしまう……でも……」
「う……なんじゃ? 今更なにも驚か、んよ」
ミロルの返答に悠馬はゆっくり頷いた。
「ああ……エルフの魔力の源である魔力核を摘出すると、魔力はほとんどなくなってしまう。それはおそらく間違いがない。加えてなんだが、魔力核を摘出したエルフを俺はしらない。だから、魔力核をとったエルフが――ミロルがどうなるかわからない。もしかしたら――」
「まかせるよ」
ミロルの無防備な言葉に、悠馬は背筋に電気が走ったような衝撃を受けた。
「悠馬が我を治したいと思っている気持ちは伝わっておる。ならば、我はその想いを信じるだけじゃ」
そうやって笑うミロルを、悠馬は強いと思った。心から、泣きそうなほどに。
全身に走る寒気と重圧を払うのけるかのように両手足に力を込めた。そして歯を食いしばり立ち上がる。これでもかと、ミロルの目を見つめた。
ミロルの瞳は揺るがなかった。
それは信頼か、あきらめか。
悠馬にはどちらでもよかった。ただ、自分にまかせてくれたその事実がどうしようもなくうれしかったのだ。
誰かの役に立てる。誰かを救える。
それだけで、悠馬の存在自体が奮い立たされる想いだった。
「わかったよ……」
そして、踵を返しミロルに背を向けて大きな声を上げた。
「リファエル! 今からミロルの魔力核摘出術を行う。手術の準備、頼むぞ」
「はい。すぐに」
そうして、秦野診療所で手術が行われることとなった。
下町の小さな診療所で、開胸手術、つまりは胸骨正中切開が執り行われる。
2016/4/17 修正