二
その日は、どこにでもある診療所の、なんの変哲のない一日。それがただ終わろうとしていただけだったのに。
たった一人の来訪者により、日常は非日常へと姿を変える。
記憶の奥底にしまい込もうとしていた世界が、今、再び開かれようとしていた。
◆
突然の来訪者。それはエルフの如く耳の尖った金髪の女だった。
どうしても、目の前にある耳から目が離せない二人。思わず固まってしまったが、すぐさまそんな場合ではないと思い出し動き出す。
ぐったりとした女性を抱きかかえた悠馬は診察室へと急ぐと、中にあるベッドへやさしく寝かせた。そして、全身をざっと観察する。
ボロボロの外套に覆われた小さな身体。軽いとは思ったが、改めてみると確かに細い。だが、出るとこは出ている。バランスのとれたプロポーションに見惚れていたことに気づいた悠馬は慌てて目を反らすと、そこには目を疑うようなものが見える。
「これって……」
「縄のあと……でしょうか?」
手首、足首にくっきりと残るそのあとは、太い縄が巻かれていたようにみえる。事件性がある、という可能性を示唆していた。
虐待か、監禁か。
いずれにしても、気分が悪いことであるのは間違いない。
悠馬が目配せすると、リファエルが身体を覆っていた分厚い布を剥いだ。
布の中に隠されていたのは、薄緑色のざっくりとしたワンピースだ。そのいたる所にはすこしばかり血が滲んでいる。
悠馬の表情に腹の奥底から湧き出る怒りが現れる。
人を縛り上げて、暴行を加えたのだろう。推測の先にある見知らぬ誰かに対して、悠馬は心の中で唾をはきかけていた。
「ユーマ様。血圧は七十二の四十六。脈は百二十。三十八度五分と熱も高いです」
「ん? ああ。そうだな……見たところ、脱水と栄養失調、もしかしたら低血糖もあるのかね。というわけで、リファエル、点滴いっとくか。外液と……あとアリナミンとビタミン剤を入れてな。血糖値も測ってクーリングもやろう」
「そうですね。ルートは……どうします?」
そう言いながらリファエルは悠馬へと問いかけた。その表情にはどこかためらいがある。
「ああ。リファエルは点滴の準備があるし俺が入れたほうが早いよな……針、くれるか?」
「……はい」
そして、針を受け取った悠馬は、すぐさまエルフの腕に駆血帯を巻き血管を探す。左手で血管の弾力を確かめながら、針を刺す部分をアルコール綿で消毒していく。点滴をするために、幾度としたことのある動作だ。
悠馬は当然のことながら医学部を卒業し国家試験も取得している。なぜ点滴という処置が必要なのか、そんなことは当然わかっている。だが納得がいかない。心の中で、人を傷つけてはならない、と必死で叫ぶ自分がいるのだ。
その叫びに理論で蓋をして、今こうして点滴を入れるために針を刺そうとしている。
なんとも、嫌な気分だった。
「人を治すのに人を傷つけるって、こっちの世界はほんとわけがわからねぇ」
そう呟きながら、悠馬は一呼吸置き、そしてぐっと歯を食いしばり点滴の針を柔らかい肌に突き刺した。
「毎度毎度、嫌な気分だな」
そう言いながら針を固定すると、準備を終えたリファエルが点滴を速やかにつないだ。
「とりあえずモニターを付けておいてもらえるか? 脈拍が上がらなければ様子を見ていていいから」
「はい。それにしても、この方って……」
「ああ。もしかしなくてもエルフじゃねぇか? 魔力だって感じる」
「そうですよね」
ひとまず、処置を終えた悠馬はようやく自らの疑問と相対する。それは目の前の女性の存在そのものに対する疑問だ。
耳が尖っており、そして長い。さらには魔力まで感じるとなれば、これは目の前の女がエルフ以外の何物でもないということの証明だ。そして当然のことながら、この世界にそんなものなどいない。創作上の存在であるエルフは、絵や文章や、はたまた某オタクの祭典で繰り広げられるコスプレくらいでしか存在を垣間見ることはない。
だが、目の前にあるのは現実だ。
現実に、非現実が存在していた。そんな非現実から目をそらすかのように、悠馬は彼女の病状と自分たちへとその目線を変えた。
「まあ、点滴いれてすこし症状が落ち着いたら目が覚めるだろう。その時に色々話は聞くとして……、とりあえず、うちらの腹ごしらえといこうか?」
「ただ、病院は離れられませんもんね。私、何か買ってきますか」
「ああ。ありがとう。それと、今日は行けそうにないから、あっちには連絡しておく」
「お願いします」
そんなやり取りをしながら、悠馬は目の前に横たわるエルフに目を向けた。それは、今ある日常に紛れ込んだかつて日常だったもの。どこか懐かしさを感じながら、悠馬は目の前の女の顔にかかっている髪の毛をそっとどける。
「お前もか?」
その呟きは、小さく、とても小さく診察室の床へと消えて行った。
◆
点滴を入れ始め一時間ほど。
だんだんと脱水が改善されてきたのか、脈拍も落ち着き血圧も上がってきていた。全身の冷や汗も改善されており容体は安定しているようだ。
悠馬とリファエルは交代で看護を続けること一晩。朝になった頃には、すっかりエルフの症状は落ち着いていた。悠馬もそれをみてほっと息を吐く。
あのままだったら零れ落ちていた何かを掴めたかのような、そんな達成感を感じていた。
穏やかな感情を抱いていた悠馬の隣。そこから、どこか慌てたような声が飛びこんできた。
悠馬が呆れたように脇をみると、そこには黒髪ボブカットの少女が立っていた。パーカーにショートパンツというラフな格好の女性は、驚きにその顔を染めている。ショートパンツからのびる足は健康的な肉付きであり、健全な男子ならば吸い寄せられるような魅力を秘めている。だが、悠馬はそんなものには目もくれない。慣れ親しんだ幼馴染の身体など、隅から隅まで知っているのだ。まあ、子供の頃の話だが。
その幼馴染の目線の先。驚きの源。それは当然のことながら、診察室のベッドに寝ているエルフが原因だった。
「な、ななな、何よこれ! なんで!? なんで耳がこんなに長いの!? なんでとがってるの! なんで、こんなに綺麗な金髪なのぉ!?」
その声は診療所内に響き渡り、当然、悠馬とリファエルの耳をも突き刺した。
「おいおい、少しは静かにしろって。病人を目の前にして非常識だ」
「そうですよ、奈緒さん。落ち着いてください。鎮静剤でも打ちますか? 一発で眠れます。永遠の眠りへの片道切符ですよ?」
「そんなこと言ったってわけがわからないし! それにリファエルさん、いつものことだけど言ってること怖いです!」
診療所に響き渡る声の主。それは悠馬の幼馴染である秋瀬奈緒の声だった。
なぜ、ここに奈緒がいるかというと、悠馬の父親が亡くなった時の話をしなければならない。
先代が亡くなった後。秦野医院は悠馬が引き継ぐことになったのだが、母親も小さい頃に他界しており、一人で実家である秦野医院に住むことになったのだ。その際に、幼馴染である奈緒が食生活を心配し一緒に食べることになったという、ありがちな話だ。
当然、リファエルがいることですったもんだはあったのだが、今は割愛。現在も続いている秋瀬家との晩餐に昨日訪れなかったことから、奈緒が心配して様子を見に来たのだった。
病人がいるなら何か手伝うと言って入ってきたらこれだ。
悠馬は、耳を押さえながら、顔をしかめて奈緒に声をかける。
「いや、リファエルの言ってることは間違ってない。鎮静剤で死んだかもって言われてる超有名なシンガーだっているじゃないか。それに金髪なのはエルフだからな。そんなの常識だろうが」
「いや、そういう問題じゃないし常識でもないし!」
「そうですよ。奈緒さんはいつもうるさいですね。それだから、栄養を取られてそんな残念な姿に……」
リファエルはそう言いながら、腕を組む。その上には、リファエルの大きな胸がずっしりと乗っている。そう乗っているのだ。下から持ち上げられ、ひしゃげた形の胸は強力な破壊力を携えていた。同じ女性である奈緒でさえも、おもわず顔を赤くする。この流れから言うまでもないが、奈緒の胸はお世辞にも大きいとは言えない。
「残念じゃありません! これでもそれなりにあるんですからね!」
「え!? それなりに?――ぐぇっ」
つい奈緒の言葉で胸を見てしまったが、その否定的な内容もあってか、音速を超えた奈緒のひじ打ちで地面に沈む。
「この馬鹿悠馬! エッチ!」
「あら。ユーマ様、大丈夫ですか?」
そう言いながら、リファエルはここぞとばかりに悠馬を抱きかかえ、その顔に胸を押し付け――ようとしたところ、奈緒の怒声が割り込んだ。
「リファエルさんもいい加減にしてください! ほら、患者さん、起きちゃいましたから」
すると、寝ていた女が体を起こし、悠馬達を見つめていた。その視線はどこか訝しむような警戒するような、そんな視線だった。
そんな女の姿に、突然近づくような真似をするような輩はここにはいない。
悠馬は、今までのことがなかったかのように爽やかな笑みを浮かべると両手を広げて危険がないことをアピールする。
「うるさかったかな? まだ眠いようなら寝ていてもいいけど……現状の説明のほうがご所望かな?」
その言葉に女は小さくうなづいた。
「わかった。だけど、その前に確認したいことがある」
悠馬のその言葉に目の前の女は顔を険しくさせた。
見知らぬ場所、見知らぬ人、それを目の前にしていきなり聞きたいことがあるなどといったら当然警戒もするだろう。だが、悠馬は聞かなければならなかった。そこをはっきりさせないと、どうにもすっきりしなかったのだ。
「そんな怖い顔しないでくれよ。大事なことなんだ……」
悠馬はじっと女の目を見た。喉元まで出かかった言葉は、出口を目前にして思わず立ち止まる。
これを聞いてしまったら、聞いてしまったのならもう後戻りはできない。そんな、漠然とした不安が心の中に暗雲として立ち込めた。だがやめることなどできない。
悠馬は意を決して言葉を吐き出した。
「君の人種というか、種族は何かな?」
その質問に、女は表情を険しくさせた。
「エルフじゃが……」
悠馬とリファエルは思わず顔を歪めるしかなかった。
◆
「そうか」
その言葉だけで、なにやら悟ったような顔をしている二人を後目に、奈緒は事態に追いつけていない。首を傾げながら悠馬へと問いかける。
「え? 人種って、そんな。エルフって言ってもゲームとかアニメの話でしょ? 耳はたしかにとがってるけど……」
「奈緒。説明は後でな。とりあえずこっちが先だ」
奈緒にぎこちなく微笑んだ悠馬はすぐさまエルフと名乗った女へと身体を向ける。
そして大きく息を吸う。
「君はエルフって言ったね。それは間違いない?」
「……見ればわかるじゃろう?」
「そう。見ればわかるんだ。あっちの世界の人にはね」
「あっちの世界……?」
悠馬の言葉にひっかかりを覚えたのか、エルフは言葉をオウム返ししてしまう。
それもそのはず。あっちだのこっちだの、世界に色々あったのでは困るのだ。そんなにたくさんの世界があるだなんて、それこそ、こっちの世界でもあっちの世界でもあり得ない話なのだから。
だが、悠馬は続けた。さも当然であるかのように。
「結論から先に言わせてもらう。ここは君が住んでいた世界とは別の世界だよ。魔法もないしモンスターだっていない。あっちの世界と比べて科学が非常に発展していて、なによりエルフはいないんだ。この世界には」
「なっ――」
その言葉に驚愕したのはエルフと奈緒。リファエルは鎮痛な面持ちで悠馬の後ろに控えている。
「だから、エルフである君がここにいるという事実は、正直驚くべきことなんだよ。この上なく」
真顔でそう告げる悠馬の顔を見ながら、目を見開くエルフ。だが、すぐに首を振り力強い目つきで悠馬を睨みつけた。
「そんなはずないであろう!? なんじゃ、別の世界とは! そんなものがあるわけなかろう! エルフがいないといったが現に我はここにおる! それに、魔法がないといったな。それならば、なぜお主達には魔力があるのじゃ? お前らの魔力は尋常ではない。我よりも強い魔力を持つものなど世の中にそれほどいるはずがない。それとも何か? 魔法がないこの世界ではそれが常識だとでもいうのか?」
「それは……」
どこか気まずそうに視線を外すリファエル。そんなリファエルを庇うように、悠馬はエルフの質問に応える。
「いや。俺やリファエルは特別だ。だから、君はここに来た。違うかい?」
「それはそうじゃが――」
「見る限り、体の傷は深くはない……けれど、身体中傷だらけで縛られた跡まである。見るからに何かあったのはわかるんだけど……」
そう言いながら、悠馬は立ち上がりエルフへと近づく。そんな悠馬の行動に、びくりと体をこわばらせるエルフ。目の前の怯える女性に微笑みかけながら、悠馬は優しく語りかけた。
「大丈夫。とりあえず治療といこうか」
そういうと、悠馬はエルフへ右手のひらを向け大きく息を吸った。そして、ぐっと歯を食いしばると意識を体の中に集中させた。
唐突に悠馬の体内に熱が帯びる。それは、意識を集中させた右手へと収束していき、やがて光となって現れた。
その光は眩しくも穏やかで、しかし決して電球や蛍光灯では表せない光。そんな現実感のない輝きが、診察室を包み込んだ。
悠馬がだれかを救うために、ひたすらに行使しつつづけた力。それは確かに形となって、この世界で生まれていく。優しい光に照らされたエルフの身体からは傷がゆっくりと消えていった。
これが自分の真骨頂だと言わんばかりに、悠馬は微笑みを崩さない。凡庸な医療だけでない力が自分にはあるのだと、そう示すかのように。
「お主……」
「ちょっと訂正だな……。魔法はないなんていったが、俺は三級の治癒魔法師なんだ。だから魔法も使えるし、治癒魔法師だから君の傷を癒すこともできる。俺達の説明は後にするとして……とりあえず、これで身体のほうは大丈夫か?」
「ああ……」
「ならよかった。ここには君を傷つけるものは誰もいない。だから安心してほしい……もしよければだけど、事情を聞いてもいいかな?」
そんな悠馬の問いかけに、エルフはゆっくりと頷いた。
2016/4/13 修正