一
ベッドが軋む。
部屋には無機質な音と共に、男の荒い息遣いが響いていた。
ベッドに寝ている女の上に覆いかぶさる男。その男は、女の胸元に両手を当てていた。全体重をかけながら、何度も女の胸を押す。
一分間に百回。
それが、女の命を繋ぐための最善の手段だった。
「くそっ! 戻ってこいよ! せっかく手術が無事終わったんだ! このまま逝くだなんて許してたまるか!」
噴き出る汗は、先ほどまで切り開いていた傷口へと落ちていく。全身、汗だくになりながら心臓マッサージを続ける男は、ただただ叫んだ。
部屋の中は滅菌された状態を保つために締め切られている。湿気のせいか、空気はひどく重苦しい。
「おい! わかってんのか!? こっちでやり直すんじゃなかったのかよ! なぁ、おい! 起きろって!」
男の叫びに女は決して応えない。
胸郭が押されるたびに跳ねる腕は、力なくだらりと垂れさがっていた。
◆
「お大事に」
「ありがとね。また来るよ」
そうやって送り出す背中はどこか弱々しい。患者を見送る医者は、ぎこちなく微笑んだ。
消えた背中の名残を感じつつ、医者は手元に広げられたカルテに目を向ける。自らが刻んだ汚い字に数行を付け加えると、無造作に診察済みの箱へと投げ入れた。
診察を待っている患者はもういない。残った仕事は、片付けと明日の診療の準備だけ。いつの間にか、外は薄暗くなっていた。
「はぁ、やっと終わった」
大きなため息をつきながら、身体を伸ばす。バキボキと関節を鳴らしながら腕を回すと、多少なりとも肩がほぐされて軽くなった。
誰かの苦しみを背負っているからだろうか。医者の職業病は、肩こり、腰痛だ。
そんな医者の後ろから唐突に声がかかる。
「今日もお疲れ様です、ユーマ様」
そう言いながら、冷たいお茶を差し出すのは銀髪の妙齢の女だった。
スタッフの一人として女性がいるのは当たり前だが、女の容貌はことさら目を引いた。端的に言うと美しい。その中でも、一番目を引くのは銀髪だろう。腰近くまで垂れる銀髪は蛍光灯の光を浴びる度にきらめき、彼女が動くたびに揺れる髪はしなやかに翻る。髪に溶け込むような白い肌、大きな青い瞳、細くしなやかな体、どれをとっても神秘的という言葉が似合いすぎるくらいである。
そんな彼女がユーマへと微笑みかけていた。その微笑みは吸い込まれそうなほど美しく、男であるのなら例外なく心を奪われるに違いない。
だが、ユーマは女の微笑みを軽く受け流し、差し出されたお茶を当然のように受け取った。
「ああ。ありがとな、リファエル。今日も忙しかったろ? お疲れさん」
労いの言葉に、リファエルは満面の笑みだ。
「そんなの当然です。私はユーマ様のためにここにいるんですから。もし迷惑だったら、こんな恰好、していないでしょう?」
そういってくるりとその場で回るリファエルの恰好は、白いワンピースだ。それもただのワンピ―スではない。世間ではナース服と呼ばれるそれを、まるでドレスのように見せつける様は正に白衣の天使だ。
そして、ここはナース服を着ていても違和感のない場所。診療所なのだ。
小さな町の診療所である秦野医院。ここの院長を務める秦野悠馬は今日も診療業務に追われ、一日の仕事を終えたところだった。
診療の補助を行うリファエルは看護師である。だからナース服でいいのだ。コスプレなどではない。断言しておかなければならないのは誰かの趣味で少しだけスカートが短いだとか、今では廃れたナースキャップを付けさせているとか、そんなことはない。決して、ない。
「それでも感謝の気持ちってのは大事だろ? それに、ここにくるじいさん達の半分くらいはリファエル目当てだからな」
「そんなことありません。ユーマ様が体を治してくださるから来ているんですよ。ユーマ様あっての秦野医院です。先代よりも腕がいいって評判なんですから」
「はは、だといいけど。まあ、そんなのはいいや。腹減ったな。早めに仕事を切り上げて、飯にするか、飯に」
悠馬はそう言いながら机に広がっている筆記用具やら聴診器やらを脇にどけるとおもむろに立ち上がった。
「はい。では、着替えてきますね」
そう言って更衣室へと向かうリファエルの後ろ姿を見ながら、もう少し時間がかかるか、と一人ごちる。そして、あせることはないと思い再び椅子へと身体をあずけた。
ぎしりと軋む音は診察室に響く。もう一度、大きく伸びをしながら悠馬は天井を見上げていた。
しみだらけの天井、古びた机と椅子、傷だらけのカルテ棚。そのどれをとっても、自らそろえたものは何もない。すべては前院長であった父親の残したものだ。だからだろうか。悠馬はこの診察室が、いや、この診療所全体がとても居心地がよかった。目をつぶると、幼いころのセピア色の情景がいやがおうにも蘇ってくる。
腰が痛いと週に何度も来るおばあちゃんがくれる煮っ転がしが悠馬は好きだ。
仏頂面したおじいさんは、悠馬がこの病院を継いだ時、心配してくれたのか毎日のように顔を出してくれた。
子どものころから来ているの、と小学生の子どもを連れてくる母親の笑顔が忘れられない。
あんたのおやじさんはとてもいい医者だったんだよ、と先代の院長自慢をする皆が、悠馬は嫌いではない。
そんな診療所の院長である悠馬はまだ二十七歳。大学病院での研修医期間が終わろうというその時に、父親の訃報を聞いて飛んできてみれば、あれよあれよという間にこの秦野医院を継ぐことになっていた。
どたばたとしながら必死で仕事を覚えて始めて早三か月。すでに、五月は終わろうとしていた。
「ユーマ様?」
目を閉じ、想いを巡らせていた悠馬の思考は頭上から降り注いだ美しい響きにゆり起こされた。目を開けると、そこには悠馬を覗き込んだリファエルが迫っている。吐息さえ、重なり合うかのような距離に。
「ばっ――!?」
すぐさま、悠馬はもたれかかっていた椅子から滑り落ちる。打った腰に痛みを感じながらもすぐさま立ち上がり、リファエルへと詰め寄った。
「いきなり目の前にいるとびっくりするって何度も――」
「まぁ、ユーマ様。私はこれだけでは足りません。もっと……そうですね。ユーマ様風に言うと、粘膜と粘膜が重なり合うほどの――」
そう言いながら、リファエルは悠馬へと滑り寄る。咄嗟に振り払おうとする悠馬だったが、すでにリファエルは悠馬の腕をか細い両腕で包み込み、肩には頭を持たれかけている。
「そんな触れ合いは、お望みではないですか?」
甘く囁かれた言葉は吐息となり悠馬の耳元へ。その絶妙な力加減にぞわりと何かを感じる悠馬だったが、慌てて振り払うと、顔を真っ赤にしながら距離をとる。
「ねぇ……ユーマ様?」
リファエルはナース服からすでに着替えており、その姿は清楚なお嬢様といった様相だ。膝丈のプリーツのはいった水色のスカートに白いブラウス。そこに羽織っているカーディガンがリファエルの肌をうまく隠していたが、いつのまにかそれを脱ぎ捨てていた。
自然な動作で椅子にそれをかけると、リファエルは妖艶な笑みで悠馬へと歩を進める。
「おま……そんな冗談」
「冗談でこんなこと言いませんよ?」
一歩、もう一歩。徐々に近づいてくるリファエルの突然の変容に悠馬は対応しきれていなかった。
仕事で疲れていたのもあったのだろうか。珍しく父親のことを思い出していたからだろうか。大した理由が見つからないまま、悠馬は少しずつ後ずさりをして――。
ドンっ、ドン!
唐突に叩かれたドアの音。咄嗟に、診察室の中にいた二人は音がなるほうへ視線を向ける。おそらく診察室の向こうの待合室から聞こえたものであろう。
先ほどまでの妖艶な雰囲気は一気に吹き飛び、悠馬もリファエルも耳を澄ませる。
すると――。
再び、二度、三度と叩かれるドアの音を聞いて悠馬はその場から駆けだした。
そして、すぐさま待合室のドア――つまりこの病院の入り口を開ける。
そこには、コンクリートの地面に跪きうなだれる女性がいた。悠馬は思わず息をのむ。というのも、その女性の容貌が異様と形容するに他ならなかったからだ。
飛び込んでくるのは、目がくらむような金髪。その髪は泥にまみれており、本来の美しさは陰っている。当然、髪だけでなく、全身が泥塗れであり、見るからにみすぼらしい印象を与えていた。
女性の身体は分厚い皮でできた外套――とよぶにはいささか作りが大胆だが――に包まれており、現代の街中で見かけるようなものではない。そして、その外套からわずかに見える手足はみるからに蒼白だ。
「どうした? 大丈夫か!?」
なんとか絞り出した声に反応して、目の前の女性はぎこちなく顔を上げる。そして、悠馬と目があったかと思うと、そのまま地面に倒れ込んだ。
「おい! わかるか!? おい!」
突然のことに悠馬の心拍数は跳ね上がる。
研修医時代に救命措置は学んできたし、救急病棟で研修も行ってきた。だが、最先端である大学病院の急性期医療からしばらく遠ざかっていた身としては、この事態はいささか荷が重い。
すぐさま、目の前の女性を仰向けに寝かせ、呼吸の確認を始めた。
「よし……呼吸はしてる」
「脈も……ちゃんと触れますね」
後ろから駆け付けたリファエルも、倒れた女性の手首あたりに指をあて脈拍を測っていた。
ひとまず、この場で救命措置をしなくてもよさそうだと判断した悠馬は、リファエルとともに女性をベッドまで運ぼうと抱き上げる。その軽さに思わずぎょっとするが、すぐさま気を取り直し女性を運ぼうと腕に力を込めた。
その力みからか、抱き上げた女性は悠馬の腕の中で軽く跳ね、そのせいで女性を包んでいた外套が滑り落ちた。
「おっと!」
「ユーマ様!?」
外套を掴もうと姿勢を崩した悠馬はあやうく女性を落としそうになり、反対側で支えていたリファエルも思わず声を上げる。
当然、腕の中の女性の安静は守られているはずもなく、金髪の髪が乱れる。
――瞬間、空気は凍りついた。
悠馬もリファエルも一点を凝視して逸らせない。というのも、この世界には決してありえないものが、そこには確かにあったのだ。
こういうのを狐につままれたとでも言うのだろう。悠馬ならいざ知らず、リファエルでさえ、ぽかんと間抜けな顔を披露していた。
困惑、疑問、混乱。いずれの言葉も、今の二人の心境を正確に表現はできない。言い表せない感情を飲み込むように、悠馬は音を立てて唾を飲みこんだ。
「なぁ、リファエル」
「なんでしょう、ユーマ様」
「たぶん、俺の目にはとんでもないもんが見えてると思うんだが……そっちはどうだ?」
「わたしもです。きっと……そう、きっとユーマ様と同じものが見えていたらいいな、なんて思っています」
「そうだよな」
「そうですね」
どこか核心をつかない曖昧なやり取りをしながらも、二人の視線は動かない。そして、もう一度、二人は目の前のものを確認し、互いに見合っては再び視線を戻し、そして。
「なんでエルフがこんなとこにいるんだよ……」
長くとがった耳を見ながら、悠馬は絞り出すかのように呟いていた。
2016/4/13 修正




