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第九話

『嘘つきだと思われている訳だ』

『まぁ、当たり前だろうな。まさか、本当に俺が書いたとは思わないだろう』

『紅林、か。これで五人目だ。もう時期が来ている。君も気が済んだだろう。そろそろ後処理を考えて欲しいね』

『そうだな。すっかり忘れていたが、もうそんな時期か』

『最初に切った期限は百年。そこも次に入る人が待っている』

美巳が返事を返す前に、一方的に相手が話を切り上げた。美巳の中の未練を見抜いてのことかもしれない。

薄暗い屋根裏には灯りはなく、天窓から月明かりが差し込むだけだ。その中でじっと動かない美巳は、まるで彫像のように見えた。


「紅林?」

扉を開けた勇人はぽかんと口を開けたままである。連日、美巳が訪ねてくるとは思いもしなかった。

「勇人さん、お願いがある。ここで原稿を書かせてくれないか」

「え?」

びっくりした勇人が思わず聞き返す。

「次回の舞台を普通の下町の家にしたいんだ。それで、雰囲気を知りたい。俺が知っている家ってここしか無いし」

「あ、ああ。そういうことなら構わないけれど。俺の仕事もここでやっていいのか」

いきなり訳の解らないことを言い出す美巳に、大丈夫かと疑問をぶつけたい気分に駆られたが、理由があることを知って、勇人は安堵した。

「パソコンあるのか」

「あるよ。お前のよりも古いけれどな」

とりあえず上がるようにと勇人が促す。そのまま居間に通された美巳は、雨戸が開けられていることに気付いた。

明るくなった部屋に窓が開いて、縁側から小さな庭が見渡せる。そこに小さな文机があった。

「勇人さん。これ使ってもいいか」

「ああ、いいぞ。親父の奴だからちょっとガタがきてるかもしれないが」

立ち上がった勇人の後姿に話し掛けると、すぐに応えがある。バッグから原稿用紙と万年筆を取り出し、庭をじっと眺めた。

荒れた庭には、雑草しか生えていない。それでも母親が生きていた頃には使っていただろう物干し台の跡がある。古く小さな一軒家。昔良くあった居間と子供部屋と台所に、庭に下りる縁側のある平屋。

長いこと換えていないのか畳は黄ばんで擦り切れていた。

「くれば……」

隣の自室からノートパソコンを持ってきた勇人の動きが止まる。

縁側に座った美巳は、じっと庭を眺めていた。何かを壊しそうな感じがして、勇人はぐっと出掛かった声を飲み込む。

原稿用紙の上に乗った美巳の手が動き出した。万年筆で力強く書き付けられた文字で埋められた原稿が、すぐに後ろに回される。

勇人はその原稿を一枚一枚確かめながら文字を打っていった。


下町の小さな一軒家に住む人嫌いの男と、その男の家を毎日通る平凡な女。毎日、見交わすだけの日々がやがて少しづつ近づいていく。だが、裏切られてこの町へ流れてきた女と、世の無常を感じて人嫌いになった男は、お互いを信じきれない。

平凡で、遅々として進まぬ恋物語。華やかな容姿の美巳が書くとは思えない、地味で堅実で何処か心温まるストーリー。

今まで、軽いミステリーやヤングアダルト向けのファンタジーなどを書いてきた美巳の、おそらく初の恋愛小説だろう。勇人は横で打ち込みながらも、一枚一枚読み返し、涙が滲んできた。

恋人の心変わりを責める訳でもなく、積み上げてきたキャリアも無くし、一人で何も寄る辺の無い町へと逃げてきた女。きっぱりと想いを断ち切って転職した筈なのに、女の心には『逃げ』という言葉が圧し掛かる。

仕事上のミスを犯した男に、上司も同僚も果ては部下までが全ての責任を押し付けてきた。人と関わること自体が怖いと、男はひたすら小さな家の中で過ごす。

どちらも逃げだした自分を許せず、自分を追い詰めていた。

美巳はわき目も振らずにペンを走らせる。まるで何かに取り付かれたように。

「紅林」

物語は二人が縁側で座るシーンで終わっていた。虚脱したように万年筆を置いた美巳に、勇人がおずおずと声を掛ける。打ち込みが終わっても、美巳が心ここにあらずと言った風情だったからだ。

「終わった? 勇人さん」

「ああ。新しい話なんだな」

振り向いた美巳はいつも通りに柔らかい笑みを浮かべている。

「四回で終わる予定。多分、これが最後の仕事だよ」

「え?」

最後と言われて、勇人は思わず顔を上げた。

「紅林美巳はこれで最後。残念か」

呆然となった勇人の顔色を伺うように、美巳が悪戯っぽく笑う。だが、勇人は言われたことの意味が解らなかった。

「最後の作品ってことか。何故」

「魔法使いはいつかはいなくなる。あそこは仮の住まいだ」

勇人はますます混乱した瞳を美巳へと向ける。

「魔法使い……、紅林が……、でも、俺が……」

勇人が子供の頃にあの屋敷に入り込んだ。無人の屋敷は子供たちには格好の遊び場だった。だが、あそこで出会った男は。

「確かに、紅林に似ていた……でも、髪は黒かった」

ふっと美巳が笑う。こちらを馬鹿にしたようなそれに、勇人は自分が担がれたことを知った。

「また、嘘か。お前はどうしてそんな埒も無い嘘を付くんだ」

「勇人さんだって謎だらけだよ。勇人さんは昔、あそこで魔法使いに会ったんだね」

「まぁ、子供の頃の妄想かもしれんがな」

苦笑いを浮かべた勇人に、美巳はたたみ掛ける。

「良くあるだろう。ほら、絵本に出て来る頭からフードを被った。黒い長い髪の男だった。あそこは紅林の親戚が住んでいたんだろう」

確か、勇人の記憶では、美巳はそう言っていた筈だ。

「母親は一人で俺を育てるために、夜勤専門の看護婦をしていた。俺に寂しい思いをさせていたと思っていたのか、魔法使いの話をしても笑うばかりだったな」

「線香上げさせてもらってもいいか」

急に真面目な調子で顔を上げる美巳に、勇人はうなずいた。

居間の片隅にある仏壇の前に正座する姿も堂に入ったもので、何処かちゃらい若者風の外見には似合わない。

「お母さん、いつ亡くなったんだ」

神妙に手を合わせていた美巳が振り向いた。

「もう二年になるよ」

「長患いだったと聞いたけれど」

「時生さんか」

共通の知り合いはそれだけだ。誰がしゃべったかの見当はすぐにつく。

「俺が就職して、ちょっとしたらすぐに倒れた。ほっとしたのかもな」

苦い笑いは、何か自分を追い詰めているような、何処かそんな表情だ。美巳はそっと視線を逸らした。

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