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第八話

「少しは日の光を入れて、空気の入れ替えもすればいい。ちゃんと生活していると思えば、親戚も断りやすくなるだろう」

「そんなものか」

「ああ。どうせ表面しか見てないんだ。そんなものさ」

立ち上がった勇人が、窓際まで来る。

「結構、気持ちいいな」

「ほらな。空気澱んでたんだよ」

「そうだな」

言い様、勇人が窓を閉じた。思わず、びっくりした美巳が勇人を見る。

「さて、そろそろ出掛けないとな」

ポケットにメガネケースと財布を放り込んだ勇人に、美巳は苦笑いを浮かべた。何のことはない。勇人は出勤の準備をしているのだ。

「それは、俺と一緒にってことか」

「当たり前だろう。お前の家に行くんだ」

雨戸を開いた場所には、昔ながらの濡れ縁がある。落ち着く風情の家は立ち去りがたかったが仕方がない。

背を丸め下を向いたまま歩く勇人に並んで、美巳が歩き出した。長めに伸ばした髪は金に近い茶髪だ。執筆中に括れるくらいの肩に付くかどうかという長さは気に入っている。昨今では珍しくもない髪形と色だが、以前は黒く染めていた。こんな下町では目立つことこの上なかったからだ。

ふと、勇人が足を止める。下を向いていた視線が見上げたのは、美巳の家。正三角形の不思議な形の塔。そのまま、勇人が前を向いて歩き出した。深呼吸をして、ドアを叩く。

おそらく、無意識下の行動だろう。

美巳は背後から腕を伸ばして、扉に古めかしい鉄製の鍵を差し込んだ。そこで、やっと気づいたらしい勇人が美巳を振り仰ぐ。

「すまん。今日は紅林と一緒だった」

「そうだな。俺も久しぶりに町を歩いた」

窓から見る町も刻々と移り変わっていくが、直に歩いた町並みはそれ以上に変わっていた。家は狭く小さく、だが、高くそびえ立っている。

「百年か。早いものだな」

「え?」

美巳のつぶやきに勇人が振り返った。だが、美巳はその時には既に家の中へと入っていき、表情を確かめることは出来なかった。

美巳の執筆は常と変化はない。いつも通りに万年筆で整った字を原稿に書きつけ、勇人に渡してくる。勇人はそれをパソコンで打ち込み、プリントアウトして美巳へと手渡した。

美巳はじっと検分するようにそれを読み上げると、休憩にお茶を出してくるようになった。

懐かしい気持ちにさせてくれるこのラズベリーのジャム入りのお茶は、勇人のお気に入りだ。庭のラズベリーから作るお茶もジャムも、素朴で自然な味がする。だが、それを飲むときにこちらを観察するような美巳の視線が、最近は緊張の元だ。

以前はそんなに観察するような目はしていなかった。ただ、勇人の文章に驚き喜んでくれたと思う。

「勇人さん」

呼びかけられてビクリと身体が震えた。

「今日は何か借りていくか?」

「あ、ああ。いや、いい」

何でもない問い掛けに、勇人はほっと胸を撫で下ろす。まだ、あの本を読み終わっていないのだ。美巳自身が書いたという児童書は、発行年数はそう昔のものではなかった。母親の本棚に入っていたために、勇人はずっと昔のものだろうと決め付けていたが、勇人が学生の頃に出版されたものだ。だが、それでも目の前の男が書くには早すぎる。どう多く見積もっても、美巳は自分よりも二十は下だろう。

「なぁ、紅林」

問い掛けると、美巳の地味だが整った造りの顔が振り向いた。

「あの本。どうしてお前が書いたなんて嘘を吐いたんだ?」

すぐにばれる様な稚拙さは、目の前の男には似合わない気がする。実際に美巳の作り上げる話は、地味だが堅実で小さな幸せを大切にしているようなそんな話が多い。

あの話も、非常に美巳の作る話に似ていた。

地味で堅実に生きている魔法使いとその弟子になった少年の話。魔法は無限ではなく、力を使い果たせば消えていく。そして、少年には選択が突きつけられるのだ。

魔法使いとして跡を継ぐか、それとも人として生きていくか。

勇人の母親は言っていた。いつか魔法使いはいなくなる。けれど、見守ってはくれるのよ、と。

父親が倒れ、一人で頼るものもなく勇人を一人で育て上げた母親の、ひと時の逃避だと勇人は思っていた。本の表面を撫でながら、そんなときには母親は笑っていたものだ。

それは、小さい頃に読み聞かせてくれた魔法使いの出て来る本だと勇人は思っていたのだが、こうして読み返してみると、発行の年数も異なるし、違う本だったのかもしれない。

「勇人さんは嘘だと思うんだな。まぁ、それでもいい」

だが、美巳から帰ってきたのは曖昧な微笑だけだった。勇人は妙に座り心地の悪い気分で、美巳の家を辞する。

とぼとぼと落ち込んだ気分で家へ帰った勇人は、家の前にいる人影にぎょっとして立ち止まった。

「勇人、はやちゃん。いないのー?」

扉を叩く女は、苦手な親戚の一人だ。父親の妹でしつこく勇人に見合いを勧めてくる。

五月蝿いと思ったのか、隣の家の扉が開いた。

「お隣なら、朝方出掛けましたよ」

どうやら、美巳と共に出掛けたのを見ていたらしい隣の住人は、淡々と事実を告げる。

「出掛けたって何処に?」

叔母の顔にはそんな筈は無いと書いてあった。

「そこまでは。でも、お友達と一緒でしたよ。久しぶりに雨戸が開いてたので」

平たく言えば覗きだろうと勇人は思ったが、叔母が諦めて引き上げるのを見て、隣の住人と美巳に感謝する。

叔母の姿が見えなくなったのを確認してから、家の扉を開いた。

テーブルに乗ったままの児童書を手に取る。著者は『林惟弥』。ネットで調べた所によると、児童作家で翻訳者。生年月日は不明。人付き合いも悪かったのか、あまり情報が無い。

著作はあまり多くなく、翻訳仕事の方が多い。ただ、翻訳者は出版社や年代によって変化していくので、現存するものは少なかった。

その情報からも、おそらくは著者は勇人と同年代か、もっと上だろう。

本を片手に畳へ寝転がった。

幾度も読み返す。確かに、母親が読んでくれた本に似ている気がするのだ。確信は持てないが、きっと何度か出版社違いで出ているのかもしれない。

もしかすると、美巳の作品はこの著者の影響を受けているのかもしれないと勇人は考えた。

「はやし、これや。いや、よしやか」

その字面を追いつつ、ふと勇人は気づく。

「これ、はやしよしみとも読めるな」

まさかと勇人は浮かんだ馬鹿馬鹿しい考えを打ち消した。ペンネームも影響を受けたのだろう。

クスクスと声を上げて勇人が笑った。久しぶりに笑ったような気がする。そのまま勇人は眠りに引きずり込まれた。

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